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EX(117.1).殯宮に風は吹く ◆★△

117話「水は交わり、やがて引く」の続き、龍宮出立前のお話。

 傾いた日差しが、海嶺に聳え立つ龍宮を照らし出す。


 海の水が大きく退き、永きに渡り海の底に沈んでいた宮が、光と風の下で巨体をあらわにしている。

 黄金に変じた石壁も、巨柱も、天を穿つような大門も、すべてが斜陽を浴び、照り返していた。


 光の届かない暗い水底で沈黙していたものが、今は橙と金の光の中にある。

 それは復活というより、埋もれていたものが思いがけず掘り起こされ、ふたたび陽の下へ引きずり出されたかのようだった。


 風が吹く。


 巨大な階を撫で、半ば崩れた回廊を抜け、誰もいなくなった広間を渡っていく。

 祭殿の隙間を抜ける風音が、ひゅうひゅうと笛の音のように鳴り響く。


 かつて、この廃都にも声があった。楽の音があった。


 旧き者たちの足音が石床を鳴らし、言葉と唄声は巡る海流のように尽きることはなかった。

 己の役目を終え、源流へと還っていく者たちを見送る歌は、双月の下でしめやかに吟じられた。

 真白き魂を新たな器に収め、源流から生まれてくる者たちがあれば、迎えの歌声は白日の中で朗々と響いた。


 だが、今は――それらはすべて過日となり、一つとして残っていない。

 あるのは、金色の遺骸を吹き抜ける風と、長い影を落とす夕陽だけだった。


 その荒涼たる景色の中に、いま場違いなものが二つある。


 ひとつは、遠くの石畳の上。


 夕陽を背負ったまま石床の上に膝を揃えて座る金色の髪の男。


 もうひとつは、その男を視界に入れまいと顔を背け、苛立たしげな足取りで龍宮の奥へ歩いていく、若き水の女神だった。

 肩をいからせて大股で歩み去るその姿は、なんとも分かりやすく、どこまでも人間臭い。


 世界に八つある海の一つを司る龍神――ジャガラモガラは、その背を眺めていた。


 源流を苛み続けてきた、忌まわしい黒禍は滅びた。


 沈めた世界を戻す段取りも決まった。

 

 風の者どもは天上で事なきを得たが、火や土、樹々の者どもは、さぞや拗らせることだろう。

 それらを宥め、再び役目を果たさせるための巡りは、今しばらくは先のことになるだろう。

 まずは、大役を担った若き番たちを帰るべき場所へ戻さねばならない。


 だが、このうら若き水の女神の胸のうちは、まるで片付いていないらしい。


 無理もない、とジャガラモガラは思う。


 源流に精霊核を投げ出し、溶けかけた。

 戻ることが出来たのは、番同士の愛の成せる業としか言いようがない。

 無事を喜びつつも、思わず諫言せずにはいられぬほど、倒錯的な手法ではあったが。


 帰るやいなや、魂の結びを確かめ合い、一夜のうちに、後戻りのきかぬところまで踏み込んでいた。

 その仲睦まじさたるや、ジャガラモガラをして水を差すのを躊躇ったほどだ。

 よもや、その気遣いを理由に、糾弾されるとは思ってもみなかった。


 番たる人の子――キコリヤロウに、あの“正座”なる座位をとらせ、明日の朝まで反省していろと命じていた時の声音には、怒りよりも、行き場のない気まずさと恥じらいが濃く滲んでいた。

 そういった心のさざ波を隠さず見せつけることが、番を却って喜ばせているとは何故か気付かぬらしい。


『お前はそこで明日の朝まで正座! 一晩中反省してやがれ!

 明日、何が悪かったかちゃんと言えたら、許すのを考えてやってもいい』


 言われたキコリヤロウは、至って真面目な顔で、


『分かった』


 と答えていた。


 あの姿勢で反省するという作法が、果たして罰として正しいものなのかと、ジャガラモガラは訝しんだ。

 あの言葉からして、『番のことだけを考え、その想いの丈を打ち明けろ』と変わらない。

 彼の者には、番を想って言葉で伝えるなど、褒美にしかならない。


 要するに、あれは睦み合いの続きなのだと、ジャガラモガラは納得した。


 そしてイズミールは、番の視線に耐えかね、龍宮の奥へ歩き出したのである。


『現場の安全確認だ、ストレスチェックだ。気分転換も仕事のうち、ヨシ!』


 誰に向けたともつかぬ、訳の分からない言い訳を残して。


 ジャガラモガラは何も言わず、ただその後に続いた。

 イズミールがこの龍宮を見て、どのように感じ、何を言うのかが気になった。


 イズミールは大広間へ出るなり、天を貫く大門を見上げ、露骨に顔をしかめた。


『やっぱ、デッッッッカ!

 なんなんだよこのクソデカ遺跡。巨人用テーマパークかよ』

 

 さらに、ひとつ階を上がるごとに新たな文句を見つける。


『段差が高すぎるだろ。設計したやつ、ちっこいのが住むこと想定してねえな?

 階段を上るための階段が必要じゃねぇか!』


 ふわりと浮いて階段の上を飛んでいき、祭殿の門を抜け、立ち並ぶ柱にも悪態を吐いた。


『門も柱も、でかけりゃいいってもんじゃねえんだよ。

 でかいほどいいのは、乳と尻と太腿だけだろうが』


 ジャガラモガラにとっては見慣れたものでしかない。

 しかし、人の子の目線に慣れた身には、その一つ一つが異様に映るのだろう。

 それにしても、何を言っているのかまるで分からない。


 ふと、何気なく後ろを振り返ったイズミールと視線が合った。

 肩を跳ねさせ、叫び声をあげる。


『うひゃあっ!? お、オバケぇ?!』


 叫びは、黄金の壁や床を跳ね返って幾重にも響いた。


『な、なんだよ、のじゃロリ、こらぁ! お、脅かすんじゃねえよ!』


『オバケとはなんぞ』


 腰の引けた姿勢で怒鳴りつけてきたイズミールに尋ねると、逆に怪訝な顔をされた。


『あぁ? ほら、死んだやつが化けて出てくる的なあれだよ。

 精霊とか神とかいるんだから、ゾンビとか幽霊くらい、いるんじゃねえの?』


 ジャガラモガラは少し考えた。


『ぞんび……聞いたことはない。死は終わりだ。

 源流ままから離れた、小さき人の子らは死ねば朽ち、魂は消えゆく。

 吾ら精霊は源流ままへと還り、やがては新たな精霊として、生まれ、帰ってくる』


 それを聞いたイズミールの顔は、あからさまに嫌そうになった。


『あー、はいはい。死生観とか宗教観とか、今日はそういうガッツリ系は無理!

 俺のメンタル的なライフはとっくにゼロだ。尊厳破壊だよ畜生が』


 そう言って彼女は、話題を切り替えるように周囲を見回した。


『あ、そうだ。なぁ、このクソデカ遺跡は結局、何なんだ?

 ベッドにしては寝心地悪そう過ぎだろ。昔は誰か住ん

でたわけか?』


 ジャガラモガラは、しばし黙した。


 軽く投げられた問いであった。

 だが、この都について語るとき、軽いままで済む言葉は一つとして持ち合わせていない。


『遠い昔、人は今よりも大きかったのだ』


『は?』


 回廊の壁をくり抜いた通路を指し示す。

 天井までの高さは、イズミールを三人縦に並べたよりなお高い


『あの通路は狭い、頭をぶつける、つかえると不評であった』


『マジかよ、通常の三倍……いや、もっとか? ガチ巨人じゃねえか』


『然様。かつての人は、大きく、強く、永き時を生きることが出来た。

 人もまた、源流ままから生まれたもの。

 その頃の人は、源流ままとの繋がりを保っていたからだ』


『まぁた、ママの話かよ……』


『旧き時代、人もまた吾ら精霊と同じく、世界に対する役割を持っていた。

 人と吾らは共に、この世界の巡りを支えていた。元々はそうだったのだ』


 イズミールは、あらためて龍宮を見回した。


 巨大な柱。高い階。広すぎる広間。人の住まう場とは思えなかったすべてが、その一言で理に落ちる。

 夕暮れの光を浴びる都は、いっそう人ならざる尺度を際立たせた。


『つまり、昔の人間はデカくて、長生きで、生まれつき世界から仕事押し付けられてたってことか』


『……乱暴に言えば、そうであろう』


 自分たち精霊にとって、世界とは源流の分け身のようなものだ。

 それを守り育む役割を負担と思ったことはない。

 

 だが、今のイズミールの言葉こそ、核心なのかもしれない。


「古き人々は、やがて己の役割を捨てた。

 自ら源流との繋がりを断ち、永き生を拒み、還ることなく、朽ちる肉と共に終わる道を選んだ。

 繋がりを断った者らは、次第に小さく、弱く、愚かになっていった。その末に在るのが、今の小さき人の子らだ」


『あー……脱サラしてラーメン屋になるとか、小洒落た喫茶店開くとか、そういうやつか』


『ダツサラとラーメンとはなんぞ』


 イズミールは一瞬、「しまった」という顔をして、それから面倒くさそうに頭を掻いた。


『あれだよ、お堅い役割とか仕事とか組織とか、そういうのに嫌気が差して、安定を捨てちまうやつ。

 自分探しとか、自分の店を持つとか、そういう夢に全ツッパしてな……んで、だいたい貯金が溶ける』


 ジャガラモガラには、その例えの細部までは分からなかったが、彼女が言わんとしていることの意味を掴み、己の中で答えを出した。


 古き人々は、与えられた役割をこなすだけの日々を捨てたのだ。

 代わりに、終わりのある生と、自らの役割を選ぶ自由を取った。

 その先に弱まり、衰え、朽ちる未来が待っていようとも。


 彼らにとって、それは掛け替えのない不自由を得たということだったのかもしれない。


 ジャガラモガラには受け入れ難いが。


『汝の言葉や考え方の多くは、吾にはまだ理解が及ばぬ。

 だが、大きくは違わぬ、のかもしれぬ……』


 そう返すと、イズミールは妙な顔をした。


『そうなん? じゃあ、だいたいそういう感じってことで……いや、知らんけど』


 その曖昧で投げやりな物言いが、いかにもイズミールらしい。


 イズミールは柱に寄りかかり、少しだけ遠い顔をした。


『待てよ、昔の人間はママっ子だからクソデカで長生きできてたんだよな?

 それって、結魂と関係あったりするのか?

 アイ……あの鬼畜外道ケダモノ野郎もっ、源流と繋がったから長生きするんだろ」


 察しが良い。九つ目の海になりかけた者だけのことはある。


『うむ。古き人々は、今の人の子らよりも精霊に近かった。

 吾ら精霊は霊子の器に魂を宿す。古き人は肉の器に魂を宿していた。

 それは理を異にしつつも、源流ままと繋がっておらぬ、今の人ほどは遠くはなかった』


 ジャガラモガラは、回廊の先へと視線を向けた。


『ゆえに、人と精霊が番うこともあった。結魂はそのための旧き婚の作法だった』


 名を交わし、心を通わせ、約を結び、源流へ誓う。魂を橋として、人と精霊を結ぶ理。


『キコリヤロウは、もはやただの小さき人ではない。

 汝と魂を結び、源流ままとの繋がりを取り戻したゆえに、肉の定めより半ば外れた。

 その在り方は古き人々に近づいたとも言えよう。小さき人の身でよくぞ成し遂げたものよ』


 イズミールは嫌そうに顔をしかめた。


『別に、成りたくて成ったわけじゃねぇし……つまり、あいつは古代人モドキかよ』


『そう呼ぶには、いささか歪であろう』


『歪なのは元からだろ、あいつ』


 ジャガラモガラは、それを否定しなかった。


『おい、待った。あいつもそのうちクソデカに育ったりしねえだろうな!?

 あ、あそこっから、さらにデカくなられたら、俺、ぶっ壊されちまうだろ!』


『汝は水ぞ、壊れることなどあろうものか』


『そうだけど、そうじゃねえんだよ! 壊れんのは身体っていうか尊厳っていうか』


 イズミールは顔を赤くして、腹部に手を当て、ひぇ、と小さな悲鳴を漏らしたりと忙しい。


『何を不安に思っておるかは分らぬが、肉の器はそう容易く変わりはせぬ。

 だからこそ、容易くその境界を侵すあの黒き禍いどもは、おぞましかったのだ』


 そう告げてやると、 イズミールは急に口数を減らした。

 目が泳ぎ、ヒレが忙しなく動き、角の先が小さく溶けた。

 言いにくいことがあると、全身で表しているかのような仕草だった。


『……じゃあ、俺の方は、どうなんだよ』


『何がだ』


『おい! その何も知りませんみたいな顔やめろ。お前、絶対なんか察してんだろ』


 ジャガラモガラは、あえて答えず、話の続きを待った。

 イズミールは少し迷ってから、諦めたように吐き出した。


『俺は水で、精霊で、霊子の器とかいうので、肉の身体じゃないんだよな?』


『然り』


『けど、さっき、あいつにヤられた時、本物の人間みたいな感じになったんだよ!

 しかも、なんか腹の中に、なんか出来たっていうか……いや、デキてない、それはない!

 ありゃあ一体なんなんだよ、そういう仕様は先に教えとけ! マニュアルどこだ!』


 話しているうちに、羞恥と怒りが込み上げてきたのか、イズミールは意味もなく腕を振り上げ、振り回しながら叫んだ。


『吾ら精霊は願いの器である。キコリヤロウが汝を強く望み、汝もそれに深く応えた結果であろう』


『そんな簡単にまとめんな。俺の身体の話だぞ!』


 ジャガラモガラは、今度は正面から答えた。


『吾らは肉の器を知らぬ。どう成り立ち、どう動かし、どう感じるかを知らぬ。

 だが、魂を結び、番を通じてその在り方を知ったならば、全ての根源たる霊子は肉の器にも成り得る』


『は……?』


 イズミールの顔が強張り、ヒレが限界まで開いて固まった。


『尤も、霊子で生み出す肉は仮初の器。人の仔を宿し、育むことは叶わぬが』


『な、なんだよぉ! じゃあ何も問題……なくはないけど。最悪は回避できるってことかぁ』


 大げさに肩を落とし、落胆あるいは安堵するイズミール。

 ジャガラモガラは、一つ頷いて続けた。


『安心せよ。汝の仔は精霊として宿し、産み出すことになろう。

 汝とキコリヤロウの魂を分かち、混ぜ合わせた、紛れもない汝ら二人の仔としてな。

 無論、汝から分かたれたミューズらも、汝の仔であることは変わらぬが』


 イズミールの顔色が変わった。


『待て待て待て! じゃあ、マジであるのかよ!? 俺とあいつの間に、そういうのが!?』


『ある』


『な、なんだよぉ!? じゃあ問題だらけじゃねえかっ! 

 あぁ、終わった……俺氏、完全終了のお知らせ……なんで、俺がママにされんだよぉ……』


 しゃがみ込んで頭を抱えるイズミールに、ジャガラモガラはそっと寄り添った。


『ただし、道はそう平易ではないぞ。キコリヤロウは古き人々と比べれば、霊子が少ない。

 対して、汝は九つ目の海を担えるほど強きもの……その隔たりを埋める必要がある』


『埋めるってなんなんだよぉ……知らねえよぉ、埋まりてえのは俺だよぉ……』


 泣き言を言い始めた若い水を諭すように、古き水は語りかける。


『そう、嘆くな。汝の器に見合うだけの霊子を注いでゆけば、いずれは満ちて足りよう。

 急くことはない。汝らはただ互いを望み、魂の繋がりを深め続けるがよい』


 イズミールが勢いよく顔を上げ、枝角がジャガラモガラの頭を突き抜けた。

 もちろん痛みなどないし、この程度は狼藉とは思わない。


 やはり、番との仔を早く成したいのだろうと、そう考えていたのだが。


『おい、さっきから何で俺が産みたくてしょうがない感じになってんだよ!

 つーか、今の話だと、回数こなしたらそのうちデキるってことじゃねえかよ!

 なんにも安心できねえんだよ! 嘆くわ! どうしてくれんだよこれぇ!?』


『器の問題だけではないぞ。魂を魂として成り立たせ、それを器に定着させるにも条件がある。

 それは、汝とキコリヤロウが、心の底より仔を望むことだ。それについては問題なかろうが』


『それだ! おい、それを先に言えよ! なんだよ、ビビらせやがって!

 だったら、あいつの一方通行だ。俺が望まなきゃ問題ねえじゃん!

 よーしよしよし! ダブルチェック体制なら何も問題ない。ヨシ!』


『……であるか』


 イズミールは何やらやけっぱちに笑い出し、無理やり自分は安全だ、問題ないと言い張った。


 ジャガラモガラはあえて異を唱えなかった。


 それ以上に言葉を重ねるのは、若き水をいたずらに追い詰めるのみであろう。


※※※※※


『……で、ここは結局なんなんだよ。龍宮っていうには、完全に遺跡って感じなんだけど』


 ジャガラモガラは、広間の先、水路のさらに奥へ視線をやった。


『龍宮は、かつて古き人々が建てた都であり、今は殯宮もがりのみやである』


『もがりのみや?』


『うむ。古き人々の多くは、源流ままとの繋がりを断ったのち、各地へと散った。

 だが最後まで繋がりを断たず、この地に残った者らもいた。

 そうした者たちも、やがて、生に飽き、役目を終え、自ら、源流ままの許へ旅立った』


 彼らはいなくなった。だが、死ではない。

 源流に還り、やがて、新たな命として帰ってくることを選んだ。


 この宮の奥には、源流へと至る水路がある。

 去り行く者はそこから還り、残る者たちは歌い、祈り、再びこの地へ帰ってくる日を待った。


 その頃の龍宮は、ただ別れのためだけの宮ではなかった。

 去る者を見送り、帰る者を迎えるための都でもあった。


 ジャガラモガラは、墓守であり、その帰りを待つ者だった。


 源流へ還った者たちは、やがて新たな器を得て、この海へ戻ってくるものと信じていた。

 ゆえに都を朽ちさせず、迎えの時に備えていた。


 だが、ある日を境に帰る者は絶えた。


 黒禍は、ただ命を奪ったのみではない。

 還るべきものが還り、再び生まれて戻る、その巡りをも断った。


 迎えるために残した都が、いつしか迎える者のないまま、己を繋ぎ止めるためだけの器になっていた。


 ならば、せめて次を待とうと思った。


 いつか、この海を託せる者が現れたならば。

 その時こそ自らもまた役を終え、源流へ還るのだと。


 その日が来るならば、この龍宮は、古き人々の殯宮であると同時に、自らの墓標ともなろう。


 夕陽がゆるやかに傾いていく。

 金に燃えていた壁面は、やがて赤みを帯び、ついには鈍い琥珀色へ沈み始める。


 栄華の光ではなく、過去の残照。

 繁栄ではなく、既に終わったものが抱える消えゆく余燼だった。


『ゆえに吾は残った。この都の、最後の守役として』


 イズミールは、口を開きかけて閉じた。

 軽口で済ませるには重すぎると察した顔だった。


『……それで、お前はずっとここにいたのか』


『うむ。いずれは吾も役を終え、源流ままの御許へ還る日を待っていた』


 少し間を置いて、ジャガラモガラは続けた。


『汝が九つ目の海として、海を統べるものになるならば、吾もまた、還る日を得たやもしれぬ』


 イズミールがわずかに眉を寄せる。


『……悪かったな。期待外れで』


『責めてはおらぬ。汝は汝の役目を果たした。

 水を引かせれば海は再び八つに分れ、汝は海ではなくなる。汝はそれを望むのであろう?

 それもまた、“掛け替えのない不自由”と似た願いなのだろうな……』


 海の底には本来あり得ぬ風が、金色の廃都の隅々まで入り込み、止まりきった時の表面を撫でていく。

 黄金になる前から、とうに終わりを迎えていた場所を、白い童女の姿をしたジャガラモガラが黙って見上げる。


 イズミールは、両手を頭の後ろで組みながら、殊更大きく息を吐く素振りをした。

 実際に呼気が漏れたりはしない。少なくとも、今の水の身体でなら。


『あーあ、もう。結局重たい話になったじゃねえか』


 そして堪えきれなくなったように、龍宮をぐるりと見回す。静かな視線を感じながら、口を開く。


『水の精霊だからって、いつまでも湿っぽく沈めとくの、いい加減やめろよ』


『何を言う』


『そのうちさ、暇ができたら、ちびたちでも連れてきてやるよ。

 こんなクソデカテーマパーク、海底で文字通り塩漬けしておくとかもったいねえだろ』


挿絵(By みてみん)


 ジャガラモガラは、すぐには答えなかった。


 意味の分からない言葉も混ざっている。

 だが、そこに込められた意味が、心遣いが、遅れて胸の奥へ落ちていったからだ。


 若い水とその番が、幼き水たちを伴ってこの地を訪れた様が思い浮かぶ。


 幼き女神は如何にして過ごすだろうか。母に甘えるか、母の番と取り合うか。

 それとも、三つに分かれて、各々が好きに動き回るのだろうか。

 

 今のこの小さき器を創らされた折、その幼い姿は見せられたが、まだ多くは知らない。

 ミュルナ、ミュリナ、ミュシア、いずれもイズミールの仔となれば、騒々しくも、聡明で、さぞ愛らしいのだろう。


 それらをこのイズミールが文句を言いながら世話を焼き、キコリヤロウが傍らで見守る。

 あるいは、その輪の中に、新たな仔が加わっているやもしれぬ。


 それは、古き人々を見送って以降――長く龍宮に戻らなかった種類の賑わいだった。

 その賑わいの兆しを、既にイズミールとキコリヤロウの来訪で受け取っていた。


 ゆえに、今、思い浮かんだ光景は、ジャガラモガラにとってもはや絵空事ではなかった。


『……そうだな』


 ジャガラモガラは、ほんの少しだけ微笑んだ。


『それは、さぞ賑やかであろう』


 イズミールは、少し気まずそうに鼻を鳴らした。


『だろ』


 そこでふと何かを思い出したのか、彼女はジャガラモガラを睨みつけた。


『――それはそうと、さっきの話、木こり野郎には黙ってろよ』


『どの話だ』


『しらばっくれんな! 俺が、その……宿すとか何とか、そういう話だよ!』


『無駄だと思うが』


『無駄なもんか! これは自己防衛だ!

 あいつ、本当に出来るって知ったら何しでかすか分かんねえだろ!』


『本当に分からぬのか』


『想像はついてんだよ! だから黙ってろって言ってんだろうが!』


 ジャガラモガラは、静かにイズミールを見た。


 キコリヤロウは、イズミールとの仔を欲しているのだろう。

 だが、仔のためだけにイズミールを求めているわけではない。

 仔を成せようが成せまいが、あの男は、彼女を抱き、繋ぎ留め、己の腕のうちへ閉じ込めようとするだろう。

 もし成せると知れば、その願いに形を与えたいとさらに強く望むだろうが、言ってみれば、それだけのことだ。


『それは時間の問題と言うものであろう』


『あぁ!? お、脅かしてんのか?! いい加減にしねえと泣くぞ!』


『……いや』


 ジャガラモガラは、夕暮れに輝く金色の龍宮を見上げた。

 過日を偲ぶためだけだったこの殯宮が、長い時の果てに、新たな意味を持つ日が来るのかもしれないと思う。


『時が解決してくれる、と言うべきか』


『おい! 何を良い話っぽくまとめようとしてんだ、お前』


『ミューズや、汝の新たな仔らがここへ来る日を思えば、吾はまだまだ還れぬと思ったまでよ』


『ばっ馬鹿野郎! 勝手に家族を水増しするんじゃねえ!』


 イズミールは真っ赤になって怒鳴り、それから足音も荒く、また龍宮の奥へ歩いていった。


 龍宮は、なお静かだった。


 古き人々は戻らない。葬送と再誕の歌声も、もう記憶の底の淀みとなって久しい。

 だが、その静けさは――もはや終わりだけを待つものではなかった。


 源流より八海を預かる三頭目の龍。

 深き海に沈む龍宮の主。


 殯宮の最後の墓守、ジャガラモガラは、初めて『還る日』ではなく、『稀人の来る日』を待ってもよいのかもしれないと、そう思った。

〈TIPS〉

「龍宮奇譚」

 東の海の底には、龍神の住まう宮が沈んでいるという。

 その柱は常の家よりなお太く、門は城門よりなお高く、人が迷い込めば長く彷徨うことになるとされる。


 ゆえに古老たちは語る。

 あれは龍神の怒りに触れて沈められた、驕れる巨人たちの都であったのだと。


 また、とある島の村には、龍宮を「もがら様」と呼ぶ習わしが残る。

 その島では、龍宮は海で亡くなった者たちの辿り着く場所とされる。

 一方で、龍神に招かれたならば、美しい娘たちの歌や踊りに迎えられ、財宝を手に帰るのだという。

 だが、戻った時には長い歳月が流れており、誰ひとり、その者を覚えてはいないのだとか。


 深き海の底に沈むとされる龍宮を、実際に見た者はいない。

 されど漁師たちは、時に海の底から響く海鳴りを聞き、凪いだ水面の下に灯のごとき揺らめきを見たという。

 それを龍宮の宴の名残と語る者もある。


 されど、語り継がれる「もがら様」なる呼び名が何に由来するのか、今となっては誰も知らない。

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>あの鬼畜外道ケダモノ野郎 惚気にしか聞こえないぞ、新妻の俺くん
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