第10話 それでも
澪と別れたあと、直人はまっすぐアパートに戻った。
途中でどこかへ寄る気にもなれなかったし、海を見に行く余裕もなかった。頭の中で考えることが多すぎると、逆に身体の方は単純になる。歩いて、曲がって、戻る。必要な動きだけをして、ようやく玄関の前に立ったとき、自分がどうやってここまで帰ってきたのか、少し曖昧なくらいだった。
鍵を開けて中に入る。
誰もいない部屋は静かで、昼間の熱がまだ少し残っていた。窓を開けると風が入ってくるが、すぐに涼しくなるわけではない。直人は靴を脱ぎ、ベッドにそのまま腰を下ろした。
「後継ぎだから」
「ここにいないといけない」
「婿とか取るつもりなんだと思う」
澪の言葉が、切れ切れに頭の中へ戻ってくる。
聞きながら理解したつもりだった。けれど、部屋に一人で座っていると、その意味はさっきよりもはっきりしてくる。はっきりするたびに、少しだけ重くなる。
澪は自由じゃない。
島から出られない。
しかもそれは、単に親が厳しいとか、家が古いとか、そういう話ではない。家業があって、後継ぎとしての立場があって、その中で自分の結婚すら家の延長にある。本人が嫌だとか好きだとか、それだけでは動かないところにもう立っている。
そして、その“相手”に近い場所にいるのが恒一だ。
本人は知らない。たぶん本当に知らない。けれど、だからといって現実が消えるわけではない。知らないまま働いて、知らないまま必要とされて、気づけば一番近い場所にいる。そういうことは、たぶん世の中には普通にある。
直人は両手で顔をこすった。
「きつ……」
独り言が部屋に落ちる。
きつい。そう思う。きついが、それは諦める方向の苦しさではなかった。もし澪に気持ちがないなら、もっと単純だったかもしれない。相手にその気がないなら、勝手に一人で終わればいい。恥をかくのも、自分だけで済む。
けれど、昨夜は違った。
澪は確かに、自分と近い場所にいた。落ち着くと言った。あの沈黙も、視線も、全部勘違いだとは思えない。あれが本物である以上、現実を知ったからといって簡単に気持ちを引っ込められるほど、直人は器用ではなかった。
ベッドに寝転び、天井を見る。
白い天井だ。恒一の部屋の天井で、自分のものではない。けれど、ここ数日でもう何度も見上げているせいで、少しだけ見慣れている。
名古屋に帰れば、またあの生活がある。
ゼミがあって、何となく街があって、時間だけは余っている。戻る場所はある。自由もある。
澪にはない。
それなら、自分が連れて行けばいいんじゃないか。
その考えは、論理としてはたぶん乱暴だった。乱暴だと分かっている。家業だとか、後継ぎだとか、そんなものを自分一人の感情でひっくり返せるわけがない。けれど感情というのは、ときどき分かった上で勝手に前へ出る。
ゼロじゃない。
そう思った。
澪も自分に惹かれている。だったら、可能性はゼロじゃない。家があって、事情があって、現実がある。それでも、来る気があるなら来るはずだ。いや、来てほしい。来てくれるかもしれない。
そこまで考えたところで、直人は起き上がった。
部屋にいると、同じことばかり頭の中で回る。回るだけなら、外へ出た方がまだましだ。
夕方まではまだ少し時間がある。何をするわけでもないが、直人はまた外へ出た。理由はない。けれどもう、この数日の“理由がない”の中には、だいたい一つの方向が含まれている。
蔵の近くまで行くと、澪はいた。
それが不思議ではなくなっていること自体が、もう少し危ないのかもしれないと、直人は思った。
澪は直人に気づいて、少しだけ目を細める。
「また来た」
「また来た」
昨日と似たような言葉なのに、今日は少し意味が違う。
澪も、そのことは分かっているのかもしれなかった。けれど特に気まずそうにはしない。普通にそこにいて、普通に直人を見る。
「何してたの」
直人が聞く。
「別に」
「またそれか」
「便利だから」
澪が言うので、直人は少し笑った。
この軽さがあるだけで、少し救われる気がした。さっきまで部屋で考えていた重たいことの全部が、彼女の前に来ると少しだけ形を変える。消えるわけではないが、そのままの重さではなくなる。
「歩く?」
直人が言う。
澪は少しだけ考えてから頷く。
「うん」
二人で歩き出す。
蔵の裏手の細い道。少し進むと、昨日までに何度か通った場所へ出る。海が見えるところまで行かなくてもいいし、行ってもいい。今日は特に目的を作らなかった。ただ一緒にいること自体が、もう十分な理由になっている。
「今日、暑かったな」
「うん」
「蔵の中、大変そうだった」
「恒一さん?」
「うん」
「大変そうだけど、好きそう」
「確かに」
直人は少し笑う。
「好きじゃなかったら無理だろ、ああいうの」
「たぶん」
澪も少し笑った。
「向いてるよね」
その言い方に、直人はちらっと横目で澪を見る。
責めているわけではない。特別な意味を込めているようにも見えない。ただ、本当にそう思っているだけの言い方だった。それが少しだけ引っかかり、でも今はあえて深く聞かなかった。
「お前は?」
直人が聞く。
「何が」
「向いてるとか、やりたいこととか」
澪は少しだけ空を見た。
「分かんない」
「分かんないか」
「うん」
少し間を置いてから、澪は付け足す。
「考えたこと、あんまりないかも」
その言い方も、重くはなかった。
直人はそこで何か言おうとしたが、結局やめた。昨日の話の続きにしてしまうと、またすぐ現実へ戻ってしまう気がした。今日の自分は、まだそこへ行きたくない。
行きたくないというより、まだ終わりにしたくなかった。
少し歩いたところで、二人は道の脇にある低い石垣に腰を下ろした。
海はここから少しだけ見える。全部ではない。建物の隙間から、遠くの光だけが見える。風は通る。夕方の光が少し傾いて、周囲の色が昼より柔らかくなっていた。
「何かさ」
直人は前を見たまま言う。
「昨日の話、聞いたあとでも、別に嫌いにならないな」
言ってから、少しだけ自分で可笑しくなる。嫌いになるも何もない。気持ちがどうこうという段階の言葉としては、ずいぶん変な言い方だ。
けれど澪は、その変さをそのまま受け取った。
「嫌いになるような話だった?」
「いや、ならないけど」
「じゃあいいじゃん」
「よくはないだろ」
「何で」
「何でって」
直人は少しだけ笑った。
「いろいろあるだろ」
「あるね」
「お前、そこ認めるんだ」
「認めない意味ある?」
澪は本気で不思議そうに言う。
その顔を見ていると、この子は本当に、現実を現実として受け取ることに慣れているのだと思う。慣れているから、いちいち大きな感情で揺れない。揺れないからこそ、逆に直人の方が勝手に揺れる。
しばらく黙ったあとで、直人は思う。
それでも、だ。
現実がある。事情がある。後継ぎだ。島を出られない。そういう話は分かった。分かったけれど、自分とこうして普通にいることまで消えたわけではない。澪は拒絶していないし、避けてもいない。今も隣にいる。
だったら。
だったら、まだ何かできるんじゃないか。
言えば、変わるかもしれない。
来ると言えば、来るかもしれない。
その考えは希望というより、思い込みに近かったかもしれない。けれど今の直人には、その思い込みを捨てる理由の方がなかった。
「何」
澪がまた聞く。
「顔」
「また顔か」
「分かりやすいよ」
「そんなに?」
「うん」
澪は小さく笑う。
「今、何か考えてたでしょ」
「考えてた」
「何を」
そこで直人は少しだけ迷った。
正直に全部言ってしまうには、まだ早い。けれど何も言わないと、さっきまで考えていたことが嘘になる気もした。
「……もしかしたら」
と、直人は言った。
「何かできるかもって」
澪はすぐには返さなかった。
少しだけこちらを見て、それから前へ視線を戻す。その反応は、否定でも肯定でもなかった。
「そうかもね」
やがて、澪は静かに言う。
その曖昧さが、直人には希望に見えた。
たぶん本当は、もっと違う意味だったのかもしれない。けれど、そのときの直人にはそうは受け取れなかった。拒絶じゃない。それだけで十分だった。
日が少しずつ傾いていく。
どちらからともなく立ち上がり、また蔵の方へ戻る。話題はまたどうでもいいことに戻った。昼飯がどうだったとか、島の店は早く閉まるとか、名古屋の電車は人が多いとか。そんな話をしながら歩く。
気まずくはない。
むしろ昨日までより自然だった。
現実を知ったあとでも、こうして普通に一緒にいられる。そのこと自体が、直人には一つの希望に思えた。
もし完全に無理なら、こんなふうにはならないんじゃないか。
もし本当に終わっているなら、もっとはっきり距離ができるんじゃないか。
そう思う。そう思いたい。
蔵の手前で、澪が立ち止まる。
「じゃあ」
「うん」
短く別れる。
澪はそのまま中へ入っていく。直人はその背中を見送りながら、胸の中でひとつだけ言葉を固めていた。
言えば、来るかもしれない。
言わなければ、たぶん何も変わらない。
だったら、もう少しだけ先まで行くしかない。
その考えはまだ曖昧だったが、昨日までよりずっと形がはっきりしていた。




