第5話 少しだけ動く
第5話 少しだけ動く
木曜日の朝は、静かだった。
家の中では人の気配がする。隣の会社に行けば、もう誰かが動いている。鍋の音もするし、遠くで車の音もする。
それでも、木曜日の朝は静かだと澪は思う。
目が覚めて、起きて、顔を洗って、朝ご飯を食べる。
ご飯を食べ終わって、湯飲みを流しに置いた。
高校を卒業して、朝に大穴が空いた。
少し前までは、起きて、支度をして、学校へ行けばよかった。
今はもうない。
家の中にいてもいいし、外へ出てもいい。
だから、外へ出た。
隣の会社へ行く。
家を出て数歩歩けば、もう醤油の匂いがする。木の匂い。湿った空気。働く人の足音。
子どものころからずっとあるものだった。
「お嬢、おはようございます」
「おはようございます」
誰かに用があるわけではない。
用がなくても、ここにいる。
恒一はもう働いていた。
誰かに呼ばれて返事をして、何かを運んで、帳面を見て、また別の場所へ行く。
「井原君、こっち」
「はい」
すぐに返事をして、そちらへ行く。
この島へ来てからの恒一は、いつも一生懸命だった。
澪は少し離れたところから、その様子を見ていた。
空を見る。
雲が流れている。
鳥が一羽飛んでいった。
「お嬢、今日はええ天気ですね」
職人さんに声をかけられた。
「そうですね」
「風もそんなに強くないし」
「うん」
「散歩日和や」
澪は少し笑った。
「私、散歩してるように見えます?」
「見えます見えます」
職人さんも笑った。
間違ってはいない。
会社から家へ戻って、また会社へ来る。
誰かに声をかけられて、少し話す。
やることはない。
そんな木曜日だった。
家の縁側の方へ戻る。
座るほどでもない。
部屋へ入るほどでもない。
また会社の方へ行く。
日差しが少し強くなってきたので、建物の影へ入った。
朝。
会社。
家。
また会社。
何も変わらない。
そのとき、門の向こうに人影が見えた。
見覚えのある歩き方だった。
直人だった。
また来たんだ。
澪は建物の影から少しだけ身を乗り出した。
「また来たんだ」
「まあ」
直人は近づきながら答える。
「お前もいるじゃん」
「いるよ」
澪は少しだけ笑った。
「昨日の今日で来るとは思わなかった」
「そう?」
「うん」
「来ちゃ悪い?」
「悪くはないけど」
直人は少し離れたところで止まった。
「何してんの、今日」
「別に」
「またその答えか」
「だって別にだし」
「便利だな、それ」
「便利だよ」
澪は少しおかしくなった。
作業場の方から大西さんの声がする。
「お前、ほんとに何もしないんだな」
「しないよ」
「言い切るな」
「だって、することないし」
「ないのか」
「うん」
「高校卒業して、急に暇になった感じ?」
澪は少し考えた。
「そうかも」
「学校なくなるもんな」
「うん」
「それはでかいか」
「でかいよ」
朝に空いた大穴。
それなら少し分かる気がした。
「じゃあ、昨日海見たときはちょっと楽しかった?」
「楽しかったよ」
「ならまた行く?」
「……そうだね」
「ちょっとその辺、歩く?」
「その辺?」
「その辺」
「適当だね」
「お前にだけは言われたくない」
澪は笑った。
「じゃあ、その辺」
二人で歩き出した。
蔵の敷地を出て、細い道へ入る。
低い家と石垣が続いている。洗濯物が風に揺れていた。
軽自動車が一台、ゆっくりと通り過ぎる。
「この辺、ほんと車ちっちゃいのばっかだな」
「軽のこと?」
「うん。都会でも見るけど、こんなに多くない」
「この道、狭いから」
「確かに」
「あと、みんなそんなに遠く行かないし」
「島の中だけならそうか」
「たぶん」
少し歩いて、見晴らしのいい場所に出た。
海が遠くに見える。
二人は立ち止まった。
「静かだな」
「うん」
「でも、ずっとうるさいよりいい」
「お前、都会住めないな」
「たぶん無理」
「そんなきっぱり」
「だって、落ち着かなさそう」
「それはそう」
直人が笑う。
「名古屋って、どんな感じなの」
「名古屋?」
「うん。都会なんでしょ」
「都会かって言われると微妙だけど」
「でも小豆島よりは都会だよね」
「まあ、さすがに」
「何があるの」
「何でもある」
「雑」
「いや、ほんとに。何でもあるし、何もないとも言えるし」
「分かんない」
「俺も分かんない」
直人は苦笑した。
「お前、都会のこと全然好きじゃなさそうだな」
「嫌いでもないけど」
「好きでもない?」
「どうだろ」
「昨日のお返しみたいな答えすんな」
澪は笑った。
見慣れない人だったはずなのに、昨日より普通に話している。
でも、直人はこの島の人ではない。
門の向こうから来て、また門の向こうへ帰っていく。
「何」
直人が言った。
「いや」
「今、何か変なこと考えたでしょ」
「考えてない」
「嘘」
「何で分かるんだよ」
「顔」
「顔で分かるのか」
「ちょっとだけ」
澪は笑った。
「何だよそれ」
「何だろうね」
二人で笑った。
道を戻りながら、また適当な話をした。
島の店のこと。
船のこと。
バスの少なさ。
昨日の海。
直人の留年。
澪の高校。
蔵の匂いが近づいてきた。
敷地の手前で、恒一が出てきた。
「あれ、いたのか」
「いたよ」
直人が言う。
「見れば分かるだろ」
「いや、どっか帰ったかと思ってた」
「帰るわけないじゃん」
澪が言う。
「せっかく来たのに」
言ってから、自分で少し引っかかった。
直人が澪を見る。
澪は何でもない顔をした。
恒一は手に持っていた伝票みたいなものを軽く振った。
「悪い、ちょっとこれ置いてくる」
「どうぞ」
「お前、ほんとどうぞどうぞしか言わないな」
「じゃあ、行かないで」
「無理だわ」
恒一は笑って、また奥へ戻っていった。
「じゃあ、またね」
澪が言った。
「ああ」
直人も返した。
澪は敷地の奥へ歩いていく。
少し歩いて、振り返りたくなった。
振り返らなかった。




