白い結婚を無効にした元夫が、今さら復縁を迫ってきたので、五十年閉ざされた北の翼を開けました
「喜べ、ノエル。もう一度、妻にしてやる」
婚姻無効の申し渡しから、ひと月。
王都へ送られたはずの元夫が、療養室の入り口に立っていた。
旅装のまま、埃も払わずに。
私は、手を止めなかった。
巻きかけの包帯が、まだ半分残っていた。
「腕を上げてみてください。――はい。いい経過です」
「おい。聞こえなかったのか」
包帯の端を留める。
結び目を、指先でひとつ確かめる。
「聞こえています。ここは療養室ですので、お声は小さく」
隣の寝台へ移ると、靴音が苛立った調子で床を鳴らした。
そこへ、ギルバートが静かに入ってきて、私にだけ聞こえる声で告げた。
「お連れ様は、書斎へご案内いたしました」
お連れ様が誰なのかは、聞かないでおいた。
この方は、一人で王都を出られる身の上ではないはずだった。
「相変わらず可愛げのない女だ。……まあいい、事情を知れば態度も変わる」
アルヴィン様は、上着の襟を正した。
「まず言っておくが――君を、許すことにした」
「夫の留守に寝室へ男を入れた件。夫人予算を好きに使った件。あることないこと監察院に記録させた件。全部、水に流してやる。……どうした、その顔は。寛大すぎて言葉も出ないか」
「続けてください」
「うむ。それでだ、調べたのだよ。王命の狙いは、君のヴァレンの血だったそうだな。ならば話は早い。その血と私がもう一度結べば、王命は改めて果たされる。爵位は戻る。婚姻が戻れば、持参金の返還も消える。ほら、全員が得をする」
途中から、息継ぎを忘れた早口になっていた。
王都で、幾晩もかけて組み上げた計算なのだろう。
「それにな、ノエル。今度は名だけとは言わん」
一歩、近づいてくる。
「ちゃんと妻として扱ってやる。王都の女とも切れた。……いや、向こうから切れたのだが、まあ同じことだ。君が一番になれるということだ」
私は、薬草茶を次の患者へ手渡してから、彼に向き直った。
「お断りします」
「な……理由を言え、理由を」
「あなたの計算に、私の得がひとつもありません」
「……そうか」
薄い笑いが、口の端に浮かんだ。
それから、声の温度を落とした。
「ならば、法の話をしよう。この屋敷は、まだグランヴェル家の財産だ。勝手な改造については、現状凍結を申し立ててある。もう受理された」
彼は、療養室を見回した。
寝台を、薬草棚を、眠っている患者を、同じ速さで。
「裁定の日までに、元に戻しておくことだな。――ああ、戻せないなら、それでもいい。寝台も棚も、設備ごと頂くまでだ」
言い捨てて、彼は出ていった。
入ってきた時より、足取りが軽かった。
ギルバートが、その背を見送った。
驚いても、慌ててもいなかった。
ただ、扉が閉まる音を、最後まで聞いていた。
*
三日後、王都から封書が届いた。
重い封蝋で閉じられた、通知が一枚。
――係争中の申し立てに基づき、当該屋敷の改造区画の使用を、裁定まで停止する。
改造区画。
仮眠室。療養室。夜警明けの小広間。マントと包帯の保管庫。
この一年で生きた場所に変わったところ、全部だった。
「期限は」
「猶予は、ほとんどございません」
「従わなければ、どうなりますか」
「差出人を、ご覧くださいませ」
問うまでもなかった。この封蝋を持つのは、王家だけだ。
「あの方の願いが通ったわけではございません。争いの間は双方とも現状を動かすな、という王家の定めでございます。破れば、王命に背いた事実だけが残ります」
「破って抗えば、どうなる」
「相手の思う壺でございます。屋敷を私物のように扱う女だと、裁定の場で騒ぎ立てる口実を、こちらから渡すことになります」
私は、うなずいた。
「分かりました。従います」
ルーク様が、通知を睨んだ。
「だが患者はどうする。この人数の寝床を、そう簡単には作れない」
「作ります。どうやってかは、これから探します」
当てなど、まるでなかった。
そんな状況でも、ギルバートは眉ひとつ動かさなかった。
まるで、この答えを聞くと分かっていたように。
「ギルバート殿。ひとつだけ聞く。……あなたには、どこまで読めている」
「年寄りの目は、遠くが見えるだけでございます」
「……いい。その日が来たら、また聞く」
*
通知の翌日から、区画はひとつずつ閉じられた。
まず小広間、次に療養室。
仮眠室に鍵がかかったのは、期限の前夜だった。
誰も、文句を言わなかった。
騎士たちは黙って毛布を抱え、それぞれの持ち場へ散っていった。
その静けさが、一番こたえた。
夜明け前、見回りに出て、私は廊下で足を止めた。
騎士が、床で眠っていた。
壁にもたれ、剣を抱いて。
夜警明けに戻り、兵舎の寝台を療養中の同輩に譲って、ここへ来たのだろう。
一年前と、同じ場所だった。
あの冬、凍傷で指を失いかけた、あの若い騎士だった。
指は、もう治っている。
治した場所が、今夜から使えない。
紙が一枚届いただけで、何もかもが、あの冬より前に戻っていた。
私は、ずれた毛布を掛け直した。
起こさないように、そっと。
「……必ず、取り返します」
小さく、そう約束した。
*
翌日の夜、砦から戻ったルーク様が、まっすぐ仮眠室へ向かった。
嫌な予感がして、後を追った。
扉の前で、彼は錠に手を掛けていた。
「ルーク様」
「……凍結など、知ったことか」
低い声だった。
「規則の紙が、俺の部下より重いのか」
「開ければ、アルヴィン様の思う壺です」
「分かっています」
錠を掴んだ指に、私は自分の手を重ねた。
指が、強張っていた。
「一晩だけ、ください」
「……何をする気ですか」
「この屋敷を、ひと部屋残らず見て回ります」
「無駄です。俺は十年ここにいる。空いている部屋なら、俺の方が知っている」
「そうでしょうね。それでも、探します」
私は燭台を取って、背を向けた。
「待ってください」
手首を、掴まれた。
振り向くと、彼はもう錠を握っていなかった。
「あなた一人に背負わせて、俺だけ眠れると思いますか」
掴んだ手が、ゆっくりと離れた。
「……分かりました。一緒に探しましょう」
*
まず、手近な扉から開けた。
手前の物置は、奥の棚を空ければ、通いの患者の荷物と包帯が置ける。
浴場は、焚き口が生きていた。灰を掻けば、煙の道も塞がっていない。湯さえ沸かせば、冷えて戻った者を真っ先に温められる。
ルーク様が、焚き口を覗き込んだ。
「十年ここにいて、考えたこともなかった」
氷室も、屋根裏も、同じだった。
使い道は、ある。
けれど、病人を並べて、夜通し火を絶やさずにいられる部屋だけが、出てこない。
次の扉へ向かった時だった。
角を曲がったところで、燭台の炎が、ふ、と横に倒れた。
足を止めても、倒れたままだった。
「……ルーク様。この屋敷の窓は、どこか開いていますか」
「まさか。まだ夜は冷える」
「では、この風は、どこから来てどこへ行くのでしょう」
廊下の埃が、床の上で細い筋になっていた。
筋を辿って、歩いた。
頬に当たる冷たさが、角を曲がるたびに強くなる。
物置と客間の前を通り過ぎても、筋は途切れなかった。
突き当たりで、それは終わっていた。
大きな、両開きの扉。
埃をかぶった閂に、古い封印の紐。
扉の下の隙間から、足首へ、冷気が絶えず流れ出している。
「北翼だ」
ルーク様が、燭台を掲げた。
「俺が着任した時から閉まっている。前の家の区画だから開けるな、としか聞いていない」
「……この家には、まだ息をしている場所があります」
扉に、手のひらを当てた。
厚い木の向こうで、風が長く鳴っていた。
気づけば、この扉を開ける手立てを探していた。
「その必要は、ございません」
背後で、足音もなく声がした。
振り向くと、ギルバートが灯りを手に立っていた。
「……驚かせて、申し訳ございません。灯りが北へ向かいましたので、追ってまいりました」
この老人がこの扉の前に現れたことの意味を、その時はまだ、私は測りかねていた。
「開けても、いいのですか」
「奥様が、お決めになることでございます」
ギルバートは、懐から布包みを出した。
包みの中の、黒ずんだ鍵。柄に、狼の意匠があった。
「五十年、私が預かっておりました」
鍵を受け取り、閂を外して、回した。
重い音を立てて、扉が開く。
流れ出した風が、燭台をひとつ大きく揺らして、止んだ。
明かりが、闇の奥まで届かなかった。
それほど、広かった。
手前に、埃布をかぶった寝台がいくつも並んでいる。
その奥に、大人の背丈より大きなかまど。
さらに高い壁に、盾と、二本の針葉樹と、その下に眠る狼。
階段の踊り場にある紋と、同じだった。
「ここは……」
「ヴァレン家の、客殿でございます」
ギルバートは静かに応え、それから、かまどの前まで進んだ。
灰の受け口を、迷いのない手つきで開ける。
「昔、魔物の群れが防衛線を越えかけたことがございました。その折、先代様はここを領民に開かれたのです」
埃を払って寝台に触れると、木肌は乾いているだけで、割れてはいなかった。
天井にも、雨染みひとつない。
長く放られていた場所には、見えなかった。
かまどの前では、ギルバートが灰を掻いている。
手を入れてきたのが誰かは、もう分かっていた。
問い質すのは、後でいい。
その夜のうちに、三人で寝台を運び出した。
夜が明けると、事情を聞いた使用人と騎士たちが、次々と袖をまくった。
昼までに、患者が運び込まれた。
廊下で眠っていたあの騎士が、入り口で足を止めた。
「ここ、俺たちが使っていいんですか。……壁に、紋章とか彫ってあるのに」
「眠るための場所です」
ギルバートが、毛布を一枚、騎士に手渡した。
「五十年ぶりの、お客様でございますよ」
*
裁定の日、アルヴィン様は宣言通りにやってきた。
灰色の旅装の男を、後ろに従えて。
かつてこの屋敷でアルヴィン様を裁いた、あの監察官だった。
「さて、ノエル。区画は検めさせてもらうぞ。戻していなければ、その場で接収の――」
アルヴィン様は、勢いよく療養室の扉を開けた。
空だった。
寝台は畳まれ、薬草棚は空き、患者は一人もいない。
仮眠室も、小広間も、同じだった。
「……戻した、のか。全部」
拍子抜けした声だった。
そこへ、廊下の奥から匂いが流れてきた。
薬草茶と、麦粥の湯気。
北から。
「北翼だと? あんな物置に、何が」
アルヴィン様は、匂いを辿って歩き出した。
両開きの扉は、開け放してあった。
赤々と燃えるかまど。
湯気を上げる大鍋。
寝台の列で眠る患者と、毛布を配る使用人たち。
そして高い壁に、眠る狼。
アルヴィン様は、入り口で立ち尽くした。
「な……んだ、これは。誰の許しで」
「誰の許しも要りません」
私は言った。
「ここは、凍結の通知にない区画です。あなたの申し立てにも、あなたの家の目録にも、載っていません」
「そんなはずが」
「ないのです。誰も値段を付けなかった場所ですから」
彼は壁の紋を見上げ、それから、思い当たった顔で私を見た。
「ヴァレン……」
「アルヴィン・グランヴェル殿」
監察官が、進み出た。
懐から、書付をひとつ開く。
「読み上げの前に、確かめる。貴殿の申し立てには、こうある。――元夫人は当家の屋敷を無断で改造し、私的に流用している」
男は顔を上げ、広間を見渡した。
寝台の列。眠る患者。湯気の立つ粥。
「王家の兵が眠り、傷を癒している。……どこが、私的か」
「そ、それは、だな」
「先日の設備ごと頂くという発言の証人も、この部屋に揃っているが。続けるか」
アルヴィン様の口が、開いて、閉じた。
「結構。裁定が下りた。読み上げる」
広間が、静かになった。
低いが、よく通る声だった。
「一つ。救護院の設備に関する申し立ては、却下。原資は返還対象の持参金であり、貴家の寄与は認められない。二つ。申し立ての内容は、事実に反する虚偽の申告と認める。使用凍結の申請は、悪意による権利の濫用とし、相応の処分を科す。三つ。以上をもって、貴殿の爵位剥奪を確定。グランヴェル家は、当領に関する一切の権利を失う」
「ま、待て。待ってくれ。私はただ、家の財産を」
「四つ。貴殿には、北方鉱山での労役を命じる。即日、坑夫として送る」
「ろ……労役だと。私は辺境伯だぞ」
「元、辺境伯だ」
監察官は、眠る患者の列へ目をやった。
「あの鉱山も、冬は死人が出る。坑夫は身を寄せて眠り、寝床は奪い合いだ。……貴殿が凍らせようとした、この部屋のようにな」
封書を畳む。
「眠る場所の値打ちを、あちらで学ばれよ。今度は、奪われる側としてだ」
アルヴィン様は、助けを探すように広間を見回した。
患者は横になり、使用人は粥を配り、騎士は毛布を運んでいた。
この広間で、彼だけに、することがなかった。
「ノエル……頼む、君からも何か」
「あなたを助ける言葉を、探しているのですか」
私は、かまどに薪をひとつ足した。
「私が今、手を掛けているのは、この火です。あなたではありません」
薪が、爆ぜた。
「あなたが物置と呼んだ場所が、今、全員を眠らせています。私にできる返事は、それだけです」
監察官に促され、彼は歩き出した。
眠る狼の下を、うなだれて出ていった。
靴音が、来た時よりずっと重かった。
アルヴィン様が出ていくと、ルーク様がギルバートの隣に立った。
「……あなたの読み通りになった」
「読んだのではございません。あの方が、ご自分で選ばれただけでございます」
ルーク様は、しばらくギルバートの横顔を見ていた。
「……あんたを敵に回さずに済んで、よかった」
「私は、ただの家令でございます」
*
その夜、火の番に来たギルバートに、私は聞いた。
「知っていたのですね。あの申し立てが、ああなると」
ギルバートは、火を見たまま答えた。
「あの方は、必ず打って出られると読んでおりました。困窮した方は、手持ちの札を全部お使いになります」
「止められたのでは」
「止めれば、申し立ては王都の机の上で眠り、あの方はまた別の札を探されます」
ギルバートは、薪をひとつ足した。
「人の恨みで潰した相手は、いつか戻ってまいります。ご自分の欲で潰れた相手は、戻る場所がございません」
「……あの報告書の時と、同じやり口です」
「恐れ入ります」
褒めていません、と言いかけて、やめた。
代わりに、ひとつだけ聞いた。
「北翼のことは、なぜ黙っていたのですか」
ギルバートは、初めて私を見た。
「あそこは、鍵を渡して開く場所ではございません」
火が、揺れた。
「ヴァレンの血を引く方が、ご自分の足で辿り着く場所でございました」
返す言葉を探しているうちに、ギルバートは一礼して、火の前を離れていった。
*
夜半、広間の患者が寝静まった。
見回りを終えて、かまどの前の長椅子に座った。
肩に、毛布が掛かった。
振り向くと、ルーク様が立っていた。
もう一枚、腕に抱えている。
「巡回は終わりました。全員、眠っています」
「ありがとうございます」
「……あなた以外は」
彼は、隣に座った。
薪の燃える音だけが、しばらく続いた。
「裁定が下りました」
「はい」
「あなたは、もうどこへでも行ける」
「……はい」
「行かないでほしい」
火の色が、横顔で揺れた。
「この家の全員に、あなたは眠る場所を作った。廊下で眠っていた騎士にも、五十年閉ざされていたこの広間にも。なのに、あなたの場所だけが、まだどこにも決まっていない」
彼は、抱えていた毛布を、私の膝に置いた。
「俺の隣に、決めてほしい」
膝の毛布は、火のそばにあったのだろう、じんわりと温かい。
「承知しました」
口をついて出てから、気づいた。
初夜にも、同じ言葉を言った。
あれは、諦めの返事だった。
「……今度のは、心からです」
「……よかった」
戦の指図をする時より、ずっと小さな声だった。
火が小さく鳴って、眠る狼の影が、壁で揺れた。
昔、この広間で大勢が夜を越したという。
今夜も、静かな寝息が満ちている。
その真ん中に、私の場所ができた。
眠れる場所は、明日を守る場所。
いつか母が言った言葉の意味が、今なら分かる。
明日の私は、ここで目を覚ます。
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