第7話 三人
土曜の朝は、平日より少しだけ遅く始まった。
目が覚めたとき、部屋の空気がいつもより静かだった。恒一がすでに出ていったあとではなく、まだ部屋の中にいるのに、慌ただしさだけがない。平日の朝は、起きる、顔を洗う、食べる、着替える、出る、という流れがひとつに繋がっていて、どこにも余白がない感じがする。けれど今日は、その間に少しだけ空気が挟まっている。
直人は布団の中で天井を見ながら言った。
「今日、仕事ないの」
「半分だけ」
恒一は台所の方でコップに水を注ぎながら答える。
「午前ちょっと顔出して、昼には戻る」
「休みじゃないんだ」
「蔵って、完全に止める感じでもないし」
「へえ」
そう返しながら、直人は身体を起こした。
窓の外は明るい。平日の光と変わらないはずなのに、土曜だと分かっているだけで少しだけ柔らかく感じる。人間の気分なんてそんなものだ。
恒一はパンを焼きながら言う。
「お前、今日どうすんの」
「どうしような」
「島一周とかする?」
「そんな元気ねえよ」
「だろうな」
「何で聞いた」
「一応」
トースターが鳴る。恒一がパンを取り出し、テーブルに置いた。直人も適当に座る。二人で朝飯を食いながら話していると、一緒に住んでいるわけでもないのに、少しだけそういう生活みたいな空気になるのが不思議だった。
「昼どうする?」
直人が聞くと、恒一がバターを塗りながら答えた。
「社長んとこで何か買い出し頼まれてるから、そのついでに飯でも食うかって話になってる」
「誰と」
「誰とって」
恒一はそこで少しだけ笑う。
「お嬢も」
その名前が出たとたん、直人はパンをちぎる手をほんの少しだけ止めた。止めたのは一瞬で、自分でも気づかれないくらいのものだったが、気持ちの方はちゃんと反応していた。
「へえ」
わざと何でもない顔で返す。
「別に嫌なら来なくていいけど」
「嫌じゃねえよ」
「じゃあ来れば」
「行くよ」
そう答えたあとで、何となく自分が少しだけ急いだ気がした。
恒一は特に気にした様子もなく、パンの残りを口に入れた。
午前のうちに恒一は一度会社へ行き、直人はアパートに残った。完全に一人になるのは久しぶりではないはずなのに、その時間は妙に落ち着かなかった。別に何かを期待しているわけではない。けれど、今日は澪もいて、恒一もいて、三人で何かをするのだと思うと、いつもと少し違う感じがした。
島の昼前は静かだ。
窓を開けると風が入る。遠くの車の音がときどき聞こえるだけで、街みたいな途切れないざわめきはない。直人はスマホをいじってみたり、ベッドに寝転がってみたりしたが、結局どれもしっくり来ず、時間を確認してから外へ出た。
待ち合わせのようなものはしていなかったが、なんとなく会社の方へ向かえばいい気がした。
蔵の前まで行くと、先に来ていたのは澪だった。
建物の影に立って、スマホを見ている。こちらに気づくと顔を上げた。
「あ、来た」
「来た」
直人もそれだけ返す。
特別なことを言わなくても、会話が始まる。昨日までで作った距離が、そのまま残っている感じがした。
「恒一さん、まだ中」
「そうなんだ」
「すぐ終わると思うけど」
言いながら澪はスマホをしまった。直人はその近くに立つ。二人きりでいること自体はもう珍しくない。けれど今日は、そこにいずれ恒一が合流することが最初から決まっている。そのことが少しだけ変な感じだった。
「土曜って、やっぱ平日と違うな」
直人が言うと、澪は小さくうなずく。
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけか」
「でも蔵はあるから」
「まあ、そうか」
「完全に休みって感じじゃない」
その言い方が、澪らしいと思った。大げさに言わない。けれど、暮らしている人間の言葉だ。
しばらくすると、作業場の方から恒一が出てきた。
「悪い、待たせた?」
「別に」
「待ってない」
澪と直人がほとんど同時に言って、恒一が少し笑う。
「息合ってんな、お前ら」
「たまたまだろ」
直人がすぐに返すと、恒一は「そうかもな」と適当に流した。
三人で歩き出す。
向かうのは蔵から少し離れた商店だった。買い出しといっても大げさなものではなく、足りないものを少し補充する程度らしい。道すがら、島の人たちが何人かすれ違う。誰かが恒一に挨拶し、恒一も普通に返す。その自然さを、直人は少しだけ眺めていた。
「もう顔覚えられてんだな」
と言うと、恒一は肩をすくめる。
「毎日いるからな」
「毎日いるだけでそうなるのすごいな」
「島だからじゃない?」
澪が言った。
「都会だと無理?」
「無理だろ。隣の部屋の人の顔すら知らないことあるし」
「へえ」
「へえ、って何だよ」
「そういうの、ちょっと不思議」
「お前らから見たらそうなんだろうな」
“お前ら”と自分で言ってから、直人は少しだけ引っかかった。
お前ら。島側と、外側。そんなふうに分けたつもりはない。ただ、言葉はときどき勝手に本音に近い方へ寄る。
商店は小さかった。
店の前に飲み物のケースが積まれていて、中に入ると天井が低い。何でもあるわけではないが、必要なものは一通りあるという感じだった。店番をしていた年配の女の人が、恒一を見るなり「あら井原さん」と声をかける。
「こんにちは」
恒一も自然に返す。
「今日はお嬢も一緒なんだね」
「うん」
澪が短く答える。
「それで、そっちの子がこの前言ってた友達?」
「あ、そう」
恒一が言う。
「大学の」
「へえ、若いねえ」
「いや、同い年です」
「そうなの?」
店番の女の人は少し驚いたように直人と恒一を見比べ、それから「見えないもんだねえ」と笑った。
その言い方に悪意はない。ただ、少しだけ直人の胸に引っかかる。
見えない。たぶん、社会人と学生の違いだ。働いているか、いないか。その差が顔に出ているのかもしれない。
買い物自体はすぐに終わった。
醤油蔵に必要な消耗品と、簡単な食べ物と、飲み物。大した量ではない。それでも店の人とのやりとりは全部恒一が自然に受け、澪は隣でそれを見て、時々短く言葉を足す。直人だけが少し後ろにいる。
別に疎外されているわけではない。話しかければ普通に返ってくる。けれど、自分がここで前に出る必要がないことだけはよく分かった。
店を出たあと、恒一が袋を持ち直しながら言う。
「腹減ったな」
「さっき食ったじゃん」
「朝だろ」
「まだ昼前だぞ」
「働いてると腹減るんだよ」
「それっぽいこと言うな」
「それっぽいんじゃなくて事実」
澪が少しだけ笑う。
「ほんとだよ」
「お前もそっち側なのかよ」
「私は見てるだけ」
「便利だな、それ」
直人が言うと、澪は「便利だよ」と昨日と同じように返した。
三人で近くの食堂に入る。
といっても、観光客向けの立派な店ではなく、地元の人間も普通に来るような小さな店だった。座敷とテーブルがいくつかあるだけの簡素な店内で、壁のメニューは少し色褪せている。
座ると、なぜか直人と澪が並び、向かいに恒一が座る形になった。
それ自体に意味はない。意味はないはずなのに、少しだけ意識してしまう。
注文を取りに来た店の人が、恒一を見るなり「今日はお休み?」と聞いた。
「半分だけ」
「若いのに大変だねえ」
「まあ」
恒一は苦笑いして、慣れた感じで注文する。澪もすぐに注文を決める。直人だけが少しだけ迷い、結局一番普通の定食にした。
「お前、そういうとこ面白みないよな」
恒一が言う。
「初めての店で冒険したくないんだよ」
「小心者」
「堅実と言え」
「留年してる人の言葉とは思えない」
澪がさらっと言って、直人は吹き出した。
「お前、そのネタ擦るな」
「便利だから」
「何にでも便利って言えばいいと思うなよ」
「思ってないよ」
言い合いのようでいて、空気は軽い。
三人で笑う。
こういう瞬間だけ見ると、本当に何の問題もないように見えた。大学時代からの友達と、その知り合いの子が一緒に飯を食っているだけみたいだ。妙に自然で、妙に穏やかで、だからこそ少しだけ怖い。
食事が来てからも、会話は続いた。
合気道部の話。大学の話。島には映画館がないこと。コンビニの数。名古屋のこと。澪はときどきこちらを見て笑うし、直人も返す。恒一も普通に混ざっている。
ただ、ふとした瞬間に、自分だけが入れない話題がある。
「この前のあれ、どうなったの?」
澪が恒一に聞く。
「ああ、あれはもうちょい」
「間に合う?」
「たぶん」
それだけで会話が通じている。
何の話かは直人には分からない。別に教えてもらえれば理解できる程度のことかもしれないが、その一往復だけで完結してしまう感じが少しだけ引っかかった。
また別のとき、店の人が「お嬢ちゃん、今日はお父さんは?」と聞いたときも、澪は「蔵」と短く答え、恒一が「昼前までバタついてたんで」と自然に足す。その流れの中に直人の入る余地はない。
入る必要もないのだが、それでも少しだけ、自分だけが外から見ている感じがする。
「何」
澪が聞いた。
また顔に出ていたのかもしれない。
「いや」
直人は首を振る。
「別に」
「それ便利だね」
「お前が言うな」
そう返すと、澪は楽しそうに笑った。
笑う。その笑い方は、やっぱり昨日と同じように普通の十八歳だった。だからなおさら、その笑いのすぐ隣にある“生活の自然さ”が引っかかる。
食事を終え、店を出る。
日差しはまだ高い。三人でまた蔵の方へ戻っていく。歩く順番はそのときどきで少しずつ変わる。直人と澪が並ぶこともあるし、恒一が澪の隣に来ることもある。どれもたまたまで、どれも不自然ではない。
けれど、その“どれも不自然ではない”こと自体が、少しだけ違和感だった。
自分は澪と近い気がする。
昨日、一緒に歩いた。今日も自然に話している。
なのに、恒一がそこにいると、別の意味での近さが見えてしまう。
仕事の話が通じるとか、店の人とのやりとりが自然だとか、島の生活の中に最初から繋がっているとか、そういう種類の近さだ。
どちらが上とか下とかではない。恋愛とか友情とか、そういう分かりやすい言葉にもまだ当てはまらない。ただ、種類が違う。
その違いが、直人の中に小さく残る。
「お前ら、仲いいな」
不意に恒一が言った。
直人は一瞬だけ肩を揺らした。
「何だよ急に」
「いや、何となく」
「別に普通だろ」
「普通か?」
「普通だよ」
直人が言うと、恒一は少し笑った。
「まあ、ほどほどにしとけよ」
冗談みたいな口調だった。
重さはない。怒ってもいない。からかい半分みたいな声音だ。
けれど、その一言だけが少しだけ耳に残った。
澪は何も言わない。ただ前を見たまま、少しだけ口元を動かした。笑ったのか、困ったのかは分からない。
蔵へ戻ると、さっきまでの外の空気が少しだけ薄れた。
仕事の音。醤油の匂い。木の壁。いつもの場所に帰ってきた感じがする。三人でいた時間は自然に終わり、直人は特に何かを言うでもなく敷地の端に立った。
楽しかった。
それは間違いない。
澪とは近い気がしたし、このままもっと近づいていけるような気もした。
けれど同時に、何かが少しだけ違う。
その“違う”はまだ小さい。言葉にするほど大きくはない。けれど、一度感じてしまうと消えずに残る種類の違和感だった。
澪が蔵の方へ入っていく。
恒一は作業場へ戻る。
直人だけが、そのどちらにも完全には続かない位置に立ったまま、少しだけ風の抜ける方を見ていた。




