第89話「揺れ動くこころ」
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封術教師が学園にいないということは、教師全体の数も減っているということになる。
授業を担当する教師が少ない以上、必然的に一日の授業数も減ってしまうため、午後の授業を終えた秋弥は普段よりも早い時間に自治会室にいた。
もはやすっかり自分の定位置となったソファに腰を下ろして仕事に取りかかる。
結局あれから聖奈が教室に戻ってくることはなかった。
保健室に付いた途端すぐに深い眠りについてしまったらしく、今も保健室のベッドで眠っているようだ。
聖奈が突然の体調不良に陥った理由は不明だが、保健室から戻ってきた玲衣と綾から話を聞いた限りでは、過労ではないかということだった。
「……おい九槻、手が止まっているぞ」
正面に座って雑務をこなしていた鶴木がふと顔を上げて指摘する。
なぜ自治会役員でもない彼がこの場にいるのかと言うと、聖奈が体調不良で自治会の仕事ができないことを会長代理の時任に伝えたところ、如何なる手段でその事実を知ったのか、スフィアから学生自治会に鶴木を聖奈の代わりに使ってくれとの申し出があったのだ。
……どうやらそこに鶴木本人の意思は介在しなかったらしい。
それでも不平不満のひとつも漏らさずに――表情は険しかったがそれは普段からなので違いがわからない――淡々と学生自治会の雑務をこなす鶴木に対して、秋弥は半分同情の目を向けながら自分の作業に戻った。
「それにしても、天河さんの体調は大丈夫なんですかぁ?」
秋弥の隣で電子書類に目を通しながら、世間話をするように亜子が言った。
「今朝は元気そうに見えていたので、心配ですよぉ……」
声が沈んでいるのは心の底から聖奈の身を案じているからだろう。仕事の手は完全に止まっていたが、鶴木がそれを指摘することはなかった。
「そうだね、天河会計補佐の体調は確かに心配だ。よし、ここは会長の代理として俺が天河会計補佐を見舞ってこよう」
「そう言って仕事をサボらないでください」
電子書類から眼を離したかと思うとすぐさま席を立って自治会室から出て行こうとする時任を秋弥がすげなく引き留める。振り返った時任に三人の冷たい視線が突き刺さった。
「冗談だよ、冗談。全く君たちは怖いなあ」
降参するように両方の掌を向けてヒラヒラと振る。そのままの格好で席まで戻って、再び電子書類に目を落とした。
「たっくん。今日ばかりは逃がさないから」
いつも弱気な亜子にしては厳しい口調で言った。少なくとも、明日会長たちが学園に戻ってくるまでにやっておかなければいけない仕事を終わらせるまでは自治会室から外に出さないという思いがひしひしと伝わった。
「……それはそれとして、九槻さんと鶴木さん。今朝講堂で起こった事故の報告書を見させていただきましたぁ」
「そうですか。何か不備でもありましたか?」
「うぅん。大ごとにならなくて良かったですぅ」
「あぁ、講堂の電灯が落ちてきたんだってね。女子学生が怪我をしなくて幸いだよ」
「報告書は会長たちにも送っておいたので、たぶん近日中には点検が入ると思いますよ~」
時任の言葉をさらりと無視する亜子。同級生だからか時任の扱いには手慣れたものがあった。
「それに今朝のことだけじゃなくて、スフィア会長が許可したとは言っても、わたしたちの仕事まで手伝ってもらって、すみませんですぅ」
対面の鶴木に座ったままで深々と頭を下げる亜子。その様子に、顔を上げた鶴木は慌てふためいた。
「い、いえ、スフィア会長からの依頼というのもありますが、これは自分が望んでやっていることでもありますので、鵜上先輩はお気になさらず」
明らかに狼狽した様子を見せる鶴木。『星鳥の系譜』に名を連ねる者同士にしかわからない上下関係のようなものがあるのだろう。
「それよりも、天河の代わりをしている自分が先輩たちの足を引っ張っていないかどうかの方が心配です」
「そのことなら心配しなくても大丈夫ですよぉ。むしろ大助かりしていますぅ」
「それなら安心です」
そう言って鶴木は自分の仕事に戻っていく。見ている周囲が疲れてしまうほど生真面目な性格の鶴木が着々と仕事を消化していくのを見て、秋弥も負けてはいられないと手元に視線を移した。
それから数十分後、各々の仕事効率も上がってきたところで不意に呼出音が鳴った。音の発信源は秋弥と亜子、時任の端末からだった。どうやら学生自治会宛の通知だったようで、一人だけ役員ではない鶴木はすぐにそのことを意識から外した。一方三人は顔を見合わせると、亜子が代表して呼び出しに応じた。
「はい、学生自治会役員の鵜上です…………はい………………はい。あ、承知しましたぁ」
短いやりとりで要件を済ませたらしい亜子が通話を切った。
「保健の先生からでしたぁ。先生は今日用事があってそろそろ出なくてはいけないそうですが、天河さんがまだ眼を醒ましていないので、誰か自分の代わりに付き添っていてほしいとのことでしたぁ」
最初から音声モードを切り替えてくれれば、ここにいる全員で話を聴けたのでは? と今更ながら秋弥は内心で思った。
「よし、それなら俺が行こう」
案の定、時任が渡りに船とばかりに席を立った。だがそれを阻んだのはまたしても亜子だった。
「たっくんはダメ」
「なぜだ!」
心外だとばかりに抗議の声を上げる時任。仕事がまだ終わってないからだろうと秋弥は亜子の言葉を予想したのだが、
「付き添うのは女子の役員でお願いしますって先生に言われたから。だからたっくんはダメ」
そう言われてしまえば反論の言葉を引っ込めざるを得ないだろう。眠っているとはいえ女子学生と男子学生が保健室で二人きりという状況は決して手放しに放置できるものではない。ましてや眠っている相手は人形のように綺麗な少女だ。たとえ保健の先生が許したとしても、亜子がその役目を時任に譲るはずがなかった。
「天河さんにはわたしが付き添うから、たっくんは自分の仕事に戻っていいよ」
「くっ……馬鹿な」
馬鹿な、じゃない。
「あ、たっくんは仕事が終わるまで絶対に帰っちゃダメだけど、九槻さんと鶴木さんは切りの良いところで仕事を切り上げて帰ってくださいね~」
絶対に、の部分を強調するように念を押しながら、亜子は秋弥たちに手を振って部屋から出て行った。亜子に聞く耳を持たれなかった時任は項垂れたまま席まで戻り、電子書類と再び向き合った。
「……そんなに落ち込まないでください、時任先輩」
と、消沈した様子の時任が気になったのか、鶴木が声を掛けた。
「鵜上先輩の言うことはもっともでしたから。だから自分たちもできるだけ早く仕事を片付けて、早々に帰りましょう」
そうは言うが、鶴木は時任のひととなりをきちんと理解しているのだろうか。不用意な発言は自分の首を絞めることに繋がりかねないぞと秋弥は懸念した。
「…………ふ、ふはは」
鶴木の心配をよそに突然笑い出した時任。一年生の二人が何事かと眼を向ける。彼は手にしていた携帯端末を机の上に叩きつけると、宙を仰いで高笑いを上げた。
「馬鹿な真似をしたな、鵜上会計。これで俺は自由となった!」
「いや、なってないですよ」
凍てつく冷気のように底冷えのする声音で秋弥が言う。しかしその言葉も今の時任には届かない。監視の目を厳しく光らせていた同級生という枷から解放された時任は勝ち誇った笑みで秋弥と鶴木を見た。
「悪いね二人とも。俺はこれから大事な用事があって帰らなければならないんだ」
つい数分前に聞いたような台詞を吐きながら、時任は勢いよく叩きつけても壊れることのなかった端末を指で操作した。すぐさま二人の端末に電子書類が送られてきた。
「……なんですかこれは」
訝しむ二人だったが、それぞれに送った電子書類が開かれたことを自分の端末で確認した時任は秋弥の疑問に答えた。
「それは不備のあった申請書類だ。九槻書記補佐と鶴木助っ人に二通ずつ渡してある。君たち二人はこれからその書類を持って該当の部活長に再提出を要求してきてくれ。修正された申請書類を無事に受け取れたら、今日はそれで帰って構わない」
添付の電子書類が元々格納されていた場所を確認すると、大量にあった未確認の電子書類がいつの間にか学生自治会確認済へと状態を変えていた。
普段からあまり自治会の仕事をしているところを見ていなかったので勝手なイメージばかりが先行していたが、亜子が心配するまでもなく、時任は自分の仕事を片付け終えていたようだ。
「時任先輩。申請書類は電子ファイルなのですから、自分たちが直接届けなくても今のように部活長へ修正依頼の連絡をすれば良いのではないでしょうか?」
鶴木の言うことは至極理に適っている。だけども時任は首を横に振った。
「今回の申請書類は来年度各部活へ割り当てる予算を決めるための指標となる大切な書類だ。期日も当に過ぎているし、戻ってきた会長たちの仕事を余計に増やさないためにも、申請書類の修正は早く、確実に行ってもらったほうがいい。それには役員が直接出向いた方が効果的だ」
これには秋弥も時任の評価を改め直さなければならなかった。風体や言動はいい加減であっても、時任は学生自治会の役員であり、それに見合っただけの能力を備えているということだった。
秋弥は二通の電子書類を一読する。不手際のあった電子書類にはレイヤが追加されており、どう修正すれば良いかまで書かれていた。
これだけ仕事ができるのなら普段から真面目にしていれば良いのに、と時任の仕事ぶりを素直に褒めはしなかったが、秋弥は小さく頷きながら言う。
「……わかりました。それでは修正していただいた書類は所定の場所に格納して、確認済に切り替えておきます。お疲れさまでした」
その言葉を待っていたように、時任は晴れやかな面持ちで颯爽と自治会室から出て行った。後に残された秋弥と鶴木はお互いに顔を見合わせると、どちらからともなく席を立った。
「僕のは二通とも運動部のものだ。この時期は訓練棟やグラウンドで難度の高い封術を使用できないから、たぶん校内の何処かで自主トレをしていると思う」
「俺のは文化部のだな。とすると俺の方は部活棟にある部室にいけば良さそうだ」
「そっちの方はずいぶんと簡単そうだな。だけどこの分担もきっと僕が治安維持会の仕事で学園内を歩き慣れてるからだと思うことにしておくか……」
「……悪いな。面倒なことを手伝わせて」
秋弥が心底申し訳なさそうに言う。鶴木は大きく眼を見張ってから、急にそっぽを向いた。
「勘違いするなよ、九槻。別に僕はお前に感謝されたくてやってるわけじゃないんだ」
「ああ、わかってるさ」
口ではそう言いながらも、鶴木が聖奈や自分たちのために協力してくれていることは事実だった。
二人きりとなったことでしぶしぶという空気を露骨に漂わせながら黙って部屋を出て行く鶴木の背中を見送った秋弥も、後片付けを済ませると自治会室を後にしたのだった。
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学生自治会室のある本棟から離れて部室棟へと向かっていた秋弥は、その道中で見知った顔を見つけた。
腰まで届く長く艶やかな黒髪とスレンダーな肢体を包む清楚なエプロンドレス。後ろ姿だけを見れば間違いなく女性であり、また、正面から見ても女性にしか見えない学生がそこにいた。
「おや、九槻くん。こんな時間に会うなんて珍しいですね」
視界に映った一瞬で目聡く気づいた太刀川夜空が振り返って笑顔で言った。そのアルト掛かった声と端整の取れた中性的な顔立ちは、格好と相まって美少女といって差し支えがなかった。
ただし、太刀川夜空がれっきとした男子学生である点に目を瞑ればだが。
「それはこっちの台詞だ。いまはバイトの時間じゃないのか?」
学園内で夜空がエプロンドレスを着用している理由は、彼女――否、彼が学園内に設けられた大食堂でバイトをしているからだ。……何故ウェイターの格好ではなくウェイトレスの格好をしているのかは今更問うまい。
「うん、食堂のバイトで配達サービスをしているところです」
「そんなことまでやってるのか……」
学生自治会役員となって一年近くが経つが、学園運営に多少関わっていながらもまだまだ知らないことは多い。食堂でのバイト内容に一度は目を通しておいた方が良いかもしれないと秋弥は心のメモに書き留めた。
「九槻くんも部室棟に用事があって来たんですか?」
「ああ、ちょっと不備のあった書類の修正をしてもらわないといけなくてな」
夜空と並び歩きながら秋弥が答える。こうしていると男女が仲良く歩いているように見えるかもしれないが、それはとんでもない誤りだ。
「そうなんですか。自治会役員の仕事も大変ですね」
「大変なのはお互いさまだろ」
「そんなことはないですよ。ボクは仕事の対価として学園からお金をもらっていますから」
確かに、そういう意味では仕事をする理由もその意義も全く意味合いが異なるだろう。親元から離れて一人でこの学園へとやって来た夜空にとって、仕事をすることは生きていくために必要なプロセスなのだ。
「そういえば、天河さんが体調不良で保健室に運ばれたって噂になっていましたけど、大丈夫なんでしょうか?」
「噂になってるのか?」
「うん。天河さんは勉強もできて美人で有名だから、クラスのみんなも心配していましたよ」
いったいどこから聞きつけたのだろうか。とはいえ既に知っているのならわざわざ隠す理由もないので秋弥は肯定した。
「自分の足で歩いていったから運ばれたわけでもないし、詳しい理由は本人から聞いてみないとわからないけど、おそらく疲労が貯まっていたんだと思う」
「そうだったんですか……。ボクも無理をして仕事をした後に倒れたことがありましたけど、長く続けていくためには休むことも大切なんだって、そのときに思いました」
日々バイトに励んでいる夜空の言葉には含蓄があった。彼もいろいろと苦労しているようだ。
「ただ、天河さんの場合はボクとは事情が違うんですよね。封術とは無縁だった聖條女学院からこの学園にやって来て、すぐに学生自治会の役員になって自治会の仕事をしながら勉強もして……いろいろな心労が重なったのかもしれませんね。それにここ数日の間は上級生たちも封術教師たちも不在だったので、なおさら気を張っていたのかもしれません」
神妙に語る夜空の言葉を聞いて、秋弥は申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。
他クラスに籍を置く夜空でもそんな風に察することができたというのに、長い時間そばにいた自分はまるで気づいていなかった。いや、きっと気づけなかったのではなく、あまりにも聖奈の近くにいたせいで感覚が麻痺していたのだと思う。
あまりにも彼女が出来すぎていたから――。
「…………ッ」
ドクン、と心臓の鼓動が早鐘を打った。それはまるで何かの警鐘のようであり、秋弥の裡で正体不明の不安が膨れあがった。
「九槻くん?」
突然立ち止まった秋弥を夜空が正面から見つめていた。秋弥は我に返ると、大丈夫というようにジェスチャをした。
「まあ天河に限って体調管理ができていなかったとは思えないし、突発的なことじゃ仕方ないさ」
肩を竦めながら軽口でそう言うと、夜空は不満を表すようにキッと眼を釣り上げた。
「女の子には秘密がたくさんあるんですから、そんな風に言わないでもっと気遣ってあげないとダメですよ、九槻くん」
黙っていなくても女子にしか見えない夜空が頬を膨らませてぷんぷんと怒りながら――しかも腰に手を当て、やや前屈して上目遣いでこちらを見つめるという仕草もおまけ付きで言うので、秋弥は表情を引き攣らせながらたじろぐしかなかった。
閑話休題。
「――ところで、夜空はどの部室に配達をしているんだ?」
部室棟に入ってからも自分と同じ方向へと歩いている夜空に声を掛ける。
「現代文学研究部ですよ」
「ん、なんだ。それじゃあ俺と同じか」
目的の場所が同じだったことがわかると、二人は偶然の一致に笑みを零した。
しかしながら現代文学研究部というご大層な名前の割に、ここへ来る前に目を通しておいた申請書類に記載されていた活動目的とその実績、そして部長の名前を確認したとき、秋弥は頭を抱えずにはいられなかった――現代文学とは何かというある種の哲学めいた疑問すら浮かんだほどだ。
「ボクはよくそこに配達することが多いんですけど、楽しいところですよ」
だが実際に何度も足を運んだことのある夜空は違う感想を持っているらしい。確かに勝手なイメージだけで決めつけてしまうのは、先ほどの時任のときと同じで愚考だ。
それでも一抹の不安を完全には拭えないまま、あっさりと目的の部室へと到着してしまった。
扉の横に設置された認証端末に夜空が自分の端末をかざした。ピコーンという小気味の良い電子音がしてロックが解除されると、慣れた素振りの夜空は迷うことなく部屋の中へと足を踏み入れた。
「失礼しまーす」
その後に続いて秋弥も慎重な足取りで部屋の中に入る。八畳ほどの室内の中央には長机が囲うように設置されており、ドックに接続した端末が投影する仮想のディスプレイに向かって三人の女子学生がしきりに指を動かしていた。
その奥側には中央の長机から隔離された机がひとつ置かれており、窓を背にして座る女子学生の姿があった。
秋弥も見良く知っているその女子学生は、夜空の声にワンテンポ遅れて反応すると、仮想ディスプレイを五指でなぞって眼前から払いのけた。
「いらっしゃい! 待っていたわよ、夜空君! ……と、それに九槻君も?」
西園寺美空が呆けた顔でそう言った。
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美空に指示されるがまま、夜空は出張給仕よろしく、部員たちと秋弥の前にティーセットを並べていた。ティーカップに注がれているのは彼が働いている大食堂から運んできたブラックチェリーの紅茶だった。
「これを飲むとね、作業が捗るのよ!」
一種のドーピング状態になるとでも言うのだろうか。爛々と輝く二つの瞳は先ほどまで必死の形相で眺めていた仮想ディスプレイではなく、給仕に勤しむ夜空へと向いていた。
「んー良いわねぇ」
美空は視線でなめ回すように夜空の全身を眺めている。
秋弥は思い直した。飲み物は関係ない。単に女性モノのエプロンドレスを着用した夜空という男子学生を間近で見ていたかっただけだ、と。
白けた視線が自分に集中していることに気づいているのかいないのか。眼福眼福と美空は夜空を見つめている。その視線に気づいた夜空が恥ずかしげに小さく身を捩ったが、それすらも美空を喜ばせるだけの行動だった。
「……で、美空先輩。そろそろ本題に入っても良いでしょうか?」
固くなった表情と声で言うと、上機嫌の美空が「なぁにぃ?」と緩みきった顔で応じた。
「……現代文学研究部の提出した来年度の予算申請書類に不備がありましたので、修正と再提出をお願いします」
秋弥は自分の端末を操作して問題の書類を大写しにすると、該当部分を美空に示して見せた。すると美空の視線が左右に忙しなく動いた。
「……あらま。あたしとしたことが書き間違えちゃったみたいね」
短時間で内容を把握した美空が自分の端末から提出した電子書類と同じファイルを開いて修正を加えた。その手際の良さに秋弥が舌を巻いているうちに、美空は手に持ったスタイラスペンをくるくるっと回してから柄の部分で書類を叩いた。
「はい、修正したわよ」
言葉とともにあっという間に手直しされた申請書類が秋弥の端末に届いた。その内容を秋弥が目を通して確認する。
「それにしても相変わらず時任君は良い仕事をするわね。ちゃらちゃらしていないで普段からそうしていれば良いのに、もったいないわ」
他人事のように美空は言うが、普段から自治会室で仕事をしていないのは美空も同じだった。
「ね、秋弥君もそう思ったでしょ?」
「まあそうですね」
気のない返事になってしまったが、秋弥も同感だった。自治会室には来なくとも、時任は学生自治会の役員として、秋弥たちの見えないところできっちりと己の仕事をこなしていたのだろう。成果のほとんどは会長である悠紀のもとに集約されてしまうため秋弥が彼の仕事ぶりを伺い知ることはこれまでなかったが、それはおそらく現代文学研究部に籍を置く美空にしても同じことなのだろう。
「ん?」
「……いえ」
知れず美空の表情を伺うように見つめてしまっていた秋弥だったが、美空の声で我に返ると視線を再び電子書類へと落とす。速読能力を持っているらしい美空よりも内容を把握するまで時間が掛かってしまうのは仕方のないことだ。
「……問題ありません。ありがとうございました」
最後に最終更新者の名前を確認した秋弥は修正された方の電子書類を所定の場所に格納した。これで案件が一つ片付いた。残り一つの案件を片付ければ、今日の仕事は終わりとなる。
「うぅん、こっちこそ手間を掛けちゃったわね。……って九槻君、何処へ行くの?」
目的の一つを片付け終えた秋弥が席を立とうとしたところで、美空がそれを引き留めた。
「申請書類に不備のあった部活動は現代文学研究部だけではないので、次へ向かおうかと」
言った途端、美空だけでなく、これまで耳だけを傾けていた現代文学研究部の女子学生たちも一斉に秋弥を見た。
「えっ……何ですか?」
八つの瞳が濁った光を放ちながら秋弥を見つめている。
その異様な光景を前に、秋弥の背筋に嫌な汗がついと流れた。
「九槻君……あなたね……」
嘆息混じりの美空の声が秋弥の耳朶を打つ。彼女の瞳も呆れたように秋弥を見つめていた。
「……何なんですかいった――」
い、とは続かずに呟きが途切れる。顔を向けた秋弥の眼に映ったのは、現代文学研究部員の誰でもなく、清楚なエプロンドレスに身を包み、胸の前でティーポットを抱いた夜空の姿だった。
「……せっかく温かい紅茶をいれたのに、九槻くんは飲んでいかないの?」
濡れた瞳と庇護欲をそそる震え声が秋弥の動きを完全に止めており、かつ批難の籠もった八つの眼が秋弥を射貫いていた。まるで猛獣の檻に入れられた子鹿のように身動きが取れなくなった秋弥は浮かせていた腰をのそのそと下ろすしかなかった。
「それで宜しい」
満足げな美空たちと笑顔の夜空。彼女たちが全員グルだったのは最早明らかだったが、たとえ演技であってもその瞬間だけは真に迫っていたことは否定できない。
大人しく座り直した秋弥はブラックチェリーの紅茶に口を付ける。口内に酸味がじんわりと広がって思考を解していく。思えば昼休み以来の水分補給だった。
「ホント、この学園に夜空君みたいな男の子……いえ、男の娘がいたなんて盲点だったわ」
美空も紅茶に舌鼓を打ちながらしみじみと言った。
「それに夜空君と九槻君が友達だったこともね。いやぁこれで妄想の中での掛け合わせも捗るわ」
部員たちが無言のまま頷く。夜空は美空の言葉の意味を理解していないのか、背筋をぴんと伸ばしたままニコニコと笑顔を浮かべている。何がそんなに楽しいのだろうか。
ムスっとした顔の秋弥は、妄想とか掛け合わせとかの物騒な言葉を聞き流すことに徹していた。下手に突っかかって泥沼にはまってしまわないように黙り続けることを選んだのだ。
正直なところ、この西園寺美空が悠紀やスフィアよりもやっかいな人物であるということをこの一年の間で十分に学んだ。いかな事情か彼女の妄想の登場人物にされやすい秋弥は、今回もまた余計な情報を美空に与えてしまったようだ。
だからこそ、これ以上関わらないように、口を閉ざすしかなかったのだが……。
「来た、降りて来たわ! ねえみんなも聞いてちょうだい! いえ、メモの準備よ! いい? いいわね!? 高嶺の花である上級生のお姉様たちから身分違いの想いを寄せられていた彼を気遣う女の子。でもその子は実は女装をした男の子だったのよ! じゃあ何でそんな格好をしているのかというと、そうしていれば他の女の子が彼に近寄ってこないと思ったのね。だけどそんなことを続けているうちに、その男の子は気づいてしまうの。自分もまた彼に惹かれていたということにね!」
興が乗ってきたように語る美空と、腐った笑みを口元に浮かべながらコクコクと頷いて仮想のキーボードを高速タイピングする女子部員たち。秋弥は機械のように表情を殺して耳と心を閉ざした。夜空はただただその様子を楽しそうに眺めていた。
「女の子が女装をした男の子だということを知っているのは、ひっそりと彼に想いを寄せていた同級生の女の子だけなの。だけどその事実を告げてしまうと彼だけでなくその男の子も傷つけてしまう。心優しい女の子はそんな思いの板挟みになって何も言えずにいるのだけど、ただそれでも上級生のお姉様たちは強かったわ。彼の思いを踏みにじるような真似はせず、だけども彼を自分のものにしようとして行動を起こしていくの。彼を取り巻く関係は、こうして五角関係へと発展したわ!」
勢い余った美空が机をバンと叩いた――その瞬間だった。
轟音が――。
「――何!?」
まるでタイミングを見計らったかのように、部室棟の外から何かが破壊されたような轟音が、響いたのだった。
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グラウンドの隅で体格の良い男子学生と腕に二種類の腕章を付けた男子学生が端末に顔を寄せて難しい顔をしている。時折端末に向かって指を差し、首を横に振っている姿が印象的な光景だ。
やがて満足のいく回答を得られたのか、腕章を付けた男子学生はくるりと背を向けると嘆息した。
「まったく……運動部連中の相手は時間が掛かるな」
それでも彼――鶴木真が運動部の部長に届けていた申請書類は、彼が無駄足を踏まないように本日活動をしており、かつ、部長が三年生へと引き継がれている部活だけが選ばれていた。
「だけどこれで終わりか。思ったより早かったな」
鶴木はそう一人ごちる。
秋弥はどういうわけか意外な顔をしていたが、スムーズに仕事が進んだのも会長代理を務める時任の手腕によるところが大きいだろう。初めて学生自治会の活動に参加した鶴木だったが、非常にやりやすかったと感じていた。
だがそれも今日限りのことだ。
明日になればスフィア会長たちも帰ってくる。そうすればまたいつもの日常だ。
「よう、鶴木。治安維持会の見回りか?」
ふと声を掛けてきたのはグラウンドの外周ランニングから戻ってきたばかりの堅持だった。鶴木は反射的に顔を歪める。どうしてこいつがここにいるんだという顔をしてから、堅持が拳術部に所属していることを思い出した。
「……チッ」
「おいおい! 顔を合わせて早々に舌打ちとかひどくねぇか!?」
マラソンを終えたばかりで息を切らしてへたり込んでいる部員が多い中で、堅持だけは元気が有り余っているようだった。そんな彼を一瞥すると、鶴木は鼻を鳴らした。
「ふん、そんなに体力が残ってるのならもう十周くらい走ってくればいいんじゃないか?」
「んだとてめぇ……あんまり人様のことを馬鹿にしてると……ん?」
堅持の視線が鶴木の右腕に巻かれた腕章へと向いた。ひとつは見覚えがある――治安維持会のメンバーを示す赤色の腕章だ。そして見慣れないもうひとつは、学生自治会の臨時役員を示すものだった。
「……なんだ?」
「あ、いや……なんかわりぃな」
堅持がはたと気づいて頭を掻いた。急に殊勝な態度を見せた堅持に対して、鶴木は気持ち悪いものを見るような眼を向ける。何故堅持が謝罪の言葉を口にしたのか、その理由を探っているようだ。
「いやまあ……お前がそれを付けてるのって、少なからず天河さんが体調不良になったこととも関係があるのかと思ってさ」
鶴木の訝しむような視線の意味を察した堅持がそう答えた瞬間、鶴木は嫌気が差したように顔を顰めた。
「何だ、そんなことか……。たとえそうだったとしても、君には関係のない話だ」
「あぁ? 何言ってんだ。関係なくはねぇよ」
鶴木の突き放すような口調と態度が気に入らなかったのか、堅持の声に怒気が混ざった。しかし鶴木はそれに気づいていながらもさらに彼を煽るようなことを言った。
「関係ないだろ。役員でもない君に何の関係があるっていうんだ?」
「……確かに俺は役員じゃねぇけど、天河さんの友達だからな」
「…………」
「友達が迷惑を掛けたってんなら、俺は嫌いな奴にだって頭を下げるさ」
無駄に格好いいことを言った堅持の耳に、疲労で思考が鈍っている部員たちからの「おぉ」という感嘆の声が届いた。だが鶴木はその声を運動部特有の暑苦しい団結意識だと思って意識の外へと追いやった。
「…………しい」
「あぁ、なんだと?」
「聞こえなかったのか……? 馬鹿馬鹿しい、と言ったんだ」
低く響いた堅持の声にも臆せず、鶴木は憎々しげに彼を睨み付けた。
「自治会の臨時役員を引き受けたのは天河のためだけじゃない。先輩たちがいなくて人手が足りていなかったからだ」
堅持の態度に無性に腹が立った鶴木は吐き捨てるようにそう言った。
しかし、誹りを受けたはずの堅持は眼を丸くしていた。
「……なんだよ、その顔は」
間の抜けた顔を前にして鶴木はさらに苛立ちを募らせたが、当の堅持はつい数瞬前まで抱いていた怒気をすっかり忘れてしまったように表情を緩ませていた。
「は、はは……」
唐突に笑い始めた堅持を見て、ついに気でも狂ったかと鶴木は思った。
「はははははっ!」
何がそんなに可笑しいのか。不愉快な感情ばかりが沸々と沸き上がる鶴木とは対照的に、堅持はいっそ晴れやかな表情で一頻り笑い終えると、気の知れた友人にそうするように大きな一歩で鶴木に近づいて彼の肩をポンと叩いた。
「お前もホント、つくづく損な性格をしてるよな」
鶴木は気づいていなかったが、彼は堅持の言葉を否定しながらも、「天河のためだけじゃない」と言ったのだ。
本当に関係がないのなら「天河のためじゃない」と言えば良かったのだ。なのにそう言わなかったのは、それが鶴木の本心だったからに他ならない。
鶴木は堅持の態度が急変した理由を理解できずにいたが、それは彼がこれまで他人とあまり接してこなかったからだろうと、堅持は解釈した。
ただそれも、この一年間でずいぶんと変わりつつあるように感じてもいた。
入学したての頃は些細なことで口論もしたし、互いに怒りをぶつけあったこともあった。
それでも、少しずつだがいろいろなことが前へと進んでいるらしい。封術の技術ではまだまだ彼には及ばないが、生きていくために必要なことはそれだけではない。勉学以外のことで――たとえば一人の友人として、他人と付き合うことが苦手な鶴木に教えてあげられることはあるように思えた。
未だに懐疑的な眼を向けている鶴木にもう一言声を掛けようと堅持が思った――その瞬間、それは起こった。
ドゴォォンという轟音とともに鶴木の背後に見えていた本棟の一部から煙が立ち上った。
「なっ……!?」
突然の出来事に硬直してしまう堅持。
そんな彼を尻目に、鶴木ははじかれたように音のした方を向くと本棟へ向かって駆けだしたのだった。
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保健室を訪れた亜子が保健教諭の代わりを引き受けてからしばらくして、保健室の扉が開いて一人の女子学生がおそるおそる顔を覗かせた。
「すみません……天河聖奈さんの調子はどうでしょうか?」
純和風な容貌に不安げな表情を浮かべた朱鷺戸綾は部屋の中に保健教諭の姿が見当たらないことにすぐに気づいた。部屋の主がいないのに勝手に入ってしまって良いのだろうかと悩むように大きな黒目を揺らしていると、衝立の反対側にいた亜子が彼女の声に気づいて顔を出した。
「鵜上先輩……?」
「こんにちはぁ、朱鷺戸さん」
「こ、こんにちは……。えっと、あの、保健の先生はどちらに?」
亜子がなぜ保健室にいるのか疑問に思ったが、この時間は秋弥たちが自治会室で仕事をしている頃だ。彼から事情を聞いているのなら、同じ役員の亜子が聖奈を見舞いに来ていても不思議ではない
「保健の先生なら用事があって先に退勤されましたよ~。なので今日はわたしが先生の代わりをしていますぅ」
「あ、そうだったんですか」
うんうんと小動物のように愛らしく頷く亜子。そういう事情があったとは思わなかったので、綾はばつが悪そうにした。
「とはいっても、わたしには簡単な応急手当くらいしかできないので、一応インフォメーションは出しましたけど、こういう日に怪我人が出なければ良いですぅ」
四、五年生と封術教師陣が論文発表会で今日まで不在なので運動部も監督責任者の立ち会いが必要となるような難しい封術は使えない。学園の規則を破って封術を過剰行使する者がいれば話は別だが、年度の終わりも迫ったいま、大ごとを起こす学生が現れる可能性は極めて低い。
「天河さんのことでしたね~。いまもぐっすりと眠っていますよぉ」
手招きをする亜子に付いて衝立の裏に入る。ベッドの隣に置かれた丸椅子に座るように勧められたので腰を落とすと、ベッドの上で細い寝息を立てて眠る聖奈の表情をまじまじと眺めた。
「保健の先生の話では、今朝からずっと眼を覚ましていないそうですよぉ」
亜子が表情を曇らせる。今朝からというと、すでに五時間以上眠っているということだ。
「寝不足だったのでしょうかぁ……そういえば朱鷺戸さんは天河さんと同室でしたよね? 何か最近、天河さんに変わったことはありましたかぁ?」
それは聖奈を保健室まで送り届けてから教室に戻ったときに秋弥たちからも聞かれたことだ。聖奈とは毎日朝から夜まで顔を合わせているが、これまで特に変わった様子は見られなかった――と思う。
聖奈が体調不良を訴えていたとき、真っ先に気づけたはずの自分が気づけなかったことを後悔していた綾はずっと考えていた。
それでも綾には理由が思い当たらなかった。それは本人が周囲に気づかれないように隠していたからか、それとも本人も気づいていなかったかのどちらかということだ。
もしも聖奈が無理をしてでもそれを隠していたのだとするのなら……自分たちはまだ彼女に信頼されていないということなのだろうか。そんな暗い思いが綾の胸をぎゅっと締め付ける。
「朱鷺戸さんも、顔色があまり良くないですよぅ……」
亜子の声もさっきより遠くに聞こえる。それは錯覚なのだが、聖奈に強い意識を向けている綾はそれに気づかない。
二人を静寂が包み込む。
どのくらいそうしていただろうか。
「……えっ?」
不意に亜子の視界がぐにゃりと歪み、目眩で立っていられなくなった。ふらふらと後退り、近くにあった机に手を突いて崩れそうになる身体を押さえた。
「ど、どうしたんですか!?」
そのただならぬ様子に驚いた綾が顔を向ける。しかし亜子自身も何が起こったのか理解しておらず、瞳をぱちくりさせた。
「いま……えっ、なんで……?」
自身を襲った不可解な現象を前にして亜子の呟きが漏れる。
ほんの一瞬の出来事だった。
ベッドの上で眠る聖奈を眺めていたら、突然視界が真っ白に染まった。それからぼやけた輪郭が滲むようにじわりと浮かんできたのだが、それがはっきりとした形となる寸前、亜子の視る世界が褪せてセピア色に変わったのだ。
それは『神秘眼』鵜上家に受け継がれてきた異能の力――重層視覚の一片。
しかし何故いま、という疑問が浮かぶ。
正体不明の恐怖に亜子の身が竦んだ――その瞬間、亜子と綾の身体を不可視の衝撃が襲った。
そして時間軸は冒頭へと戻る。
久しぶりのお盆休みだったのにろくに書けませんでした……orz
時系列的には88->89->87->90話となって、次からは聖奈さんが(たぶん)荒ぶります。