111.むすんだ泡は、ひろがって(前編) ◆★△
白い世界での龍神との邂逅後からイズミールとアイオリスの婚(魂)前旅行の出発前までの別視点。
みゅ、みゅ、みゅ。
おみず、たかくて、ふかくて、ひろい。
ちいさな水音を散らしながら、三つの影が青暗い水の底を飛んでいた。
世界は母の水で満ちている。
だから、かき分けて泳ぐ必要はない。
水の中を飛ぶこと――それは幼い龍の仔にとって、歩くよりもずっと自然な移動だった。
足の下には、きらきらがある。
うえにも、きらきら。
よこにも、きらきら。
いえ。みち。はたけ。き。やま。いし。
にんげん。どうぶつ。とり。にんげんのつくったもの。
みんな、おなじきんいろになって、しずかに水の底へ沈んでいる。
きらきらは、うかばない。
うごかない。なかない。
とってもしずか。
母の水はどこまでも広くて、どこまでも続いている。
幼い三人にとって、この広くて静かな水の世界は、しあわせに満ちていた。
ミュルナは前を飛ぶ。
いちばん先を、いちばん速く。いちばんえらそうに飛ぶ。
『みゅ! たべもぉ、さがす!』
ミュリナは少し後ろを飛ぶ。
あてもなくビュンビュン飛ばす姉を追いかけながら、水の底をよく見ている。
はこ。たる。ふくろ。つぼ。ぬの。
そういうものを持って帰ると、みんなが喜ぶ。
それをちゃんと覚えている。それから、自分たちの大事なやくめも。
『……しぁー。それ、ちがぅ』
いちばん後ろのミュシアは、ひたすら自由だった。
きらきらしたもの。まるいもの。へんな形のもの。
そういうものを見つけると、すぐ拾う。
まんなかの姉に注意されると、仕方なさそうに放り出し、小首を傾げる。
『たべもぉ……、ちがぁー?』
幼い三人の姉妹は、母の言いつけでおつかいの最中だった。
母が探してこいと言ったのは、にんげんの、たべもの。
三人は“たべる”が何なのかわかってない。
からだの中に、じぶんではないものを入れるなんて、へんだなぁ、くらいに思っている。
水の中より少し動きにくい、あの泡の丘に集まったにんげんたち。
彼らが欲しがるものを見つけて、持って帰る。
それが母から言いつけられた三人のおつかいで、遊びだった。
たべものは、そのままでは、まだ食べられない。
この世界にあるものはたいてい、母の力で黄金になっている。
きんきらは、きれい。
きんきらは、つよい。
でも、にんげんは、きんきらをたべられない。
だから、たべものっぽいきんきらを見つけたら持って帰る。
母のところへ持って帰れば、母がきんきらをほどいてくれる。
すると、にんげんがうれしそうな顔をする。
りぃやも、目をきらきらさせる。
母も、えらいぞ、と言って、あたまをパチャパチャしてくれる。
それが、すごくうれしい。
ミュルナが、三角屋根のおうちの中で大きな壺を見つけた。
両手で抱えるように掴んで、引っ張る。
黄金の壺は硬く、重い。けれど、水の中では持ち上がらないほどではない。
だって、ミュルナは一番最初に母に抱っこされたお姉さんだから。
『ミュルナ! みぃーっけた!』
だが、ミュリナがすぐ横から覗き込んで首を振る。
『メー、それも、たべもぉ、ちがぁー』
『みゅ?』
『からっぽ』
壺の中には、もう何も入っていなかった。水瓶だったのかもしれない。
黄金になっているから見た目ではわかりづらいが、ミュリナは中身の有無をきちんと見ていた。
母によく気がつく子だって褒められたから。
ミュルナが、ぷくーっと頬を膨らませる。
『むぅー』
その横で、ミュシアが家の中へ頭から飛び込んでいた。
窓の隙間から、ぴゃっと入っていく。
ほどなくして、彼女は丸いものを抱えて戻ってきた。
『しぁー! たべもぉ!』
袋だった。
大きさは彼女の胴体よりも少し大きい程度。口が縛ってあって、中身は見えない。
ミュリナは、固まった袋にヒレをぺとりとくっつけて、こんこん、と叩く。
『……ん。なんか、はいってぅ』
『んみみゃー!』
ミュシアが得意そうに袋を抱き締め、そのままふわふわ天井近くを漂う。
その姿を見て、ミュルナも負けじと別の家へ飛び込んでいく。
きらきらの椅子。きらきらの棚。きらきらの器。
そのあいだを泳いで、ごろごろとした塊を見つける。
『みゅぅいぃ! ミュルナ! みぃーっけた!』
それは丸いかたまり。おそらく、芋。
土のついたまま山積みにされていたものが、そのまま黄金の塊になっている。
ミュルナは両腕で抱えられるだけ黄金の芋を抱えた。
重たい。
けれど、えらいから持てる。
持って帰って、母に褒めてもらう。そしたら、もっとえらい。
かしこいミュリナは母から教わったことをちゃんと覚えている。
にんげんは、たべものを集めて置いておくのだ。
草みたいなもの。大きさの違ういろいろな瓶。つるりとした真ん丸。
きんきらの中から、たべものになりそうなものを見つけ出していく。
その途中で、ミュシアは金色の籠を被って遊び出し、ミュルナに怒られた。
『かぶぉーっ、かぶぉ!』
『ヤーッ! ミュルナたち、おしごと!』
『みぅー……』
しょんぼりしながらも、ミュシアはすぐに別のものへ興味を移す。
広くて深い水の世界は、子どもたちには刺激が多すぎた。
けれど、母の言いつけも忘れない。
まだ水が狭かったころに、母と過ごした場所の真ん中の深いところ。
母が湧き出してくる、ちょっと怖いところ。
あそこは、だめ。
ぜったいちかづくな。
ママがいった。
三人は、難しい言葉や理屈を理解しているわけではない。
けれど、母が本気で嫌がっていることだけは、ちゃんとわかる。
だから行かない。
ほんとうは、水の高いところまでギュンギュン飛んでみたい。
けれど、今はおつかいが大事。
そして、探し物はみんな、きんきらになって沈んでいる。
だから、三人できんきらの中を探す。
母に褒めてもらえるように。
りぃやが喜ぶように。
にんげんたちが、わあ、ってするように。
今日も三人は、水の底を飛び回った。
※※※※※
泡の丘へ戻ってきた時、朝の光はもう高くなっていた。
泡の膜に包まれた小さな陸地の中では、人々が慌ただしく動いている。
沈んだ世界のただ中にありながら、そこだけは辛うじて息をしている生活の場だった。
ミュルナ、ミュリナ、ミュシアは、獲物を抱えたまま、泡の中に飛び込む。
べちゃっと身体が重たくなる。
この泡の中は、水の中と比べて自由がきかない。ふわふわしづらい。
でも、ここには母がいる。母が待っている自分たちの“おうち”だ。
泡のおうちに帰ったら真っ先に母の気配を探す。
いた。
水の中じゃないのに、水そのものより鮮やかで、強くて優しい気配。
ミュルナたちのマァマ。
母――イズミールは、横たえられた“きこりやろぉ”のそばにいた。
きこりやろぉは、マァマのだいじ。
今は「痛い」になってる。
「痛い」が何なのか、ミュルナはよく知らないけど、「つらい」は知ってる。
こわくて嫌な黒いのが、母を「つらい」にしてたのを忘れてない。
たぶん、「痛い」は「つらい」と似てるもの。だったら、嫌い。
きこりやろぉの「痛い」も早くなくなるといいなぁとミュルナは思う。
母は、きこりやろぉに傍から離れないで、人間たちと何かを話している。
三人には、母の言っていることはもちろんわかる。
だって、マァマだから。
きこりやろぉの言葉も、なんかわかる。
母と魂を約しているからだと、三人は知らない。
ママのだいじだから、そういうものかなと思ってる。
でも、難しいことはわからない――まだ、子どもだから。
泡の中に水の幼子たちが飛び込んできたのを見て、人間たちの間で、小さなざわめきが広がった。
「ああっ、御子様方! 無事、お戻りになったぞ!」
「食べ物を……また持ってきてくださったのか……!」
「おぉ、なんと尊く慈悲深いことだろうか……」
誰かが胸の前で手を組み、誰かがその場へへたり込みそうになるのを堪えていた。
黄金に沈んだ世界の中で、三つの小さな水音が戻ってくること自体が、彼らにとって今日を生き延びられるという報せだった。
人間たちの言葉は、相変わらず細かな意味まではわからない。
けれど、声の調子や顔つきから、うれしい、こまった、こわい、くらいは伝わってくる。
だから、祈りが届くと手を振って応える。人間はそうすると喜んでくれる。
――三人はいつものように、真っ先に母めがけて飛んだ。
『まんまぁー!』
『みぃー!』
『みゃー!』
きこりやろぉにくっついていたマァマは大慌て。
『ひゃっふぅ!?』
三つの水音が弾けて混ざる。
獲物を抱えたまま、みんなでいっせいに母へ飛びつく。
ざぶん、と母の水に頭から突っ込んで、ばしゃりと顔を上げる。
イズミールは、わっとなって両腕をばたつかせて受け止める。
『お、おい、ちびども、ちょっ、こらっ!
落とす、瓶! 瓶割るな! あ、割れねえか……』
その声は本気で怒ってはいないって知っている。
ミュルナが真っ先に、黄金芋を掲げる。
ミュリナは抱えていた瓶をそっと見せる。
ミュシアは袋を抱いて踊り出した。
『たべもぉ!』
『ミュリナ、ちゃんとした!』
『んみぃ、いっぱぁ』
イズミールは、三人を見た。
それから、彼女たちの抱えているものを見た。
最後に、わずかに口元を緩める。
『……ちゃんと帰ってきたな』
ぶっきらぼうな声だった。
だが、すぐに続いた言葉は柔らかい。
『ミュルナ、ミュリナ、ミュシア、えらいぞ』
それだけで、三人の身体の中がふわっと軽くなる。
母が褒めてくれた。
えらい、って言った。なまえを呼んでくれた。
それだけで、うれしいでいっぱいになる。
ミュルナがいちばん先に、母の腕へ頭を擦り付ける。
ミュシアは脚へしがみつく。
ミュリナは少し遅れて、そっと腰へ抱きついた。
イズミールは、困ったような顔をしながらも、三つの頭を順に撫でた。
喧嘩しないように、順番はいつもばらばら。
『迷子にもならなかったし、ちゃんと形を覚えてたな。上出来だ』
水の指先は、柔らかくて温かい。
三人は気持ちよさそうに、もっと、と頭を押し付けつつ、母から水を吸う。
アイオリスは口を挟まなかった。
ただ、その光景を見つめる眼差しには、安堵だけではないものが滲んでいた。
この当たり前のひとときを、壊したくなかったから。
その横から、りぃや――リディアが駆けてきた。
りぃやのことは、ちゃんとわかる。
名前を貰ったからだ。
りぃやの声がすると、三人の水がちょっとだけうれしくなる。
「みんな、良かった……っ、すごい! またこんなに……!」
彼女の言葉は、三人には細かな意味まではわからない。
でも、心配した、うれしい、すごい、たすかる、という響きだけはわかる。
りぃやの嬉しさは、母へ向けられる祈りに少し似ている。
自分がちょっと増えていく感じがする。
おおきくてつよいは、えらい。だから、これもすき。
イズミールが、ミュシアの抱えてきた壺へ手を伸ばす。
『よし、まずは中身確認だな――ガチャの時間だ』
『がちゃ! がちゃ!』
『いっぱい……』
『ヤッフゥゥゥウア!』
きんきらをほどくのは、がちゃ。
ママがうれしそう。がちゃは、うれしい。
『騒ぐな騒ぐな。まだ当たりって決まったわけじゃ――』
『みゅー!』
『んっ』
『しぁー!』
指先が黄金の壺へ触れる。
金色の輝きが、そこだけふわりとほどけていった。
硬いきんきらが、土色の焼き物へ戻る。
布の口紐も元の色を取り戻し、蓋を開ければ、中には乾いた豆が詰まっていた。
『おお、当たりだな』
人間たちの間に安堵が広がった。
りぃやの目が、きらきらした。
ミュシアは、ママがほどいた! と跳ねた。
ミュルナも、自分の芋をほどいてほしくて、ぐいぐい押し出す。
「これ! これも! たべもぉー!」
『はいはい、わかったわかった、押すなって』
イズミールは次々と黄金をほどいていく。
芋が土色を取り戻す。
葉物がくたびれた緑へ戻る。
別の壺からは雑穀が出てきた。
あたり。
にんげんがよろこぶもの。
りぃやもよろこぶ。
ママも、よし、と言ってくれる。
ミュルナは得意気に芋を両手に、にんげんたちに見せびらかしに行った。
ミュシアは小鳥を追いかけ回している。
その一方で、ミュリナはじっと見ていた。
ほどく、ということ。
ママの水が黄金の表面にしみこんで、きんきらが元のものへ戻る、その動き。
自分たちは、まだできない。
持ってくることはできる。
探すことも、飛ぶことも、汚れを祓うこともできる。
けれど、この「ほどく」は、まだママだけのものだった。
きんきらをほどけたら、ママのいちばん?
ミュリナの視線に気づいたのか、イズミールが一瞬だけ彼女を見た。
『……よく見とけ。あとで教えてやる』
「ん」
ミュリナは小さく頷いた。
それだけで嬉しかった。
※※※※※
食料の仕分けがひと段落すると、アイオリスが上体を起こした。
イズミールがそっと支える。
まだ顔色は良くない。
背や肩の傷も塞がりきっていない。
それでも、彼は横になったままではいなかった。
リディアが、二人の傍へと寄った。
真面目な顔だ。
怖い顔でも、怒った顔でもない。泣きそうなのを我慢している顔だった。
子どもたちは、母の髪の中に溶け込みながら、自然と会話を聞いていた。
「……つまり、世界はまだ元通りにはならないんですね」
りぃやの声は震えていた。
ミュルナたちには、難しいことはよくわからない。
この泡のおうちの外の世界が、まだ困ったままだということだけ、なんとなくわかった。
きこりやろぉとマァマが、どこかへ行くらしい。
でも、マァマといっしょのお出かけは、きっとたのしい。
きこりやろぉもいっしょなら、りぃやもいっしょ。
ミュルナたちはもちろん、みんなで行くのだと思っている。
それなのに――どうして、りぃやはうれしそうじゃないんだろう。
「そうだ」
アイオリスの答えは短い。
「源流の側に残る魔樹を断たねば、水も黄金も退かせることはできない」
「そんな……」
リディアは俯いた。
バチャバチャと波打って渦巻く感情が、三人には伝わってくる。
けど、彼女はそれを飲み込んで、言葉には出さない。
「……それを、アイオリスさんが?」
「私とイズミールで、だ」
その答えに、リディアが顔を上げる。
「だって、怪我をしているんですよ?!」
その声は、悲痛で、でも、止めきれない者の声だった。
ここにいる誰よりも、今のアイオリスが無茶をしていると、リディアはわかっている。
それでも行かねばならない理屈まで、理解してしまった。
だからこそ、怒鳴ることも、泣き崩れることもできなかった。
リディアの感情が溢れたことを感じ取って、ミュルナはびょこんと母の髪の間から顔を出した。
『み……』
りぃや、こまってる。だーじょってしたい。
でも、マァマに、おとなしくっていわれてる。
「無茶だというのは、その通りだ。
だが、他に行ける者がいたとしても、私は行く……行かねばならない」
リディアの手が震えた。
彼女は、叫びたかったのだろう。
やめてください。
無茶です。
死にかけたばかりじゃないですか。
そう言いたい顔をしていた。
だが彼女は、魔術師として、理屈で感情を抑え込んだ。
「……わたしじゃ、足手纏いになってしまうんですよね……」
「すまないが、その通りだ」
「そして、龍神様にも、イズミール様にも、源流の向こうの魔樹には手が届かない」
「ああ、そうだ」
「……っ」
りぃやは、唇を噛んだ。
理解したくないのに、理解してしまった顔だった。
ミュルナは、りぃやのその顔が少し嫌い。
うれしい、じゃない。
いたい、つらい、とにてる。
マァマと、りぃや、きこりやろぉ。
だいすきと、だいじと、すきが、みんないるのに、うれしい、じゃない。
もっと、たべもの、あつめたら、よろこぶかな。
リディアは長い沈黙のあと、ようやく言った。
「……わかりました」
その声は小さい。
でも、逃げる声ではなかった。
「止められないなら……せめて、準備する時間をください。
アイオリスさん達に必要なもの。この泡の中の人達に必要なもの。
ミュルナたちにも、ちゃんと説明してあげてください」
「わかった」
アイオリスが言うと、リディアは、まだ泣きそうな顔のまま頷いた。
『おい、木こり野郎。あんまりその子に心配ばっかかけんなよ。
お前はいっつも言葉足らずなんだからな』
「リディア、皆を集めてくれないか。
私とイズミール様がこれから果たすべきことをきちんと伝えたい」
そして、泡の中が人々が続々と集まってきた。
ミュルナたちは、どんな遊びが始まるのかとわくわくした。
でも、はじまったのは遊びじゃなかった。
アイオリスの話を聞き、誰かが祈るように胸の前で手を組み、誰かは俯いた。
誰も口を差し挟まない。女神と聖者の言葉は、自分たちの明日を左右する。
だが、女神と聖者が行かねばならぬのなら、自分たちには止める言葉がないと、皆わかっている。
ミュシアには、ママや人間たちのやり取りの意味が半分も理解できなかった。
ただ、りぃやがここにいる。ママと、きこりやろぉが、どこかいく。たぶん、ながい。
そのことだけは感じていた。
なんとなく、いやな気分だった。
だから気を紛らわせるように、ミュシアは母の髪の中から飛び出した。
そのまま近くいた兵士の頭に取りついて。兜へ手を伸ばした。
「うわっ、み、御子様!? い、いけませんっ」
若い兵士は、この丘を守ってくれた、三人の小さな御子に崇敬を抱いている。
万が一にも害してはいけないと、身体を強張らせた。
周囲にいた兵士たちも、思わず半歩ほど身を引いた。
助けるべきか、触れてよいものか、その判断すらつかない。
小さな御子は、彼らにとって戦場で見たどんな相手より扱いに困る存在だった。
ミュシアには兵士の言葉がわからない。わかっていても気にしない。
今は、ちょっといやな気分の代わりが欲しいから、遊びが優先。
『んみぃ』
小さな手で鉄の兜をペチャペチャと触る。
丸いところ、出っ張ったところ。角ばったところ。
そのうち、兜の前面に付いた可動する板――面頬のような部品へ手を掛けた。
かちゃ。かちゃ。
上げる。下げる。
『かぶぉ! かぶぉー!』
面白い。
もう一度、上げる。下げる。
かちゃ、かちゃ。
その様子を、少し離れたところからイズミールが見ていた。
『おぉい、末っ子! 大人しくしてろって言ったろ! 兵隊さんが困ってるだろうが』
彼女の目が細くなる。
ミュシアは今度は、肩甲へと移った。
兵士の身じろぎにより、組み合わせた板金が、節ごとに少しずつ動く。
『みゃ、みゅ、みょー』
するすると腕を伝って、籠手や手甲をぺちぺち叩き、指を引っ張る。
まとわりつかれた兵士は、畏れ多いやら何らで気が気ではない。
兵士たちを取りまとめるカストールに助けを求める視線を送る。
しかし、女神とその御子に絶対に忠誠と献身を誓った彼には、御子の意思を妨げることができない。
イズミールがもう一度、ミュシアを呼びつけようとして止まった。
『ん。ちょっと待てよ……』
水色の視線が、兜、籠手、肩当て、その継ぎ目を順に走る。
黄金にした兜は、動かなくなっていた。
一つの塊として固まってしまい、道具としての機能を失っていた。
けれど今、目の前では、ばらばらの部品が、ちゃんと別々に動いている。
『……そうだよ、プラモだよ、プラモ!』
イズミールの口から、妙な言葉が漏れた。
彼女の言葉を聞き取れるアイオリスだったが、意味不明な言動だった。
「イズミール様、なんて仰ってるんですか?」
リディアがアイオリスに問うが、突飛すぎる発言は彼にも伝えようがない。
「いや、これは……」
イズミールはまだ兵士をいじっているミュシアを指差し、アイオリスに言った。
『ギュゲスを呼んで来い! ばらせばいいんだよ!』
「……は?」
『鎧だよ、鎧! いっつも思ってたんだ、そんな装備で大丈夫かって。
そうだよ、丸ごと黄金にするから関節がくっついて固まっちまうんだ。
パーツごとに分解して、黄金にして、あとで繋ぎ直せば可動は残るだろ』
あまりにも唐突な発言に、アイオリスは困惑した。
だが、黒禍を寄せ付けない女神の黄金を身に着けて動けるならば、心強い。
聖者を通して伝えられた女神の言葉に、その場の誰もが一瞬、何を言われたのか分からず黙り込んだ。
壊れた鎧をばらす。黄金にする。繋ぎ直す。
言葉の意味は追えても、それが本当に成り立つのかまでは、すぐには飲み込めない。
だが、その沈黙を最初に破ったのがギュゲスだった。
大工である彼には、武具そのものよりも、部品と構造の話として響いたのだろう。
「……なるほどな。固めた後に組み合わせる分には、いける。
革紐なんかは固めずに使えばいいんだ。
いけるぞ、こりゃあ。すげえや――こいつは他にも使えるかもしんねぇ!」
ギュゲスは前に女神から向けられた親指を立てる仕草で応じる。
「イズミール様、ギュゲスは、できると申しています」
『よし、いいぞ! ギュゲス! アイオリスに一番いい装備を頼む!』
イズミールが同じ仕草を返すと、アイオリスは僅かに眉を顰めた。
ギュゲスは、自分が指名されたことを察したらしく、胸を張った。
「聖者様よぉ、あんたの装備を用意しろってことで良いんだよな?」
「ああ」
カストールが、口髭に宛がっていた手を降ろして頷く。
「聖者殿の体格に合う装備を集めましょう。
黄金にするのであれば、壊れたものも含めて、活かしようがあるでしょう」
リディアの目にも、理解の光が灯った。
「イズミール様の黄金なら、浸蝕を防げる……それなら、少しでも戦いの役に……」
ミュシアは、よくわからないまま得意げだった。
かちゃかちゃ遊んでいただけなのに、ママの水がぐっと動いたからだ。
ミュルナとミュリナも負けじと飛び出して、自分も役に立てると主張する。
『マァ! ミュルナも!』
『ミュリナ、ちゃんと、できぅ』
『だぁめ、細かい作業だから、お前らにはまだ早い。邪魔しちゃ駄目だからな』
ママの言いつけは、ぜったい。
でも、三人はぷくーっと膨れた。
カストールが部材を集め、ギュゲスが分解し、リディアはバラされた部品を整理する。
イズミールがそれを黄金化し、組み合わせてみて噛み合いが悪いと、元の鉄に戻す。
その光景は、ミュルナたちには大きな遊び場のように見えた。
でも、母も、リディアも、アイオリスも真剣な顔をしていた。
三人は少し離れた場所でそれをじっと見ていた。
母が鉄を黄金に変えたり、ほどく様をじっと見つめていた。
※※※※※
準備は、思っていた以上に早く進んだ。
早く進めようという焦りが、泡の丘じゅうに満ちていたからかもしれない。
――女神と聖者が旅立つ。
それは不安でもあったが、同時に、この沈んだ世界がまだ終わっていないのではなく、これから終わらせに行くのだという初めての実感でもあった。
「副隊長、これを」
「聖者様、俺のも使ってください!」
「城の鎧鍛冶の手伝いをしていました、少しはお役に立てるかと」
兵士たちは、まるで我先にとでもいうように装備を差し出した。
壊れたものでも構わないとわかれば、なおさら遠慮はなくなった。
自分の持ち物が聖者の命を少しでも守るなら、その方がよい。
そんな切実さが、泡の丘のあちこちから滲んでいた。
ギュゲスは持ち寄られた部品を、ひとつひとつ分解し、洗い、並べ、組み合わせを考えた。
カストールは大きさの合うものを選び、足りない箇所を埋めるために別の部材を寄越した。
リディアは部品の整理と管理を申し出た。
バラバラになった部品に御子たちが興味を惹かれて、遊び始めた時、止められるのは女神と彼女しかいない。
アイオリスは、その中心で、黙って座っていた。
傷があるし、熱もある。
だが、自らが身に着けるものだ。
試作された防具を、受け取り、身体や動きに合うかを都度確かめた。
三人はその周りを飛び回り、時に邪魔をしてしまうこともあったが、概ね大人しくしていた。
そして、鎧が形になっていく。
兜。
胸甲。
肩当て。
籠手。
脛当て。
腰の垂れ板。
一揃いではない。
意匠も違う。
だが、黄金の輝きに統べられることで、それらはひとつの鎧に見えた。
きこりやろぉに、きんきらのかたくてつよいやつになった。
たぶん、とてもえらい。ママのつぎくらい。
三人は何となく胸を躍らせた。
ママがやった。
きこりやろぉが、だいじだから、つよくした。
けれど、準備が進めば進むほど、別のこともはっきりしていく。
きこりやろぉが、どこかへいく。
ママも、いく。
きこりやろぉと、いっしょに。
ここにいなくなる、ながいあいだ。
おうちにかえっても、ママがいない。
それは、よくない。
ミュルナが、最初に気づいた。
次にミュリナが、静かに気づいた。
ミュシアは少し遅れて、空気の変化に気づいた。
そして、でき上がった黄金の鎧を着たアイオリスを見た時――人間たちの間に張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
「おお、本当に黄金なのに動いて……」
「女神様が聖者様の為に、御知恵を……」
「聖者様、どうか御無事で……」
声にならない安堵が、泡の丘にうっすらと広がっていく。
アイオリスは、居並ぶ人々を見回して言った。
「皆の協力に感謝する……必ず戻る」
誰も歓声は上げなかった。
代わりに、いくつもの祈るような沈黙だけが、泡の丘に広がった。
カストールは黙礼し、ギュゲスは歯を見せて笑った。
リディアは泣きそうな顔をして、目を背ける。
そして、イズミールはただ、アイオリスの横顔を見上げていた。
何も言わないのに、水の奥だけが、ざわざわと揺れているようだった。
その顔を見た時、三人はようやく、みんなが何かを決めてしまったのだと気づいた。
人々が安堵したのは、旅立てる支度が整ったからだ。
それはつまり、ママが本当に行ってしまうということでもあった。
――三人は、いっせいにママへ飛びついた。




