第12話 誘い
六日目の午後、直人は最初から澪に会うつもりで外へ出た。
それまでの数日は、会うつもりだったのか、たまたま会ったのか、その境目がずっと曖昧だった。けれど今日は違う。偶然を装う気もないし、装ったところで自分の中では意味がなかった。
言うと決めたのだ。
一緒に行こう、と。
そこまで決めてしまうと、かえって頭は静かだった。緊張はしている。胸の中は落ち着かない。けれど迷っているとき特有の、あっちへ行ったりこっちへ戻ったりする感じはもうなかった。
蔵の方へ向かう道を歩く。
空は少し白く、日差しは昨日よりやわらかい。風があって、海の匂いが遠くから混じってくる。道の端の草が揺れていた。小豆島に来てから何度も通ったはずの道なのに、今日は一歩ごとに景色が少し違って見える。
敷地の近くで澪を見つけた。
建物の影が落ちる場所に立って、何となく空を見ている。直人に気づくと、顔を少しだけ上げた。
「来た」
と澪が言う。
「来た」
直人も同じように返した。
それだけの会話なのに、今はその短さがむしろありがたかった。いきなり本題に入ってしまうには、自分の中の呼吸がまだ整っていない。
「暇?」
直人が言う。
「うん」
「歩く?」
「うん」
それで二人は、いつものように並んで歩き出した。
“いつものように”という言い方が、直人の中で少しだけ引っかかる。この島に来てまだ一週間も経っていないのに、もう何かが“いつものように”なり始めている。そのこと自体が少し危うく、少しだけ嬉しい。
蔵の裏手の細い道を抜けて、海の見える方へ向かう。
今日も特別な場所ではない。ドラマみたいに、二人だけの秘密の場所があるわけではない。ただ、少し静かで、少しだけ人の目が届きにくい場所。それで十分だった。
歩きながら、最初は本当にどうでもいいことを話した。
「今日、昨日より暑くない?」
「うーん、ちょっとだけ」
「島の“ちょっと”信用ならないな」
「何で」
「昨日もそう言ってたけど、普通に暑かったし」
「でも真夏じゃないから」
「比較対象が雑すぎる」
澪は笑う。
「直人、わりと文句多いよね」
「文句じゃなくて感想」
「同じじゃん」
「違う」
そういうやりとりをしながら歩いていると、逆に言い出すタイミングが難しくなる。普通の会話が普通すぎて、その途中にいきなり人生を変えるような言葉を差し込むのが、少しだけ乱暴に思える。
けれど乱暴でも、言わなければならない。
そう思い直して、直人は海の見えるところで足を止めた。
澪も自然に止まる。
風が吹いた。髪が少しだけ揺れる。海は昼の光を鈍く返していて、空との境目が少し曖昧だった。
直人は一度だけ深く息を吸う。
「澪」
「うん」
「……名古屋、行こう」
言葉はそれだけだった。
もっと回りくどく言うこともできたはずだ。ここを出よう、とか、俺と来ないか、とか、いろいろ考えた。けれど結局口から出たのは、一番まっすぐで、一番説明の少ない言葉だった。
澪は、すぐには何も言わなかった。
驚いたように目を少しだけ見開いたが、大きく息を呑むわけでも、後ずさるわけでもない。ただ、その言葉をちゃんと受け取ろうとしている顔だった。
直人は続ける。
「一緒にいたい」
声が少しだけ低くなる。
「ここじゃなくても生きられるし、名古屋なら……別に何かすごいものがあるわけじゃないけど、少なくとも、お前がここにいないといけない理由はなくなるだろ」
言いながら、自分でも少し乱暴だと思った。
理屈として雑だ。家業や後継ぎや血の問題を、都会に出れば解決するみたいに言うのは、たぶん違う。それでも、きれいに整えた言葉にしたくなかった。整えた瞬間に本気じゃなくなる気がした。
「俺と来てほしい」
最後にそう言うと、澪は視線を落とした。
沈黙がある。
拒絶の沈黙ではなかった。かといって、すぐに頷く沈黙でもない。澪の中で、いくつものものが静かにぶつかっているような、そんな間だった。
直人は待った。
ここで畳みかけても意味がないと思った。説得すればするほど、自分の言葉が薄くなる気がする。伝えるべきことは、もう言った。あとは澪が受け取るしかない。
しばらくして、澪が小さく息を吐いた。
「……びっくりした」
「うん」
「するよ、そりゃ」
「うん」
それしか言えない。
澪は少しだけ困ったように笑った。けれど、その笑い方は冷たくなかった。逃げるような感じでもなかった。
「直人らしいね」
「何だよ、それ」
「そのまま言う感じ」
「回りくどいの嫌なんだよ」
「知ってる」
知ってる、という言葉に、直人の胸が少しだけ熱くなる。
澪は自分のことを分かっている。少なくとも、この数日で見えてきた自分の一部を、ちゃんと知っている。そのことが、今はただ嬉しかった。
「……嫌?」
直人は聞いた。
聞かない方がよかったのかもしれないが、聞かずにはいられなかった。
澪はすぐには答えない。
少しだけ首を横に振ってから、ようやく言う。
「嫌じゃない」
その言葉だけで、直人には十分すぎるくらいだった。
拒否されなかった。
否定されなかった。
少なくとも、自分といた時間も、いま言ったことも、全部を間違いみたいにはされていない。
「じゃあ」
直人は言いかけて、そこで止まった。
“じゃあ来るよな”と続けたくなるのを、ぎりぎりで飲み込む。そこまで押した瞬間に、たぶん何かが壊れる。
澪は、その飲み込んだ言葉ごと理解したような顔で、少しだけ目を伏せた。
「……考える」
と、澪は言った。
答えは、それだけだった。
曖昧だ。逃げでもあるし、保留でもある。けれどその曖昧さの中に、完全な拒絶はなかった。
「明日」
澪が続ける。
「明日で、いい?」
直人は一瞬、息を止めた。
明日。
それは答えを先延ばしにする言葉でもあるが、同時に“何もなかったことにはしない”という意味にも聞こえた。明日、と自分で区切るということは、少なくとも受け止めているということだ。
「ああ」
直人は頷く。
「明日」
その一言を返す声が、自分でも少しだけ震えているのが分かった。
澪はそれ以上何も言わなかった。
二人で少しだけ海を見た。さっきまでと同じ景色のはずなのに、見え方はまるで違う。風の温度も、光の反射も、全部がやけに鮮明に思えた。
戻る道は静かだった。
気まずくはない。むしろ、言う前よりも少しだけ空気が柔らかい気がした。澪が拒絶していないからだ。何も決まっていないのに、何かが少しだけ前へ進んだ感覚がある。
蔵の近くまで来ると、澪が足を止めた。
「じゃあ」
「うん」
「また明日」
その言い方が、直人には強く残った。
また明日。
約束、なのだと思った。少なくとも今は、そう思えた。
澪はそれ以上何も言わず、敷地の中へ戻っていく。直人はその背中を見送る。小さくなる背中を見ながら、胸の中にあるものを確かめる。
言えた。
伝わった。
澪は嫌じゃないと言った。
考えると言った。
明日と言った。
来るかもしれない。
その“かもしれない”が、直人の中ではかなり大きな希望になっていた。
たぶん本当は、まだ何も決まっていない。
けれど今の直人には、決まっていないことの方が、むしろ明るく見えた。完全に断たれていない道が目の前にあるなら、それだけで十分だった。
アパートへ戻る途中、直人は何度も同じことを思い返す。
明日。
澪は明日と言った。
だったら、来るかもしれない。
来てくれるかもしれない。
そしてそのたびに、自分でも抑えきれないくらい、胸の奥で希望が膨らんでいった。




