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118.空を取り戻した日 ◆★△

 イズミール様とアイオリスさんが泡を発ってから、もう半月近くになる。


 丘を包む泡は、変わらず私たちを水底で守ってくれている。

 ならば、イズミール様もきっと無事なのだと、自分に言い聞かせていた。


 泡の丘は変わらず深い水の底にあった。

 最初の七日ほどは、昼も夜もない薄闇の中で、私たちは火を囲んで息を繋いでいた。

 頭上に圧し掛かる水の天井の向こうに揺れる、ぼんやりとした陽の光だけを頼りに、日にちを数えていた。


 最初は、皆がただ不安に耐えていた。


 泡の向こうから黒禍が現れるのではないか。

 世界はこのまま終わってしまうのではないか。

 お二人はいつ戻ってくるのか。黒禍に勝てたのか。

 お二人が戻ってくるまでに、この泡や私たちは保つのか。


 答えのない問いばかりが、寝ても覚めても、火の周りに座る人々の間を巡っていた。


 私たちにはミューズがいる。

 ミュルナ、ミュリナ、ミュシアの三人がひとつになって、私たちを守り続けてくれている。


 人々の前では、ミューズは一柱の女神であり続けようとした。

 イズミール様の代わりに、人々を生かすために水に沈んだ物資を集め、黄金から戻してくれた。 

 薪が足りないとなれば薪を、食べ物が尽きかければ食べられるものを、布が要るとなれば布を。

 飲み水を与え、汚れを洗い、浄め、休むことなく働き続けてくれた。


 ミューズには人の言葉が分からない。

 それでも、泣く者がいれば寄り添い、熱を出した者がいれば水を冷やし、言い争いが起きれば間に入ろうとした。


 三人の力をひとつにしても、ミューズに出来ることは限られていた。

 それでもあの子は、自分に出来ることを、ひとつずつ、順番に、懸命にやろうとしていた。

 そういうところは、どこかイズミール様に似ているように、私には見えた。


 ミューズは皆に頼られ、慕われてもいた。

 それは誇らしいことだったけれど、同時に少し怖くもあった。

 頼られ方が大きくなりすぎれば、この子たちはどうなるのだろう、と。


 皆の前で女神らしく立とうとするミューズは、たしかに誇らしい。

 けれど私には分かる。

 あの子は――女神イズミールの御子様である前に、母の帰りを待つ幼い三人の子どもなのだ。


 皆の前で、立派な女神らしく振る舞おうとして肩に力が入る時は、きっとミュルナが強いのだろう。

 物事をよく見て、一番良い方法を探そうとして迷ってしまう時は、ミュリナの気配を感じる。

 そして二人の真似をしながら、時々、思いもよらないことを口にしてしまうのは、たぶんミュシアだ。


 三人はミューズとして一つに結ばれているけれど、泡の丘から離れた水の中で、三人に戻った時だけ泣いているのかもしれない。

 そう思ってしまうほどに、その結び目はまだ柔らかく見えた。


 だからこそ、私はミューズの傍を離れられない。


「聖女様、薪の備蓄が不足していることを御子様にお伝えいただけますでしょうか」

「御使い様、うちのカプラ(山羊)は乳が出ます。連れてきていただければ、きっとお役に立てるかと」

「リディア様、御子様はいつお帰りに……この泡は大丈夫なんでしょうか……水の中に黒いものが見えたような」


 人々は皆、ミューズを「御子様」と呼び、ミューズと言葉を交わせる私を「聖女」や「御使い」と呼んだ。

 そんなふうに呼ばれるたび、私は身の置き所がなくなる。

 まだ見習いの魔術師で、大人にもなり切れていない私が、そんな立派なもののはずがない。


 私の使える魔術なんて、この泡の中では大した役に立たない。

 それでも、今、私にだけしか出来ないこともある。


 それは、人々とミューズの間に立って、言葉や心を繋ぐこと。


 皆が「御子様」と呼ぶからこそ、私はあの子を、ひとりのミューズとして見失わないでいたかった。

 そして、ミュルナ、ミュリナ、ミュシアの三人でもあることを。


「御子様は、薪のある場所を見つけられています。また運んで来るそうなので安心してください」

「ありがとうございます。でも、生き物相手になりますから、御子様に相談してみます」

「……御子様は私たちを助け、守ってくださいます。大丈夫です、黒禍の気配はありません」


 私はミューズに人々の言葉を渡して、ミューズの言葉を人々に伝えてきた。


 全部を全部、そのまま伝える訳じゃない。


 尖った言葉は丸めて、足りない言葉や理解は補って。

 たぶん、アイオリスさんも、ずっとこうしてイズミール様の御言葉を人へ渡していたのだと思う。

 私はそれを、見よう見まねで真似てきた。


 最初はなかなか上手くはいかなかった。

 ギュゲスさんやカストールさんは、それを察してくれていて、ミューズや私の前に出て、人に語りかけ、動かしてくれた。


 ギュゲスさんは、悪態を吐いたり顔をしかめながら、どんな時でも必要なことはきっちりやってくれる。

 必要な物を作り、声を張り上げて人を集めて、仕事を割り振って、いつも忙しそうにしている。

 時々、喧嘩になることもあるけれど、そんな時はカストールさんが仲裁に入って、互いの言い分を聞いてまとめてくれる。

 カストールさんは、物資の管理や、火の番、病人や怪我人の面倒を見、ミューズが留守中は泡の外を見張ってくれた。


 ミューズ一人に背負わせないように、私たちもそれぞれの出来ることをしてきた。

 そうして、今日を明日に繋いできた。


 それを、たぶんミューズも分かっていた。

 だからこそあの子たちは、人の言葉ではなく、表情や仕草、場の雰囲気を学んで、不安が広がった時ほど自信たっぷりに、議論の場では静かに、子供と遊ぶ時は明るく無邪気に振舞った。


 その均衡が、初めて変わったのは――


※※※※※


 泡の中の暮らしに変化が始まったのは、イズミール様の出立から八日目のことだった。


 最初に気づいたのは、水の天井の向こうの光が僅かに明るくなったことだった。

 それは勘違いではなく、黒々とした天井が少しずつ青く、淡く、水色に変わって行って、光は確かに近づいてきていた。


 人々は戸惑い、囁きあった。


「泡が破れるのでは」

「何か来るのでは」

「終わりが近いのでは」


 恐れの方が先に立つのは当然だった。

 何もかもが、自分たちの物差しでは測れないことばかりだったのだから。

 けれど、ミューズは泡の向こうを見つめて、胸を張るように言った。


『もう、だいじょぶ!』

『ママが、かえってくる』

『黒いの、メーされた!』


 三人分の声が重なったその言葉を、私は人々に伝えることを躊躇った。

 希望は時に毒になるから。その言葉を信じたかったからこそ、軽々しく口にするのが怖かった。


 それでも、私は伝えることにした。

 水や火、食べ物ばかりが糧ではないのを知っているから。


「御子様は、きっとお二人が戻ってこられると仰っています」


 そう告げた時、誰もすぐには歓声を上げなかった。

 けれど、うつむいていた人たちが、少しだけ顔を上げた。


 ただ、その日から毎日、少しずつ世界は変わっていった。


 水の天井は日に日に明るく、透明になっていった。

薄暗かった泡の中へ、今まで届かなかった色の光が差し込むようになって、水の向こうに水面が見えてきた。


 人々は何度も天井を見上げた。

 その先に忘れていた何かがあったことを思い出すように。


 そうして七日かけて外の水位は下がり、ついに泡の天井が水面の上へ現れた。

 

 その時、閉じた泡の中に水越しではない陽の光が差し込み、風が吹き込んできた。


 火を揺らし、髪を撫で、頬に触れる、ただの風。

 それなのに、多くの人がその場で膝をつき、涙を流して、イズミール様やミューズの名を呼んで祈った。

 泣き出す人もいた。喚き、叫ぶ人もいた。呆然と立ち尽くして空を見上げる人もいた。


 それでも。


 ――青く、広く、どこまでも高い空。


 皆が同じ空を見上げ、同じ風を感じた。


 イズミール様が旅立ってから半月、私たちは空を取り戻した。


 泡の天井はなくなり、水に遮られることなく光と風が感じられる。

 私は胸の奥が詰まって、しばらく言葉が出なかった。


 人は水だけでは生きられない。

 水の女神であるイズミール様自らが仰ったという言葉を実感する。


 世界は終わっていなかった。


 この丘の上だけではなく、いずれはもっと遠くまで、まだ取り戻せるものがある。

 やっとそう思えた。


 その日、泡の丘の人々は、誰に言われなくても同じことを口にした。


「ああ、イズミール様が成し遂げられたのだ」

「聖者様が、魔樹を倒してくださったんだ」

「これで、御子様もようやく母君と共に……」


 どれも、まだ確かめようのないことばかりだった。

 けれど私は、もうそれを否定する気にはなれなかった。


 きっと、そうなのだと思いたかったからだ。


 ミューズは、ようやく取り戻した空の下を、嬉しそうに舞った。


 けれど、ミューズはその日も休まなかった。


 空が戻ったからといって、すぐに食べ物が増えるわけではない。

 火が要らなくなるわけでもない。

 むしろ夜は風を遮るものがなく、暖を取る必要が増した。


 人々は浮き足立ち、先を急いで、丘の外へ出たがる者も現れた。


 御子様、もう丘を降りても平気なのでは。

 御子様、家族を探しに行きたいのです。

 御子様、家と畑を見に行っても。


 そのたびにミューズは私を見る。

 私が問い直し、三人の揺れを受け取り、人の言葉にして返す。


「まだ駄目です。水が引いたのは一時的なものかもしれません」

「水が引いた場所も黄金になったままで、人がぶつかれば危ないと御子様は仰っています」

「イズミール様はきっと戻ってこられます。今は、まずここを整えましょう」


 人々はミューズや私の話をよく聞き、頷いてくれた。


 そうせざるを得なかった、だけではなく、信じてくれたのだと思う。

 私たちは、そうして話し合いながら、ここまで持ちこたえてきたのだから。


※※※※※


 空を取り戻してからの数日、私たちは丘の上へ見張りを立て、火の置き場所を移し、少しずつ、水の底の暮らしから地上の暮らしへと身体を慣らしていった。


 その日も、昼に近づくにつれ、人々は何度も丘の外を眺めていた。

 皆がイズミール様とアイオリスさんの帰りを待っていた。


 最初に気づいたのは、見張りに立っていた若い兵士だった。

 前に、ミュシアに兜を玩具にされていた人。


「あっ――」


 それだけ言って、声が途切れました。


 私も振り向きました。

 ミューズも、私のすぐ隣で、ぴたりと動きを止めました。


挿絵(By みてみん)


 水が引いた後も、丘の斜面は黄金に固まったままだった。


 その黄金の丘が、草木の緑を、地面の茶色を、黄色や白の花の色を取り戻した。

 風が吹き、草原が揺れ、木々がざわめく音がした。


 丘の下から二つの人影が、こちらへ歩いてくるにつれ、止まっていた世界が動き出す。


 金の髪、金の鎧、大きな斧を背負った長身の男性。

 その隣に寄り添う、水色の髪と枝分かれした角を持つ女神。


 イズミール様と、アイオリスさんが帰ってきた。

 ――二人がこちらを見て、大きく手を上げた。


挿絵(By みてみん)


 それを見た瞬間、ミューズは顔いっぱいに笑みを浮かべて。


 次の瞬間には、その姿がほどけて三人の水の幼子に分れて飛んで行った。


『まァまぁぁぁぁっ!』

『マァマ、マァマ……ッ!』

『ンミミャアアアアッ!』


 ミュルナ、ミュリナ、ミュシア。


 三人はもう、御子様でも女神でもなく、帰りを待ち望んでいた母を見つけた幼い子どもそのもので、泣きながら斜面を飛んで下りていった。


挿絵(By みてみん)


 イズミール様は、一瞬だけ驚いたように見えた。

 けれど次の瞬間には、もう両腕を広げていた。


 最初に飛び込んだミュルナを受け止め、その勢いのままミュリナも抱え、少し遅れてきたミュシアを抱きとめる。

 それをアイオリスさんが肩を抱くようにして支えていた。


 三人が口々に何かを訴えているのに、イズミール様は一つ一つに応えようとして、結局まとまらず、でもずっと撫でて、抱きしめて、繰り返し何かを言っていた。

 その手つきは優しいのに、どこか乱暴で、照れ隠しのようにも見えた。


 丘の上までは、その言葉は届かなかったし、聞こえたとしても、私には分からない。

 けれど、留守を守った三人を褒めているのだと思った。


 よくやった。頑張った、と。


 出立の前、イズミール様はミューズに、帰ったら褒める、遊ぶ、新しいことを教えると約束したそうです。

 ミューズは大切な宝物を見せるみたいに、私にだけそれを教えてくれていた。


 今、その約束が果たされているのだと、私は理解した。


 イズミール様の隣に立つアイオリスさんは、まるで神や精霊のような強い水の霊子を纏っていて、初めは別人かと思った。

 アイオリスさんの何かが、決定的に変わってしまったのだと直感した。

 でも、以前よりもずっと穏やかで、優しく満ち足りた顔を見ていたら、どうでもよくなった。


 イズミール様との距離は変わらず近くて、二人は……いや、三人の子どもたちと一緒にいる姿は、とても幸せそうだったから。


「イズミール様だ……」

「アイオリス殿もご無事だ……!」

「ああ……御子様方がやっと……」


 丘の上に歓声とも、すすり泣きともつかない声が広がった。

 その場に膝をついて祈りを捧げる人もいたけれど、泡の丘で過ごした人々は、以前のように、ただ奇跡に縋るばかりではなくなったのだと思う。

 神や精霊にだって、出来ることと出来ないことがあるのだと、皆もう知っている。


「あの怪我で成し遂げられたのか……聖者殿、よくぞ、ご無事で……」


 カストールさんは、アイオリスさんを見て言葉を詰まらせていた。

 あの人は、私以上にアイオリスさんの身を案じていた。

 きっと、罪滅ぼしのためだけじゃないと思う。


「……ほら見ろよ、旦那。鎧はちゃんと無事だぜ」


 そんなカストールさんの隣で、ギュゲスさんは黄金の鎧を指さして笑った。

 ぶっきらぼうに笑っていても、出立の後、この人が鎧の出来を悔やんでいたのを私は知っている。


 お二人の帰還を祝って、泣いて、笑って、それでもすぐに誰かが火の番を思い出し、誰かが子どもを抱き上げ、誰かが食事の支度を始める。

 喜びも祈りもあるのに、誰も暮らしの手を止めない。

 そのことが、私は少し嬉しかった。


 やがて三人を抱えたまま、イズミール様がふわりと丘を登ってきた。

 アイオリスさんが一歩前へ進み出た。


 アイオリスさんは、歓声に応えるより先に、丘の上にいる一人一人の顔を確かめるように見渡した。

 失った者がいないことを数えるような、その眼差しに、私は胸が詰まった。


 誰もが、その口から語られる言葉を待っていた。


「黒禍はこの世から消えた」


 その一言で、辺りの音が止みました。


「残っていた災いの根は断たれ、もう、再び脅かされることはない」


 誰かが嗚咽を漏らした。

 別の誰かは、両手で口を覆って、その場にしゃがみ込んだ。

 喜んでいいのか、まだ恐れているべきか、感情が追いつかない。

 私自身も、心臓のあたりをぎゅっと掴まれたようで、息の仕方を一瞬忘れた。


 誰もが黒禍を恐れ、憎み、脅かされていた。


 私自身、家族を奪われ、故郷を失くし、浸蝕を受けた。

 黒禍への復讐だけを支えにしていたはずなのに、

 いつの間にか私の心は、皆とどう生き延びるかを考える方へ移っていた。


 アイオリスさんやイズミール様の行く末、名前をつけたミュルナたちがこれからどうなっていくのか。

 皆と、ミューズと、どう生きていくかばかりを考えるようになっていた。


 黒禍が消えたと聞いて、私は安堵と喜びを覚えるとともに、自分の復讐はとっくに終わっていたのだと気づいた。


 アイオリスさんはそこで言葉を切らなかった。


「だが、世界がすぐに元へ戻るわけではない。

 見ての通り、水は引き始めたが、黄金になったものはまだ戻っていない」


 人々の表情がまた強ばった。


「水も黄金も、黒禍を滅ぼし、人を守るために用いられたものだ。

 だからこそ、今度はそれが人の世を乱す形であってはならない。

 イズミール様は、そう望んでおられる」


 イズミール様は、アイオリスさんの隣で子どもたちを抱いたまま、黙している。

 この話はきっと、二人のあいだで既に決められていて、今はアイオリスさんが人へ伝えているのだと思った。


「聖者様……では、いつかは戻ってくるのですね。

 いつか、あの家に帰る日が……」

 

 その人は家族を家に残して、自分だけが助かったことを悔やんでいた。

 それでも、今すぐ帰りたい、返して欲しいとは叫ばなかった。

 ここに集まった人は皆、同じだと知っているから。


「戻る。だから、生きよ」


 アイオリスさんは頷き返しながら、続ける。 


「世界はここ、ゴルディウムから戻されていくことになるだろう。

 人は戻る。村や町、畑や家畜も戻ってくる。

 だが、元の暮らしを取り戻すのが容易ではないことを、皆が知っているはずだ」


 私も含めた皆が頷いた。

 この狭い泡の丘の中でさえ、人が支え合い、まとまる必要があった。

 人が増え、広くなれば、きっと、それに見合う問題も出るだろうと想像がついた。


「私とイズミール様は、この地にしばし残る。

 まずは、ここが立ち直るところを見届けたい」


 安堵が、また少し人々に広がりました。けれど次の言葉で、その安堵は別の形に変わります。


「だが、その後、私たちは各地を巡らねばならない。

 正さねばならない乱れを、世に残さないために」


 私はミューズ――いえ、まだイズミール様に抱かれたままの三人の方を見ました。

 三人とも、ぴくりと肩を揺らしています。


「イズミール様は、その間、この地を支えるのは、皆と、ミューズ様だとお考えだ」


 ざわめきが走った。


 女神様と聖者様が、御子様を残して、また離れられる。

 御子様にこの地をお任せになる。


 不安と困惑の声はあった。でも、すぐに否定の声は上がらなかった。

 皆、この半月の間、ミューズが、どれだけ働いてきたかを見てきたから。


 そのミューズが、今、イズミール様の腕の中に縋って泣く子どもたちだったことを、改めて目の当たりにして、自分たちも支える側であることを思い出したから。


 イズミール様の腕の中で、まずミュルナが顔を上げた。

 涙でぐしゃぐしゃだったくせに、もう拳を握って胸を張ろうとしている。

 ミュリナが不安そうにしながらも口を引き結ぶ。

 ミュシアは二人の姉を見てから、母を見上げた。


 三人は一度、互いの顔を見て、それ以上は言葉は要らなかったようだった。

 イズミール様の腕の中から飛び出して、口々に叫んだ。


『ミュルナ、できる!』

『ミュリナ……がんばる』

『ミュシア、やく、たつ』


 声が重なり、ほどけ、また一つになっていく。

 一人の女神、ミューズが立って、母女神イズミール様に向き直った。


 握った拳、足元に溜まった水の不規則な震え。

 本当はまだ母の胸に縋り付いていたいのだろうに、ミューズは顔を上げて言った。


『ミューズ、ママみたいに、もっと強くなりたい』


 イズミール様は、驚いたように見えた。

 咄嗟にミューズへ手を伸ばしかけて、けれど途中で止め、そのまま微笑んだ。

 でも、その微笑みはほんの少し硬くて、きっと褒めたいのと同じだけ、心配しているのだと思う。

 頑張りすぎて無理をしないか。人の期待や祈りに応えようとし過ぎないか。

 そういうことを考えているのだと思った。


 イズミール様がミューズに何かを言うと、ミューズは口を尖らせ、反論した。


『ミューズがやるの! リディアも、みんなも、助ける!

 ママがいないときは、ミューズがまもるの、やくめ!』


 ただ意地を張っているだけではない。

 あの子は本気で、自分が引き受けるつもりなのだと分かった。

 それがあの子が望んでいることなら、私はそれを支えてあげたい。


 そこへアイオリスさんが静かに続けました。


「イズミール様は、ただ離れられるわけではない。

 ズミュルナ湖の水を通して、ミューズ様やこの地を見ておられる。

 また、各地の神々もミューズ様に助力を申し出ている」


 人々のざわめきは、そこで少し落ち着きました。


 私は一歩前へ出て、アイオリスさんに答えた。


「私は、これからもミューズの言葉を人に届けます。

 ミューズに皆の言葉を届けます。それが私の役目だと思ってます」


 私の言葉に、三人――いや、ミューズがこちらを見ました。


「ここにいる皆さんは、ただ祈って待つだけではありませんでした。

 ミューズに助けてもらいながら、皆で生き延びてきました。

 世界が戻るのも、きっと同じことなんですよね?

 少しずつ、支え合って、広がって、取り戻していくのでしょう」


 ミューズが手を振り上げて、大丈夫、行こう、と声を上げた。

 私が訳さなくても、ギュゲスさんが応えるように叫んだ。


「聞いたな、お前ら! 御子様がやるってんなら、俺たちも腹括るぞ」


 カストールさんは胸に手を当て、私とミューズの前で片膝をついて誓いを口にした。


「この身の及ぶ限り、お支えいたします」


 アイオリスさんは黙って私に頷き返してくれた。


 それは、いつのまにか私の中にも根づいていた思いだった。

 この聖地に来てから経験したことは、どれも神秘と奇跡に満ちていた。


 でも、神や精霊にも心があって、奇跡は何もかも思い通りにできるものではなかった。

 だからこそ私たちは、火を守り、食べ物を分け、泣く子を抱き、怒る者を止めながら、ここまで来たのだ。


 なら、世界だって同じなのだろう。

 一度にではなく、支え合いながら、少しずつ取り戻していくのだ。


 イズミール様がこちらを見た。

 少し意外そうで、それからほんのわずかに、肩の力を抜いたように見えた。


 それから、微笑んで、私に向けて握った拳を向け、親指を立てた。

 意味は分からなかったけれど、励ますつもりなのだと何となく分かった。


 私の言葉はイズミール様にはきっと伝わってはいない。

 けれど、言葉以外にも通じ合うものはあるのだと思った。


 私も同じ仕草を返すと、イズミール様はもう一度微笑み返してくれた。


『リディア、いっしょ!』


「うん、一緒だよ」


 ミューズもすぐさま真似をして、私たちは笑い合った。


 空には雲が流れていた。

 泡の向こうのぼやけた白いものではなく、遠く、高く流れていく本物の雲。


 まだ世界のほとんどは水の底にあるのだろう。

 黄金のまま眠っている人が、街が、国が、いくらでもある。


 けれど、この丘にはもう、空がある。

 ゴルディウムの森はまだ、水の中の黄金のままだけれど、これから取り戻していく。 


 私はその光景を見ながら、ふと思った。


 後の世の人々がこの日を振り返る時、きっともっと立派で、もっと神々しく、美しい言葉で語るんだろうって。

 ミューズがどうであったかも、イズミール様がどんな顔で三人を抱きしめたかも、たぶん違う形に伝わっていく。


 けれど、今日ここにあるのは、きっと神話になる前の、本当の始まりなのだと思う。


 泣いて、抱きついて、褒められて、それでも明日の仕事を引き受けようとする、小さな子どもたちの始まり。


 そして、人が救われたあと、自分の足で立って歩き出す、その始まり。


◆◆◆◆◆


『水神宮正史・復世紀』抄


 かつて世は、■■■に覆われていた。


 ■■■は地を蝕み、水を濁し、風を淀ませ、木々を腐らせ、生きとし生けるものに病を齎した。

 古き神々と精霊は沈黙し、あるいは去り、人は明日を失い、灯は絶えていった。


 祈りを受け取るものはなく、善き営みは報われず、強き者は奪い、狡き者は飾り、傲れる者は神をも軽んじた。

 世は長く深き淵の底にあり、人は渇き、心は荒れ、まこと暗黒の時代であったという。


 されど、その荒涼たる闇のただ中にあっても、水はなお絶えなかった。


 聖地ゴルディウムの清き泉より、龍の女神イズミールは世に姿を現された。

 浄化と裁定を司る太母神は、古き神々が去りゆく中、ただひとり人を見捨てなかった御方である。

 その清浄なる水は、渇きを癒し、傷を洗い、穢れを祓い、■■■をもまた流し去った。

 人はその水に救いを見出し、その御名を呼び、祈りを捧げ、加護を求めた。


 しかれども、その慈悲の御業は、なお後の日に完成を見るべきものであった。

 太母神の御腕に抱かれた三柱の御子には、のちに人の世を支える大いなる権能が宿されていたのである。


 されど人は、救いに縋りながらも己を正さず、■■■はなお地に満ち、悪徳は世を巡った。

 強欲、虚飾、傲慢、嫉み、怠惰――人の心に巣食うそれらもまた、■■■に劣らぬ穢れであった。

 ゆえに、来たるべき日が訪れた。


 後に裁定の日と呼ばれるその日、太母神の涙は地を沈め、遍くものを黄金に変える洪水となった。


 地を這い、国を蝕み、人の世を争いと飢えと嘆きに沈めていた■■■は、ことごとく水に投ぜられた。

 また、人心に巣食いし強欲、虚飾、傲慢、嫉み、怠惰などの悪徳もまた、黄金の静けさのうちに封ぜられ、水底へ沈められた。

 それは浄化と裁定の女神イズミールが齎した罰であり、赦しであり、試練でもあった。


 この日、三柱の御子は、母神の御心を最もよく受けて、人の中より正しき者らを選び出したという。

 また、御子を助けて人を導くため、名もなきひとりの御使いがその傍らに侍した。


 かくして、正しき人々は聖地ゴルディウムの丘へと導かれ、裁定の日を越えて黄金ならぬ身で残された。

 その人々は己が欲のために隣人を押し退けることなく、互いを助け、幼きものを守り、老いたるものを支え、糧を分け合った。

 これぞ、後に女神ミューズの御教えの最初のかたちとして語られるところである。


 されども裁定の日の後も、なお世界は水の底にあり、人は黄金より還るを許されず、大地もまた眠り続けた。


 人の世の悪徳を沈めてなお、■■■は地の底に巣食っていたゆえである。

 ゆえに太母神イズミールは、三柱の御子を丘に残し、一切の災いを滅せんと、黄金の勇者と共に深き淵へと旅立たれた。


 ここにおいて人々は、太母神の御力が三柱の御子においてひとつに結ばれたと悟った。

 三柱は分かたれたまま一つであり、一つでありながら三重の徳を備える御方であったが、その本義はこの時、ついに明らかとなったのである。


 その御名をミューズという。


 この御名は、三重にしてひとつ、幼くして完全、母の慈悲を継ぎ、その御業を現世において成就せしめる御方を意味すると伝えられる。


 かつて母なる女神に抱かれ、母へ縋っていた幼き三柱は、この時より、もっとも偉大なる者となった。

 太母神イズミールが世界を裁き、穢れを祓い、地を浄めた後、その地に人が歩むべき道を築き、これを守り、これを広め、これを育み、導いたのが偉大なる女神ミューズである。


 ミューズは泡の丘に残された人々の前に立ち、告げた。


 祈りのみをもって救いを待つな。

 清き手をもって火を守れ。

 糧を分かち、弱きものを抱き、今日を越え、明日を支えよ。

 赦されたる者が立ち上がる時、そこにこそ救いは成るのだ、と。


 また、世界が息を吹き返す日は今日や明日ではない。

 されど、必ず取り戻す日が来る。その日まで生きよと。


 人々はこの御言葉を受け、ただ祈るのみならず、自ら手を動かして日々を繋いだ。

 これをもって、女神ミューズの教えの最初の実践とする。

 そして、救いは自らの歩みにおいて成るものと定められた。

 これを、真の救済とするのがミューズの教えである。


 やがて裁定の日の終わりと共に、八方の古き水の神々もまた、その御業を助けるべくミューズの御前に列した。

 彼らはミューズの御意を奉ずる従神として各地に水路を開き、川を正し、海を鎮め、黄金の地に再び命の巡りを呼び戻したという。


 このゆえに、ミューズは八つの海をも従え、世界の水をひとつに結ぶ御方、すなわち現世の海の主にして、復世の女神と崇められる。


 人はミューズの御名の下に、地を、森を、街を、国を取り戻していった。

 母なるイズミールが世を浄め、ミューズがそれを人の住まう世として立て直したのである。


 このゆえに、森都ゴルディウムの水神宮においては、母なるイズミールを太母神として最奥に祀り、その御前に立つ女神ミューズを現世の主神として崇める。

 偉大なる母娘神の御名は並び称えられるといえど、人の祈りがもっとも近く届くのは、今もなお人に寄り添い、今日の営みを見届けたもうミューズの御許である。


 されば人々は祈る。


 かつて母に抱かれ、今は人に寄り添い、これからも世を守る御方よ。


 どうか我らに、立ち上がる勇気を。


 歩み続けるための清き水を。


 そして再び裁定の日を招かぬよう、我らに正しき心を保たせ給え。


 ――偉大なる、偉大なる、偉大なる御方、女神ミューズに斯く申し上げる。

※註1:■■■

 かつて、世界を襲った忌まわしい災厄とされるもの。

 口にしてはならない、知ってはならない禁忌として、ある時期には、あらゆる碑文や記録から、その名が塗り潰され、抹消された。

 様々な伝承を辿れば、黒禍、魔樹、深淵などの名が見出されるが、その実態は定かでない。


※註2:黄金の勇者

 裁定の日の後、太母神イズミールと共に深淵へ赴いたとされる英雄。

 だが、その出自も真名も定かではなく、伝承によって肩書きも役割も大きく異なる。


 黄金の勇者、配偶神、黒き聖者、深淵渡り、樵夫、金色の獣など、さまざまな異名で呼ばれる。

 また、古い記録や地方伝承には、アイウエオ、アルトリウス、アイオロス、キコイ=ヤオ、ケダモ=ヤオなどをその名とする説も見られる。


 太母神イズミールの深淵行きに随伴したことから、太母神の近衛、あるいは伴侶とする説が有力である。

 一方で、女神を夜の世界へ連れ去った者、女神ミューズより母神を奪った魔王、あるいは罪深き者として語る異伝も少なくない。

 その正体が定かならぬゆえに、敬われ、畏れられ、また土地ごとにまるで異なる姿で語り継がれてきた存在である。


 なお、その象徴物は斧とされ、各地で魔除け、女神への奉納品、あるいは忌み物として扱われる。

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完結お疲れ様です
金色の獣とケダモ=ヤオの2つの言葉はどういう経緯で後世に残ったんだ
イズミール「このケダモノ野郎!」 ミューズ「ケダモヤオー!ケダモヤオー!」 イズミール「こらミューズ、真似はよせ!」
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