第06.5話 堤防
直人は、島に着いて二日目の昼過ぎには、早くも手持ち無沙汰になっていた。
観光地図に載っている場所は一通り見た。土産物屋も、オリーブ公園も、港の近くの食堂も覗いた。景色はきれいだったし、空気も悪くない。だが、一人で来た旅先というのは、思ったより時間が余る。
宿に戻って昼寝するにはまだ早い。
港の近くをぶらぶら歩いているうち、古びた釣具店が目に入った。ガラス戸の向こうに、色あせた浮きや、巻かれた糸や、海水で少し白っぽくなったバケツが見える。店の前には「エサあります」と手書きの札がぶら下がっていた。
直人は立ち止まった。
そういえば、海のそばに来たのに釣りくらいしていない。子供のころに一度、父親に連れられて川でやった記憶がある程度だが、どうせ暇つぶしだ。釣れなくても時間は潰れる。
そう思って店に入ると、店番の老人が新聞から顔を上げた。
「兄ちゃん、釣りか」
「はい。全然詳しくないんですけど」
「なら、安いのでええわ。防波堤ならこれで十分じゃ」
老人は迷いなく、短い竿と小さなリールのついたセットを棚から下ろした。仕掛けだの重りだの針だのが最初から入っているらしい。いかにも初心者向けという感じで、値札も手ごろだった。
「魚、釣れますかね」
「釣れんでも、海見とりゃ時間は過ぎる」
それはそうか、と思い、直人は苦笑した。
餌とバケツまで勧められたが、そこまで本格的にやるつもりもなく、とりあえず簡単なセットだけ買った。店を出るころには、手の中に自分がちゃんと“やること”を持っている感じがして、少しだけ気分が軽くなった。
港から少し外れた防波堤は、昼下がりの陽を受けて白っぽく光っていた。風は穏やかで、海面は思っていたより静かだった。遠くを行くフェリーの音が、ときどき低く響く。
直人は適当な場所に腰を下ろし、買ったばかりの竿をぎこちなく伸ばした。
説明書は見たが、よく分からない。糸が絡まりそうになり、針を変な方向に引っかけそうになり、ひとりで小さく舌打ちする。初心者セットなのに、初心者には優しくない気がする。
「……何やってんだ、俺」
ぼそっとつぶやいたところで、背後から声がした。
「釣れますか?」
振り向くと、澪が立っていた。
白っぽいブラウスに細いパンツ姿で、観光客というより、この風景の中に最初からいた人の顔をしている。手には何も持っていない。ただ、通りがかりに少し足を止めた、というふうに見えた。
「あ、いや、まだ始めたばっかりで」
直人が苦笑すると、澪は竿と足元の袋を見て、小さく笑った。
「釣具屋のおじさんに勧められた?」
「なんで分かるの?」
「たぶん、初心者が買うやつだから」
言い方に嫌味はなかった。事実をそのまま口にしただけ、という感じだった。
「やっぱり」
「でも、それでいいと思う。あそこのおじさん、変なの売らないし」
澪はそう言って、防波堤の縁のほうへ視線を落とした。だが、自分は近づかず、少し距離をとったままでいる。
「どうした?」
「わたし、防波堤嫌いなんだよね」
「え、なんで」
「フナムシ、いっぱいいるから」
澪は眉を寄せて、水際を指さした。
直人もつられて覗き込む。コンクリートの継ぎ目のあたり、濡れた影に黒っぽいものがごそごそ動いていた。ひとつ見えたと思ったら、その近くにも、そのまた近くにもいる。小さいのに足だけはやたら多く、妙に素早い。
「あー……」
思わず声が漏れた。
「ね?」
「確かにきもいわ」
澪はくすっと笑った。
「でしょ。海って、遠くから見るときれいなのに、近く行くとこういうのいるから嫌」
「夢が壊れるな」
「島の人間はみんな平気だと思ってるでしょ」
「少なくとも、澪さんは平気じゃなさそう」
「全然だめ」
言い切る口調がおかしくて、直人も笑った。
潮風が二人のあいだを抜ける。すぐ横には青い海が広がっているのに、話しているのはフナムシのことだ。そんな取り留めのなさが、かえって気楽だった。
「じゃあ、なんでこんなとこ来たの」
「通りかかっただけ。見えたから」
「俺が?」
「うん。観光客の人が、そんな真剣な顔で初心者セットと格闘してたから」
「見られてたの、地味に恥ずかしいな」
「ちょっとだけ面白かった」
澪はそう言って、また水際を見る。すると一匹、大きめのフナムシがさっと岩陰から出てきて、ぬれたコンクリートの上を横切った。
「うわ、やだ」
澪は反射的に一歩下がった。
その反応が予想以上に素早くて、直人は吹き出した。
「そんなに?」
「そんなに」
「魚より先にフナムシに負けてるじゃん」
「だから防波堤嫌いなんだって」
むっとしたように言い返す顔も、どこか子供っぽくて、直人は少し意外に思った。もっと隙のない人かと思っていた。旅館で見かけたときも、家の人間としてきちんとしている印象が強かったから、こんなふうに虫が嫌いだとか、防波堤が苦手だとか、そういう当たり前のことを口にするのが新鮮だった。
「でも、釣れたら教えて」
「え、帰るの?」
「ここにずっといるの嫌だもん」
「フナムシのせいで?」
「そう」
「筋が通ってるな」
澪は少し笑って、それから海のほうを見た。
「釣れなくても、島の時間ってけっこう過ぎるから」
その言い方が、店の老人の言葉に少し似ている気がした。
海を見ていれば時間は過ぎる。
島の人は、そういう時間の流れ方を知っているのかもしれない、と直人は思った。
「じゃ、また」
澪は軽く手を振って、防波堤から離れていった。
直人はその背中を見送ってから、あらためて竿を持ち直した。さっきまでただの暇つぶしだった釣りが、少しだけ意味のある時間になった気がした。
水面は相変わらず静かで、魚がいるのかどうかも分からない。
それでも直人は糸を垂らしながら、ときどき背後を振り返りたくなる自分に、少しだけ苦笑した。




