108.日の出づる海の龍、九つ目の海を訪う(後編) 〇★
「――今すぐ元のところに返して来い!」
白い世界の中で、俺の声が響き渡った。
頭上には“わたし”。
金色に輝く髪と、やたら満足そうな笑顔。
バカでかいぬいぐるみでも抱き締めるみたいにアイオリスを抱え込んで、イラッとくるくらい、ゆっくり降りてくる。
手でさわさわしてんな。身体を押し当てんな。頬擦りすんな。
降りるならさっさと降りてこい。いや、帰れ。
何してくれてんだよ、お前。
そいつは怪我人だぞ。矢を抜いたばかりで、熱もあって、やっと眠ったのに。
それを何で、そんなにご満悦で連れて来てんだよ。
「返して来いって言われても……もう起きたわ。
それに――ここなら痛くも苦しくもないじゃない」
白い世界にふわりと降り立って、“わたし”は悪びれもせずに言った。
その言葉の通り、アイオリスの瞼はもう開いている。
最初は意識がぼやけていたのか、青い瞳は白い世界をゆっくりと映していた。
「イズミール……?」
掠れた声で、アイオリスがもう一度俺の名を呼んだ。
その声は、さっきまでの泡の中で聞いたものよりはっきりしていた。
苦しそうな熱も、痛みを堪えるような震えもない。
あの時と同じだ。こいつの肉体そのものが来ているわけじゃない。
だから痛みも発熱もない。
そう分かって、少しだけ安心しかけて――そんな自分に腹が立った。
そういう問題じゃない。
「おい、帰れ! 寝てろって言ったろ!」
「外ではちゃんと寝てるわ。わたしが添い寝してるもの」
「はぁ!?」
俺が叫ぶと、アイオリスはようやく周囲を見た。
白い世界。
足元の浅い水面。
銀色の“私”。
金色の“わたし”。
黒い俺。
その三人を順に見て、アイオリスの目がわずかに見開かれる。
まあ、そうだろうな。
そりゃ驚くよな。
同じ顔の女が三人並んでいたら普通に怖い。俺だって怖い。
どれも自分だって分かっていても、正直けっこう怖い。
地に足が着いても、“わたし”はアイオリスの腰に手を回したまま甲斐甲斐しく支えている。
アイオリスの視線が少し離れた場所に立つ、ひときわ小柄な白い人影を捉えた。
――その瞬間、アイオリスの表情が変わった。
眠りから醒めたばかりの、柔らかく無防備な顔が消える。
代わりに、森で化け物と向き合っていた時のような、静かな警戒が宿った。
“わたし”の腕の中で、アイオリスがわずかに身じろぎした。
その動きに、“わたし”が名残惜しそうに腕を緩める。
「もう立てる?」
「……ああ。助かった」
礼を言うな。そいつは今、怪我人のお前を勝手に連れてきたんだぞ。
アイオリスは足元を確かめるようにしてから、まっすぐ立つ。
視線は小さな白い龍神に向けられたままだ。
東の海の主。
俺の頭の中では、のじゃ様。
いや、さっき勢い余ってのじゃロリ呼ばわりした気もするけど、それは一旦忘れたい。
ちびどもや俺たちと似た姿に青い目を細くした。
だが、気を緩めたのではなく、むしろ、戦う相手を見定めるような目だった。
アイオリスは、俺たちを庇うように一歩前へ出た。
「お、おい、何してんだよ」
思わず声が出た。
何してんだ、お前。
お前は今、寝てるべき怪我人だろうが。当たり前みたいに守る側に立つな。
アイオリスは白い龍神から目を逸らさない。
「君たちとは違う気配がする」
その声は低かった。静かで、けれど迷いがない。
「なんで分かるんだよ」
「違うからだ」
なんだそれ、答えになってねえよ。
アイオリスの背中越しに見ると、のじゃ様は本当に小さく見えた。
ミュルナたちを少し成長させたような姿だが、この場の誰よりも小柄で幼い。
だが、アイオリスには違って見えるらしい。
たぶん、感じ取ったんだ。
あの小さな身体の向こうに、とんでもなく広くて深い水があることを。
人間の尺度では測れない何かが、たまたま、子どもの姿をして立っているだけだと。
アイオリスが背を向けたまま、俺の方に手を伸ばしてきた。
視線は龍神から逸らさない。
それでも、掌だけが迷いなくこちらへ差し出される。
俺はぞっとした。
――こいつ、斧を寄越せって言ってる。
この小さな大怪獣が相手でも、戦う覚悟を決めているんだ。
俺は抱え込んだ斧を――
その時、“私”が静かに歩み出た。
銀の髪を静かに揺らし、俺とアイオリスの間に半歩だけ入る。
「アイオリス」
その呼びかけに、アイオリスの肩がわずかに揺れた。
「その御方は敵ではありません」
“私”は龍神の方へ目を向ける。
「この御方は東の海を統べる龍神でいらっしゃいます。
私たち、そして、世界にまつわる重大な話のため、訪ねてくださいました」
「そうか……失礼した」
アイオリスがわずかに力を抜いた。
けれど、後ろには引かず、俺たちの前に立ち続けた。
「話すことなんかない」
その背中に言葉を投げつける。
「聞かなくていい。これから帰るところだった。話は終わりだ、解散!」
「……イズミール」
背中越しの少し困ったような声。
どんな顔をしているのか、想像はつく。
「うるせえ。怪我人は寝て休むのが仕事だ。出社して来んな。
こんな意味分かんねえ会議に参加する必要なんかない」
「意味はあります」
“私”の声は静かだった。
その瞳は責めていない。ただ、静かで、少しだけ痛ましそうだった。
何を分かったような顔してやがるんだ。
俺だって無茶苦茶言ってるのは分かってる。
理屈では分かる――でも、嫌なものは嫌だ。
横から“わたし”が両手を広げ、場違いな笑みを浮かべて言った。
「わたしたちとアイオリスの将来のお話よね?
なら、ふたりで一緒に聞きましょうよ」
「将来とか言うな!」
「でも、そうでしょう?」
「そうでしょう、じゃねえんだよ!」
金色の“わたし”は悪びれない。
なんでお前が乗り気なんだよ、何の話してるか分かってんのか?
怪我人を引っ張り出して戦わせようって言ってんだぞ。
お前はアイオリスが好きな俺なんだろうが。
なんで受け入れる側に回ってんだよ。
アイオリスが振り向き、俺たちのやり取りを見て、ほんの少し目を瞬かせた。
たぶん、状況はまだ全然分かっていない。
でも、俺たちの間にある温度差は理解し始めている顔だった。
だが、すぐに龍神に視線を戻した。
まだ緊張を緩めてはいない。
龍神もまた、アイオリスを見ていた。
青白く輝く瞳が、幼い顔に不釣り合いな深さで細められる。
『良い眼をしておる。魂も魄も強い。水との深い縁がある。
汝が九つ目の海の番――“キコリヤロウ”だな』
「おいっ!」
俺は反射的に叫んでいた。
「のじゃロリ! なんでお前がその呼び方を知ってんだよ!」
『汝の内なる海に、色濃く漂っていたゆえ、借りた』
「借りんな! そんなもんを!」
「……キコリヤロウ」
アイオリスが小さく呟いた。
おいやめろ。復唱するな。
なんか気まずくなるだろうが。
龍神は気にした様子もなく、アイオリスへ向き直る。
『吾は、八つの海の一つ、東の海を治むる龍だ』
今度の名乗りは、肩書ドカ盛り全部乗せじゃない。
アイオリスはわずかに頭を下げた。
「私は――」
『言うな』
静かな声が、アイオリスの名乗りを遮った。
白い世界の空気が、ぴんと張る。
アイオリスの唇が、名乗りかけた形のまま止まる。
“わたし”が不思議そうに瞬きをする。
“私”は静かに見守っている。
俺は、反射的に一歩前へ出かけて、斧を抱えたまま止まった。
「……何でだよ」
思わず声が出た。
あんた、礼儀とか、そういうのをやたら重んじる奴じゃなかったのか。
俺が、のじゃロリ呼ばわりしても怒らなかったくせに、アイオリスが名乗ろうとしたら止めるのか。
まさか、「人間ごときが」みたいに見下してるんじゃねえだろうな。
『汝の名は、既に九つ目の海へ預けられている。吾が受け取るは、礼に反する』
「礼に反する……?」
アイオリスが静かに繰り返した。
『如何にも』
なんだそれ、意味が分からない。
いや、何となく分かりそうで、分かりたくない。
龍神は、俺とアイオリスを交互に眺めると目を細めた。
いちいち思わせぶりに見てくんな。言いたいことがあるならさっさと言えよ。
『吾らと人、異なるもの同士が名を交わすことは、ただの挨拶ではない』
「……」
『名を聞き、名を呼び、名を与え、名を預ける。
それは人と吾らとが縁を結ぶことだ。
時に契約となり、時に誓いとなり、時には魂を縛る』
「重すぎんだろ、名前……」
アカウント名とパスワードがセットになってるようなもんじゃねえか。
そんな大事な契約だってんなら、名前ひとつで雑に管理しようとすんな。
――でも、そう言いながら、俺は自分の中でいくつかのことを思い出していた。
俺は、ずっとアイオリスの名前を知らず、木こり野郎と呼んでいた。
名前を聞かないまま、助けて、怒って、頼って、名前を聞けないまま、失いかけた。
白い世界で、“わたし”と“私”を通して、ようやくあいつの名前を知った。
そして、水底に戻って、あいつの名前を呼んで、応えが返ってきて――
それに深い意味があるなんて思っていなかった。
でも、あの名前だけは、必要だった。
知らないままでは嫌だった。
呼び返したかった。
『人と我らが互いの名を呼び合うことは、契りの端緒となる。
深い心の結びつきがあらば猶のこと』
……。
う、うん、何言ってるか分かんねぇな……。
関係ない。俺たちには関係ない。
契りとか、深い結びつきとか、絶対関係ないぞ。
お互いの名前を知ってるだけだな、ヨシ!
『魂を約した番の名に、横から触れるは無作法であろう』
――魂を約した。
なんだか、また聞き捨てならないワードが飛んできた。
その言葉に“わたし”が満面の笑みを浮かべた。
“私”はそっと目を伏せ、指先をわずかに重ね直した。
アイオリスは驚いたように、ほんの少しだけこちらを見る。
俺は固まった。
「……ちょっと、待て」
ようやく声が出る。
「魂を約したって、何だよ。何がどうなったらそうなるんだよ。
っていうか、俺、そんな契約書見てねえし、サブスクも結んでねぇ」
『さぶすく……?』
「今のは聞き流せ!」
アイオリスが少しだけ眉を下げた。
たぶん、笑いそうになっている。やめろ。笑うな。こっちは本気で混乱してるんだよ。
そうして、内心頭を抱えていると、のじゃ様がこっちを向いて言った。
『汝は先ほど、吾を“ノジャロリ”と呼んでおったな』
ヤバい。俺、処される……。
「…………」
白い世界が一瞬で凍った気がした。
「……聞こえてたのかよ」
『この場で発せられた言葉だ』
「なしでお願いします」
『いや、構わぬ』
いいのかよ。器がデカすぎる。
元の姿は物理的にもデカすぎたんだが、そういう話じゃない。
その顔は本当に怒っていなかった。
むしろ、ほんの少し面白そうにさえ見える。
『汝が吾の名を呼ばぬのは、吾を軽んじたゆえではあるまい』
「いや……、ちょっとは軽んじてたのかもしれないかなって……」
「イズミール」
“私”が小さく咎める。
すみません。
のじゃ様は、これもまるで気にした様子がない。
器がデカいを通り越して、もはや、単に無頓着なんじゃないか。
『汝の名は、キコリヤロウから名を与えられたのであろう?
ならば、汝が他の者たちの名に興が乗らぬというのは、無理からぬことよ』
何言ってんだこいつ、と正直思った。
――でも、考えてみれば、俺は、他人の名前ってものをいつも雑に扱ってきた。
泉の中の生き物とか、やって来る動物に名前を付けたことなんかない。
他の人間たちのことも、名前を知りたいとか思ったことがなかった。
“私”と“わたし”にも、名前を付けるとか思いつきもしなかった。
で、こいつ――ジャガなんとかの名前も、最初から覚える気があんまりなかった。
のじゃ様とか、のじゃロリとか、心の中で勝手に呼んでいた。
そういえば、ミュルナたちは、リディアのことは「りぃや」とか呼んでた。
でも、アイオリスには「キコィヤォー」とか言ってたっけ。
あれ、単に発音しづらいだけだと思っていたけど、違ったのか。
いや、そんなわけない。たぶん偶然だ。
ちびどもは言いやすい音を拾っただけだ。俺だって、ただ失礼なだけで――
『汝は名を軽んじているのではない。むしろ、逆なのだ。
己が呼ぶべき名があることを知り、受け取るその日を待っておったのだ。
吾の名など覚えずともよい。汝が呼ぶべき名は、今、汝と共にある……喜ばしきことだ』
まるで、俺の内側を覗いているみたいな声だった。
「……そんなご大層なもんじゃねえよ」
言い返したが、声は弱かった。
否定したいのに、否定しきれなかった。
『ゆえに、吾は汝の番をキコリヤロウと呼ぼう』
「またそこに戻るのかよ!?」
「構いません」
アイオリスは姿勢を正しながら、受け入れた。
「構えよ!」
何でちょっと光栄そうにしてんだ。
お前のそういうところ、本当にさあ。
『そして、吾のことはノジャロリと呼ぶがよい』
「呼べるか!」
何だこの公開処刑。
怒られるより、よほど居心地が悪い。
「では、ノジャロリ様と」
アイオリスが真面目そのものの顔で言った。
のじゃ様は鷹揚に頷いた。
俺は死んだ。心が死んだ。
※※※※※
のじゃ様はそこで、改めて場を整えるように小さく息をついた。
『――さて、キコリヤロウ。
汝が今、吾の言を解し、吾もまた汝の意を汲めること……。
これ自体が、汝らの魂約が成っている証でもある』
「こんやく……?」
アイオリスが聞き返した。
さっき、魂を約したとか何とか言ってたが、さらに地雷っぽいワードに仕上げてきた。
嫌な予感しかしない。
『本来、吾と汝の間で、言葉により意思を通ずることは叶わぬ。
吾はこの世界の古き海、人の子は地に生きる短き命。吾の言葉は汝には大きすぎる。
まして、汝は吾の名を知らず、吾も汝の名を聞いておらぬ。縁が結ばれておらん』
「……」
『この場は、九つ目の海――汝の番の内なる心の海だ。
汝らが魂を約しているがゆえ、番を通じて吾と言葉を交わすことが出来ておるのよ』
アイオリスは黙った。
目立った動揺はないが、青い瞳の奥で、何かを確かめるような光が揺れた。
こいつは、俺と違って、すぐに取り乱さない。
それが頼りになる時もあるけど、何を考えているのか分かりづらい。
でも、その手つきの方は雄弁だった。
あいつの手が懐を探るように動いた。現実ならそこには瓶があるはずだ。
俺とあいつを繋ぐもの。アイオリスの手はそれを探していた。
「……そうか」
「なに納得してんだ!
何でもすぐ受け入れようとしてんな! もうちょっと疑え!」
「だが、この方と言葉が通じていることは事実だ」
「適当言ってるだけかもしれないだろ」
「事実である方が、私は嬉しい」
「んな……っ!」
言葉が詰まる。
“わたし”が、両手を頬に当てて身悶えした。
“私”は何も言わずに、そわそわと指を組み替えた。
おい、何だよこの空気、やめろ。
俺だけが無意味に吠えてるみたいじゃねえか。
「……私たちは、知らぬ間に契約を結んでいたのですか?」
アイオリスは静かな声で問いかけた。
『汝らは旧き慣わしを踏んだ。
人と吾らを番わせる、婚の作法を』
出た。婚の作法。
「だ、だから、何なんだよそれは! 知らねえよ!」
『汝らは名を交わした。心を通わせ、己の象徴たるものを交わした。
そして、番たる人の子に象徴を預け、源流の元へと赴かせた。
キコリヤロウ、汝は源流に強き絆を示し、己の象徴を贈り、認められた』
ずらずらと並べられる条件。
関係ない、と叫ぶにはあまりにも覚えのあるあれこれ。
「おい、待て……いや、待ってください」
俺は片手を上げた。
『うむ』
「つまり、あれは、その……何ですか……?
こ、こいつが瓶と斧を持って源流に降りて、斧落として帰ってきたのって……何?」
『婚の作法である』
「やめろよその言い方ぁ!」
即座に叫んだ。
『魂約とは、互いの魂の繋がりを約すること。
人と精霊が結ばれるために、源流の裁定を受け、認められることだ。
キコリヤロウよ。汝と九つ目の海は、今、魂約の状態にある』
アイオリスは黙って聞いている。
俺はもう、どこからツッコめばいいのか分からなくなっていた。
“わたし”が両手を合わせて華やいだ声をあげた。
「じゃあ、わたしたち、結ばれたってことね。素敵!」
「お前は黙ってろ!」
“私”が静かな声で問いかける。
「私たちは作法の何たるかを存じませんでした。それでも魂約は成立するのでしょうか?」
のじゃ様は、表情を変えずに続ける。
『作法とは、後になって吾らがそう呼んだに過ぎぬ。最初にあったのは、ただ強き縁よ』
「縁……」
アイオリスが感慨深げに呟いた。
『人と精霊が互いを求め合い、その縁を源流に預ける。
後の者たちが、その流れに作法という形式を与えた。
だが、真の絆がなくば、人の子が源流から戻ることなど叶わぬ』
「おい、ちょっと待て! じゃあ、こいつを送り出したのって……」
『源流がキコリヤロウを認めなかったなら、戻ることはなかっただろう』
俺は今度こそ頭を抱えた。
あの時、自分たちがやったのは綱渡りどころじゃなかった。
溶鉱炉に向かってバンジージャンプするようなものだったんだ。
「愛! 愛の力で呼び戻したのよ!」
それなのに“わたし”は感極まった声を上げた。
“私”まで、納得したように頷いている。
アイオリスは、俺とのじゃ様を交互に見て、妙に真面目な顔をしている。
やめろ、見ないでくれ。俺はそろそろ限界だ。
のじゃ様は俺たちを見渡し、次の言葉を落とした。
『……されど、魂約はまだ、結びに至っておらぬ』
「今度は何だよぉ……」
※※※※※
『――魂約の先には、結魂がある』
「けっこん……」
絶句した。
“わたし”は顔を輝かせ、“私”もまた、目を見開く。
『人と吾らの魂を結び、境界を越え、完全に結ばれることよ』
白い世界の水面が、わずかに揺れた。
『それが成れば、キコリヤロウは源流との繋がりを得て、半ば人でなくなる。
九つ目の海と、源流に通じる神に近きものとなり、永き時を共にすることが叶う。
ただし、それは人としての短き生から離れるということでもある』
「……」
アイオリスは、自分の手を一度見下ろした。
人でなくなる、という言葉の重さを確かめるように。
それでも、怯えたようには見えなかった。
ただ、その言葉の重さを、逃げずに測ろうとしているようだった。
俺は、うまく息ができなかった。
半ば人でなくなる。神に近いものになる。
それは、こいつがこいつでなくなるってことじゃないのか。
いや、俺がそれを言えた義理か……?
俺なんか、もう人間どころか水になって、女神にされて。
でも、こいつを同じようにしていいのか?
そんなこと、許されないんじゃないのか……?
のじゃ様の視線が、金色の“わたし”に向いた。
『汝は、キコリヤロウに既に愛を告げたのであろう』
「もちろん」
“わたし”は迷いなく頷いた。
「わたしは、アイオリスを愛しているわ」
「お前ほんとそういうの即答するよな!」
『されど、汝は九つ目の海のすべてではない』
“わたし”は少しだけ目を伏せた。
悲しむというより、分かっていた、という顔だった。
次に、銀色の“私”に視線が向けられる。
『汝は、キコリヤロウの願いを受け止め、叶えるものであらんとしている』
“私”も即座に頷いた。
「はい」
『されど、汝もまた、九つ目の海のすべてではない』
「分かっております」
そして、輝く瞳が俺を捉えた。
その眼光に射すくめられるみたいで、してない息が詰まる。
『汝は未だ、キコリヤロウへの愛を認めておらぬ』
「あ、当たり前だろ……そんなの、……っ」
なんとか絞り出した声は自分でも情けないくらい掠れていた。
続く言葉が出てこない。
『汝が心より、キコリヤロウの愛に応えた時、結魂は成る』
「……」
アイオリスの視線が、俺に向いた。
やめろ。
今の話の流れで俺を見るな。
俺まで何か言わなきゃいけないみたいになるだろうが。
俺は、こいつらとは違う。
居た堪れなくなって、思い切り目を逸らした。
“私”と“わたし”は、俺を見て少しだけ寂しそうに微笑んでいる。
何でお前ら、そんな分かってますみたいな顔してんだよ。
お前らに俺の何が分かるんだ。
俺はお前らとは違う。
お前らみたいなちゃんとした女じゃないんだよ。
『――だが、この結魂、今はまだ、成ってはならぬ』
その一言で、白い世界の温度が変わった。
※※※※※
「は?」
『結魂が成れば、キコリヤロウは源流に連なるものとなる』
「……どういうことだよ。さっさとくっつけとかいう流れじゃなかったのかよ。
いや、成りたいとかじゃなくてっ……その、何が問題なんだよ……?」
『吾らにとって源流は生まれ、還る場所。
キコリヤロウもまた、その定めを得ることとなる』
嫌な予感が、今度こそ形になる。
定めを得るとか言ってるが、要するに俺たちみたいに溶けて死ぬってことだろ、それは。
『源流の元に赴き、この世に戻ることを許されるのは、魂約を成した人の子だけだ。
だが、今、源流は黒き禍に蝕まれておる。吾らではそれを除くことが適わん。
人の身で、あれら悪しき根を断つことの出来る者もまた、限られておろう』
「……源流に、まだ魔樹が……?」
アイオリスの肩に力がこもった。拳を固く握りしめている。
『キコリヤロウ――源流の裁定を乗り越え、魂約を成し、戻った人の子よ。
未だ結魂には至らぬ汝なればこそ、再び源流の元へ赴くことが出来る。
源流に蔓延る忌まわしき黒き禍いを、汝が除いてはくれぬか』
「……ふざけんな」
声が、自分でも驚くほど低くなった。
青白く輝く瞳がこちらを向いた。
『魂約を交わした幼き海と、その番に頼むことを恥じぬわけではない。
されど、恥を知ることと、請わぬことは同じではない』
「結局、こいつに厄介事を押し付けようってだけの話じゃねえか……!」
『本来ならば、吾らが赴くべきだ……だが、吾らでは届かぬ』
龍神は僅かに俯いた。
今の見た目通りの小さく頼りないその姿に、憐憫ではなく怒りが湧く。
「だったら、今すぐ結魂でも何でもしちまえばいいんだな?
そうすりゃ、こいつを巻き込むことも出来なくなるってことだよなァ!?」
水底がグツグツと煮えたぎって、自分でも何を言っているかわからない。
「イズミール」
「黙ってろ!」
嗜めようとした“私”を怒鳴り付ける。
「なあ、そうだろ、おい!
そういうつもりなら、さっさと済ませてやる。やり方を教えろよ!」
『それもまた、一つの道よ』
龍神は、俺を責めなかった。
本当に、責めなかった。
それが余計に腹立たしい。
『番を得た者が、番を失うことを恐れる。それは自然の流れだ。
吾らが源流を慕うのと同じ――あるいはそれよりも深きものだ』
「だったら――」
『だが、このまま世界を沈め続けたとしても、根は残り、源流を侵し続ける』
冷たい言葉だった。
『源流との繋がりを持つは、吾ら水だけではない。
いずれ、源流より溢れ出て、火は絶え、風は止み、海と大地は腐りゆくだろう』
「……」
『汝の齎した黄金は留め置く力だ。断ち切るには向かぬ。
朽ちぬ黄金を刃として振るうことが出来る者が、今は必要なのだ』
その言葉に、ずっと沈黙を貫いていたアイオリスが動いた。
「おい、よせ」
俺にはこいつが何を言うか、分かってる。
この話を聞かせたらこうなるって、初めから分かってた。
けれど、アイオリスの静かな声で言った。
「その役目、私が引き受けましょう」
「駄目だ!」
「イズミール」
「うるせぇ、黙れ」
「イズミール。私は行く」
白い世界が、遠くなった気がした。
俺は叫んだ。
「何で即答すんだよ! お前、自分が何言ってるのか分かってんのか!?
またあそこに行くんだぞ! 死にかけたばっかだろうが!」
「分かっている」
「分かってねえよ!」
叫ぶ。
叫んでも、足りない。
「俺は嫌だ。絶対に嫌だ!
世界がどうなろうが、もう一回お前をあそこに行かせるなんて御免だ」
――ああ。言ってしまった。
※※※※※
何言ってんだ、俺――「世界がどうなろうが」だなんて。
メロドラマ? セカイ系? 悲劇の主人公気取りか?
散々、使い古された寒い台詞だ。理屈に合ってない。後先考えない感情論だ。
でも、言った。
誤魔化しようもない本音として、言えてしまった。
女々しい。気色悪い。身勝手すぎる。
冷たい自己嫌悪と、煮つまった反発が混ざりあえないまま渦巻いている。
それでも、撤回する気になれなかった。
「イズミール……」
アイオリスは、ただ、俺の名前を呼んできた。
だが、俺に頷き返すことはなかった。
俺が何も言えずにいると、今度は“私”が、静かに口を開いた。
「……今、必要であることは、理解しています」
その声は、いつものように澄んでいた。
ただ、その銀の瞳は隠しようもなく揺れていた。
「ですが、貴方に行けと命じることは、私にはできません。
私は、人々の祈りに応え、救うものとして在ろうとしてきました。
けれど、最初の祈りをくれた貴方を、私も失いたくありません」
「君は、また自分の責任だと背負い込むつもりか」
アイオリスが言った。
“私”の表情が、ほんの少し揺れた。
「私を行かせることも、止められないことも、どちらも君の罪にしてしまうのか」
「……そう思わずに済むほど、私は器用ではありません」
“私”はもう微笑んでいなかった。眉尻を下げた憂いの表情で言った。
「困りました……あなたに命じる言葉も、止める言葉も見つかりません」
アイオリスは、少しだけ息を吐いた。
「何も言わなくていい。私が自分で選ぶことだ。
だが、どうか信じてほしい。君に何も失わせるつもりはない」
“私”は目を伏せた。
それは拒絶ではなく、受け取ったような沈黙だった。
正しそうな理屈を並べるはずの“私”が、そこで言葉を失った。
なのに、不思議と意外ではなかった。
俺にも、そういうところがある。
続いて、“わたし”が、一歩前へ出た。
「わたしも、行ってほしくないわ」
その声は、いつもの金色の明るさをまとっていた。
でも、明るいだけじゃない。
湿っていて、甘くて、震えていた。
「あなたには、わたしの――イズミールのそばにいてほしい。
もう痛いところへ行ってほしくない、危ないこともしないでほしい」
「……」
「でも、あなたが望むものぜんぶを叶えたいのが、わたしだから。
触れて、口づけて、囁いて、抱きたい、かぞくが欲しい。
そんな、あなたの願いはまだ叶ってないわ」
“わたし”はアイオリスを見つめる。
「だからね。わたしのところへ。イズミールのところへ。帰ってきて。
イズミールにしたいこと。イズミールとしたいこと――ぜんぶするまで、あなたは死ねない」
「死なない」ではなく、「死ねない」――まるで呪いのような愛の言葉だ。
アイオリスは、金の“わたし”に向かって頷いた。
「必ず帰る。死なない」
「本当に?」
「ああ。君のその願いは、私の帰りたい理由そのものだ」
“わたし”は泣きそうに笑った。
やめろ。
そういう顔をするな。
一番、ごねなきゃいけないはずのお前が、なんで後押ししてる?
これじゃあ、俺とお前で役割が逆転してるみたいじゃないか。
「……俺は許してねえぞ」
アイオリスが俺を見る。
青い目が、まっすぐに向けられる。
逃げられない。
白い世界なのに、どこにも隠れる場所がない。
「君が望んでいないことは、分かっている」
「じゃあ、行くな」
「すまない」
「行くな!」
声が割れた。
アイオリスは、一度だけ目を伏せた。
それから、静かに言う。
「怖い」
「……」
「私も怖い。……死にたくない。君の傍にいたい」
その言葉は、俺の怒りのどこかを止めた。
怖い。死にたくない。
こいつがそう言うのを、俺は初めて聞いた気がした。
「あの暗闇の中での孤独も。戻れなくなるかもしれない不安も。君の声が届かなくなることも、怖い」
「だったら――」
「だが、源流が侵されたままなら、いつか君が苦しむ……君が、君でなくなる日が来る」
「……」
「それを知っていながら、私が黙っていられると思うのか」
俺は歯を食いしばった。
歯なんかないのに、そうした気がした。
「俺を言い訳にすんな」
「君を理由にしている」
即答だった。
「だが、君のせいではない、私が望むからそうする」
こいつ、本当に。
本当に、こういうところが。
こいつが、こんなだから、俺は――
アイオリスは、俺を、“わたし”を、“私”を見回した。
「君を愛している」
「君が欲しい」
「君の救いでありたい」
その言葉は、俺たち一人一人に向けられているようで、誰か一人だけに向けられたものじゃない。
こいつにとって、“俺たち”全部でイズミールなんだ。
畜生。なんだよそれ。
全員持っていく気かよ。
正直すぎるだろうが。少しは遠慮しろ。
「私は必ず、君の元に帰る。
だから、木こりの務めを果たしたその時は、君の答えをくれ」
アイオリスは俺の前に片膝をついて見上げてきた。
「私を生涯、君と共にいさせてほしい――イズミール」
白い世界の鼓動が、どくんと大きく響いた。




