119.水から、続く物語 〇★△ 【本編最終話】
<TIPS>
「金の指輪」
飾り気のない金の指輪。
失いにくく、奪われにくいため、かつては換金物として重宝された。
だが、女神の黄金が世に溢れた時代、その価値は大きく揺らいだ。
真贋を見分けるには、傷をつけるか、火にかけるほかなかったため、
人々は次第にこれを取引の場から遠ざけたという。
されど、真贋に関わらず、その変わらぬ輝きは人の心を惹きつけた。
ゆえに後の世、金の指輪は愛を誓う際の贈り物とされるようになる。
不実を働けば、その祝福と誓いは、やがて呪いへと転じるだろう。
酒場ってのは、どうしてこう、どこの土地へ行っても同じ匂いがしそうに見えるんだろうか。
……と言っても、俺には匂いは分からない。
ただ、見るからに埃っぽくて、ヤニと油でギトついていて、見るからに匂ってきそうなのだ。
全部水に沈んだ時に浄化されなかったのか、浄化でも落ちきらないくらい汚れてたのか。
煮込みの湯気と煙草の煙。木の床に染みついた酒と涙と汗と、たぶんゲロ。
火の近くで外套を乾かしてる連中。食って飲んで、何かをがなり立ててる連中。
ああいう連中がたむろし続けることで、この“見える匂い”が染みついて取れないんだろう。
良くも悪くも、生の人間っぽさを一番感じるのはこういう場所だ。
酒場は昼間なのに薄暗い。
外は土砂降りの雨が降っているから当然だ。
雨。
しかも大雨だぞ。
最高のコンディションだろうが。
なんで、屋根の下なんかにいるんだ、俺は。
そんなの決まってる。
“普通の人間”は雨の中を無理に進んだりしないからだ。
道はぬかるむし、川は増水して溢れたりする。
考えただけで心が躍る……じゃない、“普通の人間”的には休む必要がある。
人と違うことをすると悪目立ちするのは、会社も社会もこの世界も同じらしい。
そういうわけで、俺は楽しい雨中行軍を諦めて、この旅籠を兼ねた酒場で足止めを食らってる。
街道筋の宿は、同じように雨を避けてきた人間でひしめいていた。
入り口脇の長椅子には煤けた旅人。
奥の卓には鉱夫らしい男たち。
隅では商人が帳面をめくっている。
この先の温泉地での湯治目当てか、病み上がりみたいな顔色の連中もちらほらいる。
俺の目的地でもある火山地帯が近いからか、空気まで少し熱っぽい気がする。
そんな中で、俺は一人、窓際の卓に座って外の水たまりの波紋を眺めてる。
正確には一人じゃない。
当然、あいつ――木こり野郎も一緒だ。
俺は今、あいつとあちこち旅をしている。
あの大水没以降、職務放棄したり、引きこもりになってる駄目神とか、ニート精霊が大量発生した。
そいつらを現場復帰させるという、実に有意義でクソ面倒臭い仕事が、何故か俺に回ってきた。
神や精霊どもは、ごく常識的な俺とは違って、非常識でぶっ飛んだ奴らばかりだ。
お陰で、この仕事にはまるで終わりというものが見えない。
最近はスケジュールが押してて、家に帰る暇もなく、世界中を飛び回っている。
弊社の業務は相変わらずブラックだ。労働環境の改善を要求する。
で、このエンドレス出張の同行者、木こり野郎はというと、今は席を外している。
宿代の交渉だの、火の山までの道順だの、通行税がどうだのを店の人間に聞いて回っている最中。
俺は相変わらず、ほとんどの人間と話が通じないので、そういうのはあいつの担当だ。
俺はその間、大人しく待っていろと奴に言われた。
俺が大人しくないみたいに扱いやがって。
許せねえよ、あの野郎。ぶっ飛ばしてやろうか。
とはいえ、俺も大人だ。
我慢して、大人しく座って待ってやっている。
今の俺は“普通の人間”だ――そういう設定になっている。
人間の街で、ザ・女神みたいな姿でうろつくと、それだけで神話にされる。
何度目かで懲りた。
だから、偽装用に新たにボディのデザインを考えて、創り変えた。
水色の髪を茶色に変えて、枝角はくしゃくしゃっと丸めてお団子にまとめた。
ヒレは畳んでねじねじっとして、編み込みに見せかけている。
髪の量を減らして、無暗に浮かせないようにもしたし、スケスケの羽衣から旅用に見える地味めの長衣にした。
人間らしさ重視、人目を引きにくい無難な格好、目指せ地味子!
なのに木こり野郎には、「それで地味なつもりか」とか「肌が出過ぎだ」とか、何度も駄目出しをされ、デザイン変更を余儀なくされた。
解せぬ。
俺の造形にケチをつけるとか、なんて失礼な奴だ。
お前だって、俺が可愛くて綺麗でエロい方が嬉しいだろうが、このムッツリ野郎が。
俺はこれでも相当譲歩してる。
この世界だと、斬新すぎたり派手すぎる装飾はちゃんと抑えた。
胸元だって前よりは閉じたし、太股も見えてない。
……まあ、胸と尻と太腿は“少しだけ”盛った。
気持ち程度、ほんの少しだ。
だって、髪のボリュームを落とした分、余った水を詰め込む場所が必要だったんだ。
実用的な理由だ。断じて趣味ではない。いや、趣味もゼロではないが。
フルパワーを出す時は、気分的に元の姿に戻ることになる。
そんな時、水量が足りないせいで真っ裸を晒す羽目になったらどう責任取ってくれる。
奴にはそう言って、無理矢理納得させた。
その後、なんか気分が乗って、少しずつ盛っていったけど、ちょっとずつならバレないだろ……。
ちなみに偽名も用意してある。
旅の間の仮の名前は、「イズミ」だ。
安直すぎるけど、妙に馴染むので、結構気に入ってる呼び名だ。
なんか知らんが、この名前、やけにしっくりくるんだよなぁ……。
俺は人前で喋れない。
俺の声は、人間には何か耳障りの良い水っぽい唄声に聞こえるらしい。
声を出すと一発で俺が「人間じゃない何か」だとバレる。
そんなわけで、俺は外国出身で口のきけない女、イズミとして通している。
外は土砂降りの雨。
酒場の窓際の席に一人で陣取っていると、あちこちから視線を感じる。
当然、ほとんどが男の目だ。
顔、乳、尻、太股。どこに行っても視線が集まる。
布っぽく見せている水で覆って、肌の露出は抑えてるのにこれだ。
鬱陶しさを感じる反面、実はちょっとだけ承認欲求が満たされてもいる。
流石は俺の造形だ。
どうだ眼福だろう。
伏して拝せよ。
やっぱ拝むのはなしで。
でも、よくよく考えたら、この服の水も俺なわけで、これ実は裸と変わらないんじゃないか?
やめやめ。よそう。
考えるな。
違うったら、違う。
何人か、こっちから目を離さず、近づく機会を窺ってるっぽい阿呆もいる。
ツレがいれば防げるが、一人になると、目が合ったら速攻で寄って来られる。
絡まれるとウザいので、誰とも視線を合わさないように、窓の外を眺めていた。
水たまりに浮かんでは消える波紋を見ていると、自分の身体じゃないのに気分が浮き立つ。
外に出て、デカい水たまりか湖にでもなって、全身でこの雨を受け止めたくなる。
我慢だ、我慢。
気分を紛らわせるため、俺は卓上の木杯を持ち上げて、中の液体を傾けた。
ビールだか、エールだか、なんか酒。
味は分からない。匂いも分からない。酒だろうが果汁だろうが、俺にはただの水分でしかない。
甘みも苦みも、旨味もアルコールも、俺にとっては単なる不純物だ。
水の身体に、いくらアルコールを混ぜたところで、俺自身が酔うこともない。
だが、これはいいものなのだ。
舌を通って喉を落ちる時に、ぷつぷつ、しゅわしゅわと、小さな気泡が弾ける。
そう、炭酸だ。
醸造した酒に生じる、ごく弱い発泡。
これを発見し、口にした時は衝撃的だった。
飲み込んだ後、細かな泡が、俺の身体の中を、しゅわしゅわぷくぷくと昇っていく。
俺が発生させたものじゃない泡が、身体の輪郭を内側から撫でていく感覚は未知のものだった。
しゅわっと爽快で、ふわっと楽しくて、酔わないくせに気分だけはよくなる。
まったく、こいつは最高だぜ。
微炭酸でこれなんだから、天然湧水の炭酸で、もっと強いのを飲んだらどうなるか楽しみでしょうがない。
今回の旅の目的地は火山地帯だ。
火の山の神だかなんだかを、ヤーッとしてメーする。そんな感じ。
火山の近くなら、強炭酸の湧き水や温泉があるかもしれない。
正直、本来の業務内容よりも、そっちに期待しているまである。
杯の中身を飲み干すと、ふわふわした気分が続く。
木こり野郎はまだ戻らない。
戻ってきたらどうせ顔をしかめるのは分かりきってる。
なら、その前に頼んで、飲み干して杯を下げさせればいい。
そうすれば、証拠隠滅完了だ。そうしよう。
俺は卓の上に置いておいた板片とチョークを引き寄せた。
この板の表面に文字を書いて伝えるのが、俺の意思表示だ。
そう、俺はついにこの世界の文字を会得した。
これで俺もついに文明社会の一員ってわけよ。
自分の学習能力が恐ろしい。
ちなみにミューズより覚えは悪かった。うちのこ賢い。
板切れに文字を書き殴る。
【おけ さ も い ぱっ】
うぅん……なんか、違うな。
ぐしゃぐしゃ消して書き直す。
【しゃけ もいっ ぱい】
……うん。意味は通じるだろう。たぶん。
板片を持ち上げて、給仕の女に見せた。
女は一瞬、板と俺の顔を見比べ、それから笑いを噛み殺すみたいに口元を歪めた。
おい、その顔やめろ。字が下手なのは自覚してるんだよ。
俺は駄目押しに身振りで杯を掲げ、もう一杯、もう一杯だと示した。
「……□□、□□□□。□□□□」
何を言ってるかは分からない。けど、絶対通じた。
力いっぱい頷いておく。分かるだろ、分かれよ。
女は頷いて去って行った。
勝ったな。
酒場でお代わりの注文を通した女神はたぶん、この世で俺だけだろう。
文明社会に確実に適応している。やったぜ。
頑張った自分へのご褒美に、後で、もう一杯行っちゃおうかな。
店の女が樽の方へ向かうのを見送っていると、向かいの席へ誰かが無遠慮に腰を下ろしてきた。
個室じゃないし、相席くらいしょうがないが、嫌な予感しかしない。
見上げると、日に焼けた男だった。鉱夫か、荷運びか。
腕は太いけど、木こり野郎と比べるとあんま強そうに見えない。
男はにやついた顔で、俺の前に肘をつく。
「□□、□□□□、□□□□」
セリフは想像上のものだが、たぶんこんなとこだろう。
はい、無視決定。
ぷい、と顔を背けるが気にせず話しかけてくる。
「□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□」
物騒なのはお前だよ、お前。
実際そう言ってるかは知らんが、しつこいな、こいつ。
俺は顔をしかめて首を横に振る。
それから指を二本立て、少し離れた店主の方角を指して、連れがいる、と示した。
男は勝手に都合よく解釈したらしい。
「□□□□□□□□□□?」
絶対、勘違いしてる顔だ、これ。
板片を裏返して書く。
【おとと】
……違う。夫だ。夫。
書き直す。
【おっと】
これでいいはずだ。
ドヤ、と見せつけてやった。
くにへかえるんだな。おまえにもかぞくがいるだろう。
男は板を覗き込んで、にやにや笑いを強めた。
「□□□□? □□□□□□□□□?」
さては相当ポジティブだな、てめぇ。
つまりは陽キャだ。消えろ、ぶっ飛ばされんうちにな。
俺は板いっぱいに大きく書いた。
帰れ、消えろ、失せろという気持ちを文字で表す。
【さる】
男は変な顔をした。たぶん、伝わってない。
俺も今、これが本当に人に伝わる文字なのか自信がなくなった。
男は、どういうわけか「脈あり」と思ったらしく、身を乗り出してきた。
なんでだよ、都合よく考えすぎだろ。この勘違い野郎が。
「□□□□□□□□□□、□□□□□□□□」
肩に向かって手が伸びてきた。
爪の間とガサついた肌の隙間に、泥だか油の汚れが見えた。
俺は「働き者のきれいな手」だなんてことは思わない。
その小汚い手で、俺の水を汚す気か? あぁん?
そう思った瞬間、髪の内側がぐるりと渦を巻いた。
お団子頭がほどけて角が伸びそうになって、慌てて意識を押し込める。
駄目だ。苛つきが過ぎると偽装が解けそうになる。
また女神降臨イベントを起こしたら、あいつに何を言われるか……。
俺は窓の方に身体を傾けて、男の手を避けようとした。
その仕草が逆にそそるのか、男がもっとにやついて、鼻息を荒くしている。
店の女がエールを持って戻ってきて、場の気配に少し眉を寄せた時だった。
「待たせたな、イズミ」
聞き慣れた声で、今の名前を呼ばれる。
男の肩越しに、金の髪が見えた。
長身のイケメン。鎧なしの旅装になっても、立っているだけでやたら目を引く男だ。
穏やかな顔をしているくせに、そこにいるだけで、空気が一段冷えて重く感じる。
アイオリス――いや、今は「アルトリウス」と名乗っている男が、俺の傍に寄ってきて、皮手袋を外して俺の肩にごく自然と手を置いた。
ただ置くだけじゃなくて、指先が確かめるみたいに肌をなぞる。
その薬指に嵌められた指輪の感触だけが、硬く、冷たかった。
「――私の“妻”に、何か……?」
アイオリスは、男の存在に今気が付いたみたいな顔で言った。
張り上げたわけでもないのに、その声は酒場の隅々まで届いた。
こいつの放つ何かに圧されて、周りが静まり返っていたからだ。
俺は心の中で即座に噛みついた。
(お、お前、この野郎! 何を堂々と言ってやがるんだ!)
声には出していない。
けれど、こうして肌に触れていると、わざわざ口を開かなくても意思が通じる。
これも、結魂とかいうやつの副作用なんだろうと思う。
自分達がそういうことが出来るのだと、ある時、気が付いた。
どんな状況で気付くことになったのかは……忘れたい。
それはさておき、“妻”だ。
そう、今の俺は、言葉の不自由な外国人のイズミで。
その肩書きは、旅人アルトリウスの妻ということになってる。
設定だ、設定。
虫よけに必要なだけだ。
あいつは表情一つ変えず、俺に無音の返事を寄越してきた。
(君は、“大丈夫だ、問題ない”と言った。
だが、大丈夫ではなさそうなので、来た)
「何か、問題でも?」
外向きには、アイオリスはにこりともせず、男を見ている。
続く言葉は男に向けて声に出して放ったものだが、たぶん俺に対する文句の続きでもあった。
変なところだけ器用になりやがって。くそったれが。
(これから、あしらおうとしてたんだよ、邪魔すんなボケ)
言い返してやったが無視された。こいつ……。
「……っ」
ナンパ男の方は、手を引っ込めかけた姿勢のまま固まっていた。
完全に気圧されている。少しだけ気の毒になってくるが自業自得だ。
「妻は言葉が不自由だ。困らせないでもらおう」
妻。
また、さらっと言いやがった。
こいつは事あるごとに、妻呼び、夫アピールを忘れない。
そうやって外堀から埋めてこようとしてきやがる。
そんなもん、とっくに水没してるわ。
男は俺とアイオリスを見比べた。
もう半分涙目になってる。
そりゃそうだ。
こんなイカれた野郎を相手にしたら普通は引く。
俺もしょっちゅう引く。引いた分、詰めてこられる……。
「……□、□□□□、□□」
「ああ」
男は逃げるように席から離れて、そのまま店の外に走り去った。
土砂降りの雨の中、びしょ濡れになりながら逃げていった。
ちょっとだけ羨ましい。
俺の追加のエールは無事だった。まだしゅわしゅわしてる。ヨシ。
アイオリスがそれを俺の前へ置き直した。
そんな仕草が、すっかり小慣れて当たり前に感じる。
それが妙にくすぐったくて、嬉しくて、腹立たしい。
俺は杯を掴みながら、心の中でさらに刺す。
(……随分と楽しそうにお喋りしてたじゃねえか)
アイオリスの視線が一瞬だけ俺に落ちた。
(見ていたのか)
(見えるだろ、あれだけ露骨に色目使われてりゃあよ。
顔近づけて、やたら親しげにされて、満更でもなかったんだろ。
ああいうのが良いのかよ。……俺はやんねえからな)
そうだ、あんな場面を見ていたくないから窓の外を見てた。
全部、この店が狭くて汚いのと、あの女とこいつが悪い。
(それなら、もっと長く話している)
外向きには、あいつは店主へ向かって「食事は部屋へ頼む」と口に出して言った。
ついでみたいに、周囲にも聞こえる声で続けた。
「妻が疲れているようだ。部屋に戻って休ませる」
完全に見せつけだ。夫婦感の押し売りだ。
俺が声で主張出来ないのをいい事に、こっちの行動まで決めやがって。
俺はむかついて杯を一気に呷った。
泡が喉を抜けて、それから上っていく感覚。
フワフワで良い。むかついてるけど気分が上がる。
アイオリスが俺の杯の減り方を見て、わずかに眉を寄せた。
(何杯目だ)
(三杯……いや、二杯だ)
(飲みすぎだ)
(うるせえ、こんくらい飲んだうちに入るか。
んなことより、火の山の話はどうだったんだよ)
いつもみたいに、くどくど文句を言われる前に話題を変えることにした。
アイオリスは俺の肩を抱いて席から立たせてきた。
話は後ってことらしい。
変に歯向かってもしょうがないので、大人しく連行されることにした。
向かう先は酒場の二階の宿。
階段を上る途中、酒場中の男の視線が尻に向けられていた。
分かるよ、俺だってそこにあったら見るもん。
部屋に着いた。
ベッドはひとつ。本当に寝るだけの狭い部屋だ。
木板の床がギシギシ鳴ってる。
あいつは俺の肩を掴んだまま、声に出さずに伝えてきた。
(明日、夜明け前に発てば、三日ほどで麓の町へ着くそうだ。
そこから先は湯と噴気の谷が続く。吸い込むと危険なものも多いと聞いた。
……温泉と、泡立つ湧き水もあるらしい)
最後の一言は、俺への餌だと分かってる。
ハン、そんな見え透いた釣り針に俺が引っかかるとでも――
(ほんとか!? 天然モンの強いやつか?)
(そう聞いた)
(よっしゃあ!)
火の山の神だの霊子の乱れだのは、まあ仕事だ。
火の連中相手は気分がカリカリして、正直、気が重い。
だが温泉と強炭酸水があるとなれば、俄然やる気が出てきた。
あの、シュワシュワのパチパチが、俺をフワフワの高みに連れてってくれるんだ、へへへ。
俺が機嫌を直しかけたのを見て、アイオリスが冷ややかに付け足す。
(君は少し酒を控えた方がいい)
(ただの炭酸だろ)
(だが、それが入ると、君は気が大きくなって注意が散漫になる。
つまり、酒を飲んでいるのと何も変わらない)
(そんなには……なってないだろ。うん、普通だ)
ちょっとだけ、視界の端に浮かんできた泡を、ひょいと流す。
視界も思考もクリア。何も問題はない。
奴の冷ややかな視線は変わらない。
冷ややかなまま、湿度が増した。
(それに……その服装も、やはり、見直すべきだ)
は? また、それを蒸し返してくるのかよ。
俺は自分の胸元を見下ろした。
紺と白を基調にした、比較的地味な旅装だ。
ちゃんと覆ってる。かなり隠している。頑張っている。
ちょっとずつ盛っていった分で、当初の想定より、ほんの少しだけムチっとしてるけど。
キャラクターデザイン的には、これくらいのボリューム感があった方が映える。
可愛いは正義だ。よって、俺は悪くない。完璧な理論だ。
(見直すって、どこをだよ)
(……全部だ)
アイオリスが俺の視線を追いかけて、身体のラインを上から下に見て、ため息を吐いた。
(全部って何だよ、雑すぎるだろうが。
お前の言う通りにしてるじゃん。肌はそんなに出てないだろ)
(肌が見えなければ良いというものではない)
即答。
なんだぁこの野郎。理不尽すぎるだろ。
何様だよお前は、俺の何なんだ。
旦那様♡ なんて、言わねぇからな。
『じゃ、お前の方こそ、そのツラをどうにかしろよ。
受付の女も、その辺の女も、露骨に色目使って来てんの分かってんのか?
イケメン様はおモテになってご満足か? ケッ、仮面でも被って三倍速く走ってろ』
いつもの口喧嘩。
大体、突っかかるのは俺の方だけど、原因はいつもこいつだ。
そうに決まってる。もっと、俺に優しくしろ。
(その言葉を、全て君に投げ返したい)
(はぁ!? 俺が何したってんだよ!?)
(君はいるだけで男を惑わし、惹きつける)
(んなっ!?)
言うに事欠いて、なんてことを言いやがるんだお前は。
アイオリスはさらに静かに追い打ちをかけた。
「……今夜も、言い聞かせなければいけないのか」
顔を近づけてきて、わざわざ声に出して言ってきた。
声のトーンが違う。腰にズンとくる、ガチ目のやつ。
思考が一瞬で止まった。
脳裏に蘇るのは、これまで散々、味わわされてきた敗北の歴史だ。
声を押し殺しても、触れ合った肌を通して、思っていること、感じていることを言わされる。
ちゃんと言わないと、もっとひどいことになるから、最後は言う羽目になる。
言ったら言ったで、結局、何色の自分だか分からなくなるまで、ぐずぐずに溶かされて、崩される。
翌朝は恥ずかしくて、しばらくまともに顔を見られなくなる。
全軍、総崩れ。我が方、連戦連敗。
我等、組織的抵抗を放棄。降伏は義務です。
うわあああああ。
旅の宿でそれを思い出させるな。
こんな壁も床も薄そうな部屋で、俺をどうする気だ。
『……わ、分かったよ』
「それでいい」
こいつ、本当にそういう時だけは容赦がない。
いや、なんか俺にはどんどん遠慮や容赦がなくなってないか?
教えはどうした、教えは。俺に対する崇敬と配慮を持て。
その夜は、申し訳程度には優しかった。
ケダモノが。
※※※※※
翌朝。
旅籠を出る頃には、雨は止んでいて、昨日の喧嘩も半分くらいは流れていた。
俺たちは寝る必要も休む必要もないから、寝て起きたらスッキリ気分を変えてとはいかない。
(お前ぇ、ふっざけんなよ、雨漏りってことになったから良かったようなもんを!)
(君はやめないで欲しいと言っていたが)
(い、いってねぇし!)
(そうか……次はもっと努めよう)
(わ、わかった、いった! いったで良いからっ! ほら、さっさと出ようぜ)
つまり、昨日も、今日も、明日も、うっすら継戦中で、なんとなく停戦中のまま。
それが、俺とこいつの日常だ。
会計を済ませ、荷を取り、俺たちは宿を出た。
街道にはまだ人の往来がある。
荷車。徒歩の旅人。山へ向かう湯治客。復興が進み始めた土地特有の、妙に忙しない空気。
行き交う旅人と同じように、俺たちも背嚢を背負って歩く。
俺たちは普通の人間とは別物の雑な“生き物もどき”だ。
本当の意味で、生きていくのに必要な荷物なんてほとんどない。
水さえあれば、どこででも、どうとでもなる。
だから、俺にとって、この背嚢の中身はおままごと道具みたいなものだ。
けど、この雑多な重みを背負っていると、人間気分が味わえるので、そこそこ気に入ってる。
たぶん、ちょっと前まで人間寄りだったアイオリスも同じだ。
人目のあるうちは、俺は喋れない。
あいつは、言葉の不自由な妻の良き理解者で夫というわけだ。嘘をつけ。
奴は必要最低限しか喋らないくせに、要所要所で「イズミ」「妻」「私の連れ」と口にする。
外でまで見せつける気満々で本当に腹が立つ。
だが、街道から外れ、人気のない荒地に入ってしまえば話は別だ。
街を離れ、道が荒れた石混じりの原野へ変わり、周囲から人の気配が消えると、俺はようやく吐く必要のない息を吐き出した。
『あー、やっと喋れる……!』
自分の声が外へ出るだけで、身体の中の余計な力が抜ける。
人間の耳には歌のように響いてしまう声も、誰もいなければ問題ない。
髪の色の偽装も、わずかに揺らいだ。茶色の奥から水色が差しそうになって、慌てて抑える。
アイオリスが振り返る。
「気が緩んでいる」
『うるせえ。黙ってるの、地味に疲れんだよ。
お前が余計なことばっか言ってもツッコめねぇし』
アイオリスの口元が少しだけ上がる。
「私は嘘は言っていない」
『はいはい、木こりは正直もんだったな』
俺は話を打ち切って、先へ目をやった。
※※※※※
遠く、火の山と思しき峰が霞んで見える。
その周辺は赤茶けていて、所々に白い煙の筋が上がっていた。
少し前までは、あの山々まで黄金に止められていたはずだ。
だが今は違う。山肌は色を取り戻している。
地面は地面の色で、岩は岩の色で、質感も色合いも一つじゃない。
世界がひとつなぎの海……九番目の海になっていたのは、もう何年も前のことだ。
――旅立ったばかりの頃は、どこを見ても黄金ばかりだった。
山も森も、遠くの街道も、全部が静止していた。
今は違う。戻った土地がある。人が動き出した土地がある。
『……だいぶ、戻ったよな』
独り言みたいに呟く。
「ああ」
『でも、まだ戻してない大陸もあるんだっけ』
アイオリスは一度だけ口を結んでから言った。
「戦の最中だった土地もあったという。
今、戻せば、混乱だけでは済まないだろうと、止めたままにしてある」
『黒禍があった頃から、人間同士の戦争なんかしてたのかよ……』
呆れるしかない。世界が滅びかけているのに、人間同士で殺し合いとか救えねえ。
いや、滅びかけていたからこそ、かもしれないが。
俺は肩をすくめる。
『本当に、ロクでもねえな、人間』
「だが、今は最悪の手前で止められている」
『物は言いようだな』
動き出したら、また争うんだろうに。
なら、いつ動かせばいいのか、誰が動かすと決めるのか。
その御鉢が、俺やミューズに回ってくるんだとしたら、うんざりする。
アイオリスが少し歩調を緩め、俺に合わせた。
「昨夜、酒場で別の話も聞いた」
『あ?』
「この辺りでは、ミューズが世界を救った神として信じられているらしい」
あー、またそれか。
俺は顔をしかめた。
『なんか最近、ちびどもの話、盛られすぎじゃねえか?
聞くたびに話が大げさになってる気がすんだけど……』
「人は広まった噂の中から、信じたいものを信じる。
リディアやサルディスも、頭を悩ましていた」
『だろうな……』
容易に想像がつく。
リディアが内心青ざめながら、やんわり訂正して、サルディスの爺さんは、たぶんもっともらしい顔で理屈をつける。
なのに、ミューズは期待に応えようとやたらと背伸びをして、噂に追いつき追い越せしようとするだろう。
あいつは俺と比べて、やる気の塊だ。
それでいて、素直なようで頑固なところもあるから、心配ではある。
一体、誰に似たんだか。
だからと言って、俺が毎回飛んで帰って変に口出ししたところで、余計こじれる気もするし、違うと思う。
あいつらにはあいつらの考えややり方があって、俺がどうなって欲しいかは別問題だ。
今は、のじゃ様たちも様子を見てくれてる。リディアは周りを上手く頼りながら回してくれてる。
何より、ちびたちがやたらと張り切っていて、実際に成長している。だから、たぶん大丈夫だ。
ママみたいになる、とか言われると、やめとけって思う。
けど同時に、あいつらがそう言われるくらいに思われてるのは、誇らしくもある。
ただ、変に背負いこまずに自分の好きなように生きてくれればなとも感じる。
一丁前に親みたいなことを考えてるな、と自分で思って、むず痒い。
俺はこんなだから、あいつらから教わったことの方が多いくらいなんだが。
『まあ……心配したって、しょうがねえか』
「そうだな」
『お前、こういう時だけはすぐ同意してくんのな』
「君が普段から頷けないような事ばかりを言うからだ」
『一言も二言も多い!』
怒鳴り付けてから、しばらく黙って歩いた。
風が乾いている。
足元には、もう黄金の小石が混じっていたりはしない。
草が生え、虫の音が戻っている。
世界は終わっていない。
一度、終わった後で、また動き出して、今も続いている。
「イズミール」
不意に、名前で呼ばれた。
イズミもしっくり感じるけど、やっぱりこれが俺の名前だって今はそう思う。
『何だよ』
「そろそろ、答えは出たか」
『はぁ?』
唐突で、言葉足らずの質問に、訳が分からないというふうに顔をしかめてみせる。
でも、本当は何のことを言っているのか分かってる。
旅をするようになってから、こいつは何度か同じ問いを寄越してきた。
ずっと前、あの白い世界の中で。
抱え続けてきた鬱憤を洗いざらいぶちまけて、不様に泣き喚いた。
その後、こいつに言われた。
今、答えを出そうとしなくていいって。
俺が何者で、何を受け入れられないのか。
それを急いで決めないでいいと言われた。
ひとりで抱えたまま沈むなとも。
答えられないまま、ずっと忘れていたフリをしてたことを、こいつは勿論覚えていて。
旅の最中に時々こうして、俺に突き付けてくる。
ほんとうに、しつこくて、重たくて、面倒臭い男だ。
俺は鼻で笑ってやった。
『だから、出るわけねえだろ、そんなもん』
俺が何者なのかって?
頭の中で並べてみる。
元男。元社畜。今もオタク。陰キャ。
泉の精霊。湖の女神。世界を沈めた張本人。
頭の中に金銀の問題社員を抱えたブラック企業。
三人の子持ち。女神ミューズのママ。
各地の精霊のクレーム対応役。
そして、こいつの――
悪友。親友。恋人。嫁。妻。伴侶。夫婦。番。
何でもいいが、どれも全部、腹が立つほど認めがたくて、どれもしっくり来る部分がある。
『属性の交通渋滞し過ぎだろ……』
「何?」
『いや、こっちの話だ』
俺は思わず笑ってしまった。
答えなんか、きれいに一つへまとめられるわけがない。
――ごちゃごちゃで、ぐちゃぐちゃで、最悪で。
元の俺なんかもう跡形もない。
昔の俺が、今の俺を見たら確実に卒倒する。
でも、別にそれで困ってはいない。
少なくとも前みたいに、“分からないから怖い”って感じじゃなくなってる。
交通渋滞してるなら、してるまま進めばいいだけだ。
多重玉突き事故を起こしたって、構うもんかって気分だ。
『そんなもん、今更、一言でまとめられるかよ』
「なら、まだ、教えてはくれないんだな」
アイオリスは穏やかに言う。
残念そうではない。いつもそうだった。
俺はわざと顔を逸らした。
『少なくとも、お前には教えてやんねえ』
言葉にして伝えたら負けな気がする。
とっくに負けてる気がするけど、そこは俺にも意地というものがある。
「何故だ」
『何となくだ。
俺の中でまとまってないのに、お前に分かった顔されんの癪だろ』
「なるほど」
我ながら、ひどい理屈だ。
お前もなんで納得してんだよ。
けど、今のは本音でもある。
どう考えても手に余るのに、手放せないものが、どんどん増えていった。
それが、抱え込んでいくうちに、勝手に自分の一部にされていく。
しがらみに縛られたり、押し付けで勝手に変えられるのが、とにかく嫌で、怖かったはずなのに。
今はごちゃごちゃしたものを抱えたまま、それでも歩いていける。
それが進歩と言えるのか、俺が壊れておかしくなっただけなのか、分からない。
分からないけど、悪い気分じゃない。
アイオリスは少し考えてから、静かに言った。
「大丈夫だ。君が抱え込んで沈むなら、一緒に沈むだけだ」
『いや、重た!? 何も大丈夫じゃねえだろ!
そこは、引っ張り上げてやるとか、格好つけるとこじゃないのか、男として!』
アイオリスは平然とした顔で続けた。
「そういうのは、君の方が似合っている」
『え、何? お前が沈んで一緒に引きずり込むって話してる? 怖……っ』
「君は浮き沈みが激しいからな」
『お前に言われたかねえんだ!
沈めて金ぴかにされてえのか、おい!』
文句は言うだけ言わせてもらう。
だが、歩調は合わせたままだ。
この先には、今回のクソ業務が待ってる。
相手はお互いソリの合わない火の連中。
もう、絶対に拗れる。どう転んでも面倒なクレーム案件だ。
けど、それを済ませれば、温泉や炭酸水が待ってる。
うちに帰ったら、ミューズへの土産話になるだろう。
炭酸水を持ち帰ったら喜ぶだろうか。
いや、お子様にはまだ早いな。うん。
何もかも途中で、全部が中途半端で、どうしようもなく取っ散らかってる。
救済も。復興も。俺の答えも。
全部、「作業中」に放り込んでしまったままだ。
けれど、それでいいのだと、今は思える。
風が吹く。
匂いは分からないが、火の山の方から運ばれてきた微かな熱気を感じる風。
きっと、森に吹く風とは匂いも違うんだろう。
足りない分は雰囲気と創造力で補え。
俺は茶色に偽装した髪を押さえ、隣の男を横目で見た。
『なあ』
「何だ」
『湧いてるところを押さえちまえば、飲み放題だよな?』
「君はそろそろ慎みを覚えるべきだ」
『よーし、分かった、喧嘩売ってんだな、あぁ!?』
「夫として、嗜めている」
『だから、そこ! まだ認めてねえって言ってんだろうが!』
「なら、認められるまで言い続けよう」
『おぉい! 誰か……話の通じる奴、誰かいないのか……っ?!』
俺が怒鳴る。木こり野郎が少しだけ笑う。
そのまま俺たちは、火の山へ向かって歩いていく。
聖者でも、女神でもなく。
――ただのアイオリスと、イズミールとして。
騒がしくて、重たくて、真っ直ぐではない道のりを、一緒に歩き続ける。
ずっと。
――陰キャオタ社畜俺氏、転生したら森の泉だった件〜転職先は泉の女神〜――
-SPRING AWAKENED-
GOLDEN RING - ABIDE WITH ME.
この先、絶望はないぞ
つまりひと休みを目指せ
しかしその資格は無い、おぉ、その資格は無い




