109.往きて帰る旅路(前編) ◇★
5/24 龍珠に関する説明を修正しました。水の珠→水晶(?)の珠
小舟は、水の底を走っていた。
帆はない。櫂を漕ぐ者もいない。
船腹を叩く波も、頬を撫でる風もなかった。
舟そのものを丸ごと包み込んだ巨大な泡が、青暗い水の中を、矢よりも速く突き進んでいる。
泡の向こう側では、黄金色の景色が流れていく。
家々が、畑が、道が、森や山までもが、すべて眩い黄金となって、水底に沈んでいる。
動くものは何もない。
枝葉は揺れず、草原はなびかない。
人も動物も、逃れようとした姿のまま、黄金の時に閉じ込められていた。
どれほど美しく輝いていても、それは祝福の光景ではない。
――世界は、いまだ沈んだままだ。
私は小舟の舳先に腰を下ろし、泡の膜越しに、水底の光景を見ていた。
左肩と背の傷は消えたわけではない。
白い世界では遠のいていた痛みも、現実へ戻った今は、確かに肉の奥へ残っていた。
立てないわけではない。
それでも、腕を動かせば鈍い痛みが走る。
身体を覆う鎧が、泡の内側を満たす淡い光を受け、鈍く黄金に輝いている。
胸甲。肩当て。腕甲。脛当て。腰を守る垂れ板。
一揃いの品ではないのだろう。形も意匠もわずかに異なっていた。
それでも、黄金の輝きに統べられた姿は、奇妙なほど一つの装具として馴染んでいる。
重みはある。
だが、腕を動かせば籠手は動き、肩を回せば肩当ても滑らかに追った。
黄金の鎧を身に纏っているというのに、私の身体は縛られていない。
腰には、小さなガラス瓶。
その中には、青白い光を帯びた水が揺れている。
手の届く場所には、黄金の斧が横たえられている。
源流の向こうで魔樹を断ち、失ったはずの斧。
それが今は、何事もなかったように私の傍らへ戻ってきていた。
そして胸元。鎧の下には、八つの小さな珠を連ねた飾りが収められていた。
ひとつひとつが、異なる深さの水を閉じ込めたように輝いている。
あの白い世界で、東の海の龍神から預けられたものだ。
小舟の片側に手を置く。
新しく継がれた木材の表面はまだ滑らかで、元の舟板とはわずかに色が違う。
これもまた、出立までの僅かな間に整えられたものだ。
神の奇跡だけではなく、人々の手によって。
『おい』
背後から声がかかった。
振り向くと、舟の外側を過ぎていく水の一部が、泡の膜へ寄り添うように膨らんで、水色の人型を取って舟に乗り込んできた。
長く流れる水色の髪。薄く透き通る清流の衣。
水そのものが人の形を取った、青白く美しいひと。
私の愛する、イズミール――
姿だけを見れば、初めて泉で見た頃と変わらない。
だが、そこに浮かぶ表情は、あの頃の穏やかな微笑とはまるで違う。
眉間には皺が寄っている。
唇は不満そうに尖り、こちらを見る目は吊り上がっている。
『おい。いつまで外ばっか見てんだ』
「イズミール」
『舟の端に寄るな。落ちたらどうすんだ』
私は、船縁を掴んでいた手を見下ろした。
舳先は確かに狭いが、落ちるほど身を乗り出したりはしていない。
「落ちたとしても、ここは君の水の中だろう」
『俺の水の中だから言ってんだよ!』
イズミールの声が泡の膜を震わせた。
『お前、一回沈んで死にかけてんだぞ。前科持ちだろうが。
俺の目が届く場所なら何しても安全とか思うなよ』
「そうは思ってはいない」
『だったら大人しく寝てろ! さっきから傷が痛ぇの誤魔化してるだろ!』
答えに詰まった。
どうして分かるのか、と問う必要はない。
周囲の水のすべてが彼女で、姿を見せない時もすぐ傍で見てくれている。
「同じ姿勢のままでいると、血の巡りが悪くなる」
『動き回ったら、巡り過ぎて漏れ出すって言ってんだよ。
血の巡りが悪いのは頭ん中かよ?
そこだけ黄金化して、無理やり寝かしつけてやろうか、あァ?』
優美で蠱惑的なその姿とは裏腹に、彼女は口が悪い。
私をなじる語彙は驚くほど豊富で、時々わからない言葉が混じる。
「では、横になっていれば、目的地へは着くのか?」
『着くよ! 俺が運んでんだからな!』
「それなら、君に任せよう」
『泡があるからって油断してんな。出張先に着く前にリタイアとか社会人失格だぞ。
っていうか、鎧は今いらねえって何度も言ってんだろうが。
包帯がズレてもわかんねえだろう……おい、本当に熱は無いのか? 隠すんじゃねえぞ?』
不機嫌そうな声。落ち着きのない身振り。そして、心配の眼差し。
イズミールの言う通り、移動中だけなら鎧を外しておくべきなのだろう。
だが、今はこの鎧の重さを身体の一部として馴染ませる必要がある。
悠長に訓練を行っている暇はないのだから。
「イズミール」
『何だよ』
私は、思わず息を吐いた。
「君が共に来てくれて、よかった」
『……は?』
イズミールの顔が引きつる。
『急に何言い出すんだよ。そういうのは、その……今、言う必要ねえだろ』
舟は恐ろしい速度で進み続けているのに、泡の中は不思議なほど穏やかで静かだ。
揺れることも無ければ、水飛沫のひとつもこちらには届かない。
彼女が、守ってくれているからだ。
彼女は私独りを送り出すことを拒み、共に来ることを選んだ。
源流の向こう側に巣食う魔樹を刈る危険な任務だ。怖くないはずがない。
それでも、彼女は私に付いてきてくれた。
『……何だよ』
水色のイズミールが、怪訝そうにこちらを見る。
『急に黙って、やっぱどっか痛ぇのか』
「いや」
私は首を横に振った。
「幸せだなと思っていただけだ」
『はァ!?』
「君とこうして話が出来る日をずっと望んでいた」
『お、お前は……!』
水色の身体がぶるりと揺れた。
泡の壁に溶けて消えかけ、すぐにまた人の形を取り戻す。
次の瞬間、イズミールは視線を逸らし、泡の外へ顔を向けた。
『……勘違いすんなよ。俺は別に、お前の、その、何だ……。
あのド腐れなハーレム宣言に、答えたわけじゃねえからな!』
しどろもどろの言い訳に、よく分からない悪態が混ざった。
だが、私はそれが何を指しているのか、すぐに分かった。
私のあの言葉を“答えを返すべきもの”として受け取ってくれた。
それが堪らなく嬉しい。
「大丈夫だ、待っている」
『あァ!?』
「帰った後に、返事を聞かせてもらうことになっている」
『――っ!』
イズミールの輪郭が、今度こそ大きく崩れた。
水がぶわりと膨らみ、長い髪が崩れて水になって舟底に零れ落ちた。
『お前!それをっ、今ここで言うか、普通!?』
イズミールの声が裏返った。
「答えを待てることさえ、私には嬉しい。だが、時折確かめたくなる」
『重っ! 怖っ! いったん忘れろ! 仕事が先だ!』
泡の外側の水が一瞬だけ乱れ、小舟が僅かに軌道を揺らした。
すぐに持ち直したあたり、彼女は本当に器用になったのだと思う。
私は胸元の瓶へ手を触れた。
瓶の中の水も、泡の中にいる彼女も、世界を沈める水と共にある彼女も、すべて同じイズミールだ。
私は思わず、少しだけ笑った。
忘れることなど、できるはずがなかった。
あの白い世界で、私は三つの姿に分かれた彼女を、初めて同時に見た。
今、彼女は一つの姿としてここにいる。
そこに至るまでに交わした言葉を、私は決して忘れない。
白い世界の中で、彼女は叫んだのだ。
――世界がどうなろうとも、私を行かせたくない、と。
※※※※※
黒いイズミールの声が、今でも耳の奥に残っている。
「俺は嫌だ。絶対に嫌だ!
世界がどうなろうが、もう一回お前をあそこに行かせるなんて御免だ」
私は、その言葉を聞いて――嬉しいと、思ってしまった。
世界は水底に沈められ、数えきれないほどの命が、黄金として留め置かれている。
それは、源流に残る黒き根から世界を守るため、いまだ必要な処置なのだという。
私が行って魔樹を伐らねば、イズミールだけではなく、世界そのものが再び侵される。
それを分かっていながら、彼女が世界より私を選びかけたこと。
この世界に属する者として、喜んでいいはずがなかった。
それでも、嬉しかった。
金色の彼女は、初めから私を愛すること、愛されていることを疑わなかった。
銀色の彼女は、私が信じて祈った女神としてではなく、イズミールという存在として見ていることを受け取ってくれた。
けれど、黒い彼女はずっと逃げ続けていた。
私が近づけば戸惑い、触れれば固まり、愛を告げれば信じるより先に怯える。
自分を女神として見るなと言いながら、自分自身をどう見ればいいのか、彼女自身が一番分からずにいた。
私が欲しいと告げるほど、彼女は追い詰められたような顔をした。
だから私は、どこかで覚悟していたのだ。
黒い彼女にとって、私はただ、彼女の望まぬ役割を突き付けるだけの存在なのかもしれない、と。
けれど、違った。
彼女は、ただ私を嫌って逃げていたのではなかった。
私を欲しいと認めた後、再び失って独りへ戻ることを恐れていたのだ。
彼女は、何もかも放り出して、己の幸福だけへ逃げ込めるほど器用な人ではない。
ひどく臆病で。
面倒臭くて。
逃げたいと喚きながら、結局は必要なことへ向き合ってしまう。
私は、彼女がそういう人だと知っていた。
源流の底へと私が沈みかけた時、彼女は私を引き上げた。
呼吸の止まった私から水を吸い出し、息を戻してくれた。
そして今、私がまた向こう側へ赴くと知って、世界などどうでもよいと叫んだ。
彼女にとって、あれはおそらく口にしてはならないほど身勝手で、醜く、認めたくない願いだったのだろう。
だが、私にとっては違う。
それほどまでに私を失いたくないと彼女が願ったことを、嬉しいと思った。
本当に醜く、身勝手なのは私の方だ。それを取り繕うつもりは、もうない。
だが、同時に、恐ろしくもなった。
このまま私が行かせてほしいとだけ願えば、彼女には何が残るのか。
世界のためだから。
源流を救うためだから。
君を救うためだから。
そう言って私が再び彼女から離れ、死地へ向かえば、彼女はまた一人で待つことになる。
帰る保証もない男を見送り、ただ失う恐怖だけを抱えたまま。
それは、出来なかった。
私は源流へ行かなければならない。
彼女を守るためにも、世界を救うためにも、深淵は断たねばならない。
だが、彼女の心を置き去りにして行ってはならない。
私が源流へ赴くのは、命を捨てるためではない。
彼女の元へ帰り、その先を共に生きるためなのだから。
その覚悟を、私は彼女に示さねばならなかった。
だから、私が彼女と望む未来を、偽らずに告げることにした。
黒い彼女へ。
「君を愛している」
金色の彼女へ。
「君が欲しい」
銀色の彼女へ。
「君の救いでありたい」
その場に立っていたのが、金と銀と黒の、誰であったとしても変わらない。
傍目には、三人の女性へ同時に想いを告げる、不誠実な男に見えるのかもしれない。
だが、私にとっては違う。
どれも、一人にだけ向けたつもりではない。
どれも、彼女だ。
どれ一つ失っても、イズミールではない。
――だから、私は、彼女に想いを告げた。
「私は必ず、君の元に帰る。
だから、木こりの務めを果たしたその時は、君の答えをくれ」
私は黒い彼女の前に片膝をついた。
「私を生涯、君と共にいさせてほしい――イズミール」
白い世界の鼓動が、どくんと大きく響いた。
黒い彼女は、完全に固まっていた。
その顔は、驚いているのか、怒っているのか、恥ずかしがっているのか、私には判別がつかないほど歪んでいた。
金色の彼女は、優しい笑みを浮かべながら、黒い彼女の背中をそっと押した。
銀色の彼女は、私と黒い彼女の言葉を聞き漏らすまいとするように瞳を閉じた。
「……だ」
黒いイズミールの唇が震えた。
「だっ誰が……っ」
水の身体なのに、顔が熱を持っているように見えた。
「誰が、お前のものになんか、なるかぁ!」
「むろん、私も君のものだ」
「い、いらねえよ! 交換条件にもなってねえんだよ!」
彼女は大きく腕を振った。
水の身体の端から雫が散る。
「勝手に求婚してきて! 勝手に答えを先延ばしにして! 勝手に戦いに行こうとして!
どんだけ自分に都合よく話を進めてんだよ!」
「すまない」
「お前、なんかあると、いっつもそれじゃねえか!
謝ってるフリして、譲る気ゼロだろうがっ」
彼女は、怒鳴った。
けれど、その目は逸らされなかった。
それまでなら、私が欲しいと言えば逃げようとしただろう。
愛していると言えば、話を逸らし、怒り、自分を隠しただろう。
だが今、彼女は怒鳴りながらも、私を見ていた。
彼女なら、ただ守られて引き下がることに耐えられないだろうとは思っていた。
怒って、噛みついて、それでも必要なことからは逃げ切れない人だ。
その負けん気に、ほんの少し期待したことは否定できない。
けれど、告げた言葉に偽りはなかった。
私は本当に、彼女と生きたいのだ。
それからしばらく、白い世界には黒い彼女の罵声が響き渡った。
所々、意味の分からない言葉が混じるが――
金と銀の二人はそんな彼女を見守っているように見えた。
純白の少女の姿をした龍神――ノジャロリ様は、何やら遠い目をしていた。
言葉が途切れ途切れになり始め、“ばか”“あほ”などの単純な言葉に移りかけたころ――
「……こ、答えが欲しいってんなら」
声が、少しだけ小さくなった。
「……死ぬんじゃねえ」
私は息を呑んだ。
「何があっても、生きて帰れ。
それまで、お前への返事なんか絶対してやらねえ」
「……ああ」
「返事をするって言っただけだからな!
お前のものになるとか、そういう意味じゃねえからな!」
「ああ、分かっている」
「絶対分かってねえだろ、断ってもまた言えば良いとか思ってんだろ!」
それは、受諾ではなかった。
けれど、拒絶でもなかった。
私が帰るべき未来に、彼女はまだ立っていてくれる。
金色のイズミールが、ぱっと私の側へ寄った。
「よかったわね、アイオリス。帰ってきたら、お返事を聞かせてもらえるのね」
“わたし”は嬉しそうに頬を染めた。
「その先も、楽しみにしているわ」
「おいコラ! なんで受け入れる前提で話してんだ!」
「でも、断るなら、今ここで断っているでしょう?」
「うっ……うるせえ!」
黒い彼女が言葉に詰まる。
銀色のイズミールは、困ったような、それでいてどこか安堵したような表情で、黒い彼女へ向き直った。
「イズミール」
「何だよ……お前も余計なこと言う気か」
「貴女はもう、恐れだけで彼を拒んでいるのではありません。
彼に帰ってきてほしいと、御自分の意思で願われました。
それは、“わたし”の願いでも、“私”の役目でもありません。貴女自身の望みです」
「……分かったようなこと、言いやがって」
黒い彼女は、俯いた。
「分かっていますとも……」
銀色の彼女の声は、澄んでいた。
しかし、以前のような高く遠い女神の声ではなかった。
「私も、貴女なのですから」
黒いイズミールが、顔を上げる。
金色の彼女も、そっと微笑んだ。
「わたしもよ。
わたしが欲しかったものは、あなたも欲しいって、もう知っているでしょう?」
「……知るかよ、色ボケが」
「大丈夫。好きって言うのは、帰ってきてからでいいわ」
「誰が言うか!」
「言わないの?」
「……」
黒い彼女の沈黙に、金色の彼女は嬉しそうに笑った。
銀色の彼女は、静かに黒い彼女へ歩み寄る。
「私が見ていたものを、貴女ももう、御自分のものとして見ておられます。
あの子たちのことも、人々のことも、彼の決意も。
そして、この世界に対して、貴女が為すべきことも」
「……」
「貴女はもう、水の底で目を閉じ縮こまるだけの方ではありません」
黒いイズミールは、長く黙った。
やがて、酷く不満そうに顔を歪める。
「……勝手に、仕事終わったみたいな顔すんなよ」
「ええ、私は役割を終えたわけではありません」
銀色のイズミールが微笑む。
「戻るのです」
「あなたの中にね、シャチョーさん」
金色のイズミールが、黒い彼女の手を取った。
銀色のイズミールが、もう一方の手に触れた。
白い世界に、二つの水音が落ちた。
金色の光が、黒い水へ溶けていく。
銀色の清らかな水が、その中へ静かに重なっていく。
黒いイズミールは、逃げなかった。
目を閉じ、二人の水をその身に受け入れた。
金色が消える。
銀色が消える。
黒色もまた、淡い青へと薄まり、透き通っていく。
そこに立っていたのは、水色の髪と瞳を持つ、一人のイズミールだった。
あの泉で出逢った、穏やかな微笑みを絶やさない女神像ではない。
怒りも、戸惑いも、寂しさも、羞恥も。
すべてを隠しきれない、生きた表情をしたイズミールがそこにいた。
元より一つだった彼女が、この白い世界で、初めて外の世界と同じ姿で立っている。
私は初めて名前を呼ばれた時のように胸が熱くなった。
「……くそ、不良社員どもが……後で覚えてろよ」
そこで彼女は、何もない空間を睨みつけた。
「あぁ!? 負けじゃねえし! まだ何も返事してねえし!」
水色のイズミールが悪態を吐いた。口調は黒い彼女のままだ。
その悪態の向こう側には、金色の甘さも、銀色の静けさも、確かに混じっていた。
二人が失われたのではないと分かり、私は安堵した。
「おい、木こり野郎。お前の稟議は、一応受け取ってやる。
でもな、俺がその気になれば、“返答は十年後、二十年後ということも可能……!”ってことなんだからな」
彼女は妙に得意げな笑みを浮かべて言った。
穴だらけの理屈を得意げに語るときの彼女は堪らなく可愛らしい。
趣味が悪いと思いながらも、つい、突いてしまいたくなる。
「そうか。少なくとも十年、二十年は傍に居ても良いのか」
「なんでそういう受け取り方になるんだよ! 無敵か、お前は」
私は、もう一度頷いた。
元より、この先の戦いは負けられない。
「君のためならば、そう在ろう」
「……っ、お前ほんと……!」
イズミールは、水の頬を膨らませるようにして黙り込んだ。
その時、白い龍神が小さく息をついた。
『……吾は、結魂はまだ成してはならぬと申したばかりなのだがな』
「成ってねえだろ! 俺は返事してねえ!」
『危うく成りかけた、と申しておる』
「ハァ?! どこがだよ! 誤審だろ?」
『汝の心よりの応えを源流が受け取っておれば、結魂は成り、キコリヤロウを向かわせる道はここで潰えておったであろうよ』
「ちょ、嘘だろぉ!? お、おい、ママ? カーチャン?!
今のは、ノーカウントだ! ノーカウント! なぁ……分かるだろぉ……?」
イズミールは慌てて、虚空に向けて叫んだ。
源流がこの場をどう捉えているかは分からないが、私にもイズミールにも変化らしい変化はない。
結魂は未だ成立していないようだった。
私は、少し申し訳ない気持ちになった。
「すまない。軽率だっただろうか」
「謝るなら最初から言うな、このクソボケ! 強欲木こり野郎が!」
『うむ。幼き海を随分と乱してくれたものだな、キコリヤロウ。
だが、お陰で凍てつく水と、その下に沸き立つ熱が、ようやく一つの流れとなった。
汝は、己の番の勘所を弁えておるようだ……見事である』
「光栄です、ノジャロリ様」
「おい! お前らいつの間に連携組んでんだよ!」
イズミールが叫ぶ。
だが、白い龍神の表情はすぐに引き締まった。
『キコリヤロウ、汝の覚悟は見届けた』
青白い瞳が、私へ向けられる。
『汝が源流の元へ赴き、忌まわしき根を断って、必ず番の元へ帰るという覚悟を』
次に、イズミールへ向く。
『そして、九つ目の海よ。
汝が、番を失うことを恐れながらも、その決意を受け止める覚悟を』
「……受け止めるとか、まだ言ってねえ」
『番を送り出し、待ち続ける覚悟は軽いものではない』
「は?」
イズミールの上げた疑問に、ノジャロリ様が小首を傾げた。
『源流の中へ赴けるのは、人であるキコリヤロウだけだ。
汝はここに留まり、帰りを待つのであろう?』
――イズミールの表情が、止まった。
「……何勘違いしているんだ?」
『勘違い、とは』
「誰が、俺がここで待つなんて言ったんだよ」
私は、思わず彼女を見た。
「イズミール」
「お前もだ」
水色の瞳が、鋭くこちらを睨む。
「お前一人で行くみたいに、勝手に話を進めんな」
「だが、源流へ入ることができるのは、私だけだと――」
「魔樹を伐るのがお前じゃなきゃ駄目だってだけだろ」
イズミールは、吐き捨てるように言った。
「そこまで行く間も、戻ってくる時も、俺がいちゃ悪い理由なんかねえ。
お前、怪我人だぞ。矢を抜いたばっかで、現実じゃ熱出して寝込んでる重傷者だぞ。
そんな奴が勝手に当事者面して、俺を置いて現場に突っ込もうとしてんじゃねえよ」
「君は、水域を離れられないのではないのか」
「馬鹿かお前。今、世界は全部、水の底だろうが」
イズミールは、白い水面を踏みつけるように一歩前へ出た。
「水が繋がってるなら、今の俺はどこにだって行けるはずだ。
お前が行くなら、俺も行く。お前も散々勝手抜かしたんだ、嫌とは言わせねえぞ」
「……」
私は言葉を失った。
私の言葉が、彼女の負けん気に火をつけるかもしれないとは思っていた。
だが、まさか彼女自身が共に行くと言い出すとは思わなかった。
止めるべきだと分かっている。
それでも、胸の奥に湧いた喜びを、私は否定できなかった。
「今度こそ、瓶越しに声だけ聞いて、何も出来ないまま待ってるなんて御免だ」
イズミールの声は震えていた。
それは怒りだけではない。
恐怖も、ためらいも、すべて混ざっていた。
「怖くはないのか」
私が問うと、イズミールは即座に顔をしかめた。
「怖えに決まってんだろ。
源流も、黒いのも、知らねえ海も、全部怖えよ」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「でも、お前一人で行かせる方が、もっと怖い」
胸の奥に、強い熱が生まれた。
私の告白に対して、彼女はまだ愛を返してはいない。
けれど、この言葉は、今の彼女が差し出せる最大限の答えなのだと思った。
「……分かった。共に行こう」
「……は?」
イズミールは、予想外のことを言われたように目を丸くした。
「お前、危険だとか、巻き込めないとか、そういうのはねえのかよ」
「危険だ。君を巻き込みたくない」
「とって付けたように言ってんじゃねえ」
「だが、それ以上に――私は嬉しい。君が共に来てくれることが」
イズミールは、しばらく口を開けたまま固まっていた。
水色の髪の先が、感情を抑えきれないように波打つ。
彼女は何かを言い返そうとして、言葉にならないまま口を閉じ、最後にはこちらを睨みつけた。
「……お前、本当に……そういうところだぞ……」
怒っているようで、泣きそうでもある。
そのどちらともつかない顔で、彼女は私から目を逸らした。
それ以上、私は何も言わなかった。
言葉を重ねれば、きっと彼女はまた怒鳴る。
だが、その怒りが、もう私を拒むためのものではないことだけは分かった。
その時だった。
『――相分かった』
白い世界の底を、深い海鳴りのような声が震わせた。
東の海の龍神は、私たちを静かに見据えていた。
幼い少女を思わせる小さな姿を取っていても、その瞳の奥にあるものは変わらない。
広大な海だ。
幾百、幾千の歳月を湛え、底知れぬ深さを抱えた、大いなる水の主の眼差しだった。
『キコリヤロウ。
汝が源流の元へ赴き、忌まわしき根を断ち、必ず番の元へ帰るという覚悟――しかと見届けた』
青白い瞳が、私からイズミールへ向けられる。
『そして、九つ目の海よ。
汝が番を失うことを恐れながらも、なお共に危地へ赴くという覚悟もまた、見届けた』
イズミールが、僅かに顔をしかめた。
「……俺は、こいつを一人で行かせないって言っただけだ」
『それを、覚悟と呼ばずして何をそう呼ぶ』
イズミールは返す言葉を失った。
龍神は、そこで一度、静かに目を伏せた。
『本来、これは吾らが負うべき務めであった』
低い声が、白い世界へ沈んでいく。
『吾ら八つの海の主は、源流に巣食う黒き根へ手が届かぬという理由で、人の子へ刃を託そうとしている。
汝らにのみ危難を負わせ、吾らがただ帰還を待つなど、道理に反する』
白い水面が、ゆっくりと波打った。
『ゆえに――吾らもまた、汝らへ覚悟を預けよう』
龍神が、胸の前で両手を重ねる。
その掌から、一粒の小さな珠が零れ出した。
水滴のようなその珠は落ちることなく、掌の上で留まる。
淡く光を宿したその一粒に続き、二つ目、三つ目、四つ目が現れる。
岸壁から染み出す雫のように、さらに続けて、五つ、六つ、七つ、八つ。
龍神の掌の上に、八つの丸い珠が浮かび上がった。
一つとして、同じ輝きを持つものはなかった。
深い藍を湛えたもの。
朝焼けの海のように白金の光を揺らすもの。
嵐の前の海のように暗く沈むもの。
遠い水平線を映したように、青く澄み渡るもの。
よく見れば、その外側は磨き上げた水晶の質感を持っていた。
だが、その小さな内側には、異なる輝きを持つ水が揺れていて、ひとつの海そのものが閉じ込められているかのような圧が感じられる。
イズミールが、息を呑む。
「……何だよ、それ」
『龍珠』
龍神の声は、先ほどまでよりもさらに重く、静かだった。
『吾は、ここへ参る前に、七つの海より、力と意思を預かってきた。
これは八つの海を預かる吾ら龍が、己が神核より分かち、汝らへ託す証である』
「核を……分ける?」
イズミールの声が低くなる。
それが軽い贈り物ではないことを、彼女も察したのだろう。
八つの珠は、龍神の掌を離れ、ゆっくりと私たちの前へ運ばれてきた。
『キコリヤロウ。そして、九つ目の海よ。
汝らには、これより吾ら八海の領域を巡り、その深奥へ赴いてもらわねばならぬ』
龍神の視線が、私へ――そして、隣に立つイズミールへ向けられた。
『汝を加え、海は今や九つとなった。
されど、繋がったのは水の流れのみ。すべてが一つとなったわけではない。
吾ら八海の核、その奥にある源流への道は、なお吾らが預かっておる。
ゆえに九つ目の海よ。汝の水が地の果てまで届こうとも、吾らの核、その奥にある源流の側へ、許しなく踏み入ることは叶わぬ』
「……つまり、世界が全部水に沈んでても、俺が好き勝手にどこへでも入れるわけじゃねえってことか」
『左様』
イズミールは唇を噛むように黙り込んだ。
先ほどまで、彼女は私と共に行けるのだと、ほとんど勢いだけで言い切っていた。
それが単純な話ではないと告げられても、引き下がる様子はない。
「だったら、その珠があれば行けるんだな」
『然り。汝が番に寄り添い、吾らの海を渡り、源流へ至る道を繋ぐことが叶う』
イズミールの目が、八つの珠へ向けられた。
「……通行証、みたいなもんか」
『通行を許す証であり、吾らが汝らへ力を託す証でもある』
「力を託す……?」
彼女の声に、警戒が混じった。
龍神は、すぐには答えなかった。
八つの珠だけが、白い世界の中で静かに光を揺らしている。
『言った筈だ。吾らの覚悟を示すと――それを預けるは、ただ道を開くためだけではない』
その言葉に、イズミールの表情が強張った。
『――汝らが必ず帰るために、吾ら八海が差し出すものだ』
白い世界に、海の底よりも深い沈黙が落ちた。




