110.往きて帰る旅路(後編) ◇★△
『――汝らが必ず帰るために、吾ら八海が差し出すものだ』
ノジャロリ様の掌から現れた八つの珠が、私とイズミールの前に浮かんでいた。
小さな水晶球の内には水が封じられている。
だが、そこから感じるのは、大いなる海の気配だった。
私は無意識に胸元へ手を触れた。
現実の身体なら、そこには泉の瓶がある。私とイズミールを繋ぎ続けてきた、小さなガラス瓶だ。
その仕草を見たのか、ノジャロリ様は青白い瞳を細めた。
『これは汝らの番の証たる瓶と、似たようなものと思え。
吾らの海へ踏み入り、源流へ通ずる門を越えるための証となる』
「……似たようなもの?」
イズミールの声が低くなる。
「じゃあ、ただ同じじゃねえんだな。まだ何かあるんだろ」
『然り』
ノジャロリ様の視線が私へ向く。
『キコリヤロウ。汝は、人の身で再び源流の内へ赴く。
魂約を成し、一度はそこより帰った。
されど、同じ帰還が幾度も叶うなどと、安易には望めぬ』
「承知しています」
あの暗い水の向こうへ落ちていった感覚を、私は忘れていない。
背を押してくれた何者かと、イズミールの手がなければ、今ここにはいなかった。
『ゆえに、吾らはこの珠へ、もう一つの縁を込めた』
「……もう一つ?」
『――汝の番が源流に呑まれ、命運が尽きようとしたならば、吾らが命を以て、汝をすくいあげる』
白い世界が、音を失った。
先ほどまで海そのものに見えた珠が、今は八つの命に見える。
「……は?」
隣で、イズミールの水がかすかに弾けた。
「今、何つった」
『キコリヤロウの命運が尽きようとしたならば、吾ら八龍のうち一柱が、その定めを代わりに引き受け、源流へ還る』
「還るって……それ、死ぬってことだろ」
『人の子の死と、吾らが源流へ還ることは同じでは――』
「帰って来ねえなら死んだのと一緒だろうが! 御託はいい!」
イズミールの怒声が白い世界を打った。
足元の水面が大きく震え、波紋が龍珠の光を乱す。
「代わりに死ぬとか、さらっと言ってんじゃねえ!
残機八つあるから余裕だろってか!? ゲーム脳かよ!」
『げえむ、のう……?』
「自分の命を保険扱いすんなってことだよ! 重たすぎんだろ!」
私は思わず彼女を見た。
私が仕損じれば、古い海の主が一柱、消える。
『まだある』
「……まだ何かあんのかよ」
『吾らが源流へ還れば、その龍の預かっていた海は主を失う』
龍神は瞳を僅かに伏せ、続けて言った。
『――ゆえに、龍珠は同時に、その海を九つ目の海へと託す契りでもある』
イズミールの動きが止まった。
「……俺に?」
『左様。源流へ還った龍の預かっていた海と、そこに属する水を統べる権は、汝へ譲り渡される』
しばしの沈黙の後、イズミールが低く呟く。
「……ふざけんなよ」
その声は掠れていた。
「こいつが死にかけたら、お前らの誰かが代わりに死ぬ。
その上、その海は俺が面倒見ろって?
そんなもん、覚悟とか譲るとか、お綺麗な言葉で誤魔化すんじゃねえ!」
『汝が番を失いたくないように、吾らもまた命を惜しまぬわけではない。
されど、己が命を賭さぬ者が、他者の番へ命を賭けよと請うことは出来ぬ』
ノジャロリ様の声は静かだった。
イズミールは悔しそうに唇を噛んだ。
その理屈を、ただの綺麗事だと切り捨てられないのだろう。
私もまた、すぐには言葉を出せなかった。
彼らは私のために死を望んでいるのではない。私へ行けと頼むため、自らも死ぬ側へ足を置いたのだ。
その覚悟を、軽々しく拒むことは出来なかった。
「……私は、受け取ります」
私が言った瞬間、イズミールが振り向いた。
「おい!」
水色の瞳が、怒りと不安を露わにする。
「何聞いてたんだよ! お前が一回ヘマしたら、どれだけのもんが――」
「分かっている。
これがなければ、私たちは向こうへ行けない。君も、私と共には来られない」
イズミールが言葉を失う。
「ですが、あなた方の命を借りるつもりはありません」
私は龍神へ向き直る。
「あなた方のうち、一柱たりとも私の身代わりにはさせない。
あなた方の海も、イズミールへ押し付けさせはしません。
お預かりするこの八つの珠は、すべてあなた方へお返しします」
「そうだ!」
イズミールが勢いよく私の隣へ並んだ。
「こいつの命に、お前らの命まで勝手に括り付けんな!
失敗した時の後始末までこっちに寄越すようなクソ機能、ありがたがって使うと思うなよ!
海の主だか何だか知らねえけどな、自分の海くらい自分で管理しやがれ!
俺はお前らの後釜に収まる気なんかねえぞ!」
ノジャロリ様は、しばらく黙ってイズミールを見ていた。
呆れているような、可笑しそうな、それでいて少しだけ眩しそうな顔だった。
『……汝らは、まことに若いな』
「またガキ扱いかよ!」
『命を賭ける道へ赴きながら、己も、番も、吾らも、海も、一つとして失わぬと申す。
それは覚悟というより、欲深き強弁、無謀というべきものであろう』
「悪いかよ」
『悪くはない』
龍神は静かに笑った。
小さな少女の姿で笑っているだけなのに、どこか遠い海が満ちていくような気配がした。
『吾ら古き海は、失わぬために己を閉じ、長く水底で澱み続けた。
その吾らに、何一つ失わず勝ってみせると荒ぶる幼き水が流れ込んできた』
「好きで流れ込んだわけじゃねえ」
『――ならば、やってみせよ。
八つの珠を一つたりとも砕かず、吾ら八海を一つたりとも欠けさせず。
キコリヤロウを生かし、汝もまた無事に戻り、源流を侵す黒き根を断ってみせよ』
イズミールはしばらく言葉を返さなかった。
怒りも、不満も、恐怖も消えてはいない。
けれど、その中で何かが静かに定まったのを感じた。
「……言われなくても、そうする」
『よい返答だ』
「いちいち褒めんな。逆に腹立つんだよ」
『吾もまた、永らえねばならぬ理由が生まれた』
「あ?」
『汝のような騒がしく幼き水に、海の主とは如何なるものかを教える務めが生じた』
「あぁ!? 勝手に後方指導者面してくんな、この、のじゃロリ!」
『そう容易く時化るでない。それこそが、まだまだ幼い証であろう』
「お前ほんっとムカつくな!?」
怒鳴るイズミールの隣で、私は思わず小さく笑った。
「何笑ってんだよ、木こり野郎!」
「いや。君が、ノジャロリ様と随分親しくなったと思っただけだ」
「なってねえ! こいつはどう見ても上司ガチャハズレ枠だろうが!」
『がちゃ……?』
八つの珠が、首飾りの形を取って私の前へ降りてくる。
私は両手でそれを受け取った。
指先に触れた瞬間、遠い海鳴りが聞こえた。
八つの海が、今。私の掌の中にある。
力を得たとは思わなかった。
ただ、預けられたのだと思った。
私が生きて帰ることを願い、そのためなら己が消えることさえ受け入れた者たちの水を。
私の命は、もう私一人の覚悟で使い果たしてよいものではない。
イズミールの願いも、八つの海の覚悟も預かった以上、なおのこと死ぬわけにはいかなかった。
「……必ず、お返しします」
『うむ』
イズミールは、世界を救うために生まれた女神ではない。
怖いと喚き、嫌だと怒鳴り、押し付けられた責任には盛大に悪態を吐く。
それでも今、彼女は私だけでなく、八つの海の命まで、生きて戻るべきものの中に数えている。
私は、そんな彼女を愛しているのだと、改めて思った。
※※※※※
『――おい』
不機嫌そうな声に、私は現在へ引き戻された。
小舟は巨大な泡に包まれたまま、黄金に沈んだ水の中を飛ぶように進んでいる。
泡の外では、道も、家々も、森も、すべてが金色の静寂に閉じ込められ、青暗い水の向こうへ流れていった。
私の胸元には、鎧の下からわずかに伝わってくる八つの珠の重みがある。
傍らには黄金の斧。腰には泉の瓶。
そして、舟の中には水色の姿をしたイズミールが立っていた。
長い髪は水の流れのように揺れ、耳元のヒレが不満そうに小さく震えている。
眉間へ皺を寄せてこちらを睨む表情は、神々しい美貌よりも、どうにも愛らしさの方が勝ってしまう。
「少し、思い出していただけだ」
『どうせ余計なとこ思い出してたんだろ』
「君が、私だけでなく、八つの海の主まで生きて帰すと言ったことを」
『あれは業務目標だ! 全員生還、無事故無損失!
あと、お前への返事とか、勝手に紐付けんなよ!』
「だが、帰らなければ返事は聞けない」
『――っ! ……今ので減点! 返事は五十年保留だからな!』
「五十年も君の傍にいられるなら、私には喜ばしい」
『無敵かお前は!』
泡の膜が小さく震えた。
私は思わず笑い、左肩の奥に鈍い痛みが走って、眉を僅かに寄せる。
その変化を、彼女は見逃さなかった。
『……おい』
「何でもない」
『何でもない顔じゃねえ。痛ぇんだろ』
「今のところは問題ない」
『お前の“問題ない”は、大体問題ありなんだよ!』
イズミールが、ふわりと私の目の前まで迫ってきた。
水の身体なのに、甘やかな香りが漂ったように感じられ、思わず目を逸らす。
『――よし、休憩だ』
「まだ進めるのでは」
『進めるかどうかじゃねえ。俺が休めって言ってんだ』
「しかし、源流に残る魔樹は――」
『逃げねえよ! 引き籠ってるから厄介なんだろうが!
お前が本番で使い物にならなくなる方がよっぽど困る。傷見せて、飯食って、寝ろ!』
私は黙って頷いた。
泡が進路を変え、黄金の大地の向こうに小さな集落が見えてくる。
低い木造の家々。小さな井戸。道端へ倒れた籠。開きかけた扉。
すべてが黄金へ変じ、音もなく水の底へ沈んでいる。
人も動物も見えない。
イズミールは、水色の瞳を細めていくつもの家を順に見た。
『……あの家なら誰もいねえ。黒いのもなし』
「分かるのか」
『……分かるようになっちまったんだよ。良いんだか悪いんだかな』
その声は少し沈んでいた。
舟を包む泡が、一件の家へと降りて近付くと、泡が広がって家ごと包み込んだ。
続いて、黄金の輝きが壁や床、棚の壺から淡くほどけ、その家だけが古びた木と土の色を取り戻し、泡の内側に小さな生活の空間として蘇った。
小舟が床へ着くと、イズミールは先に家へ降り立った。
『まず鎧外せ。傷見る』
私は斧を壁際へ置き、黄金の鎧を一つずつ外していく。
胸甲、肩当て、籠手、垂れ板。異なる鎧から組み合わされたものだが、関節を覆う箇所は動きを妨げず、金属部品の合間を革紐や布が繋いでいる。
鎧が外れると、左肩から背へ巻かれた包帯が姿を見せた。
まだ熱が籠もり、動けはするが万全ではないことを、自分自身が一番よく分かっていた。
『ほら見ろ……やっぱり血が滲んでるじゃねえか』
「すまない。背中側だから見えない」
『後ろにも目をつけるんだよ! ……痛い時は痛いって言え』
「今、君が見てくれている」
『あー! もういい、黙ってろ。傷口と包帯、洗うぞ』
イズミールの指先から、細い水の膜が伸びた。
冷たすぎない穏やかな水が包帯へ染み込み、傷口を浸して浄化していく。
痛みと熱が、わずかに遠のいた。
『沁みないか? 痛くねぇか……?』
「いや……気持ちが良いな」
『へ、変な言い方すんな、気色悪ぃ!』
彼女は顔を背けた。
『……飯探すぞ。食ったら寝るんだからな』
台所らしい場所へ逃げるように去っていく背中を見て、私は思わず微笑んだ。
台所を探っていたイズミールが、ひとつの壺の蓋を開けた。
『お、芋。こっちは干した菜っ葉か。煮れば食えるだろ、たぶん。
塩と粉、舟に持ってきてたよな。取ってこい。ただし鎧を着直すな。斧も持つな。返事!』
「承知した」
舟から塩と雑穀粉を持って戻る頃には、イズミールは更に別の食材を見つけ出し、鍋も椀も、横になれる場所まで見つけていた。
「どーよ、この成果! 圧倒的じゃないか、わがガチャ運は!」
得意げな表情で集めた品々を誇るイズミール。
食べることも眠ることも必要のない身でありながら、彼女は私のためだけに手を尽くしてくれた。
私は申し訳なさより先に、ただ幸福を覚えてしまった。
私は言われるまま、芋や野菜と雑穀を煮た。
決して豪勢な食事ではない。
だが、温かな匂いは、長く水の底を進んできた身体を思った以上に緩ませた。
イズミールは食卓の向かいへ腰を下ろし、じっと私の匙の動きを見ている。
「……食べづらいのだが」
『物食うって、どんな感じだったのか思い出そうとしてただけだ』
「……君は、本当に食べられないのか」
『お前がお供え物に置いてったやつで試したけど、味も感じねぇし、そもそも噛めなかったしな』
「そうか……食べようとしてくれていたのか」
『お、お前が生ものなんか置いていくからだろうが!』
泉へ供えたプルヌスの実を思い出した。
あれは、食べようとして受け取ってくれていたのか。
「イズミール」
『……何だよ』
「とても美味い。君が傍にいるから、なおさらだ」
『……』
イズミールが無言になり、頬が僅かに揺らぐ。
それから勢いよく顔を逸らした。
『食ってる時までそういうこと言うな! 三十回、いや、百回噛んでから飲み込め!』
私は幸せを噛み締めるつもりで、咀嚼に専念することにした。
その間、彼女は所在なげに視線を彷徨わせていたが、私の傍から離れる気はないらしい。
やがて、イズミールの視線が卓上の泉の瓶へ止まった。
『……なあ』
「どうした」
『あののじゃロリ、元はクソデカ龍だったんだよ』
「そうだったらしいな」
『それが、あんな小さい姿になって、服までホイホイ変えられた』
「君が随分と細かく注文を付けたと聞いたが」
『そこは今どうでもいいんだよ』
イズミールが瓶へ近づく。
その顔に、妙な光が宿っていた。
『……なら俺だって、もっと小さい姿にもなれるんじゃねえのか』
「……イズミール」
『瓶、ちょっと貸せ』
銀色の彼女が言っていたことを思い出す。
イズミールは突拍子も無いことをする、と。
「……嫌な予感しかしないのだが」
『いいから! 割ったりしねえし、変なこともしねえよ! たぶん!』
だが彼女は既に瓶の前へしゃがみ込み、水色の指先を古いガラスへ触れさせていた。
その瞬間、私の目の前にいたイズミールの身体が、ふっと輪郭を崩す。
「イズミール!」
『大声出すな! ちょっと引っ越すだけだ!』
彼女を形作っていた水が、ばしゃりと床へ零れ落ちた。
何度見ても肝が冷える光景だった。
瓶の中の水が青白い光を放ち、渦を巻く。
小さな泡がいくつも生まれ、弾け、その中心で水の筋が集まっていく。
丸みのある小さな顔。大きな瞳。短くまとまった手足。長い水色の髪。枝のような角と耳元のヒレ。
やがて、瓶の中に小さなイズミールが現れた。
髪や肌、衣にも色があり、輪郭は丸く簡略化され、頭身も縮んでいる。
それでも身体の線だけは普段の彼女の主張を失わない。
小さく、愛らしく、ひどく無防備で――それでも、紛れもなくイズミールだった。
私は匙を持ったまま固まってしまった。
『……よっしゃ! 出来たァ!
どうだ。完璧だろ。ちゃんと見えるし、動けるし、喋れるぞ! 俺、割と天才じゃね?』
「……」
『おい。何で黙ってる』
「驚いていた」
『変か?』
「いや。とても、可愛らしい」
『はァ!?』
イズミールが瓶の中でよろめいた。
『そこかよ! もっとこう、実用的だとか、画期的だとか、あるだろ!』
「実用性、とは……」
『見りゃ分かるだろ! この完成度! デフォルメって難しいんだからな!
瓶に入れたまま持ち運べる、最新鋭の携帯型イズミールさまだぞ!』
彼女は得意げに瓶の内側で跳ねてみせた。
そのたび、瓶の中でぽよんと揺れる。
私は、つい視線を逸らした。
可愛らしい、だけでは済まないものがあった。
『おぉい! 今、何で目ぇ逸らした』
「……その方が良いと思った」
『何だよそれ……』
彼女が小首を傾げる。
その仕草すら、無闇に愛らしい。
私は咳払いをして、食事へ視線を戻した。
「それで……それは何のための実験だったんだ」
『ああ、それな』
イズミールはすぐに胸を張り直した。
『――これなら、俺も一緒に源流側へ入れる』
私は即座に匙を置いた。
「何を言っている――」
『瓶に入ってれば、源流に溶けて混ざらないで済むだろ。
こうやって中に身体を作れば、俺も現場に行ける。瓶越しに手探りで支援するより、何倍もマシだ。
だから、俺もこの中に入って一緒に行く』
瓶越しに見える小さなイズミールは、あまりにも無防備に見えた。
その愛らしさが、今は無性に腹立たしかった。
「駄目だ」
『……は?』
「そんなことは許さない」
『何でだよ! お前、俺を置いて行かないって話、したばっかだろうが!
これなら一緒に行けるんだぞ!』
「それとこれとは話が別だ。君自身を、源流へ連れて行くなど認められない」
『意味分かんねえ! 瓶が割れたらヤバいからって言いたいのか!?
だったら言わせて貰うけどな、お前だって、これが無きゃ呼吸も浄化も出来ねえんだぞ!
これが割れたら、のじゃロリどもの珠があったって助かるか分かんねぇだろうが!
だったら、俺が中に入ったところで変わんねぇよ!』
「同じではない」
『何が違うんだよ!』
「――私の命綱が砕けることと、その中で君が失われることを、同じ危険として数えるな」
イズミールが、ぴたりと動きを止めた。
「瓶が失われれば、私も帰れない。それは分かっている。
だが、君が源流へ溶けるかもしれないと知りながら、君を胸元へ抱えて向かうことになる」
『……』
「私が死ぬことなら、私自身の覚悟で背負える。
だが、私の手の届くところで、君が失われることを、同じ覚悟の中へ簡単に並べるな」
しばし沈黙が落ちた後、小さな拳がぎゅっと握られた。
『……お前だけが、怖がっていいみたいに言うな』
「イズミール」
『俺だって嫌なんだよ』
彼女の声が震えた。
『瓶越しに、お前の応えが返って来ないのは、もう嫌なんだよ……。
呼んでも返事がなくなって、瓶だけ返ってきて……俺が、平気だとでも思ってんのか!』
瓶の中へ、ぽたりぽたりと小さな水滴が落ちる。
『あんなの……もう二度と御免だ。嫌だ。絶対に嫌だ。
危ないから来るな? お前が戦うのを、大人しく待ってろ?
ふざけんな。俺にだって、お前を見て、守って、引っ張って帰る権利くらいあるだろ』
私は言葉を失った。
彼女が危険を知らず、思いつきだけで同行しようとしているのではないことは分かっていた。
それでも私はどこかで、彼女を待たせることを当然のように考えていたのだ。
私が赴く。私が伐る。私が帰る。
その間、彼女は安全な場所で待っていればいいと。
それが彼女にとってどれほど残酷なことかを、分かっていたはずなのに。
「……すまない」
『謝って済ませようとすんな!』
「済むとは思っていない」
『だったら――』
彼女は、そこで言葉を止めた。
瓶の内側からこちらを見上げる。
私がまだ、目を合わせ切れていなかったからだろう。
『……何だよ』
「何がだ」
『お前、さっきから、ちゃんとこっち見ねえじゃねえか』
「それは……」
『俺がこの中にいるのが、そんなに嫌かよ』
「違う」
『じゃあ何だよ! 可愛いとか言っておいて、こんなちっこいんじゃ役に立たないとか思ってんのか?
それとも……やっぱ、気持ち悪いか? それに、そもそも、俺は――』
彼女の声が、一瞬詰まる。
『……俺は男だったんだし』
「……」
『お前が思ってるみたいな、可愛い女でも、守られて嬉しい女でもねえ。
今だって、たまたま身体がこうなってるってだけで、俺の中身は――』
「知っている」
私の声は、自分で思ったより強く出た。
イズミールが、びくりと身体を震わせて黙り込む。
「私は、君が男だったことを忘れていない。
それを無かったことにして、君を欲しいと言ったつもりはない」
『じゃ、じゃあ……何だよ』
瓶の中で、イズミールの声が小さくなる。
私は、息を吸った。
これまで、言うべきではないと思っていた。
彼女を困らせるだけだと思っていた。
彼女が自分自身の在り方に戸惑っているのに、私の欲望まで突き付けるべきではないと。
だが、彼女は私の傍へ来ようとしている。
自分の身を、私が抱える瓶の中へ預けてまで。
その彼女が、私を何も感じない聖人のように考えているのなら、それはあまりにも酷い。
「――君が男だったのなら、私のことも少しは分かってくれ」
『……な、何を』
「私も男だということをだ」
イズミールの大きな水色の瞳が、限界まで見開かれた。
『……は?』
「すまないが、私には、やはり君は女にしか見えない」
『……っ』
「今、その小さな姿になった君だけを言っているのではない。
あの泉で初めて君の姿を見た時から、私は君を美しいと思っていた」
『お、おい……』
「水底から私を引き上げ、息を戻してくれた時も。
私を抱えて運んでくれていた時も。
治療に付き添って、額へ触れてくれた時も」
『待て。待て待て待て』
瓶の中で、イズミールの身体が見る見る縮こまる。
『あ、あれはお前が死にかけてたからで! 別にそういう、変な意味でやったんじゃなくて!』
「分かっている」
『分かってるなら言うなよ!』
「分かっているから困っている」
私は初めて真正面から彼女を見た。
小さな瓶の中で、彼女は青白い水に包まれている。
可愛らしい姿に変じても、その面影は何も薄れていない。
むしろ、無防備さばかりが浮き彫りになっている。
「君にそのつもりがないことは分かっている。
だが、君は私へ無造作に近付いてくる。
心配だからと顔を寄せ、傷を見るからと触れ、運ぶためだと抱き締める」
『……』
「どんな姿になっても、君は君のままで、愛らしく、美しく、ひどく危うい。
私がこれまで、どれほど自制心を試されてきたか、分かっているか?」
イズミールは瓶の底で完全に固まっていた。
「君が男だったというのなら、いい加減、分かってくれ。
君の姿はあまりにも目を引く。その上、繊細で、優しく、面倒見が良すぎる」
『……お、お前』
イズミールの声が、ひどく掠れた。
「好いた女に、こうも無防備に近付かれて、何も欲さず、心を乱されずにいられるほど、私は出来た男ではない」
長い沈黙が落ちた。
やがて、彼女の小さな腕が、胸元を隠すようにぎこちなく寄せられた。
『……お』
「イズミール」
『……お、お前がっ、か、勝手に盛ってるだけだろうがァ……っ!』
瓶の中から、裏返った叫びが響いた。
「そうだ。私が勝手に、君へ欲を抱いている」
『認めんなよ!』
瓶の中の水が、ぼこぼこと細かな泡を立てる。
『そこはっ……もっと、否定するとか、誤魔化すとかあるだろうが!
何でそんな真正面から認めるんだよ!』
「嘘を言えば、君は安心するのか」
『……っ』
イズミールが言葉に詰まる。
嫌悪しているのではない。
怒っているのでもない。
彼女は、ひどく恥ずかしがっていた。
そのことが分かってしまった瞬間、胸の奥に生まれた喜びを、私は戒めねばならなかった。
彼女はまだ、私へ答えをくれたわけではない。
困らせたいわけでも、追い詰めたいわけでもない。
「……すまない。君を怖がらせたいわけではなかった」
『……べ、別に、怖がって、ねえし』
「嫌だったか」
『……』
彼女は答えなかった。
やがて、イズミールは瓶の底へぺたんと座り込み、長い髪を水の中へ広げて、こちらへ背を向けた。
『――今日は、ここにいる』
「その瓶の中に?」
『悪いかよ』
「私はまだ、君を源流へ連れて行くことには同意していない」
『お前の同意が必要だなんて、俺だって認めてねえからな。
それに、運用試験だ。このサイズで何時間いられるかとか、瓶の中からどんな風に力を使えるかとか、確認が要るだろ』
「有効だからというだけでは、認められない」
『うるせえ! あと……』
彼女の声がさらに小さくなる。
『……ここに入ってりゃ、お前が盛っても手ぇ出せねえだろ』
恥ずかし気にそんなことを口にするのは反則だと思う。
彼女は、私が自分へ欲を向ける男だと知った。
自分の身体が、私の目にどう映っているかを知らされた。
それでもなお、私の傍に残ることを選んだ。
本当に、どうかしている。
彼女の危惧する通り、理性を踏み外してしまいそうになる。
「それでも、傍にいてくれるのだな」
『……ここが一番安全なだけだ』
「私も、そう思う」
『どういう意味だよそれ! 気まずくなるだろうが!』
瓶の中で、小さなイズミールが膝を抱え込んだ。
その仕草がまた愛らしく見えてしまい、私は慌てて視線を食卓へ戻す。
『……おい』
「何だ」
『ちゃんと食え。さっさと寝ろ。余計なことはもう言うな』
「君の傍では、平静でいることが難しい」
『何でいちいち、こっちが恥ずかしくなる言い方するんだよ!』
私は小さく笑った。
どうやら、私の心は満更届いていないわけではないらしい。
イズミールは瓶の中で盛大に泡立った。
※※※※※
食事を終え、私は黄金の鎧を枕元へ纏めた。
斧は手の届く場所へ置く。
八つの龍珠は首飾りのまま胸元に残した。
その重みは、横になっても消えない。
泉の瓶は、寝台のすぐ傍に置いた。
中では、小さなイズミールがまだこちらへ背を向けている。
けれど、私が動くたび、耳元のヒレがぴくりと揺れる。
こちらを気にしていることは明らかだった。
『……傷、まだ痛むか』
「少しは」
『強がるなよ』
「君に隠し通せるとは思っていない」
『……そうかよ。ならいい』
イズミールの小さな手が、瓶の内側から持ち上げられた。
その動きに合わせるように、瓶の水が淡く輝き、傷口の周囲へ薄い水の膜が寄り添う。
痛みが、少しだけ和らいだ。
「瓶の中からでも、出来るのだな」
『当たり前だ。俺を誰だと思ってんだ』
「私の愛するひとだ」
『今それ言う必要あったか!?』
「必要だから告げる言葉ではないだろう」
『……っ、いいから早く寝ろ!』
「ああ」
私は枕元の瓶へ目を向けた。
中では、小さなイズミールが、こちらへ背を向けたまま膝を抱えている。
だが、耳元のヒレだけは、私の息遣いを気にするように揺れていた。
「おやすみ、イズミール」
傷の痛みはまだある。
源流へ赴く恐怖も、八つの海から預かった命の重さも消えてはいない。
それでも、今は一人ではなかった。
彼女は私を愛しているとは、まだ認めてくれてはいない。
私への答えも、帰った後にしかくれないという。
それでも、傍にいてくれる。
それだけで、今夜は十分だった。
微かに響く水音を傍に感じながら、私は眠りへ落ちていった。
『……おやすみ、アイオリス』




