第5章 その4 引き出しの中の記憶
闇の中へ、二歩、三歩と歩みを進めた時、背後で扉が閉じた。
すべてが闇に覆われたかと思ったのは、ほんの一瞬で、内部は白光で充たされた。
おれはその誘導に従ったまま歩き続け、光の最も強烈となっている辺りで立ち止まった。
そして次の瞬間、床と足の間に空間が出来ていた。
体が浮いていた。おれの体が眩いほどの光の中をぐんぐんと上昇している。
夢の中の浮遊感――体と光とが溶け合う――と、それさえも瞬く間であり、それはまったく逆のものへと移り変わっていった。
白光は光でありながらも、闇と寸分たがわぬ負の力を発するものとなり、体には気怠さ、脱力感、圧迫感などが次々と訪れ、胸はねじれたように締め上げられた。
その、鉄の芯のように身動きひとつ出来なくなり、意識の中でのみもがくおれを、異様なほど美しい黒い瞳が、息のつまるほどただ静かに、しかし秘めた憎悪の灯をらせながら凝視している。
それは、奴――ヒューアス。
彼の、その見開かれた両眼、瞳の中の闇が、おれの肉体ととを分離させ、それぞれをのみ込んでゆく。
そして闇――何の理由も意味もなく、そこに存在しているという、それだけの闇の中、おれはスローモーション・テンポで何かに追われるようにして走っていた。
もっと早く。
もっと早く。
心は急くのに体がいうことをきかない。
そうしている間にも、それは背後からジワジワと追いついて来る。
――おまえはいてはいけない……
声。
声が追いかけていた。
声に駆り立てられ、それに取り込まれぬようにおれは逃げ続ける。
――お前の時代は過ぎ去ったのだ……お前は消えねばならない……
それがおれに追いつき、触れ、包み込んだ。
――お前にこの闇は支配出来ない。これはお前のものではないからだ、そして同じように全世界の空間、生命はお前の手から放れ、新たなる神に受け継がれなければならない。
体中に声がこだました。
そう……そうなのかもしれない。
がらんどうになった頭の中、浮かんで来る言葉――。
おれの時代はとうの昔に過ぎ去った。今は受け継ぎの時代なんだ。おれの中のすべてを次の者に引き渡し、去らなければならない。おれはもう存在する意味のない者となった。彼に力を捧げなければならない。
おれにはもう、為すべきことははなくなったから――。
――違う!
ゴムが弾けたように、おれの意識の中から一人の子供の意識が飛び出した。
おれを捕らえたそれが気付いて、先刻と同様に子供を取り込もうとしたが、子供は強烈な拒否をそれに投げつけ、ゴムボールのように走り出した。
――いやだ! 誰か……誰か来て! お爺ちゃん!
辺り一面の闇――
その闇の中をただがむしゃらに、無我夢中に走り続ける子ども――あれは五歳のおれだ。
おれは、おれを取り込んだものの中に脱出口を見つけた思いで、五歳のおれの後を追い、その意識の中へ飛び込み、混ざり合った。
あの声は、五歳のおれのぶつけた拒絶の力のせいか、過去の意識に飛び込んだせいか、追いかけてこないようだった。
――いやだ……怖い。ここ……どこ?
夜空を覆う巨大な木々のざわめき、肌をなめる空気と生暖かい風、獣の気配、闇夜。
五歳のおれは歯を食いしばったまま、夜の密林の中を走り回っていた。
迷ってしまったのだ――初めて来た異郷の地で、親から言い渡された再三の注意にもかかわらず、生まれて初めて見た小動物を追いかけ、気がついた時にはすでに密林のかなり深いところまで入り込んでしまっていた。
空高く昇っていた陽は落ち、辺りは闇と化していた。
――おなかがすいたよ……お爺ちゃん、迎えに来てよぉ……
のど元までせり上げて来る熱い固まりを、一気に吐き出してしまいたいのに、意地なのか、それとも他の何かの為なのか、ガキでありながらもおれは、それをぐいと飲み込んだ。
走りはいつしか歩みとなっていた。
地表に浮き出た大木の根につまずいては転び、転んでは立ち上がり、それをいく度となく繰り返しては棒のようになった傷だらけ血だらけの足を引きずり、おれは闇の密林をさまよい続けていた。
――……?
――なぜ、怯えるのですか?
――なにが、あなたを恐れさせるのですか?
――よく目を開いてわたし達を見つめて下さい。あなたにはわかるはず。
――怖がらないで下さい。
――わたし達のことはすべて、あなたが良く知っているはず。
――怯えないで下さい。
――わたし達はあなたに気付いてほしいだけなのですから。
――幼な児の姿の、あなたよ。
なに!? 誰!?
気がついた時は、おれの……ぼくの身体の中、心の中いっぱいに、柔らかに囁きかける多くの声がいた。
ぼくは立ち止まった。
誰? ぼくに話しかけて来たの、誰!?
――わたし達……この森のすべてです。
相変わらずの生暖かい、けれど鮮明な意志を示した風が、耳元で渦を巻いて通りすぎた。
――風はぼく達の意志の代表……。
彼らが言おうとした言葉がぼくの心の中に浮かんでいる。
恐怖心はきれいに拭い去られていた。
闇に対する、密林に対する、あらゆることに関する恐怖心が消えていた。
彼らが話しかけてきた時、風がそよいだ時、ぼくの中でスイッチが弾かれ、同時に心と生命の扉が宇宙に向けて大きく、力一杯開放された。
ぼくは悟った。
開け放った扉から巨大なエネルギーが全身に注ぎ込まれてくる。
彼らとぼくは同一の存在だということを。
――あなたはわたし達に力を与えてくれます。
密林の意志が風にのって、やさしくぼくを包み込む。
そしてみんなも、ぼくに力を与えてくれる。
――しかし、あなたの力にわたし達は遠く及ばない。
それでもぼく達は一緒だよ、
ぼくは、夜空を仰ぎ見ながら彼ら〈密林〉に心を伝えた。
木も、草も、花も、動物も、水も、土も、光も、闇も、星も、宇宙も、自然の中で生み出された生命という存在に変わりないよ。
自然が与えてくれる生命がなかったなら、存在しなかったもの達だから。
同じに、自然でさえも、生命がなくては存在しなかったものだから。
ぼく達は生命であると同時に、自然そのものなんだ。
何も恐がることなんて、恐がる必要なんてなかったのにね。
――そう、わたし達は至上の喜びをもってあなたを迎え入れます。あなたにはやつれた自然に、生命の活気を吹き返らせる力がある。
――わたし達と同一の存在であっても、あなたの力、エネルギー〈生命力〉は、この地球におさまりきれず、宇宙に浸透して行くほどに広大で力強い。
――わたし達はそれを知っています。
ぼくは笑いかけた。
彼らが微笑みを返した。
闇夜のジャングル〈密林〉は、いつしか温かい生命の巣となって、ぼくをやさしく包み込んでいった――。
おれは、眠りに入った五歳のおれからそっと離れた。
おれには分かっていた。この不可思議な経験が、密林を出ると同時に忘れ去ってしまうということを……。
いや、深層意識部のタンスの引き出しの中に大切にしまわれて、表層意識が忘れた様に思い込んでしまうことを。
そして、その記憶はめったなことでは引き出せないはずだった。
大きな意味がなければ思い出すことの出来ないもののはずだった。
大きな意味――この記憶を糧に、しなくてはならない何か。
再び、何もない闇の中にいたおれは、闇の彼方から急速に近づいてくる光の固まりに気付いて目を据えた。
すべてはあの光の中――闇の向こうで待っている。




