第12.5話 行こうとした朝
蔵へ戻る道のあいだ、澪はほとんど何も話さなかった。
隣を歩く直人も、無理に何かを言おうとはしなかった。さっきまでの言葉が、二人のあいだにまだそのまま残っていたからだ。名古屋に行こう。俺と来てほしい。そのまっすぐな言い方が、耳ではなく身体のどこかに残っている気がした。
蔵の近くまで戻ると、いつもの匂いがした。
醤油と木と、少し湿った空気の混ざった匂い。ずっと嗅いできた匂いだ。家の匂いで、仕事場の匂いで、逃げたくなるほど嫌いでもないのに、好きと言い切ることもできない匂いだった。
「じゃあ」
と澪が言い、
「うん」
と直人が返す。
「また明日」
そう言ったとき、自分でもその言葉の重さが少しわかっていた。
また明日。
それはただの別れの挨拶ではなかった。明日、答えがある、という意味だった。直人はきっと、そう受け取っただろう。実際、そのつもりで言った。何もなかったことにするつもりなら、あんな言い方はしなかった。
敷地の中へ戻ると、さっきまでの海の風が嘘みたいに薄くなった。
作業場の方から人の声が聞こえる。どこかで桶を叩くような音もする。日曜の夕方でも、蔵の気配は完全には止まらない。誰かがいて、何かが動いていて、何かが発酵している。時間だけが積み重なる場所だった。
澪はそのまま家の方へ入った。
家の中は静かだった。父はまだ蔵にいるのか、事務所にいるのか、どこかで電話でもしているのかもしれない。母はいない。物心ついた頃にはもう、家の中はこういう静けさに慣れていた。使用人がいるわけでもない。人の出入りは蔵の方にはあっても、家の中はどこかいつも薄い。
二階の自分の部屋へ上がる。
ドアを閉めた途端、急に息が苦しくなった。
誰もいない。何も言われていない。なのに、さっきまで普通に歩いて帰ってきたのが不思議なくらいだった。膝から力が抜けるみたいに、澪はベッドの端に腰を下ろした。
「名古屋、行こう」
直人の声が、また耳の中に戻ってくる。
回りくどくなかった。あの人は本当に、そういうところが変に真っ直ぐだ。もっと曖昧に言ってくれたら、少し笑って流せたかもしれない。冗談みたいに聞き流せたかもしれない。けれど、あんなふうに真正面から言われると、受け取るしかなくなる。
嫌じゃない。
あれも本当だった。
嫌じゃないどころか、嬉しかった。
直人と一緒にいる時間は、澪にとって特別だった。蔵の中でただ「いる」だけの時間とも、島の中で何となく過ぎていく時間とも違う。直人と話していると、自分が少しだけ軽くなる感じがした。何もしなくてもいい、ではなく、何でもしていいような気がする瞬間があった。
それが嬉しかった。
だから困る。
嬉しいままでは済まないから困る。
澪は両手で顔を覆った。
十八年間、小豆島で生きてきた。
小さいころから、誰かに明確に教え込まれたわけではない。お前はこうしろ、ああしろ、と毎日言われてきたわけでもない。けれど、人は毎日の空気で育つ。父の視線、蔵で働く人たちの呼び方、年に何度か来る親戚の言葉、進学の話になったときの微妙な間、そういうもの全部で、自分がどういう位置にいるかは自然にわかっていった。
一人娘。
後継ぎ。
橘の名前。
血を残すこと。
仕事は別に自分でしなくてもいい。むしろ、できなくてもいい。そこは誰かがやればいい。父はそこに有能な人間を入れようとするだろうし、実際そうしている。恒一はたぶん、そのためにここへ来た。本人が知っているかどうかは関係ない。澪には見える。父がどういう目で人を見るかも、どういう順番で物事を進めるかも、娘だからわかってしまう。
だから、自分が島を出る未来は考えたことがない。
考えないようにしていた、の方が近いかもしれない。考えたところで形にならないものを、最初から見ないようにしてきたのだ。
直人は、その見ないようにしていたところへ、そのまま手を伸ばしてきた。
名古屋に行こう。
その言葉は、簡単すぎるくらい簡単だった。
簡単すぎるのに、十八年間見ないようにしていたもの全部を、一瞬で見せる力があった。
もし行ったらどうなるのだろう、と澪は初めて具体的に考えた。
名古屋。何度か行ったことはある。修学旅行ほどの大げささもなく、親戚の用事だとか、買い物だとか、そういう理由で連れて行かれたことがあるだけだ。人が多くて、駅が広くて、電車がひっきりなしに動いていて、どこへでも行ける感じがした。小豆島とは違う。蔵の匂いもしないし、海の風も届かない。人が多すぎて、自分が誰かの娘であることも、一人娘であることも、ただそれだけでは見えなくなる場所だ。
そこへ、直人と行く。
考えた瞬間、胸が強く鳴った。
怖い。
でも、行きたい。
この二つが一緒に来る。どちらかだけではなかった。
澪は立ち上がった。
部屋の中を少しだけ歩いて、また立ち止まる。窓の外はもう夕方を越えている。蔵の方の明かりがひとつ、またひとつ点き始めていた。いつもの夜が来る。何も変わらない夜が来る。そう思うと急に焦る。
明日、と自分で言った。
なら、明日には答えを出さなければならない。
行くか、行かないか。
それだけだ。
そう思ったら、逆に変に静かになった。
行こう、と思う。
澪はその気持ちを、今度は見ないようにしなかった。
行きたい。
ここを出たい。
直人と一緒に行きたい。
たった数日で何を言っているのか、ともう一人の自分が言う。そんなものは恋に浮かされているだけだとも言う。家業はどうする、父はどうする、蔵はどうなる、恒一はどうなる。いろんな声が頭の中に浮かぶ。
それでも、行こうと思った。
ずっと一度も選ばなかったものを、初めて選んでみようと思った。
その決意は強く燃えるようなものではなかった。静かだった。静かで、逆に本物のような気がした。
澪は机の引き出しを開けた。
何を持って行けばいいのか、一瞬わからない。大きな鞄を出したら、さすがにおかしい。家を出る前に気づかれる。だから、押し入れの奥にしまってあった小さめのボストンバッグを引っ張り出す。修学旅行にも使わなかった、ほとんど新品みたいな鞄だった。
これくらいなら、おかしくないかもしれない。
いや、おかしいだろうか。朝からこの鞄を持っていたら、父に何か言われるかもしれない。だったら玄関には置けない。部屋の中でまとめておいて、明日の朝、静かに持ち出せばいい。
澪はクローゼットを開けた。
何日分いるのか分からない。名古屋へ行って、そのあとどうするのかも決まっていない。泊まる場所も、本当にあるのか分からない。直人の部屋に行くのか、どこか別の場所に行くのか、それすら聞いていない。
それでも、何も持たないわけにはいかない。
下着と、着替えを二組。あまりかさばらない服を選ぶ。派手なものはない。そもそも澪の服は、島で着ることを前提にしたものばかりで、都会へ出るからといって急に似合うものがあるわけでもない。けれど今はそんなことを言っている場合ではなかった。
財布を開く。
現金はそこまで多くない。通帳は机の下の引き出しに入っている。キャッシュカードも一緒だ。普段はほとんど使わないが、持って行かないわけにはいかない。これを持ち出すことの意味を考えて、少しだけ手が止まる。
通帳を持ち出すということは、ただ散歩に行くのとは違う。自分でも、その線を越えるのだとわかる。
澪はそれでも通帳を手に取った。
バッグの底の方へ入れる。カードも入れる。スマホの充電器も入れた方がいいだろうか、と考えて、結局入れた。最低限の化粧品も少しだけ。いつも使っているハンカチ。小さなポーチ。そんなものを、一つずつ確かめるように入れていく。
大きな荷造りではない。
逃げる準備、というほどの覚悟にも見えない。
なのに、一つ入れるごとに、自分が本当に行こうとしているのだという実感だけが増していく。
澪はバッグのファスナーを閉めた。
閉めたあとで、ベッドの上にそれを置き、しばらく見ていた。こんな小さな鞄一つで、自分の十八年を持ち出せるわけがない。持ち出せるのは、明日の朝までの自分だけだ。名前も、家も、蔵も、父も、小豆島も、本当は全部この鞄の外にある。
それでも、これで行こうとしている。
澪はベッドに座り直した。
夕食の時間になって下へ降りると、父はいつも通りだった。仕事の話を少しして、食事をして、また蔵の様子を見に行く。澪の顔を見て何かを察するような人ではない。あるいは、察していたとしても、口にしないだけかもしれない。どちらにせよ、今夜は何も起きなかった。
それが少しだけ不思議だった。
自分の中ではこんなに大きなことが起きているのに、家の中の時間はいつも通りに進んでいく。味噌汁の湯気も、食卓の木の手触りも、父が箸を置く音も、何も変わらない。変わっていないからこそ、自分だけが別のところへ行こうとしているのが、少しだけ怖くなった。
部屋へ戻り、ドアを閉める。
鞄はそのままベッドの上に置いてある。
澪は電気を消さずに、しばらくそれを見ていた。
本当に行けるだろうか。
行ったあと、どうなるのだろう。
直人は受け止めてくれるだろう。少なくとも、今の気持ちは本当だと思う。でも、それだけで生きていけるのだろうか。蔵はどうなる。父はどうする。恒一はどうなる。考え始めると、答えの出ないことばかりだった。
けれど、それを考えた結果として残るのは、やっぱり同じ気持ちだった。
行きたい。
それだけは、何度考えても消えない。
澪はようやく電気を消して布団に入った。
眠れるはずがないと思っていたのに、目を閉じると意外に身体は静かだった。明日の朝になれば、もう動くだけだ。そう決めたあとの方が、余計な迷いは少ないのかもしれない。
暗闇の中で、直人の声を思い出す。
一緒にいたい。
俺と来てほしい。
澪はその言葉を胸の中で何度も繰り返しながら、浅い眠りに落ちた。
朝は早く来た。
目が覚めた瞬間、何をするのかはっきりわかっていた。夜のあいだに揺り戻しが来ることを少しだけ恐れていたが、来なかった。怖さはある。けれど、行こうという気持ちはそのままだった。
澪は音を立てないように起き上がる。
着替える。髪をまとめる。顔を洗う。鏡に映る自分は、いつもと変わらない。家を出る人の顔には見えなかった。
それでも、ベッドの上の小さなバッグだけが違っていた。
澪はそれを持ち上げる。
軽い。こんなものしか持っていかないのかと思うくらい軽い。けれど、その軽さが逆に助かった。大きな鞄だったら、途中で気持ちが折れていたかもしれない。
部屋のドアを開け、階段を下りる。
家の中はまだ完全には起きていない。父はすでに蔵の方へ行ったのかもしれないし、まだ事務所にいるのかもしれない。どちらでもよかった。今は誰にも会いたくなかった。
玄関で靴を履く。
手が少しだけ震える。ここで戻れば、何もなかったことにできる。まだ間に合う。そういう声が最後に一度だけ頭をよぎる。けれど澪はバッグを持ち直し、戸を開けた。
朝の空気がひんやりしていた。
まだ人の気配が薄い時間だ。蔵の方から、遠くに小さな音がする。毎日の始まりの音だった。
澪は門の方へ歩く。
足が速くなる。止まったら戻ってしまいそうだから、止まらないように歩く。蔵の前の道へ出れば、そのまま港へ向かえる。バス停まで行って、フェリーに乗って、直人のところへ行く。それだけだ。そう自分に言い聞かせる。
ちょうど門を出たところで、人影が見えた。
作業着姿だった。
見慣れた歩き方で、こっちへ来る。澪の心臓が、一瞬だけ止まったみたいになった。
恒一だった。
「あれ」
恒一が言う。
いつもの声だった。朝の、仕事に入る前の声だ。何も知らない人の声だった。
「お嬢、こんな早くから」
澪は答えられなかった。
バッグの持ち手に力が入る。けれど隠すには遅い。小さいとはいえ、手ぶらではない。いつもの澪ではないことだけは、すぐに見て取れたはずだ。
「どこに行くの?」
恒一が聞く。
本当に、それだけだった。
責めてもいない。疑ってもいない。ただ不思議だから聞いただけだ。社長の娘が、朝の早い時間に、小さなバッグを持って門の外へ出ようとしている。そりゃ聞くだろう。それだけの話だ。
なのに澪は、何も言えなかった。
港へ。
直人のところへ。
名古屋へ。
どれも言えない。
言葉にした瞬間に、それが現実になってしまうからだろうか。いや、違う。言った瞬間に、恒一の顔が変わるのが分かるからだ。今ここで初めて、澪は思い知る。自分が出ていくということは、ただ家を出ることではない。いろんな人の時間を、いろんな人の立場を、一度に壊すことなのだ。
恒一は何も知らない。
知らないまま、ここへ来て、働いて、必要とされている。
その恒一に向かって、澪は「出ていく」とは言えなかった。
「……ちょっと」
と、ようやく澪は言った。
それだけだった。
「ちょっと?」
恒一は少しだけ首を傾げる。
「うん……ちょっと」
自分でも何を言っているのか分からない。あまりに曖昧で、答えになっていない。それでも恒一は追及しなかった。ただ、まだ少し不思議そうな顔で澪を見るだけだった。
その視線に耐えられなくなって、澪はゆっくりとバッグを持ち直した。
「やっぱり、いい」
自分でも聞き取れるかどうかくらいの小さな声だった。
「え?」
「なんでもない」
澪は首を振る。
「ちょっと持って出ただけ」
苦しい言い訳だと思った。けれど恒一は、それ以上は踏み込まなかった。
「そっか」
とだけ言う。
それが余計につらかった。
もし強く止められたら、反発できたかもしれない。問い詰められたら、逆に勢いで行けたかもしれない。けれど恒一はそんなことをしない。何も知らないまま、普通にそこで立っている。その普通さの前で、澪の決意の方が先に揺らいだ。
「お父さん、たぶんもう来てるよ」
恒一が言う。
「さっき事務所の明かりついてたし」
「……うん」
「バッグ、部屋置いてきたら?」
「うん」
それだけだった。
それだけで、終わった。
澪は門の内側へ戻る。足が重かった。さっきまでは速く歩かないと止まってしまいそうだったのに、今は逆に、早く歩いたら泣きそうだった。
玄関へ入る。
靴を脱ぐ。
階段を上がる。
何もかも、さっきと逆だ。
部屋に戻ってドアを閉めた途端、澪はバッグを床に置いた。置いたというより、落としたに近かった。小さな音がした。それだけの音なのに、胸の中ではもっと大きく響いた。
行かなかった。
行けなかった。
どちらなのか、自分でも分からない。
ただ、さっきまで確かにあったはずの朝の決意が、今はもう少し遠いところへ行ってしまっている。
ベッドに腰を下ろす。
通帳も、カードも、着替えも、全部バッグの中にある。昨日の夜、たしかに自分は行こうとしたのだ。直人のところへ、名古屋へ、島の外へ。そうしようと決めた。その決意は嘘ではなかった。
でも、恒一に会って、止まった。
ただ「どこに行くの?」と聞かれただけで、止まった。
その事実が澪には重かった。
直人の顔が浮かぶ。
きっと待っている。
もう支度をしているかもしれない。港へ向かうバスに乗っているかもしれない。もしかしたら、少し早く着いて待っているかもしれない。
行けばよかった、と思う。
でも、立ち上がれない。
今からでも行けるだろうか、と考える。考えるけれど、そのたびにさっきの恒一の顔が浮かぶ。何も知らない顔。朝の仕事に向かう顔。そこへ言えなかった自分の声。
澪は両手で顔を覆った。
涙はすぐには出なかった。泣けば少しは楽になるのかもしれないのに、身体の方が追いついてこない。ただ胸の中が重い。重くて、苦しくて、何も決められないまま時間だけが過ぎていく。
窓の外では、いつもの朝が始まっていた。
蔵の音が少しずつ増える。
人が動き、仕事が始まり、時間が積み重なっていく。昨日までと同じ朝だ。澪が行こうとしたことも、行かなかったことも、蔵にとっては何の関係もないみたいに、朝はいつも通りに進む。
その音を聞きながら、澪はようやく小さく泣いた。
声を出さないように、浅く、短く。
そして泣きながらも、分かっていた。
今日はもう、行けない。
直人は待つだろう。
でも、自分は行かない。
行けないのではなく、行かなかったのだと、たぶん一生思うことになるのだろうと、澪はその朝のうちにもう分かっていた。




