【書籍化進行中】白い結婚を無効にした元夫が、今さら復縁を迫ってきたので、五十年閉ざされた北の翼を開けました
7/11改稿
「喜べ、ノエル。もう一度、妻にしてやる」
婚姻無効の申し渡しからひと月。
王都で処分の再審査を受けているはずの元夫が、療養室の入り口に立っていた。
旅装のまま埃も払わずに。
私は手を止めなかった。
巻きかけの包帯がまだ半分残っていた。
「腕を上げてみてください。――はい。いい経過です」
「おい。聞こえなかったのか」
包帯の端を留める。
結び目を指先でひとつ確かめる。
「聞こえています。ここは療養室ですので、お声は小さく」
隣の寝台へ移ると、靴音が苛立った調子で床を鳴らした。
そこへギルバートが静かに入ってきて、私にだけ聞こえる声で告げた。
「お連れ様は書斎へご案内いたしました」
お連れ様が誰なのかは聞かないでおいた。
この方は一人で王都を出られる身の上ではないはずだった。
「相変わらず可愛げのない女だ。まあいい。事情を知れば君も態度を改めるだろう」
アルヴィン様は上着の襟を正した。
「まず言っておくが、君を許すことにした」
「夫の留守に寝室へ男を入れた件。夫人予算を勝手に使った件。あることないことを監察院へ報告した件。そのすべてを水に流してやる」
「続けてください」
「調べたのだよ。王命による婚姻の狙いは、君が引くヴァレンの血だったそうだな。ならばその血と私がもう一度結ばれれば、王命は改めて果たされる」
彼は指を一本ずつ立てた。
「私の爵位処分には見直しの余地が生まれる。婚姻が戻れば持参金の返還問題も消える。グランヴェル家は領地を失わずに済み、君も辺境伯夫人の地位へ戻れる」
王都で幾晩もかけて組み上げた計算なのだろう。
けれどその計算の中にいる私は、血と持参金と妻の席だけだった。
「それにな、ノエル。今度は名だけの妻にはしない」
一歩近づいてくる。
「王都の女との関係も終えた。君を正式な妻として扱うと約束しよう」
私は薬草茶を次の患者へ手渡してから彼に向き直った。
「お断りします」
「なぜだ」
「あなたの計算に、私の得がひとつもありません」
「辺境伯夫人に戻れると言っている」
「それを得だと決めたのは、あなたです」
アルヴィン様は黙った。
やがて薄い笑いを口の端に浮かべた。
「ならば法の話をしよう」
声の温度が落ちた。
「この屋敷は今もグランヴェル家の家産として登録されている。正式な裁定が終わる前に行われた改造について、現状凍結を申し立てた」
彼は療養室を見回した。
寝台も薬草棚も眠っている患者も、同じ速さで眺めた。
「申請は受理された。裁定の日までに改造した区画の使用を停止することになる」
「患者がいます」
「だから何だ」
声は静かだった。
先ほどまでよりかえって冷たく聞こえた。
「法は君の都合で変わらない。設備についても裁定までは家産として管理下に置く。勝手に移動させれば、それも記録に残る」
言い終えると彼は踵を返した。
「私と争うということが、どういう意味なのか考えるといい」
入ってきた時より足取りは軽かった。
ギルバートはその背を追わなかった。
ただ扉が閉まる音を最後まで聞いていた。
*
三日後、王都から封書が届いた。
重い封蝋で閉じられた通知が一枚。
――係争中の申し立てに基づき、別紙記載の改造区画について裁定まで使用および設備の移動を停止する。
別紙には仮眠室、療養室、夜警明けの小広間、マントと包帯の保管庫が並んでいた。
この一年で生きた場所に変わったところばかりだった。
「期限は」
「猶予はほとんどございません」
「従わなければどうなりますか」
「差出人をご覧くださいませ」
問うまでもなかった。
この封蝋を持つのは王家だけだ。
「あの方の願いが認められたわけではございません。争いの間は双方とも申し立ての対象を動かすなという定めでございます」
ギルバートは別紙の区画名を指でなぞった。
「破れば王命に背いた事実だけが残ります。屋敷を私物のように扱う女だと、裁定の場で騒ぎ立てる口実をこちらから渡すことになります」
「分かりました。従います」
ルーク様が通知を睨んだ。
「だが患者はどうする。この人数の寝床をすぐに用意することはできない」
「作ります」
「どこに」
「それをこれから探します」
当てなどまるでなかった。
ギルバートは口を挟まなかった。
ただ別紙をもう一度確かめるように見つめていた。
「ギルバート殿」
ルーク様が言った。
「あなたにはどこまで分かっている」
「分からないことを分かったように申し上げるわけにはまいりません」
以前とは違う答えだった。
「ただ、あの方がこの申し立てだけで終わるとは思っておりません」
「次の手があると」
「困窮した方は手元に残った札をすべてお使いになるものでございます」
*
通知の翌日から区画はひとつずつ閉じられた。
まず小広間。次に療養室。
患者のうち重症者は兵舎へ移した。
軽症者は物置を片づけて寝かせた。入りきらない者には廊下へ毛布を敷いた。
ルーク様は砦から天幕を運ばせたが、冷たい風を防ぎきれるものではなかった。
仮眠室に鍵がかかったのは期限の前夜だった。
誰も文句を言わなかった。
騎士たちは黙って毛布を抱え、それぞれの持ち場へ散っていった。
その静けさが一番こたえた。
夜明け前。見回りに出た私は廊下で足を止めた。
騎士が床で眠っていた。
壁にもたれ、剣を抱いて。
夜警明けに戻り、兵舎の寝台を療養中の同輩へ譲ってここへ来たのだろう。
一年前と同じ場所だった。
あの冬、凍傷で指を失いかけた若い騎士だった。
指はもう治っている。
治した場所が今夜から使えない。
紙が一枚届いただけで、何もかもがあの冬より前へ戻っていた。
私が復縁を受け入れれば、アルヴィン様は申し立てを取り下げるかもしれない。
そうすれば今夜にもこの騎士を寝台へ戻せる。
その考えが浮かんだこと自体が悔しかった。
けれどそれは、この人たちを守ることではない。
アルヴィン様の機嫌がよい間だけ部屋を借りることだ。
今日開いた扉が、明日にはまた閉ざされる。
私はずれた毛布を掛け直した。
起こさないようにそっと。
「……必ず、取り返します」
今度は誰かの許しで開く場所ではなく。
*
翌日の夜。砦から戻ったルーク様が、まっすぐ仮眠室へ向かった。
嫌な予感がして後を追った。
扉の前で彼は錠に手を掛けていた。
「ルーク様」
「……凍結など知ったことか」
低い声だった。
「規則の紙が、俺の部下より重いのか」
「開ければアルヴィン様の思う壺です」
「分かっています」
錠を掴んだ指に私は自分の手を重ねた。
指が強張っていた。
「一晩だけください」
「何をする気ですか」
「この屋敷をひと部屋残らず見て回ります」
「空いている部屋なら俺の方が知っている。十年この屋敷にいる」
「それでも探します」
私は燭台を取って背を向けた。
「待ってください」
手首を掴まれた。
振り向くと彼はもう錠を握っていなかった。
「あなた一人に背負わせて、俺だけ眠れると思いますか」
掴んだ手がゆっくりと離れた。
「一緒に探しましょう」
*
まず手近な扉から開けた。
手前の物置は奥の棚を空ければ、通いの患者の荷物と包帯が置ける。
浴場は焚き口が生きていた。灰を掻けば煙の道も塞がっていない。湯さえ沸かせば、冷えて戻った者を真っ先に温められる。
ルーク様が焚き口を覗き込んだ。
「十年ここにいて、考えたこともなかった」
氷室も屋根裏も同じだった。
使い道はある。
けれど病人を並べ、夜通し火を絶やさずにいられる部屋だけが出てこない。
次の扉へ向かった時だった。
角を曲がったところで、燭台の炎がふっと横に倒れた。
足を止めても倒れたままだった。
「ルーク様。この屋敷の窓はどこか開いていますか」
「まさか。まだ夜は冷える」
「では、この風はどこから来てどこへ行くのでしょう」
廊下の埃が床の上で細い筋になっていた。
筋を辿って歩いた。
頬に当たる冷たさが、角を曲がるたびに強くなる。
物置と客間の前を通り過ぎても筋は途切れなかった。
突き当たりでそれは終わっていた。
大きな両開きの扉。
埃をかぶった閂に古い封印の紐。
扉の下の隙間から足首へ冷気が絶えず流れ出している。
「北翼だ」
ルーク様が燭台を掲げた。
「俺が着任した時から閉まっている。前の家の区画だから開けるな、としか聞いていない」
彼は扉の上を見上げた。
「外から見たことがある。屋根の向こうに大きな煙突が一本だけ残っていた。使われていないから塞がれていると思っていたが」
「この風が通っているなら完全には塞がっていません」
扉に手のひらを当てた。
厚い木の向こうで風が長く鳴っていた。
「この家には、まだ息をしている場所があります」
「その扉をお探しでしたか」
背後で声がした。
振り向くとギルバートが灯りを手に立っていた。
「灯りが北へ向かいましたので追ってまいりました」
彼の視線は扉へ向けられていた。
驚きではない。
けれど安堵とも違った。
「この場所を知っていたのですね」
「扉の存在と古い言い伝えだけは」
ギルバートは懐から布包みを出した。
包みの中に黒ずんだ鍵があった。
柄には狼の意匠。
「五十年前に先代から預けられたものを、先々代の家令から引き継ぎました。ただ、この中が今も使える状態かどうかは私にも分かりません」
「なぜ今まで」
「鍵があることと、人を眠らせられることは別でございます」
ギルバートは扉の下から流れる風を見た。
「使えるかどうかも分からない場所を、希望としてお話しするわけにはまいりませんでした」
鍵を受け取る。
閂を外して鍵を回した。
長い間動かなかった金具が、腹の底へ響く音を立てた。
ルーク様と二人で重い扉を押す。
流れ出した風が燭台を大きく揺らし、やがて止んだ。
明かりは闇の奥まで届かなかった。
それほど広かった。
手前には埃布をかぶった寝台がいくつも並んでいる。
その奥には大人の背丈より大きなかまど。
さらに高い壁には盾と二本の針葉樹。その下に眠る狼。
階段の踊り場にある紋と同じだった。
「ここは……」
「ヴァレン家の救護客殿でございます」
ギルバートは静かに答えた。
「昔、魔物の群れが防衛線を越えかけたことがございました。その折にヴァレン家の先代当主は、この北翼を領民と兵士へ開かれたと伝わっております」
ルーク様は燭台を持って奥へ進んだ。
梁を見上げ、壁を叩き、かまどの灰受けを開ける。
「雨は入っていない。梁も腐っていない」
灰の奥へ手を差し込み、顔を上げた。
「煙突も生きています」
「使えますか」
「今夜すぐ全員を入れるのは危険です。だが俺が構造を確認する。騎士たちには外側の煙突と屋根を調べさせます」
ギルバートが埃布を外した。
寝台の木肌は乾いているだけで割れてはいなかった。
「手入れをしていたのですか」
「年に一度、扉の外まででございます。中へは入っておりません」
「それで十分です」
その夜のうちにルーク様は騎士を集めた。
屋根と煙突、床と梁、かまどの排煙路を確かめる。安全が確認された場所から寝台を運び出した。
夜が明けると事情を聞いた使用人たちも次々に袖をまくった。
昼までに最初の患者が運び込まれた。
廊下で眠っていたあの騎士が、入り口で足を止めた。
「ここ、俺たちが使っていいんですか。壁に紋章まであるのに」
「眠るための場所です」
ギルバートが毛布を一枚騎士へ手渡した。
「五十年ぶりの、お客様でございますよ」
その日のうちにルーク様は騎士団長名義の報告書を作った。
北翼を北方守備隊の臨時救護所として使用すること。
収容した患者の氏名と負傷の程度。
使用している寝台と薬品の数。
私的な施設ではなく、王家の兵を治療するための場所であること。
すべてを記し、早馬で監察院へ送った。
「これで誰かの厚意で借りている部屋ではありません」
ルーク様は封をした。
「俺の部下を預ける、公の救護所です」
一方でギルバートは朝から書庫へ籠もった。
夜になって戻ってきた彼の手には、革紐で綴じられた古い書付があった。
「北翼についての記録でございます」
書付には王家の古い封印が押されていた。
五十年前、ヴァレン家が北翼を北方防衛のための救護客殿として王家へ寄託したこと。
グランヴェル家に与えられたのは、本棟と通路の管理権だけであること。
北翼そのものの売却、接収、用途変更は認められていないこと。
古い財産境界図にも北翼だけが別の線で囲まれていた。
「この書付の存在までご存じだったのですか」
「北翼に関する記録が残っているとは聞いておりました。けれど、どの箱にあるのかまでは」
ギルバートの指には紙の埃がついていた。
「ようやく見つけました」
*
裁定の日。アルヴィン様は宣言どおりにやってきた。
灰色の旅装を着た男を後ろに従えて。
かつてこの屋敷でアルヴィン様を調べ、領主権の停止を言い渡した監察官だった。
「さて、ノエル。区画を検めさせてもらう」
アルヴィン様は勢いよく療養室の扉を開けた。
空だった。
寝台は畳まれ、薬草棚は空き、患者は一人もいない。
仮眠室も小広間も同じだった。
「……戻したのか。全部」
勝ち誇るはずだった声がわずかに鈍った。
そこへ廊下の奥から匂いが流れてきた。
薬草茶と麦粥の湯気。
北から。
「北翼だと」
アルヴィン様が眉をひそめた。
「あんな物置に何を移した」
両開きの扉は開け放してあった。
赤々と燃えるかまど。
湯気を上げる大鍋。
寝台の列で眠る患者と、毛布を配る使用人たち。
そして高い壁に眠る狼。
アルヴィン様は入り口で立ち尽くした。
「なんだ、これは」
彼の視線が寝台から壁の紋へ移った。
「誰の許可でここを」
「北方守備隊の臨時救護所として、私が使用を申請しました」
ルーク様が答えた。
「患者名簿と設備の一覧は、すでに監察院へ提出しています」
「貴様にこの屋敷の区画を決める権利はない」
「俺が決めたのは、負傷した王家の兵をどこへ預けるかです」
ルーク様は眠る患者たちを振り返った。
「そして、ここがグランヴェル家の所有区画ではないことも確認されています」
「そんなはずがあるか」
「アルヴィン・グランヴェル殿」
監察官が進み出た。
手にしていた書付を開く。
「貴殿の申し立てには、元夫人がグランヴェル家所有の屋敷を私的に改造し、家産を流用しているとある。相違ないか」
「相違ない。現にこの女は勝手に――」
「では、まず一つ訂正しよう」
監察官が古い封印の押された書付を掲げた。
「この北翼は、グランヴェル家の所有区画ではない」
アルヴィン様の声が止まった。
「五十年前、ヴァレン家当主が北方防衛の救護客殿として王家へ寄託した区画だ。グランヴェル家に認められていたのは、本棟から北翼へ通じる廊下の管理のみ。売却、接収、用途変更の権利はない」
「五十年前の書付など」
「婚姻時の財産境界図にも同じ区分が記されている。貴殿が確認しなかっただけだ」
監察官は別の書付を重ねた。
「次に凍結を申し立てた設備の原資について。寝台、薬草棚、暖房設備のすべてがノエル・ヴァレン殿の持参金から支出されている」
「屋敷の中にある以上、家の財産だ」
「ならば確認する」
監察官は北翼を見渡した。
眠る負傷者。
湯気を上げる鍋。
包帯を運ぶ使用人。
夜警を終え、毛布にくるまる騎士。
「貴殿はこれを、元夫人による私的流用と申し立てた。王国の北方防衛を担う兵士の治療と休息が、どのように私人の利益となるのか説明せよ」
アルヴィン様の口が動いた。
声は出なかった。
「説明できないのであれば、申し立ての前提が虚偽だったと判断する」
「私は家の財産を守ろうとしただけだ」
「所有していない区画を自家の財産と称し、出資していない設備を管理下に置こうとした。そのために王国兵の救護を停止させた」
監察官の声は低いがよく通った。
「それを財産保全とは呼ばない」
アルヴィン様が私を見た。
「ノエルが私を陥れようとしている。あの女は私から爵位を奪うために――」
「貴殿の爵位処分についても伝える」
監察官は遮った。
「先の監察において、貴殿には領主権の停止と王都での再審査が命じられていた。爵位剥奪については仮決定とし、賠償および反省の意思が確認できれば処分を軽減する余地が残されていた」
「そうだ。だから私は家を立て直すために」
「その再審査中に虚偽の申し立てを行い、北方守備隊の救護体制を妨害した」
監察官は書付を畳んだ。
「処分軽減の余地はない」
広間が静かになった。
「一つ。救護設備に対する申し立てを却下する。二つ。使用凍結の申請は虚偽申告および権利の濫用と認める。三つ。先の監察で下された爵位剥奪を確定する。グランヴェル家は当領に関する一切の権利を失う」
「待て」
「四つ。これまでの公金流用、領主職務の放棄、今回の虚偽申告および軍務妨害を合わせ、貴殿には北方鉱山での労役を命じる」
「労役だと」
「即日移送する」
「私は辺境伯だぞ」
「元辺境伯だ」
監察官はそれ以上何も言わなかった。
アルヴィン様は助けを探すように広間を見回した。
患者は横になり、使用人は粥を配り、騎士は毛布を運んでいた。
この広間で彼だけにすることがなかった。
「ノエル」
最後に私を見た。
「頼む。君からも何か言ってくれ」
「あなたを助ける言葉を探しているのですか」
私はかまどへ薪を一本足した。
「私が今、手を掛けているのはこの火です」
薪が小さく爆ぜた。
「あなたではありません」
監察官に促され、アルヴィン様は歩き出した。
眠る狼の下をうなだれて出ていった。
靴音が来た時よりずっと重かった。
扉が閉まるとルーク様がギルバートの隣に立った。
「……どこまで読んでいた」
「申し立てをなさることまでは」
ギルバートは閉じた扉へ目を向けた。
「ですが北翼が使えることも、古い書付が見つかることも、処分がどこまで重くなるかも私には分かりませんでした」
「それでも止めなかった」
「証拠もなく止めれば、あの方は別の理由を探されたでしょう」
ギルバートは広間へ視線を戻した。
「ご自分の言葉で申し立て、ご自分の名で署名なさった。その結果でございます」
ルーク様はしばらくギルバートの横顔を見ていた。
「……あんたを敵に回さずに済んでよかった」
「私はただの家令でございます」
*
その夜。火の番に来たギルバートへ聞いた。
「北翼のことを、なぜもっと早く話さなかったのですか」
ギルバートは火を見たまま答えた。
「お話しできたのは、閉ざされた扉と古い言い伝えだけでございました」
「それでも鍵は持っていた」
「はい」
「あの部屋が使えない状態だったとしても、私は探したと思います」
「そうでございましょう」
ギルバートは薪を一本足した。
「ですが床で眠る方々に、使えるかどうかも分からない場所を示すことはできませんでした。希望は外れた時に人をいっそう冷やします」
火が揺れた。
「奥様が風を見つけ、ルーク様が建物を確かめ、皆が手を動かした。私は預かっていた鍵と見つけた書付をお渡ししただけでございます」
「五十年間、誰も開けなかった扉です」
「必要とする方が現れなかったのでございましょう」
ギルバートはかまどの向こうに並ぶ寝台を見た。
「あるいは必要としていても、探さなかったのかもしれません」
それだけ言って一礼した。
*
夜半。広間の患者が寝静まった。
見回りを終え、かまどの前の長椅子に座った。
肩に毛布が掛かった。
振り向くとルーク様が立っていた。
もう一枚を腕に抱えている。
「巡回は終わりました。全員眠っています」
「ありがとうございます」
「……あなた以外は」
彼は隣へ座った。
薪の燃える音だけがしばらく続いた。
「裁定が下りました」
「はい」
「あなたはもうどこへでも行ける」
「……はい」
ルーク様は膝の上で手を組んだ。
「行かないでほしい」
火の色が横顔で揺れた。
「この家の全員に、あなたは眠る場所を作った。廊下で眠っていた騎士にも、五十年閉ざされていたこの広間にも」
彼は抱えていた毛布を私の膝へ置いた。
「なのに、あなたの場所だけがまだどこにも決まっていない」
膝の毛布は火のそばにあったのだろう。
じんわりと温かい。
「俺の隣に決めてほしい」
「承知しました」
口をついて出てから気づいた。
初夜にも同じ言葉を言った。
あれは諦めの返事だった。
「……今度のは心からです」
「……よかった」
戦の指図をする時よりずっと小さな声だった。
火が小さく鳴り、眠る狼の影が壁で揺れた。
昔この広間で大勢が夜を越したという。
今夜も静かな寝息が満ちている。
その真ん中に私の場所ができた。
眠れる場所は明日を守る場所。
いつか母が言った言葉の意味が今なら分かる。
明日の私はここで目を覚ます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
白い結婚シリーズ第四作目投稿しました。
『白い結婚で捨てられた私は、愛する騎士を戦場へ送りました――最後の一人が帰るまで、門は閉じません』
正式な領主代行となったノエルのもとへ、魔物の大群襲来の報せが届く。
愛するルークを、自らの命令で戦場へ送り出したノエル。
砦を守るのか。
領民と守備兵を生かすのか。
そして、最後の後衛を率いるルークが戻らないまま、魔物は第二防衛線へ迫る。
「最後の一人が帰るまで、門は閉じません」
一度は置き去りにされたノエルが、今度は誰一人置き去りにしない物語です。
どうぞよろしくお願いいたします。




