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白い結婚から始まる、辺境の眠れる場所

白い結婚を無効にした元夫が、今さら復縁を迫ってきたので、五十年閉ざされた北の翼を開けました

作者: 中身無男
掲載日:2026/07/04

「喜べ、ノエル。もう一度、妻にしてやる」


 婚姻無効の申し渡しから、ひと月。


 王都へ送られたはずの元夫が、療養室の入り口に立っていた。


 旅装のまま、埃も払わずに。


 私は、手を止めなかった。


 巻きかけの包帯が、まだ半分残っていた。


「腕を上げてみてください。――はい。いい経過です」


「おい。聞こえなかったのか」


 包帯の端を留める。


 結び目を、指先でひとつ確かめる。


「聞こえています。ここは療養室ですので、お声は小さく」


 隣の寝台へ移ると、靴音が苛立った調子で床を鳴らした。


 そこへ、ギルバートが静かに入ってきて、私にだけ聞こえる声で告げた。


「お連れ様は、書斎へご案内いたしました」


 お連れ様が誰なのかは、聞かないでおいた。


 この方は、一人で王都を出られる身の上ではないはずだった。


「相変わらず可愛げのない女だ。……まあいい、事情を知れば態度も変わる」


 アルヴィン様は、上着の襟を正した。


「まず言っておくが――君を、許すことにした」


「夫の留守に寝室へ男を入れた件。夫人予算を好きに使った件。あることないこと監察院に記録させた件。全部、水に流してやる。……どうした、その顔は。寛大すぎて言葉も出ないか」


「続けてください」


「うむ。それでだ、調べたのだよ。王命の狙いは、君のヴァレンの血だったそうだな。ならば話は早い。その血と私がもう一度結べば、王命は改めて果たされる。爵位は戻る。婚姻が戻れば、持参金の返還も消える。ほら、全員が得をする」


 途中から、息継ぎを忘れた早口になっていた。


 王都で、幾晩もかけて組み上げた計算なのだろう。


「それにな、ノエル。今度は名だけとは言わん」


 一歩、近づいてくる。


「ちゃんと妻として扱ってやる。王都の女とも切れた。……いや、向こうから切れたのだが、まあ同じことだ。君が一番になれるということだ」


 私は、薬草茶を次の患者へ手渡してから、彼に向き直った。


「お断りします」


「な……理由を言え、理由を」


「あなたの計算に、私の得がひとつもありません」


「……そうか」


 薄い笑いが、口の端に浮かんだ。


 それから、声の温度を落とした。


「ならば、法の話をしよう。この屋敷は、まだグランヴェル家の財産だ。勝手な改造については、現状凍結を申し立ててある。もう受理された」


 彼は、療養室を見回した。


 寝台を、薬草棚を、眠っている患者を、同じ速さで。


「裁定の日までに、元に戻しておくことだな。――ああ、戻せないなら、それでもいい。寝台も棚も、設備ごと頂くまでだ」


 言い捨てて、彼は出ていった。


 入ってきた時より、足取りが軽かった。


 ギルバートが、その背を見送った。


 驚いても、慌ててもいなかった。


 ただ、扉が閉まる音を、最後まで聞いていた。





 三日後、王都から封書が届いた。


 重い封蝋で閉じられた、通知が一枚。


 ――係争中の申し立てに基づき、当該屋敷の改造区画の使用を、裁定まで停止する。


 改造区画。


 仮眠室。療養室。夜警明けの小広間。マントと包帯の保管庫。


 この一年で生きた場所に変わったところ、全部だった。


「期限は」


「猶予は、ほとんどございません」


「従わなければ、どうなりますか」


「差出人を、ご覧くださいませ」


 問うまでもなかった。この封蝋を持つのは、王家だけだ。


「あの方の願いが通ったわけではございません。争いの間は双方とも現状を動かすな、という王家の定めでございます。破れば、王命に背いた事実だけが残ります」


「破って抗えば、どうなる」


「相手の思う壺でございます。屋敷を私物のように扱う女だと、裁定の場で騒ぎ立てる口実を、こちらから渡すことになります」


 私は、うなずいた。


「分かりました。従います」


 ルーク様が、通知を睨んだ。


「だが患者はどうする。この人数の寝床を、そう簡単には作れない」


「作ります。どうやってかは、これから探します」


 当てなど、まるでなかった。


 そんな状況でも、ギルバートは眉ひとつ動かさなかった。


 まるで、この答えを聞くと分かっていたように。


「ギルバート殿。ひとつだけ聞く。……あなたには、どこまで読めている」


「年寄りの目は、遠くが見えるだけでございます」


「……いい。その日が来たら、また聞く」





 通知の翌日から、区画はひとつずつ閉じられた。


 まず小広間、次に療養室。


 仮眠室に鍵がかかったのは、期限の前夜だった。


 誰も、文句を言わなかった。


 騎士たちは黙って毛布を抱え、それぞれの持ち場へ散っていった。


 その静けさが、一番こたえた。


 夜明け前、見回りに出て、私は廊下で足を止めた。


 騎士が、床で眠っていた。


 壁にもたれ、剣を抱いて。


 夜警明けに戻り、兵舎の寝台を療養中の同輩に譲って、ここへ来たのだろう。


 一年前と、同じ場所だった。


 あの冬、凍傷で指を失いかけた、あの若い騎士だった。


 指は、もう治っている。


 治した場所が、今夜から使えない。


 紙が一枚届いただけで、何もかもが、あの冬より前に戻っていた。


 私は、ずれた毛布を掛け直した。


 起こさないように、そっと。


「……必ず、取り返します」


 小さく、そう約束した。





 翌日の夜、砦から戻ったルーク様が、まっすぐ仮眠室へ向かった。


 嫌な予感がして、後を追った。


 扉の前で、彼は錠に手を掛けていた。


「ルーク様」


「……凍結など、知ったことか」


 低い声だった。


「規則の紙が、俺の部下より重いのか」


「開ければ、アルヴィン様の思う壺です」


「分かっています」


 錠を掴んだ指に、私は自分の手を重ねた。


 指が、強張っていた。


「一晩だけ、ください」


「……何をする気ですか」


「この屋敷を、ひと部屋残らず見て回ります」


「無駄です。俺は十年ここにいる。空いている部屋なら、俺の方が知っている」


「そうでしょうね。それでも、探します」


 私は燭台を取って、背を向けた。


「待ってください」


 手首を、掴まれた。


 振り向くと、彼はもう錠を握っていなかった。


「あなた一人に背負わせて、俺だけ眠れると思いますか」


 掴んだ手が、ゆっくりと離れた。


「……分かりました。一緒に探しましょう」



 まず、手近な扉から開けた。


 手前の物置は、奥の棚を空ければ、通いの患者の荷物と包帯が置ける。


 浴場は、焚き口が生きていた。灰を掻けば、煙の道も塞がっていない。湯さえ沸かせば、冷えて戻った者を真っ先に温められる。


 ルーク様が、焚き口を覗き込んだ。


「十年ここにいて、考えたこともなかった」


 氷室も、屋根裏も、同じだった。


 使い道は、ある。


 けれど、病人を並べて、夜通し火を絶やさずにいられる部屋だけが、出てこない。


 次の扉へ向かった時だった。


 角を曲がったところで、燭台の炎が、ふ、と横に倒れた。


 足を止めても、倒れたままだった。


「……ルーク様。この屋敷の窓は、どこか開いていますか」


「まさか。まだ夜は冷える」


「では、この風は、どこから来てどこへ行くのでしょう」


 廊下の埃が、床の上で細い筋になっていた。


 筋を辿って、歩いた。


 頬に当たる冷たさが、角を曲がるたびに強くなる。


 物置と客間の前を通り過ぎても、筋は途切れなかった。


 突き当たりで、それは終わっていた。


 大きな、両開きの扉。


 埃をかぶった閂に、古い封印の紐。


 扉の下の隙間から、足首へ、冷気が絶えず流れ出している。


「北翼だ」


 ルーク様が、燭台を掲げた。


「俺が着任した時から閉まっている。前の家の区画だから開けるな、としか聞いていない」


「……この家には、まだ息をしている場所があります」


 扉に、手のひらを当てた。


 厚い木の向こうで、風が長く鳴っていた。


 気づけば、この扉を開ける手立てを探していた。


「その必要は、ございません」


 背後で、足音もなく声がした。


 振り向くと、ギルバートが灯りを手に立っていた。


「……驚かせて、申し訳ございません。灯りが北へ向かいましたので、追ってまいりました」


 この老人がこの扉の前に現れたことの意味を、その時はまだ、私は測りかねていた。


「開けても、いいのですか」


「奥様が、お決めになることでございます」


 ギルバートは、懐から布包みを出した。


 包みの中の、黒ずんだ鍵。柄に、狼の意匠があった。


「五十年、私が預かっておりました」


 鍵を受け取り、閂を外して、回した。


 重い音を立てて、扉が開く。


 流れ出した風が、燭台をひとつ大きく揺らして、止んだ。


 明かりが、闇の奥まで届かなかった。


 それほど、広かった。


 手前に、埃布をかぶった寝台がいくつも並んでいる。


 その奥に、大人の背丈より大きなかまど。


 さらに高い壁に、盾と、二本の針葉樹と、その下に眠る狼。


 階段の踊り場にある紋と、同じだった。


「ここは……」


「ヴァレン家の、客殿でございます」


 ギルバートは静かに応え、それから、かまどの前まで進んだ。


 灰の受け口を、迷いのない手つきで開ける。


「昔、魔物の群れが防衛線を越えかけたことがございました。その折、先代様はここを領民に開かれたのです」


 埃を払って寝台に触れると、木肌は乾いているだけで、割れてはいなかった。


 天井にも、雨染みひとつない。


 長く放られていた場所には、見えなかった。


 かまどの前では、ギルバートが灰を掻いている。


 手を入れてきたのが誰かは、もう分かっていた。


 問い質すのは、後でいい。


 その夜のうちに、三人で寝台を運び出した。


 夜が明けると、事情を聞いた使用人と騎士たちが、次々と袖をまくった。


 昼までに、患者が運び込まれた。


 廊下で眠っていたあの騎士が、入り口で足を止めた。


「ここ、俺たちが使っていいんですか。……壁に、紋章とか彫ってあるのに」


「眠るための場所です」


 ギルバートが、毛布を一枚、騎士に手渡した。


「五十年ぶりの、お客様でございますよ」





 裁定の日、アルヴィン様は宣言通りにやってきた。


 灰色の旅装の男を、後ろに従えて。


 かつてこの屋敷でアルヴィン様を裁いた、あの監察官だった。


「さて、ノエル。区画は検めさせてもらうぞ。戻していなければ、その場で接収の――」


 アルヴィン様は、勢いよく療養室の扉を開けた。


 空だった。


 寝台は畳まれ、薬草棚は空き、患者は一人もいない。


 仮眠室も、小広間も、同じだった。


「……戻した、のか。全部」


 拍子抜けした声だった。


 そこへ、廊下の奥から匂いが流れてきた。


 薬草茶と、麦粥の湯気。


 北から。


「北翼だと? あんな物置に、何が」


 アルヴィン様は、匂いを辿って歩き出した。


 両開きの扉は、開け放してあった。


 赤々と燃えるかまど。


 湯気を上げる大鍋。


 寝台の列で眠る患者と、毛布を配る使用人たち。


 そして高い壁に、眠る狼。


 アルヴィン様は、入り口で立ち尽くした。


「な……んだ、これは。誰の許しで」


「誰の許しも要りません」


 私は言った。


「ここは、凍結の通知にない区画です。あなたの申し立てにも、あなたの家の目録にも、載っていません」


「そんなはずが」


「ないのです。誰も値段を付けなかった場所ですから」


 彼は壁の紋を見上げ、それから、思い当たった顔で私を見た。


「ヴァレン……」


「アルヴィン・グランヴェル殿」


 監察官が、進み出た。


 懐から、書付をひとつ開く。


「読み上げの前に、確かめる。貴殿の申し立てには、こうある。――元夫人は当家の屋敷を無断で改造し、私的に流用している」


 男は顔を上げ、広間を見渡した。


 寝台の列。眠る患者。湯気の立つ粥。


「王家の兵が眠り、傷を癒している。……どこが、私的か」


「そ、それは、だな」


「先日の設備ごと頂くという発言の証人も、この部屋に揃っているが。続けるか」


 アルヴィン様の口が、開いて、閉じた。


「結構。裁定が下りた。読み上げる」


 広間が、静かになった。


 低いが、よく通る声だった。


「一つ。救護院の設備に関する申し立ては、却下。原資は返還対象の持参金であり、貴家の寄与は認められない。二つ。申し立ての内容は、事実に反する虚偽の申告と認める。使用凍結の申請は、悪意による権利の濫用とし、相応の処分を科す。三つ。以上をもって、貴殿の爵位剥奪を確定。グランヴェル家は、当領に関する一切の権利を失う」


「ま、待て。待ってくれ。私はただ、家の財産を」


「四つ。貴殿には、北方鉱山での労役を命じる。即日、坑夫として送る」


「ろ……労役だと。私は辺境伯だぞ」


「元、辺境伯だ」


 監察官は、眠る患者の列へ目をやった。


「あの鉱山も、冬は死人が出る。坑夫は身を寄せて眠り、寝床は奪い合いだ。……貴殿が凍らせようとした、この部屋のようにな」


 封書を畳む。


「眠る場所の値打ちを、あちらで学ばれよ。今度は、奪われる側としてだ」


 アルヴィン様は、助けを探すように広間を見回した。


 患者は横になり、使用人は粥を配り、騎士は毛布を運んでいた。


 この広間で、彼だけに、することがなかった。


「ノエル……頼む、君からも何か」


「あなたを助ける言葉を、探しているのですか」


 私は、かまどに薪をひとつ足した。


「私が今、手を掛けているのは、この火です。あなたではありません」


 薪が、爆ぜた。


「あなたが物置と呼んだ場所が、今、全員を眠らせています。私にできる返事は、それだけです」


 監察官に促され、彼は歩き出した。


 眠る狼の下を、うなだれて出ていった。


 靴音が、来た時よりずっと重かった。


 アルヴィン様が出ていくと、ルーク様がギルバートの隣に立った。


「……あなたの読み通りになった」


「読んだのではございません。あの方が、ご自分で選ばれただけでございます」


 ルーク様は、しばらくギルバートの横顔を見ていた。


「……あんたを敵に回さずに済んで、よかった」


「私は、ただの家令でございます」



 その夜、火の番に来たギルバートに、私は聞いた。


「知っていたのですね。あの申し立てが、ああなると」


 ギルバートは、火を見たまま答えた。


「あの方は、必ず打って出られると読んでおりました。困窮した方は、手持ちの札を全部お使いになります」


「止められたのでは」


「止めれば、申し立ては王都の机の上で眠り、あの方はまた別の札を探されます」


 ギルバートは、薪をひとつ足した。


「人の恨みで潰した相手は、いつか戻ってまいります。ご自分の欲で潰れた相手は、戻る場所がございません」


「……あの報告書の時と、同じやり口です」


「恐れ入ります」


 褒めていません、と言いかけて、やめた。


 代わりに、ひとつだけ聞いた。


「北翼のことは、なぜ黙っていたのですか」


 ギルバートは、初めて私を見た。


「あそこは、鍵を渡して開く場所ではございません」


 火が、揺れた。


「ヴァレンの血を引く方が、ご自分の足で辿り着く場所でございました」


 返す言葉を探しているうちに、ギルバートは一礼して、火の前を離れていった。





 夜半、広間の患者が寝静まった。


 見回りを終えて、かまどの前の長椅子に座った。


 肩に、毛布が掛かった。


 振り向くと、ルーク様が立っていた。


 もう一枚、腕に抱えている。


「巡回は終わりました。全員、眠っています」


「ありがとうございます」


「……あなた以外は」


 彼は、隣に座った。


 薪の燃える音だけが、しばらく続いた。


「裁定が下りました」


「はい」


「あなたは、もうどこへでも行ける」


「……はい」


「行かないでほしい」


 火の色が、横顔で揺れた。


「この家の全員に、あなたは眠る場所を作った。廊下で眠っていた騎士にも、五十年閉ざされていたこの広間にも。なのに、あなたの場所だけが、まだどこにも決まっていない」


 彼は、抱えていた毛布を、私の膝に置いた。


「俺の隣に、決めてほしい」


 膝の毛布は、火のそばにあったのだろう、じんわりと温かい。


「承知しました」


 口をついて出てから、気づいた。


 初夜にも、同じ言葉を言った。


 あれは、諦めの返事だった。


「……今度のは、心からです」


「……よかった」


 戦の指図をする時より、ずっと小さな声だった。


 火が小さく鳴って、眠る狼の影が、壁で揺れた。


 昔、この広間で大勢が夜を越したという。


 今夜も、静かな寝息が満ちている。


 その真ん中に、私の場所ができた。


 眠れる場所は、明日を守る場所。


 いつか母が言った言葉の意味が、今なら分かる。


 明日の私は、ここで目を覚ます。

ここまで読んでいただきありがとうございます

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけるとありがたいです


3作目白い結婚で捨てられた女が、辺境の悪徳商人を産地直送で潰しました

読んでいただけると嬉しいです

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