第11章 決意
その日の夜、直人はなかなか寝つけなかった。
恒一は隣の部屋というほど広くもないワンルームの中で、さっさと寝る準備を終えていた。明日も仕事があるわけではないのに、生活のリズムがもう身体に入っているのだろう。風呂に入り、歯を磨き、携帯を少し見て、電気を半分落とす。迷いのない動きだった。
「先寝るぞ」
と恒一が言う。
「どうぞ」
直人はベッドの端に座ったまま答える。
「お前、夜になるとその言い方増えるな」
「便利だから」
「雑だな」
少し笑ってから、恒一は本当にそのまま横になった。こういうところも昔から変わらない。寝るとなったらちゃんと寝る。変に夜更かしして感傷に浸るような性格ではない。
しばらくすると、部屋の中はかなり静かになった。
外から聞こえるのは、遠くの車の音がたまにひとつ、あとは風が建物の外を撫でていくような気配だけだった。島の夜はやはり静かだ。静かだから、考えごとをするには向いていない。考えごとというのは、音が少ないほど大きくなる。
直人は窓のそばに移り、カーテンを少しだけ開けた。
外は暗い。街灯はあるが、都会の夜みたいに隅々まで明るくはならない。道の形だけがぼんやり分かる。昼に見ていた建物や石垣は、夜になると急に輪郭が曖昧になるくせに、逆に“ここから先は外じゃない”という線だけははっきりする気がした。
澪のことを考える。
考えないようにしても、結局そこへ戻る。
海を見たこと。笑った顔。落ち着くと言った声。昨日の夜の距離。今日、現実を話したときのあの静かな目。全部が混ざっている。楽しかったことも、苦しかったことも、妙にきれいに分かれてくれない。近づいた感覚と、どうにもならなさそうな現実が、一つの塊みたいになって胸に残っていた。
澪は、自分のことを被害者みたいには言わなかった。
そこが、直人には一番きつかったのかもしれない。もし澪が泣いたり、嫌だと言ったり、助けてほしそうにしていたら、話はもっと単純だった。こっちにもやりようがある気がしただろう。けれど澪は違った。嫌だとか、無理だとか、そういう感情を前に出さずに、ただ“そういうもんだから”と言った。
そういうもんだから。
その言葉を思い出すたび、直人の中の何かが小さく逆らう。
そういうもんだから、で終わっていいのか。
終わらせていいのか。
けれど一方で、自分がそこへ口を出すのは違うんじゃないかという感覚もある。直人はこの島の人間ではない。橘醤油醸造所の人間でもない。何か責任を負ってきたわけでもない。ただ一週間、遊びに来ただけの人間だ。
それでも。
それでも、と思ってしまう。
思ってしまうということ自体が、もうだいぶ深いところまで来ている証拠だった。
直人は窓を閉め、テーブルの前に座った。ペットボトルの水を一口飲む。ぬるくなっていたが、それでも少しだけ気持ちが落ち着く。
好きなんだな、と思った。
やっと言葉になった。
ただ気になるだけじゃない。面白いとか、可愛いとか、その程度の軽い言葉ではもう足りない。一緒にいたいと思う。笑っていると嬉しいし、黙っていても平気だし、あの蔵の中のどこかにいると知るだけで会いに行きたくなる。現実を聞いても気持ちが止まらないどころか、むしろ強くなる。
好きになっている。
その単純な事実にたどり着くまで、ずいぶん回り道をした気がする。けれど言葉にしてみると、逆に変な迷いが少しだけ減った。
好きだ。
だから、連れて行きたい。
その二つは、直人の中ではほとんど同じ意味で繋がっていた。
名古屋に戻る自分。島に残る澪。その二つを並べて考えたとき、自分のいない場所に澪がそのまま残っていくことを、うまく受け入れられなかった。受け入れられないなら、連れて行くしかない。そういう、かなり乱暴な理屈だった。
乱暴だと、自分でも分かっている。
家業がある。後継ぎだ。一人娘だ。自分の知らない積み重ねが、あの蔵にはある。そんなこと、一週間遊びに来ただけの自分が壊していいわけがない。
それでも。
やっぱり、と思う。
好きなら、言うしかないんじゃないか。
ここで何も言わずに名古屋へ帰ったら、それこそ何もなかったことになる。昨夜も、今日の話も、全部“島でちょっと仲良くなっただけ”みたいな顔をして終わるのだ。それは嫌だった。嫌だと思う時点で、もう直人には黙って帰るという選択肢が残っていない気がした。
そこで、恒一のことが頭をよぎる。
ベッドの方を見る。恒一は本当に寝ていた。呼吸が一定で、時々だけ布団が少し揺れる。こんなときまで、こいつは何も知らない。
いや、本当に何も知らないのかは分からない。人間は、自分に都合の悪いことを見ないまま暮らせる。けれど少なくとも、直人と同じ意味では何も考えていないはずだ。あいつにとって澪は、社長の娘で、お嬢で、職場の延長の中に自然にいる存在なのだろう。
ただの従業者ではない。
それはもう分かっている。
蔵に必要とされ、社長に任され、あの家の未来の中にいつの間にか入っている。本人は知らないまま、そこにいるべき人間みたいに振る舞っている。
でも。
だからといって譲れるのかと自分に聞けば、答えは出ている。
譲れない。
最初から自分の場所ではないのかもしれない。けれど、何も言わないまま終わるくらいなら、邪魔でも何でも、いまここで一回ぶつかるしかない。
それは恒一と争うという意味ではなかった。
勝ち負けでもない。
ただ、自分の気持ちを自分でなかったことにしないために、澪に直接言わなければならないというだけだった。
直人はテーブルに肘をつき、両手を組んだ。
いつ言うか。
どう言うか。
どこで言うか。
細かいことを考え始めると、急に現実味が増す。明日会えるだろうか。会ったとして、二人きりになれるだろうか。いきなり言うのはおかしいかもしれない。でも回りくどく言っても、自分の気持ちが濁る気がする。
結局、一番ましなのは、まっすぐ言うことだった。
一緒に行こう。
名古屋に行こう。
ここを出よう。
言葉はいくつか浮かぶが、意味は同じだ。自分と来てほしい。ただそれだけだ。
直人は一度だけ深く息を吐いた。
不安がなくなったわけではない。むしろ、ちゃんと怖かった。断られるかもしれない。困らせるだけかもしれない。澪の現実を前にして、自分があまりに軽いことを言っているだけなのかもしれない。
それでも、もう迷わなかった。
言わなければ終わる。
言っても終わるかもしれない。
けれど、言わずに終わるのだけは、自分で選びたくなかった。
そう思った瞬間、不思議なくらい気持ちが静かになった。
決めた、と思う。
大声で宣言するような派手な決意ではない。ただ、自分の中で一本の線が引かれた感じだった。ここから先は行く。戻らない。そういう静かな決まりだった。
テーブルの上のスマホに目を落とす。
時計はまだそんなに遅くない。けれど今から連絡する気にはならなかった。明日会って、ちゃんと自分の口で言う方がいい。文字にしたら、きっと違うものになる。
直人は立ち上がり、部屋の明かりを少し落とした。
ベッドに横になる。さっきまでよりも、頭の中はむしろ静かだった。
澪が来るかどうかは分からない。
来ないかもしれない。
それでも、言う。
言うしかない。
そう決めたところで、ようやく少しだけ眠気が近づいてきた。
外では風が吹いている。
島の夜は静かだ。
その静けさの中で、直人は目を閉じた。明日になれば、もう言葉にするだけだと思うと、怖さと一緒に、少しだけ妙な安堵もあった。




