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七日だけの島  作者: カトーSOS


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第5.5話 少しだけ動く

挿絵(By みてみん)



 木曜日の朝は、静かだった。


 静か、というのは音がないという意味ではない。家の中では人の気配がするし、隣の会社に入れば、もう誰かが動いている。鍋の音もするし、遠くで車の音もする。海の近くなのだから、風の音だってある。


 それでも、木曜日の朝は静かだと澪は思う。


 目が覚めて、起きて、顔を洗って、朝ご飯を食べる。


 誰に言われるでもなく、いつもの順番で朝は進む。今日だけ特別にやることがあるわけでもないし、どこかへ行く予定があるわけでもない。昨日と違うことは、たぶん何もない。


 ご飯を食べ終わって、澪は湯飲みを流しに置いた。


 高校を卒業して、その分ぽっかりと大穴が空いてしまった気がしていた。


 毎朝起きて、支度をして、学校へ行く。教室にいて、授業を受けて、帰ってくる。ついこの前まで当たり前だったことが、今はもうない。


 なくなったからといって、困るほど忙しかったわけではない。けれど、何もなくなってみると、その何でもなさが思っていたより大きかった。


 家の中にいてもいいし、外へ出てもいい。


 だから、外へ出た。


 隣の会社の方へ行く。


 家と会社の境目は、澪にとっては昔から曖昧だった。家を出て、数歩歩けば、もう会社の空気になる。醤油の匂い。木の匂い。湿った空気。働く人の足音。子どものころからずっとあるものばかりだ。


「お嬢、おはようございます」


 従業員の一人にそう言われて、澪は軽くうなずいた。


「おはようございます」


 誰かに用があるわけではない。


 用がなくても、ここにいていい。いや、いていいというより、ここにいるのが当たり前だ。


 その当たり前が、澪には少し不思議だった。


 何かをしているわけではない。手伝うわけでもない。帳面をつけるわけでもないし、荷物を運ぶわけでもない。それでも、誰も澪がここにいることを変だとは言わない。


 むしろ、いなければ少し変なのかもしれない。


 会社の中を、ゆっくり歩く。


 恒一はもう働いていた。


 朝から、いつも通りだった。誰かに呼ばれて返事をして、何かを運んで、帳面を見て、また別の場所へ行く。無駄がないというほどではないが、止まっている時間がない。あの人は、こうして働いているとき、少しだけ別の人みたいに見える。


 大学のころからそうだったのかどうか、澪は知らない。


 でも、この島へ来てからの恒一は、いつも一生懸命だった。


「井原君、こっち」


「はい」


 呼ばれればすぐ返事をして、迷わずそちらへ行く。


 社長とも職人さんとも、変に構えずに話している。若いのに、あまり慌てない。分からないときは分からない顔をするけれど、言われたことはちゃんと拾っている。そういうところを、澪は何度も見てきた。


 たぶん、社長もそれを見ている。


 だから少しずつ、恒一に任せることが増えているのだろう。


 澪は少し離れたところから、その様子を見ていた。


 見ているだけなら、何も減らない。


 時間も減らないし、何かが進むわけでもない。


 空を見た。


 雲が流れている。


 今日は昨日より少し高いところにある気がした。気のせいかもしれない。鳥が一羽、すっと飛んでいく。何の鳥かは分からない。分からなくても困らない。


「お嬢、今日はええ天気ですね」


 職人さんに声をかけられて、澪はそちらを見た。


「そうですね」


「風もそんなに強くないし」


「うん」


「散歩日和や」


 散歩、という言い方が少しおかしくて、澪は小さく笑った。


「私、散歩してるように見えます?」


「見えます見えます」


 そう言って職人さんも笑う。


 別に間違ってはいない、と澪は思った。


 実際、何もしていないのだから。


 会社の中を出たり入ったりする。家の方へ戻って、またふらっと会社の方へ来る。誰かにお嬢と呼ばれて、少し話して、また何となく立ち止まる。やることはない。でも、いないわけにもいかない。


 そんな木曜日だった。


 家の縁側の方へ少し戻ってみる。


 座るほどでもない。部屋へ引っ込むほどでもない。


 座敷の奥からは、家の人たちの声が少し聞こえる。誰かが茶碗を片づけている音もする。家は家で動いていて、会社は会社で動いている。澪はその間を、どちらにも完全には属さない感じで行き来している。


 その感じを、澪は嫌いではなかった。


 でも、好きかと言われると、少し違う。


 ただ、そういうものだから、そうしているだけだ。


 日差しが少し強くなってきたので、澪は建物の影へ移った。


 影はひんやりしていて、少しだけ落ち着く。足元を見る。地面の色も、石の端も、昨日と何も変わっていない。


 変わっていないことばかりだ、と澪は思う。


 朝。会社。家。また会社。少しだけ空を見る。誰かに声をかけられる。何でもない返事をする。それで午前中は過ぎていく。


 退屈、というほどでもない。でも、何かが起きる感じもない。


 そのとき、門の向こうに人影が見えた。


 見覚えのある歩き方だった。


 急いでいるわけでもないのに、まっすぐこちらへ向かってくる。その姿を見た瞬間、澪は自分の視線が自然にそちらへ向いていることに気づいた。


 直人だった。


 また来たんだ、と思う。


 それだけのことなのに、さっきまでぼんやりしていた午前中の輪郭が、少しだけはっきりした気がした。


 何が変わるわけでもない。きっとまた、何となく話して、何となく歩いて、それで終わる。


 でも、その“何となく”が来ることを、澪は少し待っていたのかもしれなかった。


 直人も澪に気づいたらしく、少しだけ足がゆるんだ。


 澪は建物の影から少しだけ身を乗り出した。


「また来たんだ」


「まあ」


 直人は近づきながら答える。


「お前もいるじゃん」


「いるよ」


 澪は少しだけ笑った。


「昨日の今日で来るとは思わなかった」


「そう?」


「うん」


「来ちゃ悪い?」


「悪くはないけど」


 それだけのやりとりなのに、昨日よりずっと自然だった。初対面の慎重さが薄れている。かといって馴れ馴れしいわけでもない。そのちょうど中間みたいな距離だった。


 直人は澪の隣までは行かず、少し離れた位置で足を止めた。


「何してんの、今日」


「別に」


「またその答えか」


「だって別にだし」


「便利だな、それ」


「便利だよ」


 即答で返してくるので、澪は少しおかしくなる。


 会話が途切れても気まずくない。昨日までなら、沈黙を埋めるために適当なことを言っていたかもしれない。けれど今日は、少し黙っていてもそのままでいられた。


 蔵の外は風が通る。


 作業場の方から大西さんの声がして、木の壁に当たって少しだけ鈍く響いた。海までは見えないが、潮の匂いはここまで来ている。島の空気の中に、醤油蔵の空気が混じっている感じだった。


「お前、ほんとに何もしないんだな」


 昨日の続きみたいに直人が言うと、澪は特に気を悪くした様子もなく答えた。


「しないよ」


「言い切るな」


「だって、することないし」


「ないのか」


「うん」


 その返事は軽い。


 直人は少しだけ首を傾ける。


「高校卒業して、急に暇になった感じ?」


 澪は少しだけ考える顔をした。


「そうかも」


「学校なくなるもんな」


「うん」


「それはでかいか」


「でかいよ」


 それだけ言って、澪は少しだけ視線を落とした。


 高校を卒業して、その分ぽっかりと大穴が空いた。その感じを、直人の言葉のほうがうまく言い当てた気がした。


「じゃあ、昨日海見たときはちょっと楽しかった?」


 澪は顔を上げた。


「楽しかったよ」


「ならまた行く?」


「……そうだね」


 否定しない。そのことが、自分でも少しだけ意外だった。


 だからといって「じゃあ行こう」と強く引っ張ってくる感じではないのも、直人らしかった。無理に決めない。決めないまま、その場にいられる。


「ちょっとその辺、歩く?」


 直人はできるだけ軽く言った。


「その辺?」


「その辺」


「適当だね」


「お前にだけは言われたくない」


 澪は笑った。


「じゃあ、その辺」


 それで決まった。


 決まった、というほどの決定でもない。二人でなんとなく足を動かし始めただけだ。目的地もない。どこかへ行く約束をしていたわけでもない。ただ、一緒に歩くことに誰も疑問を持たなかった。


 蔵の敷地を出て、細い道へ入る。


 道の両側には低い家と石垣が続いている。時々、干してある洗濯物が風に揺れている。軽自動車が一台、ゆっくりと通り過ぎた。


「この辺、ほんと車ちっちゃいのばっかだな」


 直人が言う。


「軽のこと?」


「うん。都会でも見るけど、こんなに多くない」


「この道、狭いから」


「確かに」


「あと、みんなそんなに遠く行かないし」


「島の中だけならそうか」


「たぶん」


 澪は本当に、思いついたことだけをそのまま口にしている感じだった。気取らないし、話をうまく盛ろうともしない。けれど一緒にいて退屈ではない。その不思議さが、自分の中でも少しずつ分かってきた。


 少し歩いて、見晴らしのいい場所に出る。


 海が遠くに見えた。昨日ほど正面から広がっているわけではないが、光の反射はここからでも分かる。風が通り抜ける。


 二人は何となく立ち止まった。


「静かだな」


 直人が言うと、澪は「うん」と答えた。


「でも、ずっとうるさいよりいい」


「お前、都会住めないな」


「たぶん無理」


「そんなきっぱり」


「だって、落ち着かなさそう」


「それはそう」


 直人は笑う。


「名古屋って、どんな感じなの」


 澪が聞いた。


「名古屋?」


「うん。都会なんでしょ」


「都会かって言われると微妙だけど」


「でも小豆島よりは都会だよね」


「まあ、さすがに」


「何があるの」


「何でもある」


「雑」


「いや、ほんとに。何でもあるし、何もないとも言えるし」


「分かんない」


「俺も分かんない」


 直人は少しだけ苦笑した。


 分からないものを、分からないまま口にする。ごまかさない。その感じも、この人らしい気がした。


「お前、都会のこと全然好きじゃなさそうだな」


「嫌いでもないけど」


「好きでもない?」


「どうだろ」


「昨日のお返しみたいな答えすんな」


 澪はまた笑った。


 笑うたびに、目の前の人が少しずつ普通になっていく。見慣れない人ではあるのに、話しているとその感じが薄れていく。


 それでも、この人がこの島の人ではないことは変わらない。


 会話の途中で、ふとそのことがよぎる。


 門の向こうから来て、また門の向こうへ帰っていく人。


 今こうして並んで歩いていても、ずっとここにいるわけではない。


 そのことを思うと、少しだけ気持ちが静かになった。


 寂しい、というほどはっきりしたものではない。ただ、ここにずっといる人ではないのだと、急に輪郭が見えた。


「何」


 視線に気づいたのか、直人が言う。


「いや」


「今、何か変なこと考えたでしょ」


「考えてない」


「嘘」


「何で分かるんだよ」


「顔」


「顔で分かるのか」


「ちょっとだけ」


 ちょっとだけ、という言い方が可笑しくて、澪は笑った。


「何だよそれ」


「何だろうね」


 そのまま二人で少しだけ笑って、笑いが収まったあとも、空気は悪くならなかった。むしろ柔らかくなった。


 こういう感じは、前にもどこかで知っていた気がする。特別なことを言わなくても、黙っていても平気で、少し顔を見れば何となく通じる感じ。


 でも、そんな時間は高校を卒業してから、急に減ってしまった。


 みんなそれぞれ先へ進んで、自分だけ少し時間が余っているみたいな感じだった。


 ここでは、直人もヒマで、自分もヒマだった。


 ただし、その意味は違う。


 その違いはまだ消えていない。消えていないけれど、今こうして並んでいる間は、少しだけその差が薄くなる気がした。


 道を戻りながら、二人はまた適当な話をした。


 島の店のこと。船のこと。バスの少なさ。昨日の海。直人の留年。澪の高校。どれも大した話ではない。大した話ではないのに、会話は前よりずっと自然に続いた。


 蔵の近くまで戻る頃には、二人の距離は行きよりも少しだけ近かった。


 物理的な意味でも、空気の意味でも。


 意識して近づいたわけではない。ただ歩いて話していたら、そうなっていた。


 敷地の手前で、作業着姿の恒一が出てきた。


「あれ、いたのか」


「いたよ」


 と直人が言う。


「見れば分かるだろ」


「いや、どっか帰ったかと思ってた」


「帰るわけないじゃん」


 澪が言う。


「せっかく来たのに」


 その一言に、自分で少しだけ引っかかった。


 けれど直人は特に変な顔をしなかった。ただほんの少しだけ、返事の間があった気がした。


 恒一はそこまで気に留めた様子もなく、手に持っていた伝票みたいなものを軽く振る。


「悪い、ちょっとこれ置いてくる」


「どうぞ」


「お前、ほんとどうぞどうぞしか言わないな」


「じゃあ、行かないで」


「無理だわ」


 恒一は笑ってまた奥へ戻っていく。


 その背中を見送りながら、澪は何となく思う。


 違和感は、まだない。


 少なくとも今は。


 恒一がいて、直人がいて、自分がいる。三人が同じ場所にいても、今はまだ何もおかしくないように見える。


 けれど、その“まだ”が、少しだけ心に引っかかった。


「じゃあ、またね」


 澪が言った。


 “また”という言葉が、自然に出た。


 約束ではない。けれど、次がある前提の言い方だった。


「ああ」


 直人も自然に返す。


 澪はそのまま敷地の奥へ入っていく。少し歩いてから、何となく振り返りたくなったが、振り返らなかった。


 別に何かが起きたわけではない。


 深い話をしたわけでもない。決定的なことは何もない。


 ただ、理由もなく一緒に歩いて、理由もなく話して、理由もなく少しだけ近づいた。


 それだけのことだ。


 それだけのことなのに、さっきまでの木曜日とは少しだけ違う午前中になっていた。


 そして、その違いが、直人が帰ればまた静かに戻ってしまうのだろうということも、澪には何となく分かっていた。

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