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七日だけの島  作者: カトーSOS


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第8話 夜

挿絵(By みてみん)



 三人でいた時間が終わって、空気が静かになったのは、思っていたより少し早かった。


 恒一は蔵へ戻った。土曜だから完全に休みというわけでもなく、途中で様子を見に行くらしい。社長に呼ばれたのか、自分から気になって戻るのか、その辺はもう直人にはよく分からない。ただ、あいつはそういう人間なのだと思う。仕事の途中に仕事が挟まっても、それを面倒くさがるより先に身体が動く。


 直人はアパートへ戻ったが、どうにも落ち着かなかった。


 部屋の中は昼間より少し暗い。電気をつけるほどでもない時間帯で、窓の外から青っぽい光だけが入っている。ベッドに腰を下ろしてみても、スマホを見てみても、どれも長く続かなかった。


 三人でいたときのことが頭に残っている。


 楽しかった。


 それは間違いない。けれど、楽しいだけでは終わらないものも、少しだけ残っていた。澪が笑った顔。恒一と自然に交わしていた短い会話。店の中で、自分だけが半歩ずれているような感覚。そして、それでも澪と並んでいた時間の方が、やけに身体に残っていること。


 窓の外を見る。


 空はもう夜に近い色をしていた。


 直人は立ち上がり、財布とスマホだけ持って外へ出た。


 理由はない。


 ただ、部屋にいる方が落ち着かなかった。


 夜の小豆島は、昼よりもさらに音が少ない。


 人通りはほとんどなく、道を歩いていても、自分の足音が少しだけ大きく感じる。街灯の数も多くはない。暗くて困るほどではないが、どこまでが道でどこからが建物の影か、昼より曖昧になる。海の匂いは昼よりはっきりしていて、風も少し湿っていた。


 直人は何となく、蔵の方へ歩いた。


 別に会えると思っていたわけではない。思っていなかった、というのも少し嘘かもしれない。もし会えたらいいなくらいは、たぶん最初から頭のどこかにあった。


 蔵の近くまで来ると、人の気配がした。


 建物の角の辺り、昼間は見えなかった方の道から、澪が歩いてくるところだった。


 向こうもすぐに直人に気づいたらしい。足が少しだけ止まる。


「あ」


 と、澪が言う。


「お前も出てたんだ」


 直人が言うと、澪は少しだけ笑った。


「うん」


「珍しいじゃん」


「そうかも」


 それだけの会話で、互いに近づく。


 昼間までなら何となく気になった距離も、夜になると少しだけ輪郭がぼやける。その曖昧さが、今日はむしろ都合がよかった。


「何してたの」


 直人が聞く。


「ちょっと出てただけ」


「俺も」


「知ってる」


「何でだよ」


「だって会ったし」


 直人は笑った。


 澪も笑った。


 昼より声が小さくなるのは、夜だからなのか、二人きりだからなのか分からない。けれど、昼間の三人のときより、明らかに話し方が柔らかい。


「歩く?」


 直人が言う。


「うん」


 澪はためらわなかった。


 二人で並んで歩く。昼間と違って、周りに人がほとんどいない。蔵の明かりが少し離れると、道は急に静かになる。遠くから犬の鳴き声が一度だけ聞こえ、すぐに消えた。


「夜、外出るんだ」


「たまに」


「たまにか」


「今日は何か、出たくなった」


 その言い方に、直人は少しだけ反応した。


「俺も」


「一緒じゃん」


「一緒だな」


 それでまた少し笑う。


 海の方へ続く細い道をそのまま進む。昼に歩いたのとは別の道だったが、潮の匂いが濃くなる方へ向かっているのは分かった。少し開けた場所に出ると、黒い海が見えた。昼間みたいにきらきらはしていない。代わりに、遠くの明かりが細く揺れていた。


 二人は自然に足を止めた。


「昼と全然違うな」


 直人が言う。


「うん」


「夜の方が好きかも」


「私も」


 澪は海を見たまま答える。


 その横顔は昼より柔らかく見えた。街灯の明かりが少しだけ当たって、輪郭の端だけがうっすら見える。表情ははっきり見えないのに、近い感じだけは強い。


「今日、楽しかった?」


 直人は何となく聞いた。


 澪は少しだけ考えてから、素直に言う。


「うん」


「そっか」


「直人は?」


 名前で呼ばれて、直人は少しだけ遅れて答えた。


「楽しかったよ」


 その一言だけで十分な気がした。


 余計なことを足すと、何かが壊れそうだった。夜の静けさも、海の見え方も、二人の今の距離も、言いすぎると急に嘘っぽくなる気がする。


 しばらく何も言わずに立つ。


 沈黙はあるのに、気まずくない。むしろ、何も言わない方が自然な時間だった。


「なんか」


 直人がぽつりと言う。


「お前といると落ち着く」


 言ってから、少しだけ恥ずかしかった。


 こういうことを口に出すつもりはなかった。ただ、黙ったままでもいい時間の中で、言葉が勝手に出た感じだった。


 澪はすぐには返さなかった。


 それで一瞬、失敗したかと思ったが、数秒あとで小さく言う。


「……そう」


 否定しない。


 からかわない。


 ただ、そのまま受け取る。


 その受け取り方が、直人には妙に嬉しかった。


「悪い、変なこと言った」


「変じゃないよ」


「そう?」


「うん」


 澪は海の方を見たまま言った。


「私も、落ち着く」


 その声は小さかったが、はっきり聞こえた。


 直人の胸の奥が、じわっと熱くなる。


 大げさなことは何も起きていない。手をつないだわけでも、抱きしめたわけでもない。好きだと言ったわけでもない。なのに、たぶん今までで一番近い。


 風が吹く。


 澪の髪が少しだけ揺れる。直人は何となく、その髪に触れそうな距離にいることを意識した。肩も近い。手も、伸ばせば届く。


 けれど、届くからといって触れていいかは別だ。


 その境目が今、ものすごく曖昧だった。


 澪が少しだけこちらを向く。


 視線が合う。


 ほんの一瞬だが、その一瞬がやけに長く感じられた。


 今ならいける、と思った。


 その「いける」が何を指しているのか、自分でも正確には分からない。キスとか、告白とか、そういう具体的なことだけではない。もっと曖昧に、このままもっと近づける、入り込める、という感覚だった。


 澪も、自分に惹かれている。


 そう思えるだけの何かが、今ここにはあった。


 澪が先に視線を外し、小さく息を吐く。


「帰る?」


 と聞く。


 声はいつも通りだった。


 それで逆に、さっきまでの空気がちゃんと本物だったことが分かる。変に取り繕わないからこそ、さっきの沈黙も、一言も、全部なかったことにはなっていない。


「帰るか」


 直人は答える。


 二人で来た道を戻る。行きより少しだけ歩く間隔が近い。肩が触れそうで触れない距離のまま、どちらもそれを言葉にしない。


 蔵の近くで立ち止まる。


「じゃあ」


 澪が言う。


「ああ」


 直人も答える。


 もっと何か言いたい気もしたが、今は言わない方がいい気がした。ここで結論を出したら、今の空気ごと壊れるような気がする。


 澪は少しだけ笑って、先に敷地の方へ戻っていく。


 直人はその背中を見送った。


 そして、一人になってからやっと、まともに息を吐いた。


 自分はもう、はっきり惹かれている。


 しかも、向こうにもそれがある。


 たぶん、ただの勘違いではない。


 このままいけばいける。


 何が“いける”のかまでは、まだはっきりしない。けれど、少なくとも、自分は外から見ているだけの人間じゃなくなれるかもしれない。


 アパートへ戻る道で、直人はその感覚を何度も反芻した。


 手応え、という言葉が一番近いのかもしれない。


 大きな何かを掴んだわけではない。けれど、何も持っていなかったはずの手の中に、初めて少しだけ重みのあるものが残っている気がした。


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