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七日だけの島  作者: カトーSOS


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第4話 外に出る

挿絵(By みてみん)




 恒一が戻ってきてから、空気は元に戻った。


 元に戻った、というのはたぶん正しくない。直人が勝手に“元”だと思っている位置に、場が収まっただけだ。そもそも直人がいる時点で“元”ではないのだ。


 さっきまで三人で立っていたのに、その中で一番何もしていないのが自分だということだけは、少しずつはっきりしていく。


 恒一は呼ばれればすぐ返事をして、また奥へ入っていく。澪はそんな恒一を見送って、それから何でもない顔でその場にいる。蔵の匂いも、木桶の並ぶ暗さも、さっきより少し身体に馴染んできているはずなのに、立ち位置だけがまだ決まらなかった。


 初日の午後、直人はしばらく蔵の周りをうろうろしていた。


 見学が終わったからといって、すぐにアパートへ戻る気にもなれなかった。戻ってもやることはないし、スマホを見て時間を潰すだけなら、別にどこでも同じだ。だったら、まだ見慣れていない場所にいる方が少しはましだった。


 敷地の端の方には、古い壁と新しい建物が不思議なつながり方をしていた。家業というものは、こうやって継ぎ足しながら生きていくのかもしれない、とぼんやり思う。古いものだけでは回らない。新しいものだけでも続かない。その両方を抱えたまま前へ進む。そういう感じがした。


 壁の色も、柱の太さも、途中で変わっている。昔からあるものの横に、あとから必要になって足されたものがある。整っているとは言いがたいのに、使われ続けてきた場所のまとまり方はしていた。仕事と生活が長く重なった場所の形だった。


 敷地の外れに小さな通路があり、その向こうに少しだけ海が見えた。


 海は遠くないのに、建物や石垣や木に遮られて、全部は見えない。その見え方が妙に馴染んでいる気がして、直人は足を止めた。


 蔵の中にいると海の気配は匂いで分かるのに、姿はそんなに見えない。近いはずなのに、ちゃんとは見えない。その半端さが、何となくこの島の時間の流れ方にも似ている気がした。


「何してるの?」


 声がして振り向くと、澪がいた。


 いつからそこにいたのか分からない。歩いてきたのだろうが、足音はほとんどしなかった。澪は作業場から少し離れた場所でも、やはり浮いているような、馴染んでいるような、不思議な立ち方をする。


 蔵の中でもそうだったが、仕事の輪の外にいるのに、この場所から切れてはいない。家の娘というのは、ああいう立ち方になるのだろうかと直人は少し思う。


「別に」


 直人は答える。


「海見てた」


「見える?」


「ちょっとだけ」


 澪もそちらを見た。


「見えるよね、ちょっとだけ」


「夏になると木の葉が生い茂って見えなくなるの」


 それだけの会話だったのに、なぜかそのまま並んで立つ形になった。


 少し前なら、こういう間が先に気まずくなっていたのかもしれない。けれど今はそうでもない。会話がなければないで、そのままでいられるくらいには、互いの存在に慣れ始めていた。


 風が少し吹く。蔵の中にいるときより軽い空気が頬に当たって、それだけで立っている場所が違うのだと分かる。二人とも海を見ていて、別に顔を見合わせる必要もなかった。


 直人は海の切れ端を見ながら、ふと思いついたように言った。


「ちょっと外、行かない?」


 澪は少しだけ止まった。


「外?」


 その聞き返し方が、直人には妙に新鮮だった。


 外。そんなに珍しい言葉ではない。けれど、澪は今、その意味を一度ちゃんと考えたように見えた。


「いや、散歩とかさ」


 直人は少し笑って言い直す。


「その辺。どうせお前もヒマなんだろ」


 澪はすぐには答えなかった。視線を少しだけ落として、それからまた直人の方を見る。


「……あんまり行かない」


「この辺?」


「うん」


「何で」


「何で、って」


 澪は言葉を探すように少し間を置いた。


「ここにいないといけないから」


 その言い方は、さっき蔵の中で聞いた話と、ほとんど同じだった。


 何もしなくてもいい。けれど、ここにいないといけない。その“ここ”が今はっきり足元にある気がした。


 言われてみれば、澪は蔵の中でも家のまわりでも、ずっと同じ範囲にいるように見えた。自由に歩いているようでいて、どこか見えない線の中だけを動いている感じがある。そのことが、今さら少し現実味を持ってきた。


「ちょっとくらい大丈夫でしょ」


 直人がそう言うと、澪はほんの少しだけ困ったような顔をした。


「……どうだろ」


「どうだろ、って」


「分かんない」


「聞かないと怒られるとか?」


「怒られるっていうか」


 そこでまた言葉が曖昧になる。


 たぶん澪自身も、それを“ルール”として言葉にしてはいないのだろう。けれど身体の方は、もうそのルールを知っている。どこまでならいいのか、どこからはだめなのか、誰かに言われなくても覚えてしまっている感じがある。


 曖昧なのに、破れない。そういうもののほうが、はっきりした決まりより厄介なのかもしれないと直人は思った。反発する前に、自分の足の動きの方が先に覚えてしまうのだ。


 直人は、少しだけ意地の悪い言い方になるのを承知で言った。


「じゃあ、ほんとにちょっとだけ」


「ちょっとだけ?」


「そこまで。海がちゃんと見えるとこまで」


 そう言って、敷地の外へ続く細い道を指す。


 澪はその道を見た。すぐには動かなかった。


 直人は半分くらい冗談のつもりで誘ったのだが、相手がここまで真剣に止まると、こちらも少しだけ黙るしかなくなる。


 しばらくしてから、澪は小さく言った。


「……すぐ戻るなら」


「戻るよ」


「ほんとにすぐ?」


「そんな連れ去るみたいに言うなよ」


 澪はくすっと笑った。


「言ってない」


 その笑い方が少しだけ柔らかく見えて、直人は妙にほっとした。


 二人で敷地の外へ出る。


 ただそれだけのことなのに、直人には少し大げさなくらい意味があるように思えた。澪の歩き方はわずかにぎこちなく、その短い道が今はちゃんと「外へ出る道」に見えた。


 道はすぐに下りになった。


 両脇に低い石垣と、古い家の壁が続いている。道幅は狭いが、車が通れないわけではない。どこからか洗濯物の匂いがして、風が吹くと蔵の中とは違う空気が顔に当たった。


 足元の舗装はところどころ古く、端には草が少し伸びていた。海へ向かう道なのに、ちゃんと人の暮らしの中にある道だった。


「外って言っても、こんなもんだけど」


 直人が言うと、澪は「うん」とだけ返した。


 少し歩くと、視界が開けた。


 海が見えた。さっきみたいに建物の間から切れて見えるのではなく、ちゃんと広がって見える。空は相変わらず白っぽい。光は強いのに、どこか柔らかい。海面だけがきらきらと細かく光っていた。


 澪は足を止める。


「……ちゃんと見える」


 小さくそう言った。


 その言い方が、直人には少し意外だった。


「いや、そんなに?」


「うん」


「すぐそこじゃん」


「でも、わざわざこうして見ること、あんまりないから」


 澪は海を見たまま言う。


 その横顔は、蔵の中にいたときより少しだけ年相応に見えた。特別な娘でも、お嬢でもなく、ただ外に出て少し気持ちがほどけている女の子の顔だった。


 海を前にして急に大きく感動するわけではないのに、少しだけ表情がゆるんでいる。その「少しだけ」が、かえって本当らしく見えた。見慣れているはずの景色でも、立つ場所が違えば見え方が変わるのかもしれない。


「普段来ないの?」


 直人が聞く。


「ほとんど来ない」


「もったいないな」


「……そうかな」


「そうだろ。こんな近いのに」


 直人は海の方を顎で示す。


「毎日見ようと思えば見れるじゃん」


「見ようと思わないし」


「何で」


「何でって……」


 澪はそこでまた少し考えた。


 考えた末に出てきた言葉は、やはり簡単だった。


「別に、来なくてもいいから」


 その言い方には、海への興味がないという感じはなかった。今だって少し楽しそうなのだ。ただ、見に来ることが自分の生活の中に入っていない。必要がないから来ない。それだけのことのように聞こえた。


 そこに、直人は少し腹の底がざらつくようなものを感じた。


「出ればいいじゃん、外」


 口にした瞬間、自分でも少し唐突だったと思った。


 けれど澪は驚かなかった。ただ、海から視線を外して、まっすぐ前を見る。


「出られないよ」


 軽い声だった。


 責めてもいないし、泣いてもいない。ただ、そういう事実がそこにあると言うみたいに、ごく普通の声で言った。


 直人は言葉に詰まった。


 風が吹く。


 海面の光が少しずれて、白い波が低く寄ってくる。島の音は静かで、遠くで車の音が一つしただけだった。


 出られないよ。


 今の一言が、妙にまっすぐに胸に残る。


 冗談でも比喩でもなかった。からかって言ったのでもない。しかも、重たく言ったわけでもない。そういうものだと知っている人間の言い方だった。


 あまりに普通の声だったからこそ、かえって重かった。そういうものとして受け入れられているものほど、外から来た人間にはどう触れていいか分からない。


「……何それ」


 ようやく出た言葉は、それしかなかった。


 澪は少しだけ肩をすくめる。


「そういう感じ」


「いや、感じって」


「分かんないけど」


 分かんない、と言いながら、分かっている顔だった。


 直人は澪を見る。


 この子は、ヒマなのではない。


 蔵の中で何もしなくてもよくて、別に海を見に来なくてもよくて、暇そうに見えるだけだ。


 でも本当は、動ける範囲が最初から決まっている。


 自分のヒマは、どこへでも行ける余白だ。


 澪のヒマは、ここから出ないための余白なのかもしれない。


 そう思った瞬間、さっきまでの軽い会話が少しだけ違う意味を持ち始めた。


 蔵の中で笑っていたときとは、同じ言葉の重さが違って見える。ヒマという言葉一つの中に、こんなに違うものが入るのかと直人は思った。


「戻る?」


 と澪が言った。


 直人はまだ海を見ていたが、その声で我に返る。


「え」


「長いとよくないし」


「よくないって、誰に」


 聞いてから、澪は答えない気がした。


 実際、澪は少しだけ曖昧に笑っただけだった。


「……まあ、なんとなく」


 その“なんとなく”が一番厄介だと、直人は思う。


 明確な禁止なら、まだ反発のしようがある。けれど、こういう曖昧な境界は、反発する前に身体の方が慣れてしまう。


「そっか」


 それ以上は言えなかった。


 二人は来た道を戻る。


 さっきより少しだけ歩く速度が遅い気がした。澪が海の方を振り返ることはなかったが、何となく名残惜しさのようなものがある気はした。


 戻るときの澪は、行きより少しだけ歩き方が落ち着いていた。短い時間でも、一度出てしまえば道はただの道になるのかもしれない。そう思うと、最初の数歩のぎこちなさが余計に気になった。


 蔵の近くまで戻ると、空気がまた変わる。


 醤油の匂い。木の匂い。作業場の音。さっきまで確かに外にいたのに、戻った途端、それが急に遠く感じられた。


 海の光や風の感触が、一気に後ろへ下がっていく。代わりに、さっきまで当たり前だった蔵の匂いが前へ出てくる。その切り替わりの早さが、直人には少し息苦しく感じられた。


 澪は何事もなかったような顔で言う。


「じゃあ」


「ああ」


 それだけで別れる。


 直人は少しだけその場に立ったまま、澪の背中を見ていた。彼女は迷いなく敷地の中へ入っていく。戻る場所を知っている人間の歩き方だった。


 ヒマなんじゃない。


 閉じ込められている。


 直人はそこまで考えて、すぐに自分の言葉の強さに違和感を持った。


 閉じ込められている、というのはたぶん少し違う。鎖があるわけでも、見張りがいるわけでもない。本人だって泣いていない。助けを求めてもいない。


 それでも、自由ではない。


 そのことだけは、今はっきり分かった。


 そしてそのはっきりした感覚が、なぜか少し腹立たしかった。

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