第8話 刺し身
第8話 刺し身
意外なほど魚は釣れた。
最初の一匹が釣れたときは、たまたまだと思った。ところが、そのあともぽつぽつと続き、気がつけばビニール袋の中で銀色の魚が何匹も跳ねていた。
暇つぶしのつもりだったのに、終わってみれば大漁だった。
直人が宿に戻ると、恒一がビニール袋を覗き込んで目を丸くした。
「うわ、なんだよこれ」
「釣れた」
「見りゃ分かるわ。こんなにどうするんだよ」
恒一は本気で呆れた顔をした。
直人もビニール袋を見る。
「……とりあえず、刺身にするべ」
そう言って、台所に立った。
アパートの台所は、ごく普通の家庭用だった。
包丁を手に取る。
「なんだよー、ろくな包丁ないな」
直人は包丁を光にかざして顔をしかめた。
「男の一人暮らしであるか、こんなもん」
「砥石もねーし」
流しの周りを見回しても、あるのはスポンジと洗剤くらいだった。
直人は茶碗をひっくり返し、その高台に包丁を当てた。
しゃっ、しゃっ、と研ぐ。
「おいおい、そんなのでいけるのか」
「多少はマシになる」
「雑だな」
「生きる知恵だ」
直人は魚を一匹まな板に乗せた。
鱗を落とし、腹を割き、内臓を取り、頭を落とす。
骨に沿って刃を滑らせる。
二枚、三枚と魚が片づいていった。
恒一が手元を見る。
「うまいもんだな」
「前にYouTubeでこういうの流行ったんだよ」
直人は苦笑した。
「感化された」
「そんなのでここまでできるようになるもんか?」
「見よう見まね。まあ、何回かやった」
「ここに住めば、食い扶持に困らんな」
「釣れればな」
「今日みたいに毎日釣れたらいいのに」
「そんなうまくいくか」
直人は次の魚を持ち上げた。
恒一は冷蔵庫を開け、ビールを二本取り出すと、迷いなく冷凍庫に突っ込んだ。
「すぐ飲むのに冷凍庫?」
「キンキンに冷やすんだよ」
「ああ、やってたな、それ」
「名古屋いた頃からだよ。これやると、ちょうどいいんだ」
恒一は笑った。
「忘れると翌日凍ってるけどな」
「あったな、そんなこと」
直人も笑う。
半年前まで、何度も見た光景だった。
「チューブのわさびもねえの?」
直人が魚を切りながら不満を漏らす。
「醤油はあるぞ」
恒一がなぜか少し自慢げに言う。
直人は包丁を持ったまま顔を上げた。
「当たり前だ!」
恒一が声を立てて笑った。
直人も笑った。
こういうくだらないやり取りは、何も変わっていなかった。
昼間の恒一とは、少し違って見える。
蔵の中では、誰かに呼ばれて、仕事を任されて、迷わず動いていた。
今は、知っている恒一だった。
恒一は冷凍庫を閉めると、パックご飯を二つ取り出してレンジに入れた。
電子レンジがぶうんと音を立てる。
直人は刺身を切り分けた。
「皿ある?」
「大皿はないな」
「だよな」
そのまま、まな板の上に刺身を盛り付けた。
レンジが鳴る。
恒一はパックご飯を取り出し、小さな座卓に二つ並べた。
直人がまな板ごとの刺身を置く。
恒一が冷凍庫からビールを出した。
「なんに乾杯する?」
恒一が一本を持ち上げる。
「さあな」
「豊漁に、乾杯」
直人も缶を差し出した。
かつん、と軽い音がした。
二人は同時に缶を傾ける。
「っはぁー……」
「っぷはー……」
ほとんど同時に息をついて、顔を見合わせて笑った。
「醤油、ちょくでいい?」
恒一が言う。
直人は頷いた。
恒一が小瓶の蓋を開け、刺身の上にそのまま垂らす。
赤黒い醤油が、白い身の上に広がった。
直人は一切れつまんで口に入れた。
「うっまっ!」
思わず声が出た。
「なに、この醤油」
もう一切れ。
「すげーな、全然違うわ!」
恒一が、どうだと言わんばかりに顎を突き出す。
「だろっ。俺もさ、初めて醤油舐めたとき、ビビったんだよ。なんだこれ、ほんとに醤油か?って」
「いや、これ反則だろ」
「刺身にかけると分かりやすいんだよ。塩っぱさだけじゃなくて、ちゃんと味があるから」
そこから恒一のうんちくが始まった。
この蔵の醤油はこうだとか、寝かせ方がどうだとか、色がどうで、香りがどうで、普通の安い醤油とは何が違うのかとか。
直人はビールを飲みながら聞く。
ときどき「へえ」とか「ほー」とか相槌を打つ。
あまり黙っていると恒一は熱が入るし、適当に返すと気分よく喋り続ける。
そこも前と同じだった。
魚が減り、ビールの缶が軽くなったころ、恒一はふと思い出したように立ち上がった。
「そうだ。土産に持ってくか?」
部屋の隅に置いてあった段ボールを開け、中から醤油の瓶を二、三本取り出す。
直人は笑った。
「そんな重いの持ってけるか」
「そりゃそうか」
恒一は少し残念そうに笑って、瓶を箱に戻した。
座卓の上には、食べ終えた刺身の跡と、空きかけのビール缶と、醤油の小瓶が残った。
窓の外はもう暗い。
波の音がかすかに聞こえる。
恒一はまだ何か喋っている。
直人はビールを飲みながら聞いていた。
笑い方も、声も、くだらない話を続けるところも。
知っている恒一だった。




