澪第2話 こんにちは
食堂で顔を見たあとも、澪は少しだけあの人のことが気になっていた。
大学の時の同級生。
いまも四年。
二単位だけ落として留年。
恒一から聞いたのはそれだけだったが、それだけで少しだけ輪郭ができる。何となく、きっちりした人ではなさそうだと思う。けれど、さっき食堂で見た限りでは、思ったほどだらしない感じもしなかった。
ただ、見慣れない人が一人いるだけで、いつもの景色が少し違って見える。
それだけのことだった。
それに、恒一があんなふうに気安く話す相手というのも、澪には少し珍しかった。蔵の中で見る恒一は、たいてい仕事の顔をしている。さっき食堂で見た表情は、それとは少し違っていた。
食事が終わるころには、食堂の空気が少しだけゆるんでいた。
といっても、仕事の合間に食事の時間が食い込んでいる感じだ。街の食堂みたいに誰もが気を抜く感じではない。箸を置いた人間から順に立ち上がり、使った椀を運び、手を洗い、自然に元の場所へ戻っていく。休憩ですら仕事の延長みたいだった。
さっきまで昼ご飯の場所だったところが、少しずつまた仕事場の隣の食堂に戻っていく。
澪はその変化を、少し離れたところから見ていた。
直人も椀を持って立ち上がっていた。どこへ持っていけばいいのか少しだけ迷ったらしく、恒一の指示で流しの方へ向かっている。そういう小さな戸惑いが、やっぱりこの人はこの場所の人ではないのだと教えてくる。
恒一が手を拭きながら、直人に何か言った。
たぶん、蔵の中を見るかどうか、そういう話だろう。
直人は少し驚いた顔をして、それからついていった。
澪は少しだけ間を置いてから、自分も蔵の方へ足を向けた。
誰かを見に行く、というほどではない。ただ、そのまま食堂に入ってご飯を食べるより、もう少し見ていたい気がした。いつもの昼と少しだけ違うものが、まだ蔵のほうに残っている気がした。
蔵の中へ入ると、食堂の匂いが薄れて、いつもの醤油と木の匂いが濃くなる。
床は少しひんやりしていた。光も減る。木桶の並ぶ暗さは、見慣れているはずなのに、外から入った人の反応を見ると急に別の場所みたいに見えることがある。
いつもはただそこにある景色なのに、初めて来た人が驚いたり立ち止まったりすると、ああ、ここはやっぱり少し特別な場所なんだなと、あとから気づかされる。
案の定、直人は木桶を見て「うわ」と言った。
澪は少しだけ可笑しくなった。
やっぱり、そうなるんだ。
恒一が隣で何か説明している。木桶のこと。発酵のこと。温度や状態のこと。直人は全部を分かっている顔ではないけれど、ちゃんと聞こうとはしていた。
その聞き方が、思っていたよりまじめだった。
もっと適当に流すのかと思っていた。
でも、違った。
分からないものの前で、分からないなりに見ている。
そんな感じがした。
分かったふりをしないところが、少しだけよかった。知らない場所に来た人は、ときどき変に知った顔をする。直人にはそういうところがなかった。
澪はそこで、少しだけ近づいた。
「あ、お嬢」
恒一が気づいて言う。
直人もつられて振り向いた。
今度はちゃんと目が合う。
そこにいるのは、さっき食堂で遠くに見たあの人だった。
大学生に見える。
派手ではない。
場に浮くほどでもない。
でも、この蔵の人間ではないことはすぐに分かる。
見慣れた蔵の暗さの中に、少しだけ外の空気が混じったような感じがした。
「こんにちは」
先に言うと、直人も少し遅れて返した。
「あ、どうも」
恒一が口を挟む。
「大学の友達」
「そうなんだ」
澪はうなずいてから、直人に向き直った。
「遠いとこから来たんですね」
「まあ、一応」
「大変じゃなかった?」
「乗り換え多かったけど、まあ。スマホあるし」
「便利だね」
そう言うと、直人は少しだけ笑った。
やっぱり、普通だと思う。
気取っているわけでもないし、妙に構えてもいない。
恒一の友達、と言われると何となく納得する感じだった。
受け答えの仕方も、話す速さも、どこか力が入っていない。だからといって、失礼な感じでもない。その半端な自然さが、少しだけ印象に残った。
「見学?」
「そんな大げさなもんでもないけど」
「でも、珍しいよね。友達が来るの」
「そうかもな」
恒一が言う。
「こいつ、暇だから」
「お前が呼んだんだろ」
「呼んだけど」
「暇なんだ」
澪はそう言って、少しだけ笑った。
馬鹿にしている感じではない。
ただ、言葉の形がちょっと面白かっただけ、みたいな笑い方になった。
「まあ、暇」
「いいな」
「よくないよ。留年だし」
その言い方は、わざと軽くしているようにも聞こえた。
澪はそこで、あえて何も聞かなかった。
「へえ」
とだけ返す。
興味がないわけではない。
でも、今ここで掘る話でもない気がした。
留年、という言葉だけを重たく受け取るのも違う気がしたし、本人もそこを大ごとにしたくなさそうだった。だったら、聞かないほうが自然だった。
そのとき、少し離れたところから声が飛んだ。
「お嬢、社長呼んでます」
澪はそちらを振り向いた。
「はーい」
返事をしてから、もう一度だけ直人を見る。
まだこの人は、蔵の中の景色の中で少しだけ輪郭が浮いて見える。けれど、さっき食堂で見たときより、もう少し近い人になった気がした。
「あ、じゃ」
軽くそう言うと、直人も小さくうなずいた。
「どうも」
「ごゆっくり」
それだけ言って、澪はすっとその場を離れた。
仕事に戻るというほどの用事でもないのに、離れ方だけはいつも通りだった。自分でも少し可笑しいと思いながら、澪はそのまま歩いた。
歩きながら、少しだけ思う。
やっぱり、普通の人だ。
でも、普通の人がこの蔵にいると、少しだけ景色がずれる。
そのずれ方が、澪にはまだ少し面白かった。
それがその人自身のせいなのか、恒一の友達だからなのか、まだよく分からない。ただ、見慣れた木桶の並ぶ暗さの中に、さっきまでなかったものがひとつ混じった感じだけが、しばらく残っていた。




