第9話 現実
次の日も、直人は澪に会った。
会おうと思って会いに行ったのか、たまたま行った先にいたのか、その境目はもう曖昧だった。昨日の夜のあと、朝になっても気持ちは少しも冷めていなかった。むしろ、寝ているあいだに余計な理屈が落ちて、残るものだけが残った感じがする。
澪も、昨日の夜がなかったことみたいな顔はしなかった。
特別に意識しているようにも見えない。ただ、会えば普通に話すし、近い空気もそのままだった。それが余計に、直人の中に“いける”という感覚を残していた。
昼前の島は、いつも通り静かだった。
蔵の仕事の音はあるが、少し離れればそれも薄くなる。二人がいたのは、蔵の裏手から少しだけ外れた、低い石垣のある道の脇だった。海が見えるほど開けてはいないが、風は通る。建物の陰に入ると日差しは和らぎ、座ろうと思えば座れる場所もあった。
直人は石垣に腰を下ろし、澪は少し離れて立っていたが、そのうち何となく隣に座った。
昨日と同じで、会話は最初、普通だった。
「今日、暑いな」
直人が言う。
「うん」
澪は空を見た。
「でも真夏よりまし」
「真夏、やばそうだなここ」
「やばいよ。蔵の中、むっとするし」
「じゃあ冬の方がいい?」
「冬は冬で寒い」
「最悪じゃん」
「最悪ではない」
澪は少し笑った。
「慣れるし」
「慣れたら勝ちみたいに言うな」
「だいたいそうじゃない?」
そう言われると、まあそうか、と思う。人間は大抵のことに慣れる。慣れた結果、良いのか悪いのかよく分からなくなるだけで。
しばらく二人で黙っていた。
気まずくはなかった。昨日の夜を通ってしまうと、この沈黙はもう苦ではない。苦ではないが、昨日より少しだけ現実に近い感じがする。夜の海辺の曖昧さがない分、昼の光は物の輪郭をはっきり見せる。
直人はその輪郭の中で、何となく聞かなければならない気がした。
昨日のまま、何となく近いだけで終わることもできたのかもしれない。けれど、それではかえって中途半端な気がした。昨日の“いける”が、本当に何を意味しているのか、どこまで行けるものなのか、どこかで確かめたくなっている自分がいた。
「お前さ」
と、直人は言った。
「ずっとここにいるの?」
澪はすぐには答えなかった。
前を見たまま、小さく息を吐く。嫌そうでもないし、困っているようにも見えない。ただ、どこから話せばいいか考えている感じだった。
「たぶん」
と、やがて言う。
「たぶんって」
「ずっと、になると思う」
「島から出たりしないの」
直人はできるだけ軽く聞いたつもりだった。問い詰めるようにしたくはなかったし、相手を追い込む気もなかった。けれど、澪の答えを聞きたい気持ち自体はかなりはっきりしていた。
澪は膝の上で指を組んだまま、少しだけ視線を落とす。
「しない、っていうか」
言いかけて、少し考える。
「できない、かな」
その言い方は重くなかった。むしろ静かすぎて、最初は意味が通り過ぎそうになるくらいだった。
直人は、昨日の夜の海を思い出す。
出られないよ。
あのときと同じ種類の声だった。
「何で」
今度はごまかさずに聞く。
澪はそこで、直人の方を見た。
目が合う。昨日の夜みたいな柔らかい近さはまだ残っている。残っているのに、その目の奥には昨日よりはっきりしたものがあった。たぶん、もうごまかせないと思ったのだろう。
「私、後継ぎだから」
澪は言った。
「一人娘だし」
それだけなら、昨日までに何となく想像できていた話だった。社長の娘で、お嬢と呼ばれていて、蔵の中にいて、でも作業の中心ではない。その立ち位置を見れば、家の中の人間なのだとは分かる。
けれど、澪はそこで終わらなかった。
「この家、たぶん私がいないと続かないから」
直人は言葉を返せなかった。
澪は別に、自分を大事な存在として誇っているわけではない。むしろ、事務的な説明に近い口調だった。
「お父さんは、私に継いでほしいんだと思う」
「……澪が?」
「うん」
「でも、お前、あんまり仕事してないじゃん」
言ってから、少しだけ失礼だったかと思ったが、澪は気にした様子もなく頷いた。
「しないよ」
「だよな」
「仕事は、たぶん私じゃなくてもいいから」
その言葉が、直人にはすぐには理解できなかった。
「どういう意味」
「蔵の仕事って、ちゃんとできる人がいればいいんだよ」
澪は少しだけ言葉を選びながら続ける。
「仕込みとか、酵母とか、売ることとか、そういうの」
「……ああ」
「私は、そういうの別にできなくてもいいの」
「いや、よくないだろ」
「いいんだよ」
澪は淡々と言った。
「私がやること、そこじゃないから」
風が少し強く吹いた。
道の向こうで葉が揺れる音がする。蔵の方からは、遠くに人の声が聞こえた。
直人は、その言葉の意味をようやくゆっくり受け取り始める。
仕事については、誰かができればいい。
けれど、澪はここにいなければならない。
それはつまり。
「血、ってこと?」
直人が小さく聞くと、澪はほんの少しだけ間を置いてから頷いた。
「たぶん、そう」
その“たぶん”は、分かっていないからではなかった。言葉にするのが少しだけ嫌なだけで、意味は分かっている顔だった。
「お父さん、婿とか取るつもりなんだと思う」
直人は息を止めた。
澪はその反応を見ても、特に話をやめなかった。
「私は外に出ないで、ここにいて、誰かと一緒に継ぐんだと思う」
「誰かって」
「分かんないけど」
澪はそう言って、それから少しだけ笑った。
「でも、たぶん、そういう人を入れるんだと思う」
笑い方は軽いのに、話の内容だけが重い。
直人は、自分の頭の中に浮かんだ名前を口に出すのを少し躊躇ったが、結局聞くしかなかった。
「……恒一、とか」
澪は、その名前に驚かなかった。
「そうかもね」
あまりにも普通に言うので、直人は逆に何も言えなくなる。
「いや」
ようやく言葉を探す。
「恒一、そんなの知らないだろ」
「知らないと思う」
「お前は知ってんのかよ」
「知ってるっていうか」
澪は少しだけ肩をすくめた。
「分かるじゃん」
その言い方が、直人には少し残酷に思えた。
分かるじゃん。
たぶん本当に、澪には分かるのだ。誰がどういうふうにここへ入ってきたのか。どういう条件が必要で、どういう形で家が続いていくのか。誰かに明文化されていなくても、毎日の空気の中で分かってしまうことがある。
それを、澪はもう知っている。
そして恒一は知らない。
知らないまま、働いている。
昨日の食堂。店の中の自然な会話。社長の「任せてる」という一言。澪と恒一の、毎日の中にすでにある距離感。全部が少しずつ繋がっていく。
直人はそれを頭の中で辿りながら、ようやく理解する。
澪は自由じゃない。
それもただ、島を出たことがないとか、親が厳しいとか、そういうレベルの話ではない。個人の問題ではなく、家の問題だ。血の問題で、継承の問題で、生活全部の問題だ。
そして恒一は、ただの従業者ではない。
本人は知らないのかもしれない。けれど、あの蔵の中で、あの家の近くで、澪の隣にいる“自然さ”には、ちゃんと理由がある。
直人は少しだけ俯いた。
胸の中で、昨日の“いける”が音を立てて揺れる。
消えたわけではない。
けれど、同じ形ではいられない。
「……そっか」
それしか言えなかった。
澪は直人を見た。
慰めるでもなく、試すでもなく、ただ見ている。たぶん、直人が今どこまで理解したのかを、静かに待っているのだ。
「嫌じゃないの」
直人は自分でも意外なくらいまっすぐ聞いた。
澪は少しだけ目を細める。
「嫌っていうか」
そして、昨日までと同じように、でも昨日までより少しだけ深い声で言った。
「そういうもんだから」
昨日も聞いた言葉だった。
けれど今日は、その重さが全然違う。
諦めているようにも聞こえるし、受け入れているようにも聞こえる。どちらか一つではないのだろう。たぶん、その両方をずっと前から少しずつ混ぜて、今の言葉になっている。
澪は泣かない。
怒らない。
自分のことを可哀想だとも言わない。
それが、直人にはかえって苦しかった。
もし泣いてくれたら、自分はきっともっと簡単に何か言えた。可哀想だとか、逃げればいいとか、そんな安い言葉でも口にできたかもしれない。けれど澪は、自分の現実をそういうふうには差し出さない。
分かっている人間の顔で、ただそこにいる。
「……でも」
直人は言いかけて、止めた。
“でも”の先に続く言葉は、自分でもまだ整っていない。整っていないのに、胸の中には強く残っている。
たとえそういう現実があっても、昨夜がなかったことにはならない。
澪が普通に笑うことも、自分と歩いたことも、落ち着くと言ったことも、全部本物だったはずだ。
それなら、現実を知ったからといって、気持ちが止まるわけではない。
むしろ、余計に強くなる感じさえある。
澪は、直人が言葉を飲み込んだのを見ても、促さなかった。
「帰る?」
と、静かに聞く。
その声も、いつも通りだった。
「ああ」
直人は答える。
二人で立ち上がり、来た道を戻る。昨日までと同じように並んで歩くのに、その間にある空気だけが少し変わっていた。
変わったのは、近さがなくなったからではない。
近さはまだある。
ただ、その向こうにあるものが見えてしまった。
蔵の敷地が近づくにつれて、直人は何度も頭の中で同じことを繰り返す。
澪を好きだ。
けれど、相手には背負っているものがある。
それでも。
それでも、何とかなるかもしれないと思ってしまう。
思ってしまう以上、もう簡単には引き返せなかった。




