恒一第2話 蔵の案内
食事が終わるころには、作業場の空気が少しだけゆるんでいた。
といっても、街の食堂みたいに誰もが気を抜く感じではない。箸を置いた人間から順に立ち上がり、使った椀を運び、手を洗い、自然に元の場所へ戻っていく。休憩ですら仕事の延長みたいだった。
さっきまで湯気の立っていた長机も、少しずつ昼の気配を失っていく。椀が下げられ、箸の音が消え、代わりにまた足音や短い声が戻ってくる。食事の時間が終わるというより、仕事の時間へ戻っていく感じだった。
直人も椀を持って立ち上がり、どこへ持っていけばいいのか少しだけ迷ったが、恒一が顎で流しの方を示すと、黙ってそちらへ運んだ。
「さんきゅ」
「いや、別に」
そう返してから、恒一は手を拭いた。
知らない場所でも、あいつは変に縮こまらない。その場で見て、分からなければ少し止まって、それでも何とか合わせる。昔からそういうところはあまり変わっていない気がした。
「ちょっと中、見る?」
「いいの?」
「別に秘密工場ってわけでもないし」
「醤油ってそんな見学していいもんなのか」
「全部が全部ってわけじゃないけど、まあ、この辺なら」
そう言って歩き出すと、直人も後ろからついてくる。
作業場の奥へ進むと、空気が変わる。さっきまでの食堂の匂いが薄れて、代わりに濃い醤油の匂いが立ってくる。ただし、家で使う醤油差しの匂いとは少し違う。もっと湿っていて、木と液体が一緒に長い時間を過ごしたような、重たい匂いだ。
昼のあとのわずかな明るさが、蔵の中へ入る途中で少しずつ削られていく。数歩進むだけで、もう外とは別の場所に入った感じがした。
床は少しひんやりしていた。
光も減る。窓はあるのに、蔵の中までは十分に届かない。暗い、というほどではないが、明るくもない。物の輪郭が少し落ち着いて見える。その中に、背の高い木桶がいくつも並んでいた。
「うわ」
思わず声が出たらしい。
恒一は少しだけ笑った。
「まあ、最初はそうなるよな」
「でかいな」
「木桶だからな」
「いや、木桶ってもっと、こう……味噌汁入れるやつのデカい版みたいなの想像してた」
「どんな想像だよ」
「知らねえよ。だって醤油蔵入るの初めてだし」
直人は木桶を見上げている。
見上げる、という動作になるところが少しおかしかった。大学のころなら、あいつはもう少し斜に構えた言い方をしたかもしれない。今はただ素直に驚いている。
「ここで寝かせる」
「寝かせる、って言い方なんだな」
「まあ、発酵だからな。置いときゃ勝手に完成するってもんでもないけど」
そう言って、恒一は近くの桶を軽く見た。
「温度とか状態とか、見るところはいろいろあるし」
「へえ」
「酵母の働き方も変わるしな」
「酵母って、パンとか酒とかの酵母?」
「まあ、ざっくり言えば近い」
直人は分かったような分からないような顔でうなずいた。
それでも、適当に聞き流しているわけではなさそうだった。分からないなりに聞こうとはしている。その顔を見ていると、こっちも少し話しやすい。
「お前、ちゃんと働いてんだな」
「だから何だと思ってたんだよ」
「いや、何か、白衣着て試験管振ってる感じかと」
「そんな暇あるか」
恒一は笑った。
笑いながらも、少しだけ思う。大学のころなら、たぶん自分でもそんな姿をぼんやり想像していた。今はもう、こっちのほうがずっと現実だ。
そのとき、気配が一つ増えた。
恒一の視線がそちらへ向く。
「あ、お嬢」
直人もつられて振り向いた。
そこに澪が立っていた。
さっき食堂の前で見たときと同じように、仕事の輪の中にいるのに、仕事そのものの中には入っていない感じがする。見慣れているはずなのに、直人の横に並ぶと少しだけ景色が変わる。
「こんにちは」
先に言ったのは澪だった。
「あ、どうも」
直人も返す。
その一拍あとで、恒一が口を挟む。
「大学の友達」
「そうなんだ」
澪は少しだけうなずいた。それから直人に向き直る。
「遠いとこから来たんですね」
「まあ、一応」
「大変じゃなかった?」
「乗り換え多かったけど、まあ。スマホあるし」
「便利だね」
言って、少しだけ笑った。
直人も少し笑う。
「見学?」
と澪が言う。
「そんな大げさなもんでもないけど」
「でも、珍しいよね。友達が来るの」
「そうかもな」
恒一が言う。
「こいつ、暇だから」
「お前が呼んだんだろ」
「呼んだけど」
「暇なんだ」
澪はそう言って、また少し笑った。
馬鹿にしている感じではない。ただ、言葉の形がちょうど面白かっただけ、みたいな笑い方だった。
「まあ、暇」
「いいな」
「よくないよ。留年だし」
そう言ってから、直人は少しだけ言いすぎたみたいな顔をした。
澪は特に変な顔をしなかった。
「へえ」
興味があるのかないのか分からない返事だったが、その気軽さが少し楽だった。
食堂で立ち話をしたときと同じで、澪は必要以上に踏み込まない。気にしていないのか、気を使っているのか、そのあたりはまだよく分からなかった。
「お嬢、社長呼んでます」
少し離れたところから声が飛ぶ。
澪はそちらを振り返った。
「はーい」
返事もまた普通だ。
「あ、じゃ」
澪は軽く手を上げるような仕草をした。
「ごゆっくり」
それだけ言って、すっと離れていく。
直人がその背中を少しだけ目で追っていた。
追ったあとで、自分で気づいたみたいに、少しだけ視線を戻す。
「普通の子だな」
ぽつりと直人が言う。
「まあな」
恒一はそれだけ返した。
「でも、お嬢なんだな」
「社長の娘だからな」
説明しろと言われても、うまくできる気がしない。お嬢はお嬢だし、澪は澪だ。俺が来た時から、ここにいる。
まだ一年も経っていない。こっちも全部を知っているわけじゃない。だから、下手に言葉を足さないほうが近い気がした。
恒一は次の桶の方へ歩いた。
「こっちは新しい方」
そう言って説明を続けると、直人もまたついてきた。さっきまでより少し黙っていたが、聞いていないわけではなさそうだった。
木桶も、匂いも、暗さも、さっきと何も変わっていない。
けれど直人の中では、たぶん少しだけ景色が変わったのだろうと、恒一は何となく思った。
ただ、その時の恒一にとっては、それも別に大したことではなかった。
友達に蔵を見せて、
途中でお嬢が顔を出して、
少し話した。
その時は、まだそれだけの午後だった。




