第90話「神格化」
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突然の轟音に窓際で立っていた夜空が身をすくませた。平穏だった学園を襲った出来事に部員たちも顔を上げて音の聞こえた方に顔を向けている。
秋弥も何が起こったのかを確認するために席を立ったが、美空は彼よりも早く行動に移っていた。美空は雷光のような指捌きで端末を操作すると、すぅと息を吸い込んだ。何を始めようとしているのか。秋弥は腰を浮かせたまま美空の動向を見守ることにした。
「――学生自治会です」
美空の第一声はそれだった。
「ただいま学園内で不測の事態が発生しました。当方の役員が状況の確認を行いますので、部室棟内の皆様にはご不便をおかけしますがその場から動かずにいてください」
美空の言葉には淀みがない。瞬く間に学園の放送システムにアクセスした彼女は、部室棟に残っている学生に向かって話をしていた。
「また、緊急時には自衛のための封術の使用を許可しますが、各部活動に所属している下級生はできるかぎり上級生の判断に従ってください。以上です」
マイクの音を切った美空が息を吐く。状況確認よりも先に、棟内で起こることが予想された混乱状態を抑えたのである。
そうして秋弥も弾かれたように行動を起こした。
窓のそばまで駆け寄ると、外の様子を確かめる。
「あれは……」
本棟から細い白煙が上っていた。それは保健室のあるあたりだった。
あの付近には聖奈と亜子がいるはずだ。おそらくまだ眠ったままの聖奈はともかく、亜子がこの事態に気づいていないとは思えない。
隣に気配を感じてちらと眼を向ける。美空もまた窓から身を乗り出すようにして様子を確認していた。
「本棟で爆発事件かしらね?」
この場所からでは判断することができない。夜空と部員たちも二人の後ろから遠巻きに外の様子を伺っていた。
「あの近辺には鵜上先輩がいると思いますが……西園寺先輩。この場を任せても良いでしょうか?」
「九槻君?」
「俺が状況を確かめに行ってきます」
「待ちなさい!」
険しい顔で踵を返した秋弥の腕を、美空が慌てて掴んだ。
「何が起こってるのかわからないのに、一年生の九槻君を現場に行かせるわけにはいかないわ」
まくし立てる美空の表情もまた険しかった。こういうときに頼りになる会長たちや封術教師たちが不在のいま、この不測の事態に対応できるのは学園に残った最上級生である自分を置いて他にないと美空は考えていた。
その考えは秋弥にも理解できるし、迅速な対応を見せた美空の判断力は疑いようもないだろう。
しかし――、
「……現場の様子を確かめることは俺にもできますが、部室棟に残っている学生たちの指揮を執れるのは西園寺先輩だけです」
少なくとも自分には無理だ。だから秋弥は自分にできることを選んだのだ。
「それは……」
美空も言葉に詰まる。両方を一人でこなすことはできないが、かといってこの場に残ることと現場の状況確認をしに行くことを天秤に掛けたとき、どちらの方がより危険かを考えてしまうと安易に回答を口にすることができずにいた。
「ですから先輩、ここはよろしくお願いします」
「あっ……」
葛藤する美空の腕を秋弥がそっと振り払った。
「夜空は西園寺先輩が手助けを必要としていたら、そのサポートを頼む」
「うん、こっちは任せてください」
二つ返事で頷いてくれた夜空に黙礼を返すと、秋弥はこれ以上の言葉を重ねずに現代文学研究部から出て行く。美空が迅速に手を打ったおかげか、廊下に出ている学生たちはいなかった。
――リコリス。干渉波の気配は掴めるか?
すぐさま駆けだした秋弥は心の内に向かってそう問いかける。周囲に彼以外の人の姿はないが、答えはすぐに返ってきた。
――ものすごく微弱だけど、感じる。
幼子の声が頭の中に響いた。秋弥と『意』を共有するリコリスが現層世界に干渉する波長の気配を辿った。
――でも確かこれは……えっ。
ハッとしたようなリコリスの声に秋弥の足が止まる。『意』を通してリコリスの感じた疑念が秋弥の心にも広がっていく。
どうかしたのかと秋弥が口にしようとしたとき、不意に端末がけたたましい音を発した。
初めて耳にするその音に秋弥は顔を顰める。リコリスも驚いている様子が伝わってきた。
だが、音を聴くのは初めてであっても、その音が何を意味しているかは知っていた。
その音は学生自治会役員の間で緊急連絡時に使われる通信音だ。それが鳴ったということは、事態は秋弥たちが想像していたよりも悪い状況になっているのかもしれない。
『――ったの?』
こちらの操作を待たずに音声モードが強制的に切り替わった。と同時に数日ぶりに悠紀の声を聞いた。
『――会長』
悠紀の声に応じたのは亜子だった。どうやら亜子と悠紀の間で行われている通話を他の役員が傍聴している形になっているらしい。
『学園で問題が発生しました』
いつになく切羽詰まった様子の亜子の声は、たったそれだけで秋弥の全身を緊張状態にさせるには十分すぎる効力があった。
だが次に亜子が口に出した言葉は、秋弥をさらに驚かせた。
『天河聖奈さんが――神格化しました』
それは――耳を疑うような言葉だった。
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同じ頃、現代文学研究部で秋弥と同じ通話を聴いていた美空も言葉をなくしていた。
天河聖奈が神格化した。
その衝撃は美空だけでなく、聖奈のことを知る夜空の思考も停止させていた。
神格化――それは現層世界の存在が漸近した異層世界のエリシオン光波長に当てられ、同調し、異層世界の存在へと変質してしまうことだ。
それが聖奈の身に起こったと言われても、普通ならば一笑に伏してもおかしくはない。何故ならば神格化という現象自体が滅多に起こり得るものではなく、加えてそれが封術学園の敷地内で起こる可能性なんて考えられなかったからだ。
しかしそれを告げたのが重層視覚という希少な瞳を保有する亜子の悲痛な声であれば、話は別だ。
『神格化? それは間違いないの?』
『はい……間違いありません』
だからそれはおそらく事実なのだろう。
断言する亜子の声も、いつもの舌っ足らずなものではなかった。無意識のうちに表情を引き締めた美空は、二人の会話を一言一句聞き逃さないように耳をそばだてた。
『……わかったわ。それで、聖奈さんはいまどこへ?』
『…………わかりません。気づいたときにはもう、天河さんは保健室からいなくなっていました』
「……っ!?」
それでは――神格化した聖奈は現在、学園内の何処かにいるということか。
美空の全身を緊張が駆け巡る。それは一緒に会話を聞いていた夜空と部員たちにも伝搬し、張り詰めた空気が部室を包んだ。
『そう……それなら亜子は聖奈さんの後を追わなくていいから、近くの異層領域から調律を始めなさい。――美空、聴いているかしら』
「は、はい!」
通信の向こうから悠紀が自分を呼んだ。慌てて返事をすると、いつの間に通話設定を変更していたのか、こちら側の声も悠紀たちに届くようになっていた。
『あなたは学園の敷地内に残っている全学生たちに危害がおよばないように、まずは緊急の連絡放送を全チャンネルに向けて行ってから亜子と合流しなさい』
「承知しました!」
『それと……時任君はいないのね』
どうやら悠紀の側からは誰がこの通信を傍聴しているのかがわかるようになっているらしい。
『秋弥君』
今度は秋弥に呼びかける。間を置かずに秋弥が応じた。
『はい』
『あなたたちなら聖奈さんの干渉波を追えるわよね?』
『可能です』
確認の意味を込めた悠紀の問いかけに、短くもハッキリとした肯定の言葉が返ってくる。一人で駆け出していった秋弥の姿を見ていた夜空たちは悠紀の言葉に微かな疑問を覚えたが、余計な口を挟むわけにもいかず、ただ静かにやりとりを聴いていた。
『それならあなたたちは聖奈さんを探してちょうだい。……聖奈さんの目的がわからない以上、事は急を要するかもしれないわ。もしも……もしも学園の重要施設や他の学生たちに危害がおよぶようなことがあれば……聖奈さんを止められるのはあなたたちしかいないわ』
それは……その言葉は。
美空は思い出す――まるで自らが当事者であったかのように鮮明な記憶とともに、幼い秋弥と彼女の存在を、思い出す。
確かに彼女の力があれば、神格化したという聖奈を止められるかもしれない。
だがしかし、それは――。
『……はい』
秋弥の重々しい声で美空はハッと我に返る。
彼は覚悟を決めたようだ。
それでも神格化した聖奈と秋弥たちが戦ったらどちらが勝つかなんて、美空は考えたくなかった。ましてやその結果がもたらす最悪の結末も……。
『二人にとっ……い結果になるか…しれな………ど』
そんな考えを振り払うように、あるいは意識を逸らしたくて、自らの作業に集中しようとする矢先のことだった。
『そ………私は学………………話を…………るわ。……長は聖奈……………………を知っ……………性……………』
「え、何て言ったんですか、会長?」
悠紀が何を言おうとしていたのか。よく聞きとれないままに通信がブツンと途切れてしまった。
「大丈夫なのでしょうか……」
夜空が不安げな声を漏らす。通信状態がよくないのだろうか。悠紀との通信が再び繋がる様子はなかった。
それでも遠く離れた場所にいる悠紀と違い、学園内のシステムにはローカルの通信網からアクセスすることができる。ならば自分は彼女から任されたことを着実にこなし、すぐにでも亜子と合流して次の行動に備えるべきだ。
「あたしは放送を流したら本棟にいる亜子のところに向かうわ。夜空君たちは部室棟から学生たちが不用心に外へ出ないように警戒しておいてちょうだい。それと、もしも天河さんの姿を見かけたらすぐに学生自治会に連絡をすること。もちろん、絶対に近づかないようにしてね」
聖奈の実力はよく知らないが、神格化しているという事実だけで通常ではありえない異常性を備えている可能性がある。
本当ならば一般学生に手伝ってもらうというだけでも気が引けるのだが、この場にいる学生は美空にとって信頼できる人たちだった。それが四人もいれば自分一人の代わりとしては申し分ないだろう。それどころかおつりがもらえるくらいだ。
それぞれが万一に備えて装具を召喚する中、美空は学園敷地内の全チャンネルへ向けて緊急の連絡を行った。
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聖奈が神格化する少し前のことだ。本棟東側二階の家庭科室で二人の女子学生が手作りのお菓子を男子学生に振る舞っていた。学園内でも美男子として有名な同級生が自分たちの作ったお菓子を美味しそうに食べてくれる。その様子を見ているだけでも二人は幸せだったし、彼は喋り上手で聞き上手でもあったので、三人の間では会話にも華が咲いていた。
そんなとき、不意に本棟全体が大きく震動した。大きな地震でも起こったのだろうかと二人の女子学生は暢気に思いながら、チャンスとばかりに男子学生に抱きついた。
しかし、そんな役得の渦中にいた男子学生は二人の女子学生を見ていなかった。顔を上げた二人が見たのは真剣な表情で眉根を寄せて明後日の方向を見つめている男子学生の姿だった。
そして次の瞬間、二人の女子学生は男子学生に強く突き飛ばされた。男子学生の突然の行動に、どうしてそんなことをされたのかわからなかった女子学生たちは尻餅をつきながら抗議の声を上げようとして、その言葉を呑み込んだ。
二人の眼前で何かが壊れる音と割れる音が大音量で響いたからだ。突き飛ばされた女子学生の眼前には震動の影響で倒れたと思われる食器棚があり、男子学生の姿は見えなかった。
男子学生はすぐに見つかった。彼は食器棚の下敷きになっていたのだった。
「うそ……でしょ……」
女子学生はその場でへたり込み、呆然と呟く。
二人の周囲には棚のガラスや収納されていた食器の破片が大量に散らばっている。食器棚の下敷きとなった男子学生は微かに見える頭部や二人を突き飛ばした際に伸ばした腕から血を流しており、身体の殆どは食器棚の下敷きとなっていた。彼が二人を庇って犠牲になったのは明白だった。
「達彦くん……達彦くん」
冷静になって考えることができれば、封術師見習いである女子学生たちには彼を助ける方法がいくらでもあった。
しかし、突然の出来事に混乱していた女子学生は嗚咽混じりの声で男子学生――時任達彦の名を繰り返すことしかできなかった。
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誰よりも先に音のした方へと駆け出していた鶴木は、走りながら何が起こったのかと推察していた。
轟音が聞こえたのは本棟の一角――おそらく保健室があるあたりだろうか。今もその辺りからは細く白い煙が空へと向かって尾を引いている。
今までも化学や物理学の実験中に下手をした学生が爆発事件を起こしたことはあったし、これが部室棟であったのならば多少の封術の行使は認められているので、そういうこともあるだろう。
だがしかし、いま問題が起こっているのは封術の使用が禁止されている本棟であり、鶴木が耳にした爆発音は実験の失敗程度で起こるような規模のものではなかった――それ以前に今日は実験室の使用願は出ていない。
「くそっ、いったい誰が……」
自身も過去に本棟の、しかも自分の所属する教室で封術を行使しようとした過去があるので複雑な心境ではあるが、スフィアの眼鏡に適って直々に治安維持会のメンバーにならないかと誘われ、その職務を続けているうちに規則というものの大切さを知った。
「封術の過剰行使者か。スフィア会長も不在のこんなときにふざけた真似を……」
鶴木は毒づく。状況を混乱させないために外で部活動を行っている学生たちには不用意な行動をしないように言っておくべきではなかっただろうか。否、今日一日自分は学生自治会の臨時役員であっても、本職は治安維持会のメンバーだ。ならばやはり、その職務を優先すべきだろう。
それに部室棟へと向かった秋弥もこの事態には気づいているはずだ。ならば自分と同じように何らかの行動は起こしていると考えて良いだろう。
そこまで考えたところで鶴木は眼を見張った。自治会の役員は秋弥だけではない。ここに来る前、自治会室で一緒に仕事をしていた女子学生の事を思い出した。
「鵜上先輩……」
保健室には亜子が残っていたはずだ。そして轟音が聞こえてきたのもその方向だった。
悪い予感が鶴木の胸の内に広がる。亜子の家系は自分と同じく『星鳥の系譜』に名を連ねているが、彼女の専攻は調律術であって封魔術ではない。もしも封術の過剰行使者と相対したとして亜子が対処できないとまでは思わなかったが、先頭に立って立ち回るタイプでないのもまた明らかだ。
それともう一人――保健室には同級生の聖奈もいる。今朝講堂前で顔を合わせたときには普段どおり元気そうに見えていたのに、一時限目が終わったときには顔色を青ざめさせて尋常じゃない様子を見せていた。
二人は無事だろうか。
鶴木は篭手型の装具を召喚するとその存在を確かめるように撫でてから走るスピードを速めた。
駆け抜けるように本棟の玄関口を潜って建物の中へと入る。保健室があるのは本棟の東側。多目的棟への通じる渡り廊下のある方向だ。
目的の方向へと顔と身体を向けた鶴木は、視界の正面が揺らめいて見えることに気がついた。
「なんだ……」
異変は間違いなく起こっている。
だがこれは鶴木が初めて直面する事態だった――否、そうじゃない。学園内で直面するのは初めてというだけで、鶴木はこれと似た光景を何度も見たことがある。
「異層領域……でも何で学園内で?」
理由は不明だが学園が未曾有の事態に陥っていることはもはや疑いようもない。
過剰行使者以上の問題を前にして鶴木はどう行動すべきか迷った。彼は封術師見習いながら鶴木家に帰属する封術師に付いて封術の仕事を手伝った経験もある。さすがに異層領域の調律をしたことまではないが、異層領域を作り出した元凶と戦った経験も少なからずあった。
「……僕がやるしかないか」
少し待っていれば秋弥もこちらに来るかもしれないが、異層領域の向こう側には亜子と聖奈の二人もいるはずだ。亜子と合流することができれば目の前に広がる異層領域を調律してもらえば良い。
「ん?」
意を決して一歩を踏み出した鶴木の視界に、ふとうっすらと影が浮かび上がった。良く見ると人の形をした影は、この場に居合わせても不思議ではない人物だった。
「無事だったのか、あ――」
エリシオン光波長の共振現象によって重層する世界の領域が乱れている通信状態の悪い映像を視させられているような不安定な視界に映ったのは、重層領域の内側にいても見目麗しい女子学生の姿だった。
「……天河?」
鶴木の言葉が疑問系に変わる。やや俯き加減の聖奈の表情は錦糸のような栗色の髪で完全に隠れていて覗うことができない。彼女は足元の何かを眺めているようだった。
鶴木は様子のおかしい聖奈を怪しむように慎重に近づいていった。
そうして僅かに視線を下げて聖奈の足元を視た鶴木ははたと気づいた。
彼女の足元には、右腕に自分と同じ赤い腕章を付けた見覚えのある二人の学生が倒れていた。
「六道副会長! 火浦先輩!」
鶴木の警戒心が一瞬で最高潮まで達した。咄嗟にその場から飛び退いて聖奈から距離を取る。
心臓が早鐘を打つように鳴っていた。どうして治安維持会メンバーの二人が倒れ伏しているのか。悪い予感ばかりが鶴木の胸中に広がった。
「天河、何があった!?」
鶴木の声に反応したのか、聖奈がゆっくりと顔を上げる。髪の隙間からちらりと覗いた左の瞳が鶴木を見つめた。
その視線に、鶴木は身動きが取れなくなった。
何らかの封術が作用したわけではない――その瞳に、本来宿っているはずの人間的な感情が一切感じられなかったからだ
聖奈の虚ろな双眸が鶴木をゆっくりと捉えた。早鐘を打っていた心臓は鶴木の身体を内側から破って飛び出そうとしているかのようだった。
鶴木は聖奈から意識を完全には離さないように注意しながら、視線だけを動かして彼女の足元で倒れている二人を見つめた。
六道白はスフィアが不在の間、治安維持会の会長代理を任されていた。副会長である六道の姿を見たのはまだ数えるほどしかなかったが、彼が持つという希有な能力を知らされていた鶴木は、彼がこうもあっさりと無力化されてしまっていることが信じられなかった。。
そしてもう一人――火浦千景。彼女の突破力は四校統一大会の『妖精の尻尾』やクラス2nd級隣神との戦いの中で目の当たりにしている。
鷹津封術学園に通う封術師見習いの中でも特に高いレベルの二人が倒れ伏しているという事実は、それだけで鶴木に大きな不安を与えていた。しかもそれをしたと思われるのは、眼前に立つ自分のクラスメイトかもしれないのだ。
視線をぎこちなく動かして重層する領域の中に立つ聖奈に眼を向ける。
自治会役員だけが着用する白を基調とした特別制服で身を包み、常人離れした美しい容貌を持つ少女。その手に握られているのは魔法使いが持つ杖のような特殊な装具。
場違いながらも無意識のうちに身が震えてしまうほどの幻想的な光景に鶴木はゴクリと息を呑む。聖奈の瞳は相変わらず虚ろなままだったが、それでも眼を合わせると意識ごと飲み込まれそうになる。
鶴木の全身から汗が噴き出た。これまで感じたことのない恐怖が鶴木を襲った。
しかし、それでも。
じっとりと汗が滲んだ手の震えを、握り拳を作ることで無理矢理抑えこむ装具を正面に構えると黙したままの聖奈に向けた。
学園の成績ではついぞ彼女の上を行くことができなかったが、それはあくまでも封術協会が定めた指標の上で成り立っている成績であって、実践的なものではない。
どんなに勉強ができたとしても、社会に出てから同じような成果を出し続けられる者は少ない。机上の成績と実戦能力は必ずしも一致しない。
だからこそ、勝機はある。
実技の授業で彼女と装具を交えたことはこれまで一度もないが、自治会の課外活動でも調律を担当しているという聖奈が戦闘を得意としているとは考えづらい。
ならば。
――先手必勝で無力化するっ!!
鶴木は動いた。聖奈に向けていた篭手からペンデュラムを射出する。空気を切り裂きながら高速で飛翔したペンデュラムを身体に巻き付けて装具を使えないようにしてしまえば、彼女を無力化できるはずだ。
殺到するペンデュラムに対して、聖奈は静かに視線を向けただけで手に持った装具はぴくりとも動かない。
捉えた――ペンデュラムを操る鶴木はそう確信した。
「なっ!?」
だが、立ち尽くしていた聖奈を完璧に捉えていたペンデュラムは、突然空中で不規則な軌道を見せると鶴木が狙っていた進路から逸れて壁に突き刺さってしまった。
鶴木は絶句した。何らかの術式によってペンデュラムが弾かれたというならまだしも、何百回と繰り返してきた封術式の制御を自分が誤るわけがない。
「……くっ」
動揺を隠しきれなかった鶴木だったが、それでもすぐに意識を切り替えるとペンデュラムと装具を繋ぐ糸を切った。続けて新たにペンデュラムを作り出し、射出態勢を取る。
「それならこれでどうだ!」
同時に射出したペンデュラムは全部で三つ。今度は三方向から聖奈を捕らえようとしたのである。
緩急の異なる三つのペンデュラムに聖奈は反応を示した。
虚ろな瞳が中空を仰ぎ、両手で持っていた装具から左手を離した。掲げるように伸ばした杖型の装具が仄かに発光する。
しかし、起こった現象はそれだけだった。
「……?」
封術を行使すると思って身構えた鶴木は拍子抜けしつつもペンデュラムの制御に意識を戻す。
相変わらず微動だにしない聖奈を包囲するようにペンデュラムは空中を疾走した。その三つの軌跡は次の瞬間には聖奈を縛って捕らえるイメージを鶴木に与えた。
「――ッ!」
それにも関わらず、三つのペンデュラムは自らの意思で聖奈を避けるようにして、鶴木の描いた進路から逸れて床や天井に突き刺さってしまった。
明らかに異常な――未知の力が作用しているとしか考えられない現象だった。
「この……ッ!」
ペンデュラムによる遠隔術が効かない。ならば他の術はどうだろうか。三本の制御用の糸を切った鶴木は得意術式の一つ『氷錘』を発現させた。『氷錘』は原質『水』系統に属する中難度の術式で、水を氷に変えるプロセスに若干の時間を要するのだが、鶴木は原質『風』の要素をわずかに加えることで再構築結果を変質させずに高速生成を可能にしている。
特別訓練棟の練習場のように封術結界が張られていない場所で行使するには殺傷能力がやや高いため躊躇ってしまうが、迷っているときではない。
「悪いが、多少の怪我は覚悟してくれ」
振り下ろした腕の軌道に従い、空中に発現した『氷錘』は一直線に聖奈を目指した。ペンデュラムのように糸で制御できないものの、だからこそ最初に狙い定めたとおりの軌道で『氷錘』は飛翔していく。
「…………」
聖奈は『氷錘』の鋭い切っ先が自分目掛けて近づいてくる様子をジッと見つめていた。避けるつもりがないのだろうか。
それならそれで構わない。
鶴木の狙いは装具を握っている聖奈の右腕だった。利き腕が使えなくなれば封術の行使も難しくなる――そう考えての鶴木の行動は、またも予想外の結果を見せることとなった。
聖奈が微かに右腕を動かした――その瞬間、鶴木の視界に映る光景がブレたのだ。
「!?」
反射的に瞬きをした鶴木は、瞬きの前後でコマ送りになった光景の変化に唖然とした。
『氷錘』は鶴木の狙いを外していた。いつの間にか聖奈の背後を抜けていった『氷錘』は、異層領域を挟んだ廊下の奥で砕ける音を立てて消滅した。
瞬きをした瞬間に何が起こったのか。否、それは瞬きをする前にすでに起こっていたのか。
正体不明の恐怖が今度こそ鶴木の全身を支配した。
釘付けになった聖奈の姿に畏怖を覚える。
「く、くるな……」
周囲に異層領域を従えた聖奈がゆっくりと近づいてきた。だが鶴木は一歩も動けない。本物の恐怖に支配された鶴木の身体は、脳から送り出される命令を悉く無視していた。
逃げろ。逃げろ。
鶴木は必死に身体を動かそうとした。自分一人の手に負える相手ではない。まるで格が違いすぎる。
「う……うぅ…………」
呻き声しか上げることのできない鶴木の目の前で立ち止まった聖奈は杖型の装具を静かに構えた。
すると、これまで抑圧されていた干渉波の圧力が波紋のように広がった。
その膨大な干渉圧に当てられた鶴木は唐突に理解した。
眼前のクラスメイトは――もはや人間ならざる者になってしまったのだと。
「……ぁ」
そうして鶴木の精神は糸が切れたように途切れて、深い眠りの中へと沈んでいった。
今年も終わります……




