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タイトル未定2026/02/14 00:11

ゴジラvsデストロイア


製作


企画から製作に至るプロセス


ハリウッド版『ゴジラ』が発表されながらも延期され、1997年の公開が見込まれていたため[注釈 23]、本作品はヘイセイゴジラシリーズの最終作品として製作された[出典 88][注釈 24]。


本作品は予告編で「ゴジラ7」という仮タイトルと共に発表された[156][159]。当初の仮タイトルは「ゴジラの死」であり、特技監督の川北紘一は、シリーズの掉尾を飾る作品としたい意向から、それまでの「ゴジラvs○○」という命名パターンから逸脱することを意図していた[出典 89]。しかし、東宝はシリーズの一環であることから「ゴジラvs○○」の形式を堅持するよう主張した[157][24]。最終的に「ゴジラの死」はキャッチコピーとして使用され、一部のポスターではタイトルよりも大きく表記された[157][24]。


川北は、対決もののストーリーが自身の映画作りの行き詰まりを感じさせたことと、ゴジラという偉大なキャラクターを人間ドラマと密接に結びつけた物語を描きたいと考え、ゴジラを死なせることを決意したと述べている[出典 90][補足 25]。前作『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)でベビーゴジラがリトルゴジラに突然変異し、さらにリトル、ジュニア、そしてニューゴジラが生み出された経緯があり、この世代交代の描写とゴジラの死を重ねることで、ゴジラというブランドの継続性を確保しつつ、ゴジラ消滅という衝撃的なテーマを前面に打ち出すことを図った[29]。また、超兵器でゴジラと対決するだけでは人間ドラマの入り込む余地がなくなるため、人間の英知とドラマを融合させ、SF映画の原点に立ち返ることも意図していた[163]。


プロデューサーの富山省吾は、「ゴジラシリーズ」を一冊の本に見立て、第1作『ゴジラ』を表紙とし、その裏表紙となり得る、物語の最終章としての作品を構想し、冥府やあの世のイメージを着想した。具体的には、初代ゴジラの亡霊を登場させるアイデアであった[出典 91]。しかし、前々作にスペースゴジラ、前作にメカゴジラと、ゴジラを名乗る怪獣が2体も存在していたことから却下された[出典 92]。また、実体のないものを描くことの難しさもあった[160]。川北も映像化は困難であったと述べている[163]。


ゴジラの死と、デストロイアの前身となる新怪獣「バルバロイ」[出典 93]の登場というプロットは、川北チームの助監督であった岡秀樹によって考案された[出典 94][補足 26]。ゴーストゴジラのアイデアが没になった後、川北は「ゴジラを殺す」ことに焦点を絞り、かつて唯一ゴジラを殺した兵器「オキシジェン・デストロイア」で生き残った最強の生物が、ゴジラと対決するという構想を練った[出典 95]。


富山と川北は、ゴジラの生みの親であるプロデューサーの田中友幸のもとへ「ゴジラの死」の許諾を得るために訪れた[注釈 27]。田中はゴジラを死なせることには反対したが、次作へつながるような形でゴジラが復活し、スターとしての格が保たれることを条件に、川北の提案を承認した[出典 96][注釈 28]。これを受けて、公開当時のパンフレット冒頭に掲載された田中の挨拶には、「ゴジラは必ずや再びスクリーンに復活するでありましょう」と記された[96][補足 28]。なお、本作品の製作には、前年に公開され好評を博した『ガメラ 大怪獣空中決戦』の成功も影響を与えている[33]が、富山はガメラを意識したわけではなく、観客を楽しませるためにはそれぞれの作り手が独自の持ち味を引き出すことが重要であり、それまでの積み重ねを否定する必要はないと述べている[168]。また後年のインタビューでは、孤軍奮闘する中でゴジラが隣にいてくれたことが心強かったとも語っている[169]。本作品のポスターが東宝本社に初めて飾られた1995年3月11日は、ガメラの公開日でもあり、早朝から映画館には行列ができていた[20][172]。


『ゴジラvsビオランテ』から『ゴジラvsモスラ』まで脚本・監督補として携わりながら、その後シリーズから離れていた大森一樹は、ゴジラを描く限りは参加する意向を示していた。今回は川北と監督の大河原孝夫から改めて招請され、ゴジラの死を描くことに同意した。富山は、ヘイセイVSシリーズで最も興行的に成功した『ゴジラvsモスラ』のスタッフを結集し、ゴジラの死を描くのに最もゴジラを理解しているスタッフで臨むべきだと考えていた[出典 97]。プロットの打ち合わせは、大森が海外にいる間もファックスでやり取りが続けられた。大森は脚本執筆中に阪神・淡路大震災に被災したが[出典 98]、脚本には影響はなかったと述べている[72]。


初代ゴジラへの回帰という観点から、人間側の主要組織はGフォースではなく自衛隊とされた[60][59]。Gフォースは大森がシリーズを離れていた時期に導入された設定であったため、大森は当初自衛隊を中心に描くことを想定していた。しかし、Gフォースが初登場した『ゴジラvsメカゴジラ』の大河原監督の要望もあり、Gフォースも登場させることとなった[57]。自衛隊も撮影に協力しており、90式戦車などの実物が撮影に用いられた[101]。


震災による被害の大きさから、街の破壊を描く本作品の製作が危ぶまれる声もあったが、富山は、ゴジラが正月映画としてあり、観客を楽しませることが有益であると信じて製作を続行したと述べている[170][169]。なお、初稿段階では、執筆当時に開催が予定されていた国際都市博覧会の風景も盛り込まれていた[58][72]。


大森が執筆した原稿を基に、大河原が改訂を加えて決定稿が完成した[59][159]。大森は、執筆が終わった時点で撮影中に変更されることを予想しており、本作品の脚本は自身の脚本の中で最も現場で変更の多かった作品になったと語っている[59]。デストロイアがゴジラジュニアを掴んで移動するシーンや、ゴジラとジュニアの対面シーンなどは、特撮撮影中に追加されたものである[59][159]。大森は、変更により分かりにくくなった部分もあるとしつつも、大河原ならではのクリエイティブなスタイルが発揮された作品だと述べている[72]。


田中によれば、ゴジラの死の発表後、一部のファンからはゴジラを生かしてほしいとの声が寄せられた[171]。特に大阪では、複数の特撮ファンクラブが連名で大きな嘆願書を提出したという[26]。


メインの美術は、初代ゴジラで造型助手を務め、大河原の監督デビュー作『超少女REIKO』(1991年)でも美術を手がけた鈴木儀雄が、『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)以来美術を担当していた酒井賢に代わって務めた[61]。


内容変遷


『ゴジラvsゴーストゴジラ』プロット

富山により書かれたプロット[出典 99]。製作年不明[173]。

初代ゴジラの残存生体エネルギーが40年の時を経て徐々に集結し、「ゴーストゴジラ」[100]として出現。リトルゴジラの体を乗っ取り、ゴジラと対決する[173]。ゴジラは敗れるが、ゴーストゴジラはジュニアに倒される[57]。


『ゴジラvsゴジラ』Aプロット

富山の要望を受け、大森が執筆したプロット[159][29]。

初代ゴジラの骨格の発見を契機に出現したオーロラゴジラがリトルに憑依。リトルは狂暴化するがゴジラに敗れ、ゴジラ自身もネオ・オキシジェン・デストロイアと対決し、最後を迎える[176][29]。しかし、リトルから分離した光はクリスタルゴジラというガラス細工のような姿で再活動。ミキ・サエグサが注射したプルトニウムによって蘇生したリトルが、クリスタルゴジラと対決する[176][29]。

キャラクターとして、初代作品に登場した尾形秀人と山根恵美子の息子で物理学者の尾形秀樹が登場する[176]。

プロットには登場しないが、デザイナーの西川伸司により、アンギラスをゲスト怪獣として登場させる提案とデザイン画が描かれていた[出典 101]。


『ゴジラ7「ゴジラVSバルバロイ」』プロット

特技監督チームの助監督・岡秀樹によるプロット及び脚本[179]。岡は上記のプロットとは別に独自に執筆した[179]。デザイン案も岡の友人で前作まで絵コンテを担当していた上木薫が多数描き起こしている[180]。プロットは1994年12月23日に提出された[179]。

スーパーXIIIはGフォースのもので「轟天」[179][29]と呼ばれ、麻生司令官が搭乗する[181][179][注釈 29]。また、ネオ・オキシジェン・デストロイアが人類の最終兵器として登場する[181][180]が、岡はオキシジェン・デストロイアをゴジラ抹殺のために用いることを躊躇し、むしろ怪獣の発生起源に結びつけることを考えていた[159]。

また、バルバロイが他の生物を取り込む能力を持つことから、助監督の中野陽介により、新怪獣アンギラス・ハウンドや、それを取り込んだバルバロスを登場させる案も出されていた[出典 102]。

麻生の生い立ちに深く踏み込んだストーリーとなっており、両親が広島への原爆投下で亡くなり、戦争や核兵器から祖国を守るために自衛隊に入隊したという設定が盛り込まれている[179]。また、尾形と恵美子の娘である繭子が登場し、両親の描写も存在する[179]。


その他、特撮チームによって立案されたプロットとしては、中野による「スペースゴジラの逆襲」、西川による「ゴジラvsバラギルス」、吉田譲による「ゴジラvsカオス」などがある[159]。


『ゴジラvsデストロイア』シナリオ

大森による初稿完全シナリオ[184]。1995年3月4日提出[185][184]。50頁[184]。

このシナリオでは、核融合炉とマイクロオキシジェンを開発した伊集院家の物語が前面に出され、リトルゴジラがゴジラジュニアに成長する過程が描かれている[出典 103]。核融合炉を開発した元軍人という設定は、戦艦潜水艦ものを意識したものであり、また、大森が以前参加しながらも実現しなかった『鉄人28号』のリメイク企画からも借用している[注釈 30]。しかし、ゴジラジュニア誕生の経緯は要素が多くなり過ぎるため、割愛された[59]。


『ゴジラvsデストロイア』レビュー

大森による初稿シナリオ[186]。1995年4月28日提出[187][186]。92頁[186]。

大筋は完成作品に近いが、沖縄沖でのGフォースによるゴジラ攻撃や、伊方原発を襲撃したゴジラが松山市内に上陸し、ミキとメルが波方大橋で遭遇するシーン、東京港のフェリーターミナルを幼体デストロイアが襲撃するシーン、伊豆半島沖でゴジラが冷凍され、品川駅でゴジラジュニアとデストロイアが対決し、最終決戦は羽田空港で行われるという展開であった[186]。


『ゴジラvsデストロイア』ドラフト

大森による後期稿シナリオ。1995年5月27日提出[151][186]。103頁[186]。

この稿ではスーパーXIIIが登場している[186]。また、館山沖でジュニアと護衛艦隊が交戦するシーンも存在した[186]。


『ゴジラvsデストロイア』最終決定稿

監督の大河原孝夫により、大森のドラフト稿を基に執筆された脚本[159]。1995年6月30日提出[188][159]。

国際都市博覧会の中止に伴い、デストロイアと特殊部隊の交戦場所も会場から変更されている[72]。


『ゴジラvsデストロイア』改訂決定稿

大河原により、決定稿に撮影と並行して修正が加えられたもの[189]。

幼体デストロイアと特殊部隊の交戦や、ユカリへの襲撃の詳細な描写が加えられている[189]。


キャスティング


伊集院役には、インテリジェンスなイメージを持つ辰巳琢郎が起用された[60][86]。辰巳は大森の監督作品『大失恋。』に出演した経験があり、大森から初代作品で芹沢博士を演じた平田昭彦の後継者として適任だと推薦された[57][72]。


ユカリ役の石野陽子は当時バラエティ番組で活躍するイメージが強かったが、大河原は石野の舞台での演技を観て確かな演技力を持つと感じ、起用を提案した[60]。


Kenkichi 役の林泰文は、『もうひとつ』の撮影が終了しスケジュールが空いていたことから、大河原の要望で起用された[60][86]。大森は前年にSMAP主演の『シュート!』を監督しており、ジャニーズ系アイドルの起用も想定していたが[72]、大河原はアイドルよりも一般人の感覚で演じられる人物を求めていたと述べている[61]。


山根恵美子役は、第1作と同じく河内桃子が務めた[出典 104]。河内は出演依頼に驚いたというが、脚本を読んで核兵器廃絶というテーマに心を打たれ、出演を決意した[91]。富山は、彼女の出演なくして本作品は成立しないと、初期から交渉を重ねていたと述べている[170]。


『ゴジラvsビオランテ』で黒木役を演じた高嶋政伸は本作品への出演に意欲を示していたが、スケジュールの都合がつかず、実兄で『ゴジラvsメカゴジラ』で青木一馬役を演じた高嶋政宏がその役を引き継ぐ形となった[出典 105]。これにより、劇中で黒木の名前は語られず、役柄も曖昧なものとなった[72]。政宏の起用が決まった際には、青木一馬として登場させる案もあったという[60]。大森は政伸の出演が叶わなかったことを残念に思っていると述べている[72]。


国友役は当初細川俊之が演じる予定だったが、撮入直後に急病のため降板し、篠田三郎が代役を務めた[出典 106]。細川が写っているフィルムを使用した予告編も存在する[出典 107]。林によれば、国友が Kenkichi の部屋を訪ねるシーンは既に撮影済みであったため、篠田に交代後、セットを組み直して撮り直しが行われた[67][191]。大河原は、困難な状況ながらも篠田が快く引き受けてくれたため、撮り直しは約6日間で完了したと述べている[60]。


本作品では、シリーズ恒例となっていたお笑い芸人の出演は見送られた[86]。


撮影


撮影は1995年7月19日にクランクインし[出典 108][注釈 31]、9月20日にクランクアップした[159][注釈 32]。


初代『ゴジラ』へのオマージュとして、本作品では山根恭平博士の娘・恵美子やオキシジェン・デストロイアが再登場する。冒頭の怪獣が海を渡るシーンも第1作を踏襲している[注釈 33]。デストロイアが臨海副都心に出現した際、伊集院が警官から「あなたの命は保証できませんので通すわけにはいきません!」と告げられる場面なども同様である。また、怪獣の慎重な取り扱いなども共通している。山根博士の書斎は第1作のセットを再現したものであるが、当時の設計図は現存していなかったため、美術の鈴木儀雄がフィルム映像から間取りを割り出してセットを組み上げた[出典 109]。第1作で山根博士の書斎に飾られていたステゴサウルスの骨格モデルも、当時のスチール写真を参考に新たに制作された[10][194][注釈 34]。予告編では、第1作の映像をカラー調整したデジタル映像も使用されている。


ヘイセイVSシリーズでは初の海外ロケが香港で行われたが、ゴジラの登場シーンやキャラクター部分は合成で処理されている[出典 110]。プロデューサーの富山はゴジラの海外ロケには慎重だったが、特技監督の川北は未制作作品『ミクロスーパーバトル ゴジラvsギガモス』(1991年)の頃からこのアイデアを温めており、強く推して実現に至った[166][197][注釈 35]。


東京湾横断海底トンネルの建設現場は、当時建設中だった青海トンネルで撮影された[115]。鈴木は、資材は現地調達で済み、ゼロからデザインを起こす必要がなかったため、比較的楽な仕事だったと述懐している[115]。


デストロイアの幼体と人間との戦闘シーンは、シリーズ過去にないホラー的な緊迫感で描かれた[198]。特に戦闘シーンは『エイリアン2』や『ジュラシック・パーク』などの影響を受けている[60][13]。脚本にはなかったユカリ・ヤマネが幼体に襲われるシーンは、大河原監督がヒロインのピンチがない物語の展開に疑問を感じて追加したものである[199][200]。人間とデストロイアの戦闘シーンの撮影は20日間にも及び、ユカリのシーンだけで4日間を要した[出典 111]。テレコムセンターでの撮影が行われたが、時間的制約から、建設現場を模した2階建ての仮設棟8棟を埋立地に建設し、一部はスタジオ内に持ち込んで撮影した[60][191]。屋内のロケ地は、東京工科大学や横浜ニューステージなど、複数の建物で行われた[60][39]。ミキとメルが13号埋立地に上陸するシーンは、豊洲にあった東京ガス豊洲工場跡地で撮影された[202]。


自衛隊の臨時司令本部は晴海客船ターミナルに設置され、撮影もそこで行われた[115]。セットのデザインは、ロケ地のレッドを基調としたカラーリングを活かしたものとなっている[115]。


船上での夕食会のシーンは、東京湾を周遊するレストラン船「シンフォニーII」で撮影された[39]。辰巳によれば、船上のシーンは風が非常に強く、ヘアスタイルや皿を固定するのが大変で、撮影は困難を極めたという[58][191]。大河原も風が強く、大変な撮影だったとコメントしている[61]。


天王洲アイルが主なロケ地として使用され、東京モノレール天王洲アイル駅やシーフォートスクエアで撮影が行われた[39]。駅の連絡通路内でも撮影が行われたが、本編ではカットされ、一部は予告編などに使用された[39]。


ヘリコプターでのシーンでは、以前に舞台で宙乗りを経験していた小高が高所恐怖症を克服し、これまでの撮影で最も気持ちの良い経験だったと述懐している[69]。一方、ヘリコプター初体験の大沢はパニック状態に陥り、着陸後に反対方向へ走り出してしまい、撮り直しとなった[73]。


陸上自衛隊の協力による実景との合成は、本作品では特撮班ではなく本編班が担当した[199][203]。これはデジタル技術の発達を象徴するものでもあったが、結果的に本編班と特撮班の間でより大きな違和感を生むこととなった[199]。自衛隊の戦車や人員は広範囲に描かれており、陸上自衛隊富士学校で撮影された映像は約10倍に増やされている[203]。対戦車ヘリコプターのみは3DCGで描かれ、ソニーPCLが制作した[203]。大河原は、当時は自衛隊にこれらの装備はなかったが、最新の兵器をスクリーンで見たいという思いから要望したと述べている[61]。


銀座の電子看板に表示される臨時ニュースは、実際に放映されていた広告枠を借りて表示されたものである[61]。


ラストシーンでそれぞれの主要キャラクターが新たなゴジラについて一言交わす場面が撮影されていたが、カットされた[61]。


特撮


本作品では、ゴジラの体が核エネルギーの暴走により赤く発光し、蒸気を噴き出す「バーニングゴジラ」が登場する。これを表現するため、胸、腹、腿などの発光部分には電球を内蔵したプラスチック製のパーツが埋め込まれ、背びれにも多数の電球が仕込まれた。スーツ内には電球が860個も仕込まれており、内部の温度は以前にも増して上昇し、重量も100kgを超えた。さらに、蒸気を噴出するための二酸化炭素ガスを噴射するギミックも追加された[204][205]。スーツアクターの薩摩剣八郎によれば、スーツ内での二酸化炭素ガス噴射ギミックによる酸欠で4回も気を失ったため、常に体内に酸素ボンベを携帯していたという[206]。ゴジラの多くのシーンは、発光を際立たせるため夜間に撮影された[24]。操演助手の白石雅彦は、赤く発光するゴジラは死に装束のようであり、怪獣の死を目前にして特撮現場は緊張感に満ちていたと証言している[207]。


これまで特撮の海面シーンなどに使用されてきた東宝スタジオの大プールは、この年に縮小された[208][196]。特技監督の川北紘一は、規模が縮小されたことで機材の設置は楽になったが、ダイナミックな広がりが失われたとコメントしている[196]。一方、製作進行の小島太郎は、プールが縮小されたことで水道代も下がり、ホッとしているのは自分だけかもしれないと述べている[209]。


特撮班の撮影は、6月18日から22日にかけて香港で先行して行われた[出典 112][補足 36]。国内のロケ地は通常ロケハン後に1ヶ月ほど間を空けて撮影が行われるが、香港ロケはロケハンと同時進行で行われた[195][210]。川北は香港映画『北京原人の逆襲』(1977年)で特撮助監督を務めて以来頻繁に香港を訪れており、現地のコーディネーターとパイプがあったため、過密スケジュールながらスムーズに撮影を進めることができた[40][210]。逃げ惑う群衆は現地ロケでは撮影されておらず、本編班がブルーバックで撮影した映像を合成している[40][24]。


7月3日と6日には、都内ロケが行われた[195]。


東宝スタジオでの撮影は7月10日から12日にかけて大プールで開始された[出典 113]。日中の撮影の他、香港の夜景シーンも夜間に撮影された[195]。


7月13日と14日には、第10ステージでゴジラの香港襲撃シーンが撮影された[出典 114]。既存の建物に香港風のネオン看板を追加したセットが組まれた[40][210]。美術助手の高橋勲は、このシーンは本来CGで表現する予定で、看板は保険として用意されたものだったが、川北がミニチュアでの撮影を要望したと述べている[202]。


7月15日に品川でエキストラ撮影を行った後、7月18日から20日にかけて第9ステージ前に仮設オープンセットが組まれ、完全体デストロイア出現のシーンが撮影された[出典 115]。品川での新幹線を絡めた群衆逃避シーンは川北の要望で追加されたもので、小島は5回も通って交渉を重ね、ついには土下座して許可を得たという[209]。400名のエキストラに対して、応募者は1,000名を超えた[195][209]。


7月21日から8月2日にかけて、第9ステージではゴジラジュニアとデストロイア群が天王洲アイルで交戦するシーンのセット撮影が行われた[195][41]。ヘイセイVSシリーズのミニチュアセットは通常1/50スケールで作られていたが、このセットは怪獣の身長に合わせて1/25スケールで作られた[出典 116]。


8月7日から10日にかけて第10ステージでスーパーXIII格納庫のシーン、8月11日から18日にかけて第2ステージで羽田空港のセット撮影が行われた[出典 117][注釈 37]。


クライマックスとなるお台場のシーンは、8月21日から9月11日にかけて第9ステージで撮影された[出典 118][補足 38]。物語のテンポを重視したことと、当時のお台場はまだ開発途中で高層建造物が少なかったことから、従来作品で見られたような戦場全体を見渡す俯瞰カットは省略された[163]。高橋は、公開予定の建物が多く建設中であったため、ロケハンに苦労したとコメントしている[202]。デストロイアは自衛隊の猛攻を生き延び、ゴジラとの最後の死闘の末に敗れ、ゴジラもまた息を引き取る[出典 119][補足 39]。有明フロンティアビルが崩壊するシーンも撮影されたがカットされ、劇中では高層ビルが消されている[39]。撮影中、集合体デストロイアと完全体デストロイアの1/3サイズのモデルが盗難に遭うという事件も発生した[195][202]。


9月12日と13日に大プールで撮影を行った後、9月14日から19日にかけて大プールでゴジラとスーパーXIIIの対決シーンが撮影された[出典 120]。オープンセットでの夜間シーンであることから撮影は夜間に行われ、スタッフは昼夜逆転の生活を強いられた[出典 121]。川北は後にインタビューで、異例かつ無謀なことをしたと振り返っている[24]。13日には、第10ステージで臨海副都心のシステム輸送の撮影も行われた[195]。


9月21日から27日にかけては、第9ステージでデストロイアが臨海副都心を襲撃するシーンのラストカットの撮影が行われた[195][218]。背景の子供たちはバンダイのソフトビニール製フィギュアで表現された[216][218]。


ラストシーンは9月28日に第9ステージで撮影された[195][218]。当初のミニチュアセットでは燃え盛る東京が表現されていたが、ゴジラの消滅は東京の壊滅として描かれることはなく、ゴジラの死に対する観客の哀悼の念を強調している[163]。脚本ではゴジラジュニアが新たなゴジラに変貌することが明記されていたが、映像は曖昧なものとなった[195][218]。


9月30日、小プールでゴジラとゴジラジュニアが出現するシーンが撮影された[195][218]。その後、合成用素材やディテールカットを撮影し、10月5日早朝にクランクアップした[195][注釈 40]。


デジタル技術の進歩により、人形操作に用いられるピアノ線を消すことが可能になったが、小島はコストがかかるため、従来通りセットに色を塗ってピアノ線を消すというアナログな手法をとったと述べている[209]。


オープニングに登場するオキシジェン・デストロイアはCGで描かれている[157]。川北は、本作品は子供たちを置き去りにしたマニア向けのサービス作品だったと述べている[157]。


エンディングのフッテージも特撮班が担当した[157]。


音楽


第3作『ゴジラvsメカゴジラ』以来となる伊福部昭が、本作品で再び音楽を担当した。伊福部は前作まで同様、依頼があっても断るつもりでいたが、ゴジラの死というテーマと第1作との強い関連性を知り、引き受けることを決意した[出典 122]。『ゴジラvsキングギドラ』では体調の問題から事前に用意したスコアをテンポに合わせて調整する形をとっていたが、本作品では入念にタイミングを合わせて作曲している[222]。しかし、本作品は東京国際映画祭への出品が見送られ、特撮パートの進行が遅れたため、編集が頻繁に変更され、音楽プロデューサーの岩瀬政雄が伊福部に修正を依頼する事態となった[222]。伊福部は、自身が映画音楽を書き始めて以来、最も変更の多かった作品だったと述懐している[222]。


編集には技術面でPro Toolsが導入され、作業の効率化が図られた[222]。伊福部は、録音面でも新たな経験だったと述べている[222]。


メインタイトルは、従来のゴジラのテーマとは異なる構成となっており、前半はゴジラのテーマ、後半はデストロイアのテーマとなって、両者の対決を予感させるものとなっている[出典 123]。伊福部は、タイトルバックの映像がめまぐるしく変化するため、音の配置に苦心したと述べている[220]。


香港のオープニングシーンでは、「ゴジラの恐怖」を基にしたテーマ曲が用いられており、『ゴジラvsキングギドラ』の「ゴジラザウルスのテーマ」を思わせるフレーズも登場する。この曲は金管楽器のみの高音域で演奏され、弦楽器は使われていない[223][221]。


デストロイアのテーマは、無調的和声を伴う十二音による旋律が特徴である[出典 123]。曲の楽器編成は形態が変わるごとに変えられており、水族館のシーンでは柔らかく、完全体では重低音の楽器を増やしてテーマが表現されている[出典 123]。


ゴジラジュニアのテーマは、『ゴジラvsメカゴジラ』のベビーゴジラのテーマが基になっている[出典 123]。新たなゴジラが登場するラストシーンでは、伊福部は音楽も効果音も一切つけないことを主張し、大河原の意向で音楽が用意されていたものの、協議の結果、効果音のみとすることが決まった[220][61]。


初代『ゴジラ』の映像を使用した回想シーンには、新たに作曲された「海底のゴジラ」という曲が使用された[223]。


伊集院とユカリの食事シーンでは、ショパンの「夜想曲」が流れる[220]。この曲は音楽プロデューサーの岩瀬政雄が選曲したもので、既存曲を使用することで、ロマンティックな要素は本作品の主眼ではないという伊福部の意図が込められている[220]。


スーパーXIIIの出撃シーンのために、新たに「スーパーXIIIのテーマ」が作曲された[223][221]。メーサー車出動のシーンでは、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966年)の「M作戦マーチ」が流用されている[223][221]。


ゴジラが溶融するシーンでは、ゴジラの死を悼むというよりは、人間性を強調するために人の声による合唱が用いられており、映画後半には実声はなく、観客に熟考の余地を持たせる意図があった[出典 123]。


エンディングは、SF交響ファンタジーと同様の構成で、ゴジラのテーマにキングコングのテーマが挿入され、最後に再びゴジラのテーマに戻るというものである[出典 124]。最後にチューブラーベルを入れたのは、宗教的なイメージを意図したものであるが[221]、ゴジラの咆哮と重なってしまい、分かりにくくなったと述べている[220]。


宣伝


本作品は、大作映画として宣伝が展開された一方で、映画の内容や怪獣に関する詳細は可能な限り伏せるという徹底した秘密主義の方針がとられた[出典 125]。「ゴジラ死す」というキャッチコピーが使用され、第1作のオキシジェン・デストロイアが関わることこそ事前に発表されていたが、敵怪獣デストロイアの詳細やゴジラジュニアの登場は、映画公開当日まで伏せられた。ゴジラの最期の描写は、キャストやスタッフを含む関係者全員に対しても徹底的に秘匿された[20][162][注釈 41]。バーニングゴジラの存在は製作発表の段階でも明かされず、通常のゴジラのスーツがアピール用に代役を務めた[209]。そのため、本作品はテレビの情報番組『笑っていいとも!』で取り上げられることがなかったが、これは当時日本では異例の宣伝手法であり、この秘密主義が逆に番組内でネタにされることもあった[20]。ジュニアを伏せた理由について富山は、ジュニアに焦点を当てることで「ゴジラの死」よりも「世代交代」として受け取られるのを避けるためだと述べている[168]。宣伝担当の大野弘は、シリーズにマンネリを感じており、登場を絞ることで「ゴジラの死」を強調する意図があったと述べている[20]。しかし、ポスターイラストには生頼範義によってジュニアが描かれており、大野は「ゴジラは暴走すると大きくなる」という苦しい説明をせざるを得なかったと回想している[20]。絶景口封じ


各劇場にはカウントダウン看板が設置され、新聞広告やテレビスポットも展開されたが、最終的には約500本ものテレビスポットが投入され、その費用は莫大なものとなった[20]。


11月1日に開業したゆりかもめの開通式では、東京都庁の要請により、撮影場所となった臨海副都心でゴジラが一番乗りを果たした[20][225]。


1995年12月24日には、有明コロシアムで「ゴジラの葬式」が日本旅行とタイアップしたイベントとして開催された[出典 126]。同日には、都内のゴジラゆかりの地を巡る「ゴジラ追悼ツアー」も催され、その後葬式が行われた。参加者は喪服か、喪章の着用が義務付けられた[26]。


ゴジラの銅像建立を提唱するゴジラ会の堀内實三会長の提案により、1995年12月3日には日比谷シャンテ前の広場にゴジラの銅像が建立された[出典 127]。除幕式には、シリーズにゆかりのある高田明浩や沢口靖子が出席した[20][26]。

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