澪第3話 ヒマ
醤油の香りも、木桶の並ぶ暗さも、澪にとっては当たり前のものだった。
幼い頃、気がついたら毎日そこにある匂いで、毎日目に入る景色だ。家の中の空気と同じように意識もしない。
だからこそ、見慣れない人が立っていると、そこだけが目につく。
恒一に連れられて入ってきた、あの大学の友達。
食堂で顔を見たときよりも、蔵の中のほうが、その人の様子はよく分かった。木桶を見て驚いて、恒一の話を聞いて、分かったような分からないような顔でうなずいている。適当に流している感じではない。ちゃんと見ようとしているのが、少しだけ意外だった。
そういうところが、観光気分だけで来た人とは少し違って見えた。何が分かるわけでもないのに、とりあえずちゃんと見ている。そこが少しだけいい感じがした。
その恒一が、途中で呼ばれて奥へ行く。
「悪い、ちょっと見てくる」
「どうぞどうぞ」
「その辺いれば?」
「いればって」
「迷子にならない程度にな」
それだけ言って、恒一はさっさと奥へ消えた。
澪は少し離れたところから、そのやりとりを見ていた。
残された直人は、木桶の並ぶ通路の端に立ったまま、少しだけ口をゆがめた。
少し可笑しくなった。いれば、で済ませるあたりが恒一らしい。そんなことを思いながら、澪は少しだけ近づいた。
仕事の途中に放り込まれた人みたいな立ち方をしているのが、少しだけおかしかった。困っているほどではないけれど、どうしていいか決まってもいない。そういう曖昧な立ち方だった。
直人が気づいて振り向く。
「一人?」
澪が言うと、直人は少しだけ肩をすくめた。
「まあ」
「恒一さんは?」
「呼ばれた」
「ああ」
それだけで会話が止まりそうになったが、不思議と気まずくはなかった。
直人は近くの柱にもたれた。澪は少しだけ間を空けて立つ。蔵の中では、遠くで作業の音がしている。人の気配も、足音もある。なのに、このあたりだけ少し切り離されたみたいに静かだった。
その静けさが嫌ではなかった。話さなくても変にならないくらいには、もう相手の輪郭ができたからかもしれない。
「何してんの?」
直人が言う。
澪は少しだけ周りを見た。
「別に、何も」
「何も?」
「うん」
本当に、私は何もしていなかった。
昨日も、今日も、明日も。たぶん、これからも。
手に帳面があるわけでもない。作業着でもない。誰かの手伝いに入るでもなく、ただそこにいるだけだ。
そういう自分を変だと思わないわけではない。けれど、今さら隠すことでもない。
「ヒマなんだ」
直人が言うと、澪は少しだけ笑った。
「うん、ヒマ」
「いいな、それ」
澪はすぐにはうなずかなかった。
「うーん……どうだろ」
「どうだろって」
「いいか悪いかって言われると、分かんない」
直人が少しだけ眉をひそめる。
「でもヒマなんだろ」
「ヒマだよ」
「じゃあ、いいじゃん」
「そうかな」
澪は近くの桶の方を見る。
木の表面を見ながら話すと、少しだけ考えやすい。何かをそのまま言うとき、自分はいつも少し視線をずらしている気がした。
相手の顔を見たままだと、言葉が少し固くなる。木桶や床や、そういう見慣れたものに目を置いているほうが、変に構えずに話せた。
「俺、最近ずっとヒマでさ」
直人が言った。
「単位落として留年したから、時間だけ余ってる」
そこで澪は、食堂の前で聞いたことを思い出して口にした。
「二単位?」
直人が目を丸くした。
「何で知ってんの」
「さっき食堂で、恒一さんが言ってた」
「あいつ余計なことを」
その返し方が少しだけ子どもっぽくて、澪はおかしかった。
「でも二単位で一年って、ちょっともったいないね」
そう言うと、直人は何とも言えない顔をしたあとで、少しだけ笑った。
「もったいないっていうか、馬鹿みたいだろ」
「馬鹿っていうか、運が悪い」
あっさり言うと、直人はまた少し笑った。
「慰めてんのかそれ」
「たぶん」
笑いながら言うと、直人も笑った。
その笑い方を見て、澪は思う。
この人は、思っていたより話しやすい。
うまく見せようとしている感じが薄い。変に気を使いすぎるわけでもないし、かといって会話を投げるわけでもない。そのちょうど半端な感じが、気が楽なのだ。
しばらく二人で並んで立ったまま、蔵の中の音を聞いていた。
直人が何となく思い出したように言う。
「でも、お前もヒマなんだろ?」
「うん」
「じゃあ、何してんの普段」
「別に」
「いや、その“別に”が一番分かんないんだけど」
澪は少しだけ考えるように間を置いた。
「見てる」
「何を」
「いろいろ」
「いろいろって便利だな」
「便利だよ」
そう言うと、直人は少しだけ笑った。
分からないものを、分からないまま聞いてくる。分かったふりをしない。そこが少し珍しいと思った。
それで、直人は少しだけ踏み込んできた。
「仕事、しないの?」
澪は普通に答えた。
「別に、何もしなくてもいいから」
「え?」
聞き返される。
やっぱりそういう顔をする。そうだよね、と澪は思う。
「私、別に何もしなくてもいいの」
「いや、そんなことある?」
「あるよ」
「みんな働いてるじゃん」
「うん」
「お前だけ何もしなくていいの?」
「いいっていうか」
そこで少しだけ言葉を探した。
外の人に話すとき、ここがいちばん難しい。自分の中ではもう当たり前になっていることなのに、言葉にすると妙な話になる。
「その代わり、ここにいないといけないけど」
直人は口を閉じた。
何だそれ、と思っている顔だった。
澪はその顔が少しだけ好きだと思った。変だと思ったら、ちゃんと変だと思う顔をするからだ。
「なんだ、それ」
「そうだよね」
「いや、だって」
「でもそうなんだよ」
そういうものとして、ずっとそこにあった。
別に父がそう言ったわけではない。けれど、澪はそれを当たり前のこととして受け入れてきた。
可哀想とか、大変だねとか、そういう反応をされるのは少し違う気がした。
言葉を足せば足すほど、たぶん違う話になってしまう。家のこととか、蔵のこととか、自分の立ち位置のこととか、そういうものを今ここでうまく説明する気もなかった。
「変なの」
直人が言う。
「変だよ」
「自分でもそう思うんだ」
「思うよ、普通に」
直人は少しだけ黙った。
澪も、それ以上は言わなかった。
蔵の中の空気は変わらない。桶の匂いも、湿った木の感じも、遠くの作業音も、いつもと同じだ。なのに今日は、自分がそこにいる意味だけが少し違って見えた。
見慣れない人が一人いるだけで、背景の見え方が少し揺らぐ。そんなこともあるのだと、澪はぼんやり思った。
「でも、まあ」
澪は少しだけ視線を落としてから言った。
「そういうもんだから」
直人はその言葉の意味を考えているみたいだった。
けれど、そこで無理に聞いてこないのも、この人らしいのかもしれない。
「じゃあ、ずっとここいんの?」
「たぶん」
「飽きるだろ」
「飽きるよ」
「飽きるんかい」
「でもいる」
「何だそれ」
「何だろうね」
二人で少し笑った。
笑ったあとで、蔵の空気がまた戻ってくる。桶の匂い。湿度。遠くの足音。何も変わっていないのに、少しだけ場が近くなった気がした。
話している内容は大したことではない。雑で、断片的で、深くもない。
それでも、さっきまで“恒一の友達”だった人が、今は目の前で普通に喋る一人の大学生になっていた。
そして、その普通さの中に少しだけ変なものが混じっている。
その変さが、澪の中にも残る。
言っていることは普通なのに、どこか少しだけ外れている。その外れ方が嫌ではなくて、むしろ少し面白かった。
「何してんの、お前ら」
恒一の声がして、澪は振り返った。
いつの間にか戻ってきていたらしい。さっきまでと同じ作業着姿で、何も変わった様子はない。
「別に」
と直人が言う。
「ヒマって話してた」
と澪が言う。
恒一は一瞬だけ眉を上げてから、小さく笑った。
「何だそれ」
「お前も同じこと言うだろ」
直人が返す。
澪は少しだけ笑った。
恒一が戻ってきたことで、空気はまた少しだけ元に戻る。蔵の中のいつもの位置関係に、それぞれが自然と収まっていく感じだった。
それでも澪の中には、さっきの会話が残っていた。
ヒマ。
同じ言葉なのに、自分と直人では意味が違う。
直人のヒマは、時間が余っていることだ。
自分のヒマは、何もしなくてもいい代わりに、ここにいないといけない時間だった。
けれど、直人なら、少しずつなら話してもいいのかもしれないと、ほんの少しだけ思った。
ちょっとだけ、知ってほしい気もした。
それがどういう意味を持つのかは、まだ自分でも分からなかった。




