恒一第3話 呼ばれている間
蔵の奥から呼ばれて、恒一は直人をその場に残した。
「悪い、ちょっと見てくる」
「どうぞどうぞ」
「その辺いれば?」
「いればって」
「迷子にならない程度にな」
それだけ言って、恒一はさっさと奥へ入った。
振り返りはしなかった。
友達を放っておくには雑な言い方かもしれないが、今は本当にそれどころではない。呼ばれた以上、まずそっちだ。仕事中というのはそういうものだし、この蔵に入ってからの恒一は、だんだんそういうふうに動くようになっていた。
「井原君、こっち」
「はい」
声のした方へ行くと、作業場の端で年配の職人が木桶の方を見ていた。
「今年、立ちが早い気がするな」
「香りですか」
「うん」
恒一も少し近づいて、同じ方を見る。
「先週より出てる気がします」
「お前もそう思うか」
「はい。前より柔らかい感じします」
職人は少しだけ笑った。
「まだ分からんけどな」
「ですよね」
そのとき、別の従業員が奥から顔を出した。
「井原君、社長が呼んでる」
「はい」
恒一はそのまま事務所のほうへ向かった。
引き戸を開けると、社長が帳面を見ていた。
「井原君、午後の便、何本出るか見た?」
「まだです。今から見ます」
「先方、少し急ぎらしい」
「わかりました」
「在庫見て、足りなかったら先に電話しといて」
「はい」
恒一はすぐに倉庫のほうへ回った。
箱の数を見て、帳面と照らして、足りる分と足りない分を頭の中で分ける。途中で配送の担当とすれ違った。
「午後の便、急ぎですか」
「らしいな」
「本数、あとで事務所に回します」
「頼むわ」
短く返して、また動く。
蔵の中は広いようでいて、歩いていると意外と狭い。どこにいても匂いはあるし、誰かの気配もある。人の声も、足音も、木の軋む音も、全部が混ざって、この場所の音になっている。
恒一はその中を動き回った。
直人のことは、完全に忘れていたわけではない。けれど、気にかける余裕があるほど暇でもなかった。あいつなら、まあ、その辺でぼんやりしているだろう。木桶を見て、でかいなとか思っていそうだ。そんなふうに考えたところで、次の声が飛んでくる。
「井原君」
「はい」
返事をして、また動く。
少しして、ようやく手が空いた。
元の通路の方へ戻る。
木桶の並ぶ通路の端に、直人が立っているのが見えた。
一人ではなかった。
その少し前に、澪がいた。
二人が何を話しているのかまでは聞こえない。直人は柱にもたれていて、澪はその少し前に立っている。ただ、同級生が普通に会話しているように見えた。
恒一は少しだけ歩く速さを緩めた。
澪が誰かと話していること自体は、別に珍しいことでもない。けれど、同年代くらいの相手と、こうして何となく立ち話をしているのは、あまり見ない気がした。
いや、見ないというより、自分が気にしたことがなかっただけかもしれない。
自分はお嬢と、こんなふうに話し込んだことがあっただろうかと、恒一は思った。
そこまで考えたところで、また別の声が飛んだ。
「井原君」
「はい」
恒一はそちらへ返事をする。
その声で、直人が振り向いた。
それでも恒一は、そのまま二人の方へ声を投げた。
「何してんの、お前ら」
直人が答える。
「別に」
澪が言う。
「ヒマって話してた」
恒一は一瞬だけ眉を上げた。
暇な二人がヒマの話をする。
少し滑稽だ。
「何だそれ」
「お前も同じこと言うだろ」
直人が返す。
澪は少し楽しそうに笑っていた。
恒一はその空気を見て、小さく息をついた。
別に変なことではない。
直人は暇でここへ来ていて、
澪もたぶん、その辺をうろうろしていたのだろう。
そうなれば、少しくらい話す。
それだけのことだ。
ただ、さっき蔵へ入ったときより、二人の間の空気は少しだけ柔らかくなっている気がした。
それもまあ、話したのだから当たり前か、と思う。
そのへんで、また奥から呼ばれた。
「井原君」
「はい」
そういえば、呼ばれていた。
今日にかぎって、いちいち呼ばれる日だな、と少しだけ思う。
恒一は二人の方へ軽く手を上げた。
「悪い、呼ばれた」
「仕事中だもんな」
直人が言う。
その言い方が妙に他人事みたいで、少し笑いそうになった。
「そりゃそうだろ」
と返して、そのまま持ち場へ戻る。
少し進んだところで何となく振り返ると、二人はまだそこにいた。
それを見て、恒一はまた前を向いた。
午後の仕事はまだ残っている。
友達が来ている日でも、蔵の一日はいつもと同じように進む。桶の匂いも、湿度も、声の飛び方も変わらない。その中に、直人が来てくれた。
それが、恒一には少しだけ変な感じだった。
名古屋のアパートでだらだらしていた相手が、今こうして自分の働いている蔵の中に立っている。
その違和感は、消えないだろう。
けれど、変なのはたぶんそれだけではない。
さっきの澪の笑い方を、恒一は少しだけ思い出した。
あんなふうに、初対面の相手と気楽に立ち話をしているところは、あまり見たことがない気がする。
まあ、たまたまだろう。
そう思って、恒一は次の用事に手を伸ばした。
呼ばれて、
動いて、
返事をして、
また動く。
そうしているうちに、さっきの二人の姿も、いったんは蔵の匂いの中に沈んでいった。




