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七日だけの島  作者: カトーSOS


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第3話 ヒマ

挿絵(By みてみん)



蔵の中の空気は、しばらくそこにいると少しずつ身体に馴染んでくる。


 最初は重い匂いだと思った醤油の香りも、木桶の並ぶ暗さも、しばらくすると背景みたいになっていく。背景になったあとで、ああいう場所に毎日いる人間は、こうやって慣れていくのかもしれない、と直人は思った。


 いつの間にかその場の空気そのものになる。意識して嗅ぐものではなくなって、ただそこで息をしていれば身体に入ってくるものになる。そうなると、逆に自分がまだ外から来た人間なのだということも分かる。慣れかけているだけで、まだ馴染んではいない。


 恒一は直人を連れて蔵の中を一通り見せたあと、途中で呼ばれてそちらへ行った。


「悪い、ちょっと見てくる」


「どうぞどうぞ」


「その辺いれば?」


「いればって」


「迷子にならない程度にな」


 それだけ言って、恒一はさっさと奥へ消えた。


 残された直人は、木桶の並ぶ通路の端に立ったまま、少しだけ口をゆがめる。


 いれば、で済ませるあたりが恒一らしい。気を使わなくていい関係と言えばそうだが、もう少し友達を放っておかない言い方があってもいい気もする。もっとも、今の恒一はそういうことを考えている場合ではないのだろう。


 大学の頃なら、こんなふうに途中で呼ばれて去っていくこともなかったはずだ。部室でも道場でも、恒一は学生らしい顔をしていた。今は呼ばれたらすぐに動いて、そっちを先に片づける人間になっている。その変化を、直人はまだ少し遠くから見ている気がした。


 仕事の音がする。


 誰かの足音。桶の近くで何かを動かす音。遠くで短い会話。蔵の外から入ってくる風は弱く、空気は少しだけ湿っていた。


 その音は、静かではないのに騒がしくもなかった。誰かが無駄に大声を出すわけでもなく、必要なときだけ短く声が交わされる。音が点々と置かれていて、そのあいだを匂いと湿度が埋めているみたいだった。


 直人はやることがなかった。

かといって、スマホを出していじるのも、何となく場違いな気がした。


 手持ち無沙汰、という言葉がいちばん近い。だが、それはこの蔵に来てから急に始まった感覚ではない。最近ずっと、何をしていても少しずつ残る感じだった。


 暇だな、と思う。


 口に出すほどでもないが、自分の中では当たり前の感覚だった。最近ずっとそうだ。大学に行っていないわけではない。ゼミもある。単位のこともある。けれど、生活全体として見れば、時間の方が余っている。何かをしているつもりでも、その何かはいつも薄い。


 予定がないわけではない。やるべきことがゼロなわけでもない。それでも、一日のどこかに空白がある。何かに集中していても、その空白だけはうまく埋まらない。いまこうして木桶の前に立っている時間も、その延長みたいなものだった。


 そのとき、気配がした。


 振り向くと、澪がいた。


 さっき見たときと同じように、場に馴染んでいるのに少しだけ輪郭が違う感じがする。蔵の人間たちと同じ空間にいるのに、同じ種類には見えない。その曖昧さが、やはり少し引っかかった。


 仕事をしているようには見えない。そこにいることだけで自然なのに、役割だけが見えない。その曖昧さが、直人の目を引くのだった。


「一人?」


 と澪が言った。


「まあ」


「恒一さんは?」


「呼ばれた」


「ああ」


 それだけで会話が止まりそうになったが、不思議と気まずくはなかった。直人は少し姿勢を崩して、近くの柱にもたれる。


 木の柱は思っていたより冷たかった。さっきまで人の気配の中にいたせいか、二人で立っているこのあたりだけ少し空気が薄いように感じる。


「何してんの?」


 自分でも、雑な聞き方だと思った。


 けれど澪は特に気にする様子もなく、周囲を一度だけ見回してから言った。


「別に、何も」


「何も?」


「うん」


 澪は本当に“何もしていない”ように見えた。手に帳面があるわけでもない。作業着でもない。誰かの手伝いに入る様子もない。ただそこにいる。


 それが、逆に少しおかしい。


 何もしていない、という言い方がこれほどそのまま当てはまる人間も珍しい気がした。普通は何かしらしているように見えるものだ。待っているとか、見ているとか、手伝うつもりだとか。澪には、そのどれもはっきり見えなかった。


「ヒマなんだ」


 直人が言うと、澪は少しだけ笑った。


「うん、ヒマ」


「いいな、それ」


 反射的にそう言ってから、直人は自分でも妙なことを言ったと思った。


 澪は、すぐには同意しなかった。


「うーん……どうだろ」


「どうだろって」


「いいか悪いかって言われると、分かんない」


 言い方が少しだけ曖昧で、直人はそこで初めてムキになった。


「でもヒマなんだろ」


「ヒマだよ」


「じゃあ、いいじゃん」


「そうかな」


 澪は近くの桶の方を見る。木の表面を眺めているだけだった。何か考えているようにも見えた。その横顔は、さっきと同じように普通の十八歳くらいの女の子に見えた。だが、話の中身だけが少し違う。


 同じ「ヒマ」でも、こちらのそれとは少し意味が違うのかもしれない。直人はまだその違いを言葉にはできなかった。


「俺、最近ずっとヒマでさ」


 直人は何となく続けた。


「単位落として留年したから、時間だけ余ってる」


「二単位?」


 澪がさらっと言ったので、直人は目を丸くする。


「何で知ってんの」


「さっき食堂で、恒一さんが言ってた」


「あいつ余計なことを」


「でも二単位で一年って、ちょっともったいないね」


「もったいないっていうか、馬鹿みたいだろ」


「馬鹿っていうか、運が悪い」


 あっさり言われて、直人は少し笑った。


「慰めてんのかそれ」


「たぶん」


 笑いながら言うので、本気で慰めているのか、ただ響きが面白かっただけなのか分からない。


 しばらく二人で並んで立ったまま、蔵の中の音を聞いていた。


 誰かが遠くで笑った気がした。何か木の箱のようなものを置く音もした。音のひとつひとつはすぐ消えるのに、蔵全体の空気はあまり変わらない。それが不思議だった。


 直人は何となく思い出したように言う。


「でも、お前もヒマなんだろ?」


「うん」


「じゃあ、何してんの普段」


「別に」


「いや、その“別に”が一番分かんないんだけど」


 澪は少しだけ考えるみたいに間を置いた。


「見てる」


「何を」


「いろいろ」


「いろいろって便利だな」


「便利だよ」


 そう言ってまた少し笑う。


 言葉をはぐらかしているようにも見えるのに、不思議と嫌な感じはしない。ただ、本当に説明する必要がないと思っているのだろう。


 直人には、それが少し羨ましくもあった。自分は何かを聞かれると、つい答えの形を探してしまう。澪は、その形がないままでも平気そうに見えた。


「仕事、しないの?」


 澪は肩をすくめるでもなく、普通に答えた。


「別に、何もしなくてもいいから」


「え?」


 聞き返すと、澪はそれがそんなに変なことだとは思っていない顔のまま、続けた。


「私、別に何もしなくてもいいの」


「いや、そんなことある?」


「あるよ」


「みんな働いてるじゃん」


「うん」


「お前だけ何もしなくていいの?」


「いいっていうか」


 少しだけ言葉を探してから、澪は淡々と言った。


「その代わり、ここにいないといけないけど」


 直人は口を閉じた。


 何だそれ、と思う。


 そう、何だそれ、というのが一番近い反応だった。


 仕事をしなくていい。けれど、ここにいないといけない。


 意味は分かるようで、分からない。言葉としては簡単なのに、その中身だけが妙に掴みにくい。


 そこには強制されている感じも、反発している感じもない。ただ「そういうもの」として置かれている。その置かれ方が、直人にはいちばん分かりにくかった。


「なんだ、それ」


 結局そのまま口に出すと、澪は少しだけ肩を揺らして笑った。


「そうだよね」


「いや、だって」


「でもそうなんだよ」


 説明するでもなく、言い切るでもなく、ただ事実を置くみたいな言い方だった。


 そこには不満も諦めも、少なくとも表面上は見えない。愚痴のつもりで言っていないことだけは分かる。


 もし相手が露骨に嫌がっていたら、適当な慰めの一つも言えたかもしれない。けれど澪は、自分の置かれている場所を困りごととして差し出している感じではなかった。


 ただ、そういうものだと言っている。


「変なの」


 直人がそう言うと、澪はすぐに返した。


「変だよ」


「自分でもそう思うんだ」


「思うよ、普通に」


「でも、まあ」


 澪は少しだけ視線を落としてから言う。


「そういうもんだから」


『そういうもん』


 直人はその言葉の意味を考えた。


 それが当たり前なのだろう。

 少なくとも、澪にとっては。


 直人にとっては当たり前ではない。

 けれど、そこで踏み込んで聞くのも少し違う気がした。


 だから直人は、わざと軽く聞く。


「じゃあ、ずっとここいんの?」


「たぶん」


「飽きるだろ」


「飽きるよ」


「飽きるんかい」


「でもいる」


「何だそれ」


「何だろうね」


 さっきと同じようなやりとりになって、二人で少し笑った。


 笑ったあとで、蔵の空気がまた戻ってくる。桶の匂い。湿度。遠くの足音。何も変わっていないのに、少しだけ場が近くなった気がした。


 話している内容は大したことではない。雑で、断片的で、深くもない。


 それでも、さっきまでは“お嬢”だった相手が、いまは目の前で普通に喋る一人の女の子になっていた。


 そして、その普通さの中に少しだけ変なものが混じっている。


 その変さが、直人の中に残る。


 話していて楽なのに、どこか一か所だけ掴めない。


「何してんの、お前ら」


 恒一の声がして、直人は振り返った。


 いつの間にか戻ってきていたらしい。さっきまでと同じ作業着姿で、何も変わった様子はない。


「別に」


 と直人が言う。


「ヒマって話してた」


 と澪が言う。


 恒一は一瞬だけ眉を上げてから、小さく笑った。


「何だそれ」


「お前も同じこと言った」


「そりゃ言うだろ」


 澪は少し楽しそうに笑い、直人は何となくそのやりとりを見た。


 恒一がそこに戻ってきたことで、空気はまた少しだけ元に戻る。蔵の中のいつもの位置関係に、それぞれが自然と収まっていく感じだった。


 それでも直人の中には、さっきの会話が残っていた。


 ヒマ。


 同じ言葉なのに、自分と澪では意味が違う。


 自分のヒマは、ただ余っている時間だ。


 澪のヒマは、何もしなくてもいい代わりに、ここにいないといけない時間だった。


 その違いを、まだうまく言葉にはできない。


 言葉にはできないが、何となく分かる。

 それでも、さっきまでの「お嬢」という呼び名の中に少しだけ中身が入った気がした。


 さっきまでと同じ蔵の匂いの中で、直人はその違和感だけをぼんやり持ち続けていた。

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