澪第1話 誰?
毎朝七時二十分、スマホのアラームが鳴る。
高校の頃からの習慣で、時間はそのままにしてある。朝遅くまで寝ていると、一日が短くなったようで、もったいない気がしていた。
けれど、澪にはやることがない。
卒業と同時に、澪は家にいることになった。高校三年の進路希望調査には、家業と書いた。だから卒業したら、自然に何かが始まるのだと思っていた。
でも実際には、家や会社をうろうろしているだけだった。蔵のまわりを歩いたり、空を見たり、事務所に行ったり、食堂をのぞいたりする。家業を手伝っていると言えるほど、何かをしているわけではない。
いつも同じような毎日を、同じように過ごしている。
でも、その日は違った。
澪がいつものように食堂に入ろうとすると、見慣れない男がいた。
昼時の食堂は、働いている人たちの声と食器の音で、いつも少しだけ騒がしい。誰がどこに座るかも、何となく決まっている。だから、見慣れない顔が一つあるだけで、すぐに分かった。
恒一と同じ空間で、当たり前みたいな顔をしてご飯を食べている。
新しい従業員の話は聞いていない。
じゃあ、業者さんかとも思ったが、そういう感じでもない。業者ならもっと社長の近くにいてもよさそうなのに、その男は妙に所在なさげで、でも帰る感じでもなかった。
少しだけ足を止めて見ていると、恒一の様子が気安いことに気づいた。
仕事先の人を見る顔じゃない。
もっと前から知っている相手を見る顔だ。
誰だろう。
そう思っているうちに、奥から声が飛んだ。
「井原君、ちょっと」
恒一が返事をして立ち上がる。
ちょうど、こっちへ来る。
今さら食堂に入るのも変な気がした。かといって、見ていたのがばれたみたいに立ち去るのも妙だ。澪は何食わぬ顔で、その場に立っていた。
「お嬢」
恒一が気づいて声をかける。
澪は食堂の中へ目をやった。
「誰?」
恒一も少しだけ振り返る。
「大学の時の同級生です」
それから、少し笑った。
「いまも四年だけど」
澪は思わず顔を上げた。
「どういうこと?」
「あいつ、二単位だけ落としたんですよ」
恒一は、ちょっと面白いものを説明するみたいな顔で言った。
「留年です」
澪は、へえ、と思った。
二単位。
たくさん落としたとか、まるきり勉強しなかったとか、そういう感じではない。二単位だけ、というのが妙に半端で、かえってその人らしさみたいなものがありそうだった。
食堂の中を見る。
男は普通にご飯を食べていた。こちらを気にしているようでもない。少しぼんやりして見えるのに、さっきから恒一とは自然に話している。その感じが、余計に気になった。
「友達なんだ」
「まあ、そうですね」
恒一は短く答えた。
そのとき、また奥から声がした。
「井原君」
「あ、呼ばれてるんで」
恒一は少し急いだ顔になって、軽く頭を下げるみたいにして事務所の方へ向かった。
澪はその場に残った。
もう一度だけ、食堂の中を見る。
男はちょうど顔を上げて、誰かに何か言われたのか、小さく笑った。
見た目は、そんなに派手ではない。
観光に来た大学生、と言われればそのまま信じるような感じだ。新しい従業員には見えないし、かといって、いかにも客というほど構えてもいない。
恒一の大学の友達。
しかも、二単位足りなくて留年。
その情報だけで、何となく輪郭がついた気がした。
澪は少しだけ口元をゆるめた。
二単位、という数字が面白かったのかもしれない。
それとも、恒一があんなふうに気安く話す相手が珍しかったのかもしれない。
どっちにしても、少しだけ気になった。
澪は何でもない顔をして、ようやく食堂の中へ入った。




