恒一第1話 仕事顔
朝、恒一が蔵に入ると、もう麹の匂いがしていた。
外の空気はまだ少し冷たいのに、中へ入ると匂いが先に身体へ触る。道具の位置を確かめ、段取りを聞き、手を動かす。最初のころよりできることは増えたが、まだ言われることも多い。
午前中はわりと慌ただしかった。
朝のうちは、まだ身体のほうが先に動く。考えるより前に、言われたことを拾って手を出す。その繰り返しで午前中が過ぎていく。
容器を運び、記録を取り、言われたものを出し、また運ぶ。蔵の仕事は、じっと考えていれば済むものではなく、動いているうちに時間が過ぎる。立ち止まっている暇はあまりない。
そんな中で、昼前に直人から電話が来た。
「着いたけど」
恒一は手を止めずに答えた。
「ああ、悪い。まだ仕事中」
「どこ行けばいい?」
「アパート分かる?」
「たぶん地図見れば」
「じゃあ、ガスメーターのとこに鍵入れてあるから、勝手に入っといて」
「不用心だな」
「この辺そんなもんだよ」
少しだけ笑ってから続ける。
「あと、会社来れる?」
「今から?」
「うん。まかないあるから。よかったら一緒に食べようって社長が言ってた。この辺、食うとこ少ないし」
「俺、いきなり行っていいの?」
「いいって。俺、友達来るって言ってあるし。気ぃ使わなくていいから」
「気ぃ使うだろ、普通」
「使わなくていいって」
そこで誰かに呼ばれた。
「悪い、じゃ、先入って荷物置いたら来て。場所分かるだろ」
「まあ、たぶん」
「じゃあ後で」
電話を切って、恒一はまた作業へ戻った。
昼が近くなると、蔵の中の空気が少しだけ変わる。機械の音や人の動きはそのままでも、どこか飯前の感じが混じる。作業を切り上げるほどではないが、みんな少しずつ昼へ向かっている。
恒一も言われたところまで片づけて、手を洗って食堂へ向かった。
中に入ると、直人は少し所在なさげに立っていた。旅行者らしいといえば旅行者らしいが、いかにも時間を持て余して来た感じがある。久しぶりだったが、特に変わったようには見えない。
変わっていないように見えるのに、こっちはもう仕事の途中にいて、あいつは外から来た人間の顔をしている。その違いだけが少し妙だった。
「おう」
「おう」
それだけ言って、恒一は席についた。
社長が直人を見て言う。
「井原君の友達?」
直人は軽く頭を下げた。
「はい。急にすみません」
「いやいや。遠くから来たんだろう。前もって聞いてたから、よかったら食べてって」
直人はまた軽く頭を下げて座った。
恒一は出された椀を受け取った。直人も少し面食らった顔をしながら、ちゃんと受け取っている。
「ほんとに用意されてたんだな」
「だから言ったろ」
「お前、ここでちゃんと働いてんだな」
「何だと思ってたんだよ」
「いや、何か、大学の延長みたいな感じかと」
「延長で醤油は作れねえよ」
その言い方が少しおかしくて、直人は笑った。
食堂では、食べながらも自然と仕事の話が続いていた。温度がどうだ、仕込みがどうだ、電話がどうだ。恒一も相槌を打ち、ときどき短く返す。
「午後、あれ確認な」
「はい」
「事務所のほう、あとで一回来て」
「わかりました」
直人はそういうやりとりを聞きながら、ただ飯を食っていた。別に居心地が悪そうなわけではないが、ここで自分にやることが何もない、という顔はしている。
そのとき、奥から声が飛んだ。
「井原君、ちょっと」
「はい」
恒一は茶碗を置いて立ち上がった。
食堂を出ると、入口のところに澪がいた。
「お嬢」
澪は中を見たまま、小さな声で言った。
「誰?」
恒一も少しだけ振り返る。
「大学の時の同級生です」
それから、少し笑った。
「いまも四年だけど」
澪が顔を上げた。
「どういうこと?」
「あいつ、二単位だけ落としたんですよ」
恒一は少し笑った。
「留年です」
澪は、へえ、というように少しだけ目を丸くした。
「友達なんだ」
「まあ、そうですね」
そのとき、また奥から声がした。
「井原君」
「あ、呼ばれてるんで」
恒一は軽く頭を下げるみたいにして、そのまま事務所の方へ向かった。
用事を済ませて食堂へ戻ると、直人は変わらず飯を食っていた。特に変わった様子はない。
そういうところも、あまり変わっていない。知らない場所でも、変に縮こまらず、その場で何とかする。
昼休みといっても、休憩ですら仕事の延長みたいなものだった。
やがて食事が終わる。
椀を運び、手を洗い、また持ち場へ戻る。恒一は手を拭きながら直人に言った。
「ちょっと中、見る?」
「いいの?」
「別に秘密工場ってわけでもないし」
「醤油ってそんな見学していいもんなのか」
「全部が全部ってわけじゃないけど、まあ、この辺なら」
言いながら歩き出すと、直人もそのあとについてきた。
その時点では、まだそれだけのことだった。
友達が遊びに来た。
昼飯を一緒に食った。
これから少し蔵を見せる。
その時は、まだそう思っていた。
ただ、それだけの昼だった。




