第5話 接近
翌日も、直人はまた橘醤油醸造所の方へ足を向けていた。
理由は特にない。
アパートにいてもやることがないし、島の中をひとりで歩くにも、まだ目新しさだけで時間を潰せるほどではなかった。だったら昨日行った場所へ行くか、くらいの気持ちだった。少なくとも、自分にはそう説明できる。
蔵の近くまで来ると、昨日と同じように醤油の匂いがした。
この匂いは一度分かると、遠くからでも少しずつ輪郭を持ってくる。海の湿った空気の中に混じっていても、ちゃんと分かる。木と液体と時間が混ざったみたいな、重い匂いだった。
敷地の端の方に、澪がいた。
先に見つけたのは直人の方だった。
見つけたというよりも、視界に入った、くらいのことだ。けれど、その一瞬で、ああ、いた、と思った自分に少しだけ気づく。
澪は建物の影に近い場所に立っていた。誰かを待っているようにも、ただそこにいるだけのようにも見える。昨日も思ったが、この子は本当に不思議な立ち方をする。仕事の真ん中にはいないのに、場から完全に浮いているわけでもない。
風が少し吹いて、建物の角にたまっていた空気がゆるく動いた。澪の髪がわずかに揺れたが、本人は気にした様子もなかった。
「また来たんだ」
澪の方が先に気づいて言った。
「まあ」
直人は近づきながら答える。
「お前もいるじゃん」
「いるよ」
澪は少しだけ笑った。
「昨日の今日で来るとは思わなかった」
「そう?」
「うん」
「来ちゃ悪い?」
「悪くはないけど」
それだけのやりとりなのに、昨日よりずっと自然だった。初対面の慎重さが薄れている。かといって馴れ馴れしいわけでもない。そのちょうど中間みたいな距離だった。
直人は澪の隣までは行かず、少し離れた位置で足を止めた。
「何してんの、今日」
「別に」
「またその答えか」
「だって別にだし」
「便利だな、それ」
「便利だよ」
即答で返してくるので、直人は少し笑う。
澪もつられるように口元だけ動かした。
会話が途切れても気まずくない。昨日までなら、沈黙を埋めるために適当なことを言っていたかもしれない。けれど今日は、少し黙っていてもそのままでいられた。
蔵の外は風が通る。
作業場の方から誰かの声がして、木の壁に当たって少しだけ鈍く響いた。海までは見えないが、潮の匂いはここまで来ている。島の空気の中に、醤油蔵の空気が混じっている感じだった。
壁の向こうで何か木の道具を動かす音がして、また静かになった。人がいるのに、騒がしいわけではない。その感じが、この場所らしかった。
「お前、ほんとに何もしないんだな」
昨日の続きみたいに直人が言うと、澪は特に気を悪くした様子もなく答えた。
「しないよ」
「言い切るな」
「だって、することないし」
「ないのか」
「うん」
その返事は軽い。
直人は少しだけ首を傾ける。
「昨日、海見たときはちょっと楽しそうだったのに」
澪はそこで初めて、ほんの少しだけ考える顔をした。
「楽しかったよ」
「ならまた行く?」
「……そうだね」
否定しない。そのことが、直人には少しだけ嬉しかった。
だからといって、「じゃあ行こう」と強く引っ張るほどの勢いはない。昨日のこともある。澪には“戻る場所”が最初から決まっている。そこを無視して無理に連れ出す感じにはしたくなかった。
けれど、少し歩くくらいなら構わないだろうとも思う。
「ちょっとその辺、歩く?」
直人はできるだけ軽く言った。
「その辺?」
「その辺」
「適当だね」
「お前にだけは言われたくない」
澪は笑った。
「じゃあ、その辺」
それで決まった。
決まった、というほどの決定でもない。二人でなんとなく足を動かし始めただけだ。目的地もない。どこかへ行く約束をしていたわけでもない。ただ、一緒に歩くことに二人は疑問を持たなかった。
蔵の敷地を出て、細い道へ入る。
道の両側には低い家と石垣が続いている。時々、干してある洗濯物が風に揺れている。軽自動車が一台、ゆっくりと通り過ぎた。
タイヤの音は小さく、すぐ遠ざかった。車が行ったあとに残る静けさまで、島の中のものみたいに思えた。
「この辺、ほんと車ちっちゃいのばっかだな」
直人が言う。
「軽のこと?」
「うん。都会でも見るけど、こんなに多くない」
「この道、狭いから」
「確かに」
「あと、みんなそんなに遠く行かないし」
「島の中だけならそうか」
「たぶん」
澪は本当に、思いついたことだけをそのまま口にしている感じだった。気取らないし、話をうまく盛ろうともしない。けれど一緒にいて退屈ではない。その不思議さが、直人には少しずつ分かってきた。
少し歩いて、見晴らしのいい場所に出る。
海が遠くに見えた。昨日ほど正面から広がっているわけではないが、光の反射はここからでも分かる。風が通り抜ける。
二人は何となく立ち止まった。
足元には短い草がまばらに生えていて、風に合わせて小さく揺れていた。空は白っぽく、陽はあるのに、どこかやわらかい明るさだった。
「静かだな」
直人が言うと、澪は「うん」と答えた。
「でも、ずっとうるさいよりいい」
「お前、都会住めないな」
「たぶん無理」
「そんなきっぱり」
「だって、落ち着かなさそう」
「それはそう」
直人は笑う。
自分は都会育ちだ。人が多いことにも、音が多いことにも慣れている。けれど、いざ説明しようとすると、それが好きなのかどうかはよく分からない。ただ、ずっとそうだっただけだ。
「名古屋って、どんな感じなの」
澪が聞いた。
「名古屋?」
「うん。都会なんでしょ」
「都会かって言われると微妙だけど」
「でも小豆島よりは都会だよね」
「まあ、さすがに」
「何があるの」
「何でもある」
「雑」
「いや、ほんとに。何でもあるし、何もないとも言えるし」
「分かんない」
「俺も分かんない」
自分で言っておいて、直人は少しだけ苦笑した。
名古屋の説明がそんなに曖昧でいいのかと思う。けれど、実際にそうなのだ。コンビニも店も駅も人もある。けれど、じゃあそこに何があるのかを真面目に言えと言われると、案外難しい。
澪は海を見たまま、少しだけ首をかしげていた。分からないなら分からないで、そのまま受け取る顔だった。
「お前、都会のこと全然好きじゃなさそうだな」
「嫌いでもないけど」
「好きでもない?」
「どうだろ」
「昨日のお返しみたいな答えすんな」
澪はまた笑った。
笑うたびに、この子は思っていたよりずっと普通の子だな、という感覚が強くなる。
お嬢、と呼ばれている。社長の娘だ。それは分かっている。分かっているのに、目の前にいると、その肩書きが一度後ろへ下がる。普通に話して、普通に笑う、十八歳の女の子にしか見えない瞬間がある。
そのことが、少し危ないのかもしれないと、直人はぼんやり思った。
「何」
視線に気づいたのか、澪が言う。
「いや」
「今、何か変なこと考えたでしょ」
「考えてないよ」
「嘘」
「何で分かるんだよ」
「顔」
「顔で分かるのか」
「ちょっとだけ」
ちょっとだけ、という言い方が可笑しくて、直人は吹き出した。
「何だよそれ」
「何だろうね」
澪もまた笑う。
そのまま二人で少しだけ笑って、笑いが収まったあとも、空気は悪くならなかった。
むしろ柔らかくなった。
風がまた吹いて、さっきまでの笑いがそのまま空気に薄く残る感じがした。
直人は、こういう感じを前にもどこかで知っていた気がした。特別なことを言わなくても、黙っていても平気で、少し顔を見れば何となく通じる感じ。けれど大学でも最近はあまりなかった。みんなそれぞれ忙しかったし、自分だけ少し時間が余っていたからかもしれない。
ここでは、澪もヒマで、自分もヒマだった。
ただし、その意味は違う。
その違いはまだ消えていない。消えていないけれど、今こうして並んでいる間は、少しだけその差が薄くなる気がした。
道を戻りながら、二人はまた適当な話をした。
島の店のこと。船のこと。バスの少なさ。昨日の海。直人の留年。澪の高校。どれも大した話ではない。大した話ではないのに、会話は前よりずっと自然に続いた。
曲がり角をひとつ折れるたびに、さっきいた見晴らしの場所が少しずつ後ろへ下がっていく。そのぶん、蔵の匂いがまた少しずつ近づいてきた。
蔵の近くまで戻る頃には、二人の距離は行きよりも少しだけ近かった。
物理的な意味でも、空気の意味でも。
意識して近づいたわけではない。ただ歩いて話していたら、そうなっていた。
敷地の手前で、作業着姿の恒一が出てきた。
「あれ、いたのか」
「いたよ」
と直人が言う。
「見れば分かるだろ」
「いや、どっか帰ったかと思ってた」
「帰るわけないじゃん」
澪が言う。
「せっかく来たのに」
その一言に、直人はほんの少しだけ反応したが、顔には出さなかった。
恒一はそこまで気に留めた様子もなく、手に持っていた伝票みたいなものを軽く振る。
「悪い、ちょっとこれ置いてくる」
「どうぞ」
「お前、ほんとどうぞどうぞしか言わないな」
「じゃあ、行かないで」
「無理だわ」
恒一は笑ってまた奥へ戻っていく。
その背中を見送りながら、直人は何となく思う。
違和感は、まだない。
少なくとも今は。
恒一がいて、澪がいて、自分がいる。三人が同じ場所にいても、今はまだ何もおかしくないように見える。
けれど、その“まだ”が、少しだけ心に引っかかった。
「じゃあ、またね」
澪が言った。
“また”という言葉が、自然に出た。
約束ではない。けれど、次がある前提の言い方だった。
「ああ」
直人も自然に返す。
澪はそのまま敷地の奥へ入っていく。直人は少しだけその背中を見送って、それから自分もゆっくり歩き出した。
一緒に歩いて、少し話した。
それだけのことだった。
それでも、帰り道の足取りは来たときより少し軽かった。
直人はそれを、まだ名前のない感情のまま抱えていた。




