第13話 来ない
七日目の朝は、思っていたより普通に来た。
もっと特別な朝になるのかと思っていた。ほとんど眠れないまま夜を越えて、起きた瞬間から何もかもが変わって見えるような、そういう朝をどこかで想像していたのかもしれない。けれど実際には、窓の外はいつもと同じように白っぽく明るくなり、部屋の中には昨日までと同じ家具があり、遠くで車の音がひとつ聞こえただけだった。
ただ、直人だけが違っていた。
目が覚めた瞬間から、身体の中に一本の線みたいな緊張が通っている。胸の奥が落ち着かないのに、頭は妙に冴えていた。今日、澪が来るかどうか。それだけのことに、自分の意識が全部引っ張られているのが分かった。
隣では恒一がもう起きていた。
平日と同じような動きで支度をしている。顔を洗い、服を整え、台所で水を飲む。今日も仕事なのかどうか、直人は一瞬分からなかったが、作業着を手に取っているのを見て、たぶんそうなのだろうと思った。
「起きた?」
恒一が言う。
「起きた」
「今日、帰るんだっけ」
「ああ」
それだけの会話だった。
恒一は特に何も知らない顔をしている。いや、知らないのだろう。昨夜、澪に何を言ったのかも、今日の朝に何が懸かっているのかも、何も知らずにいる。そういうところまで含めて、こいつはもう自分とは違う場所に立っている気がした。
直人はベッドから起き上がり、バッグの中身を確認した。
着替え、財布、スマホ、充電器。持ってきたものを戻していくだけなのに、妙に手が丁寧になる。忘れ物をしないようにというより、手を動かしていないと落ち着かないからだった。
「何時の船?」
恒一が聞く。
「昼前のやつ」
「じゃあ、そろそろだな」
「うん」
「送ろうか?」
直人は少しだけ考えてから首を振った。
「いい。バスで行くし」
「そっか」
恒一はそれ以上何も言わなかった。
この数日、一緒にいたわりには妙にあっさりしている気もするし、それが恒一らしい気もする。大学の頃からそうだった。必要なことは言うが、余計なことはあまり聞かない。相手が話さないなら、そのまま放っておく。その距離感に何度も救われたし、今は少しだけ苛立つ。
けれど、それをぶつける理由もない。
直人はバッグを閉じ、立ち上がった。
「じゃ、行くわ」
「ああ」
恒一も立ち上がる。
「気をつけてな」
「うん」
「帰ったらちゃんとゼミ出ろよ」
「うるせえな」
「卒業しろよ」
「知ってるよ」
そんなやりとりをして、少しだけ笑った。
笑ったあとで、その軽さが少しだけありがたかった。何も知らないまま、いつも通りに返してくる友人がいる。その普通さが、今の直人には妙に沁みた。
アパートを出ると、朝の空気が少しだけひんやりしていた。
真夏ではないが、もう完全に涼しいわけでもない。風が吹くと気持ちいいくらいの温度だ。空は曇ってはいないのに、青すぎず、島全体が薄い光に包まれているように見えた。
バス停まで歩く。
小豆島に来た初日と同じ道だ。最初は何もかもが知らないものだったのに、たった数日で、曲がる角も、塀の色も、どこに何があるのかも、少しずつ覚えてしまっている。短い滞在のはずなのに、景色の方はちゃんと身体の中に入っていた。
バス停には誰もいなかった。
少ししてから、年配の男が一人来て、少し離れた位置に立つ。直人は時刻表を見たふりをしながら、何度もスマホの時間を確認した。まだ早い。けれど、早い方がいい。もし澪が来るなら、少し早めに着くかもしれない。そんなふうに都合よく考えている自分がいる。
バスが来て、直人は乗り込んだ。
窓際の席に座る。走り出したバスの窓から見える景色は、来た日と同じなのに、少しだけ輪郭が違った。店の少なさも、道の狭さも、軽自動車の多さも変わらない。けれど今は、それがただ珍しいのではなく、誰かの生活として見える。
港に近づくにつれて、胸の鼓動が少しずつ早くなる。
直人はバッグの持ち手を握った。
澪は来る。
そう思いたい。
いや、思いたいではなく、思っていた。昨夜、澪は「また明日」と言った。嫌じゃないとも言った。考えるとも言った。だったら、来るかもしれない。少なくとも、そう信じる理由はあった。
バスを降りる。
港の空気はやっぱり少し違う。海の匂いが濃い。風もまともに当たる。観光客らしい人たちが少し離れたところで話していて、荷物を引く音がコンクリートに響く。フェリー乗り場には、平日とも休日ともつかない独特の緩さがあった。
直人は改札の少し手前で立ち止まる。
まだ時間はある。
来るなら、ここだ。
この場所で待ち合わせるのが一番自然だと思ったし、実際、澪もそう受け取っているはずだと信じていた。
人が出入りする。
売店の前を通る人、ベンチに座る人、チケット売り場へ向かう人。直人はその一人一人の中に、澪の姿を探していた。髪の長さ、歩き方、服の色。少し似ている誰かが視界に入るたび、一瞬だけ息が止まる。
違う。
また違う。
時間はまだある。そう思う。
直人はベンチに座らず、立ったままでいた。座ると立ち上がるタイミングが遅れそうな気がしたし、何より落ち着かなかった。立っていれば、すぐに見つけられる。見つけた瞬間に動ける。そんなふうに思っている自分が、少し滑稽だった。
風が吹く。
海面が揺れる。船が近づいてくる音が遠くから聞こえる。
時刻を確認する。
まだ少しある。
澪は来る。
あるいは、少し遅れているだけかもしれない。
あるいは、走ってくるかもしれない。
そんな想像が次々に浮かぶ。浮かぶたびに、次の瞬間それを自分で打ち消す。落ち着け、まだ早い。そう思いながら、また入口の方を見る。
人は来る。
けれど、澪は来ない。
やがて、船が目に見える距離まで近づいてきた。
港の空気が少しだけ動く。待っていた人たちが自然に姿勢を変え、荷物を持ち直し始める。その流れの中に立ちながら、直人はまだ入口を見ていた。
来ない。
その言葉を頭の中で口にした瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
まだ、ぎりぎりまで来るかもしれない。そう思おうとする。思おうとするのに、身体のどこかでは、もう分かっていた。こういうとき、人は完全な絶望より先に、まず分かってしまう。来ないのだ、と。
澪は来ない。
理由は分からない。
いや、本当は分かっているのかもしれない。けれど、その理由を自分の中で言葉にした瞬間に、何かが決定的になってしまう気がして、直人はそこまでは考えなかった。
ただ、事実だけがある。
来ない。
それだけだ。
係の案内が流れ、乗船が始まる。
人々が列を作り始める中で、直人は一瞬だけ立ち尽くした。ここで待ち続けたところで、何かが変わるわけではない。それは分かる。分かるのに、足だけが少し遅れる。
最後にもう一度、入口を見る。
誰も走ってこない。
誰も自分を呼ばない。
直人は小さく息を吐いた。
それから列の後ろに並ぶ。
チケットを出し、案内に従って歩き、フェリーの中へ入る。全部が自動で進んでいくみたいだった。身体はちゃんと動いているのに、気持ちの方が少し遅れてついてくる。
船内の席に座ってから、直人はようやくまともに窓の外を見た。
港がそこにある。さっきまで立っていた場所も見える。ほんの少し前までは、自分はあそこに立って、入口の方ばかり見ていたのだ。
船がゆっくり動き出す。
景色が少しずつ離れていく。
それでも澪は来ない。
最後まで来なかった。
直人は窓に肘をつき、海を見る。
来た日と同じ海のはずなのに、色も光り方も違って見えた。たぶん景色が変わったのではなく、自分の方が変わったのだろう。ほんの少しだけ、だとしても。
悔しいとか、悲しいとか、そういうはっきりした言葉はまだうまく出てこない。ただ、胸の真ん中にぽっかりとした空白がある。その空白の輪郭だけが、妙にはっきりしていた。
六日目に誘った。
七日目に澪は来なかった。
それで終わりだった。
終わりなのに、何も解決していない。澪の現実はそのままで、自分の自由もそのままで、恒一はたぶん何も知らないままだ。何も変わっていない。何も変わっていないのに、自分だけが少しだけ元の場所へ戻れない気がする。
直人は目を閉じた。
風の音がする。
フェリーは島を離れていく。
小豆島は少しずつ小さくなっていくのに、その中で過ごした数日間だけが、逆に妙に大きく残っていた。




