第6話 恒一
次の日の朝、直人は目が覚めてからしばらく天井を見ていた。
目覚ましが鳴ったわけではない。外から差し込む光で、なんとなく起きた。恒一はすでに起きていて、台所の方で何か音を立てている。冷蔵庫を開ける音、コップを置く音、水を流す音。派手ではないが、時間が動いている音だった。
「起きた?」
顔も見ないで恒一が言う。
「起きた」
「パンあるけど食う?」
「食う」
言いながら身体を起こす。寝ぼけた頭のまま洗面所へ行き、顔を洗い、戻ると、テーブルの上に袋から出した食パンとマーガリンが置いてあった。恒一はもう作業着に着替えている。昨日も思ったが、こいつはもう完全に働く人間の身体のリズムで生きている。
「今日も行くの?」
パンをかじりながら直人が聞く。
「どこに」
「蔵」
「行きたきゃ来れば」
恒一はあっさり言う。
「別に見学料も取られねえし」
「ありがたい会社だな」
「お前みたいなの珍しいだけだろ」
その言い方が妙に自然で、直人は少しだけ笑う。
笑いながらも、昨日の澪の顔が頭のどこかに残っていた。理由もなく一緒に歩いて、理由もなく少しだけ近づいた。その感じが、朝になって消えているかと思ったが、消えていなかった。
恒一は手早く朝の支度を終え、先に立ち上がる。
「俺、先行くわ」
「どうぞどうぞ」
「その言い方、地味に腹立つな」
「便利だろ」
「便利だけど」
恒一は笑って、玄関へ向かった。
「鍵持ってけよ。あと、来るなら昼前までには来いよ」
「何で」
「昼からまたバタつくから」
「はいはい」
そう言うと、恒一は「はいは一回」とよく分からない返しをして、普通に出ていった。
玄関のドアが閉まる。
部屋が急に静かになる。
直人はその静けさの中で、パンの端をかじりながら、少しだけ考えた。
行く理由はない。けれど、行かない理由もない。
アパートにいたところでやることはないし、島の中を適当に歩くにしても、まだどこへ行けばいいのか分からない。だったら蔵へ行く方がましだ。少なくとも、何かしら人の気配がある。
そうやって自分に説明してから、直人はゆっくりと支度をした。
昼前、昨日と同じ道を歩く。
何度も歩いた道ではないはずなのに、昨日一日で少しだけ景色に慣れているのが分かる。アパートの角を曲がり、小さな道を抜け、醤油の匂いが混ざり始める辺りまで来ると、ああこの辺だな、と身体が先に思い出す。
株式会社橘醤油醸造所の敷地に入ると、昨日よりも少しだけ音が多かった。
作業の音だ。
何かを動かす音。人の足音。短い声。機械の低い唸り。蔵というのは静かな場所だと思っていたが、じっと耳を澄ませば、意外といろんな音がある。ただ、その全部が大きくないだけだ。
直人は作業場の方へ目を向け、すぐに恒一を見つけた。
作業着姿で桶の近くに立っている。昨日のように案内役でもなく、友達でもなく、ただ働いている人間としてそこにいた。しゃがんで何かを見て、立ち上がり、近くにいた年配の職人と短く言葉を交わす。その動きが無駄なく見える。
直人は少し離れた位置でそれを見ていた。
恒一が気づいて手を上げる。
「おう」
「おう」
「そこ立ってても分かんねえだろ。こっち来いよ」
言われて近づくと、桶の近くは思ったよりも少し暖かかった。
「何してんの」
「見りゃ分かるだろ」
「分かんねえから聞いてんだよ」
恒一は少しだけ笑う。
「状態見てんの」
「状態」
「温度とか、匂いとか」
そう言いながら、桶の縁に手をやる。
「同じように見えても、ちょっとずつ違うから」
「そんな分かるもんなの」
「分かるようになんねえと仕事になんない」
あっさり言う。
直人はその言い方に、少しだけ感心した。自慢しているわけではない。知っていることを誇っているわけでもない。ただ、必要だから分かるようになった、という口調だ。
「温度で変わるんだよ」
恒一は桶の方を見たまま言う。
「発酵の進み方も違うし、匂いも変わるし」
「へえ」
「へえ、で済ますな」
「だって分かんねえし」
「分かる必要もないか」
「失礼だな」
そんなやりとりをしている間にも、恒一の視線は仕事の方へ向いていた。人と話しながらでも、手は止まらない。頭の半分は別のところで動いている感じがする。
そこへ社長が現れた。
昨日、まかないの席で直人に声をかけた人だ。今日も柔らかく笑っているが、やはりこの場の中心にいる感じがある。
「井原君、その件どう?」
「いま見てます。午後にはいけると思います」
「頼むよ」
社長はそれだけ言って、直人の方へ少し視線を向けた。
「友達、今日も来てるんだね」
「どうも」
直人が会釈すると、社長は軽くうなずく。
「退屈だろうけど、よかったらゆっくり見てって」
「ありがとうございます」
「井原君、そういうのも込みで任せてるから」
最後の一言は恒一に向けたものだった。
任せてる。
その響きが、直人の耳に少し残る。
ただの新人に向ける言葉ではないように聞こえた。もちろん社長が人当たりのいい性格なのかもしれないし、ここではそれが普通なのかもしれない。けれど、少なくとも、恒一はもう“いてもいい人間”ではなく、“いる前提の人間”として扱われているように見えた。
社長が去ったあと、直人はぽつりと言う。
「任されてんな」
「何が」
「今の感じ」
「普通だろ」
「普通か?」
「普通じゃなかったら困るだろ」
恒一は本気で不思議そうに答えた。
たぶんこいつにとっては本当に普通なのだ。頼まれて、見る。言われて、動く。必要だから任される。それが仕事だと思っている。そこに深い意味をわざわざ感じていない。
そのとき、作業場の入り口の方から澪が入ってきた。
特に目立つ歩き方ではないのに、なぜかすぐ分かる。昨日までと同じように、この場所の中に自然にいて、でも作業の中心ではない位置にいる。
「あ、お嬢」
恒一が言う。
その呼び方はもう癖みたいなものだった。敬意があるような、ただ周囲に合わせているだけのような、不思議な響きだ。
「恒一さん、お父さんが呼んでる」
澪が言った。
「また?」
「うん」
「何だろ」
「知らない」
その会話が、直人には少しだけ意外だった。
近い。
別に親しい会話という意味ではない。ただ、距離が自然だ。気を使いすぎてもいないし、遠慮しすぎてもいない。毎日そこにいる人間同士の距離だった。
「すぐ戻る」
恒一はそう言って、手元のものを片付けかけたが、澪が「そのままでいいって」と言う。
「後で行けばって言ってた」
「じゃあ後で行く」
そこで会話は終わる。
何でもないやりとりだ。何でもないのに、直人の中には少しだけ何かが残る。
昨日、自分は澪と並んで歩いた。理由もなく一緒にいて、少しだけ近づいた。けれど今目の前で起きているのは、それとは違う種類の自然さだった。歩かなくても、わざわざ理由を作らなくても、最初から生活の中に接続されている人間同士の距離。
「何」
澪が言った。
視線に気づかれたらしい。
「いや」
直人は首を振る。
「別に」
「便利だね、それ」
澪が少し笑う。
「お前もだろ」
「うん」
その軽いやりとりで場は普通に保たれる。
直人も普通に笑った。笑ったが、昨日とは違う笑い方をしている気がした。
三人で少しだけ立ち話をする。
といっても、深い話ではない。昼は何時だとか、今日は少し気温が高いだとか、そんな程度だ。澪は途中で別の従業員に呼ばれ、「はーい」と言ってそちらへ向かう。恒一はまた桶の方を見る。
直人だけが、何となく余る。
誰かに追い出されたわけではない。邪魔者扱いされたわけでもない。ただ、自分にはここでやることがないという事実だけが、やけにはっきり見える。
さっきまで話していたのに、もう場の中心から外れている。
そのことが別に悔しいわけではない。悔しいわけではないのに、少しだけ引っかかる。
「暇なら、その辺座っててもいいぞ」
恒一が桶から顔を上げずに言った。
「気使ってんのか?」
「使ってない」
「だろうな」
「使った方がいい?」
「別に」
「じゃあ今のでいいじゃん」
その通りだと思って、直人は苦笑した。
蔵の外に出て、建物の影になる場所にしゃがむ。そこから作業場の奥までは全部見えないが、人の出入りくらいは分かる。しばらくぼんやりしていると、また社長が恒一に何か話しているのが見えた。恒一は短く返事をして、すぐに動く。
ためらいがない。
働いている人間の身体だ、と思う。
自分にはああいう動き方ができるだろうか、と考えてみる。できるかもしれない。できないかもしれない。けれど少なくとも、今の自分には必要がない。必要がないままここまで来てしまった。その差が、目の前の現実になっている。
「ちゃんとしてんな」
思わず小さく呟いた。
誰に聞かせるでもない言葉だった。
恒一はちゃんとしている。
必要なことをして、必要とされている場所にいる。本人は別に誇ってもいないし、大げさに構えてもいない。ただ普通に、そこにいるべき人間みたいに動いている。
直人は、何となく自分の手を見る。
別に自分の手が何もできないわけではない。けれど、いまこの場所では、何にも使われていない。
来たときにはそれでもよかった。ただ友達のところに遊びに来ただけだったからだ。
でも、少しだけ澪と話すようになって、少しだけこの場所の空気が分かり始めると、自分が本当にただの“外から来た人間”であることが、逆にはっきりしてしまう。
「俺、何しに来たんだろ」
口に出したあとで、自分でも少し驚いた。
重い問いでも何でもない。むしろ、かなり軽い独り言だ。けれど、その軽さのまま胸に残る。
遊びに来たのだ。
友達のところに、暇だから来た。
そのはずなのに、今はその“暇だから”だけでは少し足りない気がしていた。




