第06.6話 刺し身
意外なほど魚は釣れた。
最初の一匹が釣れたときは、たまたまだと思った。ところが、そのあともぽつぽつと続き、気がつけばバケツの中で銀色の魚が何匹も跳ねていた。釣りなど暇つぶしのつもりだったのに、終わってみれば初心者とは思えない釣果だった。
直人が得意半分、呆れ半分で宿に戻ると、恒一がバケツを覗き込んで目を丸くした。
「うわ、なんだよこれ」
「釣れた」
「見りゃ分かるわ。こんなにどうするんだよ」
恒一は本気で呆れた顔をした。
バケツいっぱいの魚を前にして、直人もようやく現実的な問題に気づく。
「……とりあえず、刺身にするべ」
そう言って、直人は台所に立った。
宿の台所は広くも狭くもない、ごく普通の家庭用のものだった。だが、いざ魚を下ろそうと思うと、包丁がどうにも頼りない。薄いし、切れ味も怪しい。
「なんだよー、ろくな包丁ないな」
直人は包丁を光にかざして顔をしかめた。
「男の一人暮らしであるか、こんなもん」
恒一が肩をすくめる。
「砥石もねーし」
流しの周りを見回しても、あるのはスポンジと洗剤くらいだった。直人は仕方なく茶碗をひっくり返し、その高台のざらついた部分に包丁を当てて、しゃっ、しゃっ、と研ぎ始めた。
「おいおい、そんなのでいけるのか」
「多少はマシになる」
「雑だな」
「生きる知恵だ」
そう言いながら、直人は魚を一匹まな板に乗せた。
包丁を入れると、さっきまでの文句が嘘のように、手が迷いなく動き始める。鱗を落とし、腹を割き、内臓を取り、頭を落とす。骨に沿って刃を滑らせると、身がきれいに開いた。二枚、三枚と魚が片づいていく。
恒一はその手元を見て、素直に感心した。
「うまいもんだな」
「前にYouTubeでこういうの流行ったんだよ」
直人は苦笑した。
「感化された」
「そんなのでここまでできるようになるもんか?」
「見よう見まね。まあ、何回かやった」
包丁の背で骨を寄せ、細い中骨を抜いていく手つきは、確かに慣れていた。少なくとも、初心者が勢いだけで魚を潰していく感じではない。
「ここに住めば、食い扶持に困らんな」
恒一が笑う。
「釣れればな」
「今日みたいに毎日釣れたらいいのに」
「そんなうまくいくか」
直人は次の魚を持ち上げながら言った。
恒一はその横で冷蔵庫を開け、ビールを二本取り出すと、迷いなく冷凍庫に突っ込んだ。
「すぐ飲むのに冷凍庫?」
「キンキンに冷やすんだよ」
「ああ、やってたな、それ」
「名古屋いた頃からだよ。これやると、ちょうどいいんだ」
恒一は笑った。
「忘れると翌日凍ってるけどな」
「あったな、そんなこと」
直人も笑う。
ほんの半年前まで、何度も見た光景だった。安いアパートの狭い台所で、どちらかが買ってきた缶ビールを冷凍庫に放り込み、つまみを適当に作って、他愛もない話をした。
そのころは、こういう時間が当たり前に続く気がしていた。
「チューブのわさびもねえの?」
直人が魚を切りながら不満を漏らす。
「醤油はあるぞ」
恒一がなぜか少し自慢げに言う。
直人は包丁を持ったまま顔を上げた。
「当たり前だ!」
思わず突っ込むと、恒一が声を立てて笑った。
なんだか、懐かしいやり取りだった。
くだらなくて、勢いだけで、何の意味もない会話。けれど、その無意味さが懐かしい。
それなのに、昼間の恒一は、少し知らない人みたいだった。
澪の家にいて、澪のそばにいて、この島の空気にすっかりなじんでいて、直人が知っていた頃の恒一よりずっと先へ進んでいるように見えた。
台所でこうして笑っていても、その事実だけは消えない。
少しだけ、自分が取り残された気がした。
恒一は冷凍庫を閉めると、今度はパックご飯を二つ取り出してレンジに入れた。電子レンジがぶうんと鈍い音を立てるあいだに、直人は刺身を切り分ける。
白い身がまな板の上に並んでいく。
「皿ある?」
「大皿はないな」
「だよな」
直人は諦めて、そのまままな板の上に刺身を盛り付けた。見栄えは雑だが、食うだけなら十分だ。
レンジが鳴る。
恒一はパックご飯を取り出し、小さな座卓に二つ並べた。そこへ直人がまな板ごとの刺身を置き、恒一が冷凍庫からビールを出して缶を二本、ことんと置く。
それで晩餐の準備は完了だった。
「なんに乾杯する?」
恒一が一本を持ち上げる。
「さあな」
「豊漁に、乾杯」
恒一がそう言うので、直人も慌てて缶を差し出した。
かつん、と軽い音がした。
二人は同時に缶を傾ける。
ごくっと一口飲んだ瞬間、冷え切ったビールが喉を滑り落ちた。まるでビール味の氷が喉を通ったみたいに冷たい。
「っはぁー……」
「っぷはー……」
ほとんど同時に息をついて、また顔を見合わせて笑った。
「醤油、ちょくでいい?」
恒一が言う。
直人は頷いた。
恒一が小瓶の蓋を開け、刺身の上にそのまま垂らす。深みの勝った赤黒い液体が、白い身の上で鈍く光った。
直人は箸で一切れつまんで口に入れる。
正直、驚いた。
魚の甘みが先に立って、そのあとで醤油の旨味がじわっと追いかけてくる。ただ塩辛いだけじゃない。丸いような、深いような、舌の上に残る感じがまるで違った。
「うっまっ!」
思わず声が出た。
「なに、この醤油」
もう一切れ口に入れて、直人は目を見開いた。
「すげーな、全然違うわ!」
恒一が、どうだと言わんばかりに顎を突き出す。
「だろっ。俺もさ、初めて醤油舐めたとき、ビビったんだよ。なんだこれ、ほんとに醤油か?って」
「いや、これ反則だろ」
「刺身にかけると分かりやすいんだよ。塩っぱさだけじゃなくて、ちゃんと味があるから」
そこから恒一のうんちくが始まった。
この蔵の醤油はこうだとか、寝かせ方がどうだとか、色がどうで、香りがどうで、普通の安い醤油とは何が違うのかとか。
直人はそれを聞き流しながらビールを飲む。
ときどき「へえ」とか「ほー」とか相槌を打つのがコツだ。あまり黙っていると恒一は熱が入るし、適当に返すと気分よく喋り続ける。
その感じまで、前と同じだった。
変わってしまったものもあるはずなのに、こうして座っていると、それが一瞬分からなくなる。
魚が減り、ビールの缶が軽くなったころ、恒一はふと思い出したように立ち上がった。
「そうだ。土産に持ってくか?」
部屋の隅に置いてあった段ボールを開け、中から醤油の瓶を二、三本取り出す。
直人はそれを見て、呆れたように笑った。
「そんな重いの持ってけるか」
「そりゃそうか」
恒一は少し残念そうに笑って、瓶を箱に戻した。
座卓の上には、食べ終えた刺身の跡と、空きかけのビール缶と、醤油の小瓶だけが残っている。
窓の外はもう暗くなっていた。
波の音がかすかに聞こえる。
直人は缶を手の中で回しながら、向かいに座る恒一を見た。
笑い方も、声の調子も、くだらない話を延々続けるところも、やっぱり知っている恒一だった。
少なくとも今この時間だけは、二人はあの頃に戻っていた。




