表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七日だけの島  作者: カトーSOS


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/15

澪第3話 ヒマ

挿絵(By みてみん)




 醤油の香りも、木桶の並ぶ暗さも、澪にとっては当たり前のものだった。


 幼い頃、気がついたら毎日そこにある匂いで、毎日目に入る景色だ。家の中の空気と同じように意識もしない。

 だからこそ、見慣れない人が立っていると、そこだけが目につく。


 恒一に連れられて入ってきた、あの大学の友達。


 食堂で顔を見たときよりも、蔵の中のほうが、その人の様子はよく分かった。木桶を見て驚いて、恒一の話を聞いて、分かったような分からないような顔でうなずいている。適当に流している感じではない。ちゃんと見ようとしているのが、少しだけ意外だった。


 そういうところが、観光気分だけで来た人とは少し違って見えた。何が分かるわけでもないのに、とりあえずちゃんと見ている。そこが少しだけいい感じがした。


 その恒一が、途中で呼ばれて奥へ行く。


「悪い、ちょっと見てくる」


「どうぞどうぞ」


「その辺いれば?」


「いればって」


「迷子にならない程度にな」


 それだけ言って、恒一はさっさと奥へ消えた。


 澪は少し離れたところから、そのやりとりを見ていた。


 残された直人は、木桶の並ぶ通路の端に立ったまま、少しだけ口をゆがめた。


 少し可笑しくなった。いれば、で済ませるあたりが恒一らしい。そんなことを思いながら、澪は少しだけ近づいた。


 仕事の途中に放り込まれた人みたいな立ち方をしているのが、少しだけおかしかった。困っているほどではないけれど、どうしていいか決まってもいない。そういう曖昧な立ち方だった。


 直人が気づいて振り向く。


「一人?」


 澪が言うと、直人は少しだけ肩をすくめた。


「まあ」


「恒一さんは?」


「呼ばれた」


「ああ」


 それだけで会話が止まりそうになったが、不思議と気まずくはなかった。


 直人は近くの柱にもたれた。澪は少しだけ間を空けて立つ。蔵の中では、遠くで作業の音がしている。人の気配も、足音もある。なのに、このあたりだけ少し切り離されたみたいに静かだった。


 その静けさが嫌ではなかった。話さなくても変にならないくらいには、もう相手の輪郭ができたからかもしれない。


「何してんの?」


 直人が言う。


 澪は少しだけ周りを見た。


「別に、何も」


「何も?」


「うん」


 本当に、私は何もしていなかった。


 昨日も、今日も、明日も。たぶん、これからも。


 手に帳面があるわけでもない。作業着でもない。誰かの手伝いに入るでもなく、ただそこにいるだけだ。


 そういう自分を変だと思わないわけではない。けれど、今さら隠すことでもない。


「ヒマなんだ」


 直人が言うと、澪は少しだけ笑った。


「うん、ヒマ」


「いいな、それ」


 澪はすぐにはうなずかなかった。


「うーん……どうだろ」


「どうだろって」


「いいか悪いかって言われると、分かんない」


 直人が少しだけ眉をひそめる。


「でもヒマなんだろ」


「ヒマだよ」


「じゃあ、いいじゃん」


「そうかな」


 澪は近くの桶の方を見る。


 木の表面を見ながら話すと、少しだけ考えやすい。何かをそのまま言うとき、自分はいつも少し視線をずらしている気がした。


 相手の顔を見たままだと、言葉が少し固くなる。木桶や床や、そういう見慣れたものに目を置いているほうが、変に構えずに話せた。


「俺、最近ずっとヒマでさ」


 直人が言った。


「単位落として留年したから、時間だけ余ってる」


 そこで澪は、食堂の前で聞いたことを思い出して口にした。


「二単位?」


 直人が目を丸くした。


「何で知ってんの」


「さっき食堂で、恒一さんが言ってた」


「あいつ余計なことを」


 その返し方が少しだけ子どもっぽくて、澪はおかしかった。


「でも二単位で一年って、ちょっともったいないね」


 そう言うと、直人は何とも言えない顔をしたあとで、少しだけ笑った。


「もったいないっていうか、馬鹿みたいだろ」


「馬鹿っていうか、運が悪い」


 あっさり言うと、直人はまた少し笑った。


「慰めてんのかそれ」


「たぶん」


 笑いながら言うと、直人も笑った。


 その笑い方を見て、澪は思う。


 この人は、思っていたより話しやすい。


 うまく見せようとしている感じが薄い。変に気を使いすぎるわけでもないし、かといって会話を投げるわけでもない。そのちょうど半端な感じが、気が楽なのだ。


 しばらく二人で並んで立ったまま、蔵の中の音を聞いていた。


 直人が何となく思い出したように言う。


「でも、お前もヒマなんだろ?」


「うん」


「じゃあ、何してんの普段」


「別に」


「いや、その“別に”が一番分かんないんだけど」


 澪は少しだけ考えるように間を置いた。


「見てる」


「何を」


「いろいろ」


「いろいろって便利だな」


「便利だよ」


 そう言うと、直人は少しだけ笑った。


 分からないものを、分からないまま聞いてくる。分かったふりをしない。そこが少し珍しいと思った。


 それで、直人は少しだけ踏み込んできた。


「仕事、しないの?」


 澪は普通に答えた。


「別に、何もしなくてもいいから」


「え?」


 聞き返される。


 やっぱりそういう顔をする。そうだよね、と澪は思う。


「私、別に何もしなくてもいいの」


「いや、そんなことある?」


「あるよ」


「みんな働いてるじゃん」


「うん」


「お前だけ何もしなくていいの?」


「いいっていうか」


 そこで少しだけ言葉を探した。


 外の人に話すとき、ここがいちばん難しい。自分の中ではもう当たり前になっていることなのに、言葉にすると妙な話になる。


「その代わり、ここにいないといけないけど」


 直人は口を閉じた。


 何だそれ、と思っている顔だった。


 澪はその顔が少しだけ好きだと思った。変だと思ったら、ちゃんと変だと思う顔をするからだ。


「なんだ、それ」


「そうだよね」


「いや、だって」


「でもそうなんだよ」


 そういうものとして、ずっとそこにあった。


 別に父がそう言ったわけではない。けれど、澪はそれを当たり前のこととして受け入れてきた。


 可哀想とか、大変だねとか、そういう反応をされるのは少し違う気がした。


 言葉を足せば足すほど、たぶん違う話になってしまう。家のこととか、蔵のこととか、自分の立ち位置のこととか、そういうものを今ここでうまく説明する気もなかった。


「変なの」


 直人が言う。


「変だよ」


「自分でもそう思うんだ」


「思うよ、普通に」


 直人は少しだけ黙った。


 澪も、それ以上は言わなかった。


 蔵の中の空気は変わらない。桶の匂いも、湿った木の感じも、遠くの作業音も、いつもと同じだ。なのに今日は、自分がそこにいる意味だけが少し違って見えた。


 見慣れない人が一人いるだけで、背景の見え方が少し揺らぐ。そんなこともあるのだと、澪はぼんやり思った。


「でも、まあ」


 澪は少しだけ視線を落としてから言った。


「そういうもんだから」


 直人はその言葉の意味を考えているみたいだった。


 けれど、そこで無理に聞いてこないのも、この人らしいのかもしれない。


「じゃあ、ずっとここいんの?」


「たぶん」


「飽きるだろ」


「飽きるよ」


「飽きるんかい」


「でもいる」


「何だそれ」


「何だろうね」


 二人で少し笑った。


 笑ったあとで、蔵の空気がまた戻ってくる。桶の匂い。湿度。遠くの足音。何も変わっていないのに、少しだけ場が近くなった気がした。


 話している内容は大したことではない。雑で、断片的で、深くもない。


 それでも、さっきまで“恒一の友達”だった人が、今は目の前で普通に喋る一人の大学生になっていた。


 そして、その普通さの中に少しだけ変なものが混じっている。


 その変さが、澪の中にも残る。


 言っていることは普通なのに、どこか少しだけ外れている。その外れ方が嫌ではなくて、むしろ少し面白かった。


「何してんの、お前ら」


 恒一の声がして、澪は振り返った。


 いつの間にか戻ってきていたらしい。さっきまでと同じ作業着姿で、何も変わった様子はない。


「別に」


 と直人が言う。


「ヒマって話してた」


 と澪が言う。


 恒一は一瞬だけ眉を上げてから、小さく笑った。


「何だそれ」


「お前も同じこと言うだろ」


 直人が返す。


 澪は少しだけ笑った。


 恒一が戻ってきたことで、空気はまた少しだけ元に戻る。蔵の中のいつもの位置関係に、それぞれが自然と収まっていく感じだった。


 それでも澪の中には、さっきの会話が残っていた。


 ヒマ。


 同じ言葉なのに、自分と直人では意味が違う。


 直人のヒマは、時間が余っていることだ。

 自分のヒマは、何もしなくてもいい代わりに、ここにいないといけない時間だった。


 けれど、直人なら、少しずつなら話してもいいのかもしれないと、ほんの少しだけ思った。

 ちょっとだけ、知ってほしい気もした。


 それがどういう意味を持つのかは、まだ自分でも分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ