112.むすんだ泡は、ひろがって(後編) ◆★△
――三人は、いっせいにママへ飛びついた。
『ヤーッ! マァマ、ミュルナも、いく!』
『……ミュリナも。りぃやも、いっしょ……?』
『しぁーもぉ! きこぉ、やぉ! いくー!』
水の小さな身体が三つ、黄金の鎧を纏ったアイオリスの傍に立つイズミールへ殺到した。
ミュルナは正面から母の胸元へ突っ込み、両腕でぎゅうっとしがみつく。
ミュリナは母の腰へ抱きついたまま、声を押し殺すように水滴をこぼした。
ミュシアは黄金に光る鎧が気になるらしく、アイオリスの脚へよじ登ろうとしている。
イズミールは慌てて、三人をまとめて受け止めた。
『うおっ!? 待て、待て! 末っ子、そいつ怪我人だから、こっち来い!
おいおい……なんだよお前ら、まさか付いてくる気でいんのか!?』
『ミュルナ、いくの!』
『ミュリナも、マァマと、おでかけ……』
『みゃー! かぶぉ、きこぉ! しぁー、のぉ!』
ミュルナとミュリナは、必死で母へ縋りつく。
母に置いていかれることを、幼いながらに感じ取っていた。
ミュシアだけは、まだ何も分かっていなかった。
金色に光る鎧を指差し、きゃっきゃと身体を弾ませている。
ついさっきまで遊んでいた兵隊の鎧より、ずっときらきらで、ずっとすごい。
きこりやろぉは、それを着て、ママといっしょにどこかへ行く。
だったら、ミュシアも行く。りぃやも行く。
みんなで、きらきらのおでかけをする。
そういう話だと思っていた。
『……いや、あのな。これは、遠足に行くって話じゃねえんだ』
イズミールの顔が、困ったように歪んだ。
『メーッ! マァマ、いかない!』
『……ママ、メー……』
『……マァマ?』
姉たちの剣幕と、母の水の揺れ方に、ミュシアも遅れて異変を察した。
母の水の奥が、ぐるぐる渦巻いている。
嬉しい時とも、怒っている時とも違う。
もっと、嫌な感じだ。
イズミールは、ひどく言いづらそうに、口を開いた。
『そうだ。俺は、こいつと旅に出る。
……お前らは、ここに残るんだ』
こいつ、は、きこりやろぉ。
たび、は、よく分からない。
でも、ミュルナたちは、そこに入っていない。
――それだけは、分かってしまった。
『ヤーッ! ミュルナもいく! マァマ、ミュルナおいてくの、メーッ!』
ミュルナは、母の胸へ思いきりしがみついた。
ママを探して、みんなをママのところへ連れていく。
それが、ミュルナのおしごとだった。
それなのに、ママは付いて来たら駄目だと言う。
ミュルナがママと一緒に行けないなんて、そんなのはおかしい。
『……ママ、いない……?』
ミュリナの声は、小さかった。
おうちに帰っても、ママがいない。
おつかいをちゃんとしても、えらいって言ってくれない。
りぃやが喜んでくれても、ママはいない。
それを想像しただけで、身体からぽたぽたと水が零れた。
『まんまぁ! ンメェー! しぁーもぉ! しぁーも、ヤーッ!』
ミュシアは、今も姉たちほどには意味を理解していない。
でも、いばりんぼのミュルナが泣いている。
いつも落ち着いているミュリナも泣いている。
ママの水も、なんだか悲しそうに揺れている。
なんか、やだ。
それだけで十分だった。
ミュシアも、声を上げて泣いた。
三つの幼い泣き声が、泡の丘に響き渡った。
先ほどまで奇跡の鎧の完成に安堵していた人々は、誰一人、声を出せなかった。
カストールは静かに目を伏せ、ギュゲスは握っていた工具をゆっくりと下ろした。
兵士たちも、住民たちも、母女神へ縋りつく御子たちを前に、祈ることさえ憚られるように黙り込んでいた。
自分たちのために、女神と聖者は旅立つ。
そのために、幼い御子たちは母と引き離される。
それを理解してしまえば、誰も軽々しく感謝など口にできなかった。
リディアは、一歩踏み出しかけた。
けれど、今、三人が欲しいのは自分の慰めではなく、母の腕なのだと悟り、胸元で両手を握り締めたまま立ち止まる。
イズミールは、三人を抱き締め、必死になだめようとした。
『お、おいおい……泣くなって。
帰ってくるから。ちゃんと帰ってくる。な?』
『いま! マァマ、いま、いる!』
『……っ』
ミュルナの叫びに、イズミールの声が詰まった。
――帰ってくる、は、今いる、とは違う。
幼い三人には、待つという時間がまだよく分からない。
後で帰ると言われても、母がいなくなる怖さは消えなかった。
『……ごめんな』
イズミールが、小さく言った。
その声を聞いて、アイオリスが動いた。
黄金の鎧を纏っていても、彼の身体が万全ではないことは、傍にいた者たちには分かる。
身を起こすだけで、傷の残る肩を庇うような硬さが見えた。
それでも彼は、ゆっくりと膝をつき、泣きじゃくる三人と目線を合わせた。
「ミュルナ。ミュリナ。ミュシア」
三人には、その声が分かる。
マァマのだいじな、きこりやろぉ。
けれど、今は嫌い。
ミュルナは、母へしがみついたまま、涙でぐしゃぐしゃになった顔をアイオリスへ向けた。
『きこりやろぉ、ヤーッ! マァマ、とる、メーッ!』
アイオリスの青い瞳は、ただ真っ直ぐにミュルナを見た。
「そう思われても仕方がない。私は、君たちの母と共に行く」
『ヤーッ!』
ミュルナが母の腕を離れ、アイオリスの黄金の胸甲へ飛びついた。
小さな拳で、金色の板をばちゃばちゃと叩く。
『マァマ、とるな! きこりやろぉ、メー!』
『おい、ミュルナ! 殴るな! そいつはまだ怪我してるんだぞ!』
イズミールが慌てて引き離そうとする。
けれど、アイオリスは片手を上げ、彼女を制した。
小さな水の拳を、そのまま受け止める。
「怒っていい。私を嫌がってもいい」
『ヤーッ!』
「だが、私は必ず、イズミールを君たちのもとへ連れて帰る」
『……かえってくぅ?』
「ああ。必ず守る。イズミールも、私も、必ずここへ帰ってくる」
ミュルナの手が止まる。
それでも、疑うように大きな目でアイオリスを睨んでいた。
『……ほんとぉ?』
「本当だ」
『ほんとの、ほんとぉ……?』
「ああ。約束する」
『おい』
イズミールの声が、低く割り込んだ。
『勝手にお前だけで約束してんじゃねえ。
行くって決めたのは、俺だ』
「イズミール」
『恨まれ役をひとりで背負って、格好つけてんじゃねえよ。
俺は俺で決めて、お前と行くんだ。お前に連れていかれるんじゃねえ』
その言葉を聞いて、三人はまた泣いた。
きこりやろぉがママを取るのではない。
ママが、自分で行くと言っている。
きこりやろぉを叩けばママが戻る、という話でもないのだと、幼い水の中へ少しずつ沁み込んでくる。
リディアが、そっと三人の近くへ膝をついた。
「ミュルナ。ミュリナ。ミュシア」
『りぃや……』
ミュリナが、泣き濡れた目を上げた。
「寂しいよね。嫌だよね」
リディアの声も、震えていた。
「わたしも嫌だよ。イズミール様にも、アイオリスさんにも、行ってほしくない」
『りぃやも……やぁ?』
「うん。嫌」
リディアは、無理に笑わなかった。
泣きそうな顔のまま、三人へ言った。
「でも、わたしはここに残って待つの。
イズミール様とアイオリスさんが帰ってこられる場所を、なくさないために」
名をくれたりぃやの言葉は、音だけではなく、柔らかな祈りのように身体へ入ってくる。
『……りぃや、いかない?』
「うん。みんなといっしょにいるよ」
ミュリナは、母にしがみついたまま、リディアの手へ小さな指を伸ばした。
リディアがそっと触れると、ミュリナの身体から、また涙の水がぽろぽろ落ちた。
ミュシアも、それを見て母の腰から片手を離し、リディアの袖を掴む。
『りぃや……いーしょ?』
「一緒だよ」
『……みぅ』
けれど、ミュルナだけは離れなかった。
そこが自分の居場所だと主張するように、母の胸へ顔を押しつける。
『ヤーッ……マァマ、ヤー……』
イズミールは、ミュルナの頭へ手を置いた。
水の指が、柔らかな髪を何度も撫でる。
しばらくそうしてから、イズミールは深く息を吐いた。
『……ミュルナ。ミュリナ。ミュシア。聞け』
三人の身体が、びくりと震えた。
ママが、大事なことを言う時の声だった。
『俺は行く。あいつと一緒に行く。
黒いのを全部どうにかしないと、みんな困ったままなんだ。
……俺だって、本当は嫌だよ。怖えし、行きたくねえ。
でも、俺とあいつ以外に出来ない仕事なんだ』
三人は、泣きながら聞いていた。
全部は分からない。
くろいのは、きらい。
ママがこわいのも、いや。
ママもいやなのに、いく。
きこりやろぉと、いく。
そのことだけは分かった。
『……なあ、お前ら。
俺がいない間、お前らにやってほしいことがあるんだ』
『……おしごと?』
ミュルナが、しゃくり上げるように聞いた。
『そうだ。ものすごく大事な仕事だ。
お前たちにしか頼めない』
しごとは、ママのおてつだい。
ママが、えらいって言ってくれること。
りぃやが、うれしくなること。
にんげんが、わあ、ってすること。
ミュリナが泣きながら顔を上げる。
ミュシアも、母の羽衣にしがみついたまま耳を澄ませた。
『お前ら、食べ物をいっぱい探してきてくれただろ。
あんなにちゃんと出来るなんて、正直思ってなかった。びっくりしたよ』
『……ちゃんと……?』
『ああ。ちゃんとだ。すげえ助かった。えらいぞ』
ミュルナの泣き顔が、少しだけ上がる。
ママが、助かったと言った。
えらい、すごいことをしたと言った。
『この泡は、俺が維持しておく。
簡単に潰れねえようにしておくから、お前らは食べ物集めを続けろ。
リディアの言うことをよく聞いて、他に必要なものがあったら、それも探してやるんだ』
『たべもぉ……』
『そうだ。
ここの人間たちが生きていけるように、お前らが助けるんだ』
イズミールは、少し言葉を選ぶように黙った。
それから、三人の小さな身体を見て、はっきりと言う。
『黒いのが来たら、泡へ近づけんな。
だけど、勝手に突っ込むなよ。
危なかったら、俺を呼べ。どこにいたって、聞いてやる』
たべもぉ、さがす。
りぃやを、たすける。
にんげん、まもる。
くろいの、メーする。
こわかったら、ママをよぶ。
それなら、できる。
ママのためなら、できる。
『ミュリナ……できる』
ミュリナが顔を上げ、静かに言った。
『くろぉ、メー! りぃや、まもぅ!』
ミュシアも、鼻を啜るような水音を立てながら勢いよく叫ぶ。
『マァマ、いないのに……ミュルナ、しごと……?』
ミュルナの声は、まだ泣いていた。
イズミールは、少し言葉に詰まった。
それから、抱いていた三人を、もう一度ぎゅっと引き寄せた。
『……俺がいないからだよ。
頼む。俺の代わりを、やってくれ』
リディアも、三人を順番に見つめる。
「お願い、ミュルナ、ミュリナ、ミュシア。
イズミール様たちが帰ってくるまで、わたしと一緒に、みんなを守って」
りぃやが、三人を必要だと言っている。
三人なら出来ると願ってくれている。
それは、母に撫でてもらうのと同じくらい、身体の中を温かくした。
『ミュルナ、する……』
『ミュリナも……ちゃんと、する』
『しぁー、できぅ!』
『……おう。頼んだぞ』
イズミールは、安堵したように息を吐いた。
けれど、ミュルナは、ふと不安そうに母を見上げる。
『ママの、かわり……? ミュルナ、ママ、なれる?』
『いや、俺そのものになれって話じゃなくてな……』
イズミールは言葉を濁し、ちらりとアイオリスを見た。
アイオリスは何も言わず、ただ静かに彼女を見返す。
これは、イズミール自身が、三人へ伝えなければならない言葉だった。
『……俺は、最初、お前らを量産型だと思ってた』
りょうさんがた。
三人には、意味は分からない。
でも、それが自分たちのことだというのは分かった。
『俺が表に出ないで済むように造った、ただの水フィギュア。
最初は、それだけのつもりだったんだ』
イズミールの指先が、ミュルナの頭へ触れる。
次に、ミュリナへ。
最後に、まだ鼻を啜るように泡立っているミュシアへ。
『でも、お前らは勝手に遊んで、勝手に喧嘩して、勝手に泣いて、笑って……。
俺よりずっと先に、誰かのために動けるようになってやがった』
『……マァマ』
『だから……』
イズミールの声が詰まった。
水の身体なのに、喉へ何かが引っ掛かったように、次の言葉がなかなか出てこない。
けれど、逃げなかった。
『――お前らは、俺の子どもだ』
三人の水が、ぴたりと止まった。
ママの、こども。
知っていた。
ママの水から生まれたから、自分たちはママの子なのだと、ずっと思っていた。
でも、ママが言ってくれた。
ママが、自分たちを子どもだと思ってくれていて、それを伝えてくれた。
『マァマ!』
『ママ……!』
『まんまぁー!』
『あーっ、もう! そこでまた泣くな! 困るだろうが!』
イズミールは耐えきれなくなったように顔を背け、乱暴に三人の頭を撫でた。
『でっ、だから!
親の俺が出張してる間は、子どものお前らが留守を守るんだよ!
子会社だ、子会社! 親会社の留守を預かる、超重要部署だからな!』
「……子どもたちへ伝える言葉として、それでよいのか?」
アイオリスが、口元へ僅かな笑みを滲ませて言った。
『うるせえ木こり野郎!
俺は俺なりに今、必死で親やってんだよ!』
「そうか。君らしい励まし方だ」
『お前、褒めてるフリして笑ってんだろ!』
イズミールの言葉を理解出来ない人々は、何が語られているのか分からず、ただ女神が御子たちを強く抱き締めている姿を見守っていた。
けれど、アイオリスの表情と、リディアが涙を拭いながら微かに笑った様子から、それが悲しいだけのやり取りではないのだと察し始めていた。
イズミールは髪をばしゃりと揺らし、三人へ向き直る。
『ミュルナ。ミュリナ。ミュシア。
お前らは三人で力を合わせて、俺の留守を守るチームだ』
『ちーむ……?』
ミュリナが、小さく聞き返した。
『そうだ。三人とも“ミュ”が付いてるだろ。
だから、お前らは三人でチーム――“ミューズ”だ』
『みゅーず……』
三人の様子の変化に、リディアの表情が僅かに揺れた。
アイオリスは、イズミールへ問いかける。
「イズミール。それは、三人の名を変えてしまうことになるのか?」
『なんねぇよ』
イズミールは、即座に答えた。
『リディアが付けてやった名前を、無しにしろってことじゃない。
ミューズは、こいつら三人のチーム名だ。三人で一つの仕事をする時の、名札みたいなもんだよ』
アイオリスが、その言葉をリディアへ伝える。
リディアの瞳に溜まっていた涙が、ひとつ零れた。
「素敵な名前だと思います。
三人が、三人のまま、一緒に頑張るための名前なんですね」
『ミューズ!』
ミュルナが叫んだ。
『……ミューズ』
ミュリナも、確かめるように口にした。
『みゅーずぅ!』
ミュシアは、もう楽しくなったらしい。
三人で、ママのかわりをする名前。
三人が三人のまま、ママから貰った特別な名前。
『……そうだ。お前ら三人で、ミューズだ』
イズミールは、照れたように目を逸らした。
それから、先ほど三人が持ち帰り、まだ黄金のまま残っていた小さな豆をひとつ手に取る。
『では、ミューズの諸君に最初の仕事を教える。心して聞くように』
三人の角が、いっせいにぴんと立った。
『俺がいない間、食べ物を見つけても、黄金のままじゃ人間は食えない。
だから、お前らには、これをほどけるようになってもらう』
『きんきら、ほどく……?』
『そうだ。
ただし、勝手に何でも戻すなよ。戻す時は、リディアや人間たちと一緒の時だけだ』
アイオリスが、すぐにその言葉をリディアへ伝える。
リディアは頷き、三人の前へ膝をついた。
「どんなものが必要なのか、皆さんと相談して伝えるね。
戻す時は、わたしも必ず傍にいるから。一緒に頑張ろう?」
『りぃや、いっしょ!』
『よし。じゃあ、やり方を教える。よーく見てろよ』
イズミールの指先から、細い水が黄金の豆へ沁み込んでいく。
『こいつは、本当に別のものになったわけじゃない。
止まってるだけだ。
だから、もう大丈夫だぞ、動け、働けって、起こしてやればいい』
金色の輝きが、ふわりとほどけた。
イズミールの掌に残ったのは、小さな乾いた豆だった。
『マァマ、ほどいた……』
『ああ。
俺だけの力だと思ってたけど、龍神たちにも出来たんだ。
だったら、俺の水から生まれたお前らなら、きっと出来る』
出来る。
ママが、出来ると言ってくれた。
『よし。次は、お前ら三人でだ』
新しい黄金の豆が、三人の前へ置かれた。
『特にミュルナ。一人で突っ走るな。
ミュリナとミュシアと一緒にやれ。三人でミューズなんだからな』
『『『ミューズ!』』』
三人は顔を見合わせ、六つの小さな手を黄金の豆へ重ねた。
ママの水のまねをする。
きんきらの中へ、水を入れる。
うごいて。
はたらいて。
ちゃんとして。
『『『ミュゥゥゥ……!』』』
三人の水が、黄金へ沁み込む。
一瞬だけ、その表面に小さな茶色が覗いた。
『おっ、いいぞ! そのまま、そのまま、焦るな!』
母の声が嬉しくて、ミュルナはもっと強く押した。
ミュリナは、水が散らないように支えようとした。
ミュシアは、姉たちへ追いつこうとして、勢いよく跳ねた。
三つの水が、ぶつかった。
ぱしゃり、と小さく弾ける。
覗いていた元の色は消え、豆はまた硬い黄金へ戻ってしまった。
『……あ』
『……みぅ』
『しぁー……』
失敗。
ミュルナは、すぐにもう一度、黄金へ手を押し当てた。
『ヤーッ! ミュルナ、だーじょお! ミューズ、できぅ!』
けれど、いくら力を入れても、金色はほどけない。
『おいおい、最初から出来かけたんだから十分すげえよ!
まだちびなんだし、練習すりゃ――』
――まだ、ちび。
その言葉が、三人の中へ落ちた。
ちびだから、できない。
ちびだから、ママのかわりになれない。
ママに“ちび”って呼ばれるのは、ずっと嬉しいことだったのに。
ちびだと、出来ない。
ママが、出来るって言ったのに。
りぃやが、一緒にやろうって言ったのに。
『ヤーッ! ミューズ、する! ママ、ひとり、メー!』
『……みんなで、する。ちゃんと、する……』
『しぁーも! ママ、すごい、いう!』
『おい、無理すんな!』
「イズミール」
アイオリスが、静かに呼んだ。
『こいつらはまだ子どもだ。やっぱいきなり――』
「止めるな」
『は?』
「君が役目を託した。
だから、この子たちは、君に応えようとしている」
『だけどよ……』
「君が、私を待つだけでは嫌だと言ったように。
この子たちも、君を待つだけでは嫌なのだろう」
イズミールは、言葉を失った。
リディアが、三人の傍へ膝をつく。
「ミュルナ。ミュリナ。ミュシア」
『りぃや……』
「わたし、知ってるよ。
みんなが、最初から何でも出来たわけじゃないって」
リディアは、そっと三人へ手を伸ばした。
「でも、三人で力を合わせた時は、いつも誰かを助けてくれた。
イズミール様を探しに行った時も、この泡を守った時も」
母を探しに潜った時も。
この泡のおうちを作った時も。
泡が潰れそうになった時も。
三人は、いつも一緒だった。
「わたしは、みんなを――ミューズを信じてる」
三人は、同時に顔を上げた。
ミュルナが、ミュリナの手を取る。
ミュリナが、ミュシアへ手を伸ばす。
ミュシアが、二人の手をぎゅっと握る。
『ミュルナ、いっしょ!』
『……ミュリナも、いっしょ』
『しぁーも! みゅーず!』
ミューズ。
ママから貰った名前。
三人でママのかわりをする、つよくて、えらくて、すごい名前。
ちびの三人でも、一緒なら、ママのかわりが出来る。
ミューズなら、出来る。
三人は、もう一度、黄金の豆へ手を伸ばした。
『『『ミィゥゥゥゥゥウッ!』』』
三人が、歌うように高らかに叫ぶ。
ミュシアの水は、遊ぼうと背中を押す。
ミュリナの水は、こっちだと隣で教える。
ミュルナの水は、行こうと前へ引っ張る。
三つの水が、今度はぶつからない。
違う流れのまま、同じところへ向かっていく。
黄金へ、ひとつの大きな流れとなって注がれる。
ぱちゃん。
ぽちょん。
ぴちゅん。
三人の身体から、同時に小さな水音が鳴った。
『……お、おい?』
イズミールの声が震えた。
三人の輪郭が、淡い光の中でほどけていく。
『ミュルナ! ミュリナ! ミュシア!』
「みんな……!」
イズミールとリディアの声が重なった。
ミュルナの、前へと進む強さ。
ミュリナの、立ち止まって見回す静けさ。
ミュシアの、好きを見つけて飛び込む自由さ。
どれも消えない。
どれも置いていかれない。
母に命じられたからだけではない。
人々に願われたからだけでもない。
大好きな母を、ただ泣いて待つだけで見送りたくなかったから。
――三つの幼い水が、黄金をほどく一つの流れの中で、ひとつの身体へ結び直されていく。
『『ミュウゥゥゥ……!』』
三人の声が重なる。
三つの音が、ひとつの声になっていく。
『ミィィ――!』
青白い水の光が、ふわりと立ち上った。
小さな幼子よりも大きく。
けれど、母よりはまだ幼い。
水色の長い髪。
水晶のように枝分かれする角。
耳元で揺れる、小さなヒレ。
幼さを残しながらも、伸びやかに立つ少女の身体。
そこに現れたのは、もう三つの幼い水の身体ではなかった。
『ミューズ!』
一人の少女が、誇らしげにその名を叫んだ。
突き出した両手の間で、黄金の光が水に混ざり、虚空へほどけて消えていく。
イズミールも、アイオリスも、リディアも。
居合わせた人々も、誰も声を出せなかった。
少女は、自分の掌を見下ろした。
ころり、と小さなものが転がる。
黄金ではない。
元の色を取り戻した、乾いた豆だった。
少女は、驚いたように自分の両手を見た。
手が大きい。
足が伸びた。
髪も長い。
身体は一つ。
でも。
(ミュルナ、いる!)
(……ミュリナも、いる)
(しぁーも!!)
三人とも、いる。
右手を前に出そうと思ったのはミュルナ。
掌の豆を落とさないように見ていたのはミュリナ。
出来たことが嬉しくて跳ねたいと思ったのはミュシア。
けれど、動く身体はひとつだった。
三人で動かす、一つの身体。
ミューズの身体。
へん。
ちょっと、こわい。
でも、すごい。
ママに見てもらわないと。
少女は顔を上げ、掌の豆を母へ差し出した。
『ママ……ミューズ、できた!』
少しだけ整った、けれど、まだ幼い声だった。
『すごい? えらい?』
イズミールは、すぐには答えられなかった。
元に戻った豆と、一人の少女の顔を見比べる。
理解の追いつかない出来事に、水色の瞳が大きく揺れている。
それでも、目の前の少女が向けてくる無垢な期待だけは、見間違えようがなかった。
イズミールは、震える手を伸ばした。
水晶のような枝角を避けるように、少女の頭を、不器用に撫でる。
『あ、あぁ……すごい。
すごいぞ、ミューズ』
その言葉に、少女の中にいる三人の幼子が喜びに震えた。
『ほんと、すげえな……ちゃんと、やれたじゃねえか』
イズミールの声も震えていた。
『みゅ……!』
三人分の嬉しさが、一人の少女の笑顔になって弾けた。
泡の丘は、しんと静まり返っていた。
人々には、女神と御子の間で何が語られているのかまでは分からない。
けれど、三人の御子がひとつの少女へ姿を変え、女神と同じように黄金をほどいてみせたことだけは、誰の目にも明らかだった。
「み、御子様方が……」
「あの御姿は、いったい……」
「黄金が……女神様の御業を、あの御子様が……」
驚きと畏れの声が、人々の間へ低く広がっていく。
「ミュルナ……ミュリナ……ミュシア……?」
リディアが、震える声で呼んだ。
ミューズは、ぱちりと瞬きをして、彼女へ振り向く。
『うん、いるよ』
ひとつの声が、三つの響きへほどける。
『ミュルナ、いる!』
『……ミュリナも、いる』
『しぁーも! みゅーず!』
リディアは、堪えきれずに両手で口元を覆った。
「よかった……みんな、ちゃんといるんだね……」
『りぃや! ミューズ、ママみたい、なれてる?』
ミューズは嬉しそうに一歩踏み出す。
だが、今までと違う足で歩くことにはまだ慣れていないらしく、すぐにぐらりと身体が傾いた。
「わぁっ……!」
リディアが慌てて抱き止める。
『……あし、へん』
「少しずつ慣れようね。わたし、傍にいるから」
『りぃや、いっしょ』
「うん。一緒だよ。ミューズとも、ミュルナたちとも」
『……で、ちょっと待て』
イズミールが、ようやく我に返ったように声を上げた。
『何だこれぇ!? な、何でいきなり合体してんだよ!?
お、俺が名前付けたせいか!? そんな仕様、聞いてねえぞ!?』
「イズミール……君も、金色と銀色の君を受け入れ、一つの姿へ戻ったばかりだろう」
『あれは、なんか謎空間での話だろ!? 一緒にすんな!
こいつらは三人で……いや、元は俺の水で……えっ、同じなのかこれ!?
しかも、いきなりでかくなってるし!
ど、どこ診せればいいんだよ、小児科!? いや、小女神科!?』
「イズミール、落ち着け」
アイオリスの口元に、堪えきれない笑みが浮かんだ。
『おい、笑うな! おっ、俺は本気で心配してんだぞ!』
「分かっている。私も驚いている。
だが、あの子はまだ、君の言葉を待っているようだ」
『……っ』
イズミールが、はっとしてミューズを見る。
ミューズは、リディアに支えられながらも、まだ母だけを見ていた。
褒めてもらえた。
けれど、もっと、ちゃんと聞きたい。
そんな顔をしていた。
イズミールは、ぐっと言葉を詰まらせる。
それから、もう一度、ミューズの頭を撫でた。
『……あー、もう。分かったよ。
ミューズ、で良いんだよな……すげえよ。
お前らは、本当にすげえ。
いきなり合体して、ぶっつけ本番で成功って、アニメの主人公かよ』
『しゅじんこぉ?』
ミューズは、母の言葉に小首を傾げる。
イズミールは、ばしゃばしゃとその頭をかき回すように撫でた。
『とにかく、すごいってことだ』
『ミューズ、ママのかわり、する』
少女は、母の手へ頭を押しつけながら、胸を張って得意げに笑った。
『りぃやと、にんげん、守る。
“生きる”にいるもの、集める。
黒いの、メーする』
『おう。だけど、無茶はすんな』
イズミールの声が、急に真剣になる。
『お前らは俺の代わりだけど、何でも一人で背負えって意味じゃねえからな』
『ミューズ、できる!』
『出来るからこそだ。
あと、分かんねえことを、分かんねえままにするな。
リディアの言うことは分かるんだろ? 困ったら相談しろ。
三人で勝手に突っ込むな。約束出来るか?』
『ママとの約束、まもる!』
『……上出来だ』
イズミールは、アイオリスへ視線を向けた。
『おい、木こり野郎。人間たちにも伝えろ。
都合の良い女神様扱いして、こいつに全部を押し付けんなって。
ミューズは俺の代わりに残るけど、だからって何でも出来るわけじゃねえ。まだ子どもだ』
「ああ」
アイオリスは立ち上がり、人々へ向き直った。
「イズミール様は、御子様方にこの地を守る役目を託された。
だが、御子たちは我々のための都合のよい奇跡ではない。
この方々へ全てを背負わせてはならない、と仰っている」
人々の間に、畏れと驚きのざわめきが広がった。
水没した世界の中で、女神だけでなく、その幼い御子までが自分たちのために残る。
その奇跡の重さに、反射的に膝をつこうとする者もいた。
けれど、真っ先に声を上げたのはリディアだった。
「イズミール様の仰る通りです」
リディアはミューズの手を支えながら、人々へ向き直った。
「ミューズは、わたしたちを守るために残ってくれます。
でも、この子たちだけに任せてはいけません」
その声は、まだ涙に濡れていた。
けれど、もう震えるだけの声ではなかった。
「ミューズは、ミュルナで、ミュリナで、ミュシアなんです。
この泡を必死に守ってくれた、あの小さな子たちなんです」
まだ年若い魔術師の少女は、人々の前で、懸命に声を張った。
「食べ物も、この泡の中での暮らしも、皆で支えるんです。
イズミール様とアイオリスさんが帰ってこられる場所を、わたしたちで守りましょう」
カストールが、深く頭を下げた。
「承知いたしました。
食糧の管理も、泡の警護も、我等が担います。
御子様お一人へ、全てを背負わせることは致しません」
ギュゲスも、工具を握ったまま力強く頷いた。
「嬢ちゃんたちには、もう散々助けてもらってるからな。
今度は俺らが働く番だ。直せるもんも、作れるもんも、俺が何とかする」
その後ろで、兵士たちと住民たちが、次々に頭を下げていく。
ミューズには、人間たちの言葉の細かなところまでは分からない。
けれど、りぃやがいる。
ふさふさも、むきむきもいる。
みんなで、このおうちを守る。
人間たちの気持ちが、さっきより少しだけ温かい。
ミューズは、今度はアイオリスを見た。
『きこりやろう』
「ああ」
『ママ、ぜったい返してね』
『おい、俺は物じゃねえぞ!』
イズミールが反射的に叫ぶ。
けれど、アイオリスは真剣に頷いた。
「約束する。必ず、君たちの母を連れて帰る」
ミューズは、しばらく彼を見た。
内側で、ミュルナが少し考える。
ミュリナが、母の揺れる水を見る。
ミュシアが、二人ともいないのは嫌だと思う。
『きこりやろうも、かえってきて』
アイオリスの表情が、柔らかくほどけた。
「ああ。私も必ず帰る」
『当然だろうが』
イズミールが、横から割り込んだ。
『俺をお荷物みたいに言いやがって。
おい、ミューズ、逆だ、逆。
俺がこいつを連れ帰るんだ。勘違いするんじゃねえ』
『ママ、つよい』
「頼もしいな」
『何で嬉しそうなんだよ!
なに、速攻で意気投合してんだ!』
「君が好きな者同士だからな」
『いきなり妙な同盟を結ぶな!』
ミューズは、母へ抱きついた。
もう、三人で飛びつく身体ではない。
けれど、胸の中では、三人ともが同じようにママへ抱きついていた。
『マァマ』
『その身体で飛びつくなって……いや、良いけど。で、何だよ』
『ミューズ、ちゃんとする。
だから、ママも、ちゃんと帰ってきて。やくめでしょ』
イズミールは、しばらく答えなかった。
やがて、ぶっきらぼうに少女の頬を指で引っ張った。
肌のように見えても水なので、とぷんと指先が沈む。
ミューズは嫌がることなく、うれしそうに笑った。
『……お前ら、ほんっと……』
イズミールは、鼻を啜るように顔を歪めた。
『急にでかくなったからって、生意気なこと言いやがって。
俺はお前らの親会社だぞ。ペーペーに心配されるほどヤワじゃねえっての』
『ぺーぺーじゃなくて、ミューズ!』
『そこは重要じゃねえ。
とにかく、心配すんなってことだ』
『ママは、すごい』
『そうだ。俺は強くて、凄くて、偉いんだ。
なにせ、九番目の海とかいう大役らしいからな……はぁ……』
ミューズが、また笑った。
イズミールも、泣きそうな顔のまま、ほんの少しだけ笑った。
それから、乱暴な手つきで少女の髪をぐしゃぐしゃに撫でる。
『……分かった。
帰ってきて、ちゃんと留守番出来てたら、いっぱい褒めてやる。
たくさん遊んでやるし、新しいことも、いっぱい教えてやる』
その手が、少しだけ震えていた。
『だから、それまで――ここを頼んだぞ。ミューズ』
母がいなくなるのは、まだ寂しい。
嫌じゃなくなったわけではない。
水の奥では、ミュシアがまだ少し泣いている。
ミュリナも寂しい。
ミュルナだって、本当は離れたくない。
それでも三人は、一つの身体で、母の衣から手を離した。
『ママ』
『……何だよ』
『いってらっしゃい』
イズミールの水が、ふるりと震えた。
『おう……行ってきます』




