五,だるい
朝。
昨日のアイスのせいか里香のおトイレが上手く行かず、幼稚園に遅刻して送っていった。
帰り道、マンションの前の通りに戻ってくると、ぷんと香りが漂ってきて、夜の店で働いているという女といっしょになった。
後ろから歩いてくる彼女を振り返ると、向こうの方から
「おはようございます」
と挨拶してきた。佐緒里は挨拶を返しながら内心目を見開く思いだった。昨日の夕方会ったときにはひどく不健康で陰気に見えたが、今見る彼女は肌の張り色つやがよく、健康的で、魅力的だ。歳は案外自分と同じくらいかしら?と優越感を持っていたが、自分より五歳は若そうだ。胸も大きい。夜の間働いて、朝方なんてぼろぼろになっていそうなものを、特に化粧が濃いわけでもないのに、綺麗だ。
「お綺麗ね?」
佐緒里はつい嫉妬混じりに言ったが、
「嫌味ですか?」
女は首をひねってかわいらしく上目遣いで佐緒里を睨み、くったくなく笑った。佐緒里は馬鹿にされているようで不快に思ったが、女の方はごくフレンドリーに、
「わたし寝起きが駄目なんですよ。だんだんテンションが上がってきて、普通の人の時間帯とすっかり逆ですね? あら、逆の逆で、合ってるのかしら?」
とあっけらかんと笑った。飾りのない自然な表情で、声も話し方も落ち着いて品があり、働いている店が高級なものであるのを窺わせた。ますます腹が立つ。
ひどく嫉妬する。
女の香水。時間が経って残り香程度で、髪にまとわりついたタバコの煙が臭い。多少くたびれた女自身のにおいが鼻につく。どうせ嫌らしい女と思う。
「たくさん稼いでいるんでしょう? こんな所じゃなくもっときれいな高級マンションに越したら?」
女は自然な仕草で肩をすくめた。
「悪い男に引っかかっちゃいまして、お給料はほとんど借金返済に消えちゃいます。通勤だってバスなんですよ?」
それはさぞかし男たちの視線を引くでしょうよ、朝から目の毒ねと思う。
「まあ、そうなの? お気の毒さま」
いい気味だと少し機嫌がよくなる。女は自嘲する。
「ええ。奥さんみたいな人が羨ましいわ」
「そうかしら?」
優越感。
二人は並んで歩きながら、入り口のステップを上がって、エレベーターの前に立つ。女がボタンを押すと箱は一階にあって扉がすぐに開いた。女は先にスイと入って、「開」のボタンを押したまま佐緒里の乗ってくるのを待っている。佐緒里が乗って、まだ乗ってくる人がいないか確かめているのか女はずいぶんゆっくり時間を取ってボタンを放した。これもそういうお店に勤める女のたしなみなのかしらと思ったとたん扉はゴトンと音を立てて閉まった。女は佐緒里が何も言わないうちに「5」を押し、「6」を押した。佐緒里は
「うちの部屋をご存じでした?」
と訊いた。女は
「五〇五号室ですよね? わたし、六〇五号室なんです」
と答え、
「あ、わたし、四元奈緒と言います。よろしくお願いします」
と綺麗な笑顔で名乗った。
「ああ、わたし、菊池です。わたし、菊池佐緒里。主人と娘と、五〇五号室に越してきました。よろしくお願いします」
遅ればせの挨拶をしながら、
「じゃあ、うちの上の部屋にお住まい? あのう、うちの音、うるさくありません?」
と遠慮がちに訊いた。エレベーターが五階に着き、ポーンとチャイムが鳴ってドアが開いた。
「可愛らしいお嬢さんですね?」
笑顔で言われて、聞こえているんだ、と思った。
「大丈夫ですよ、下の音はほとんど聞こえません。それより、わたしの部屋の音、響きますでしょう?」
「えー……」
「お洗濯とか、お風呂とか?」
「ああ。水の音はしょうがないわよね?」
「すみません。響いちゃうんですよね? ごめんなさい」
恥ずかしそうに頭を下げる女、四元奈緒に、
『トイレも響くわよ』
と思った。
「いえいえ。お互い様。それじゃあ」
佐緒里は爽やかな笑顔を作ってエレベーターを下りた。あら?この人、夜は留守なのよねえ? じゃあ聞こえてきたトイレの音は別の部屋だったのかしら?と思った。
振り返ると、奈緒はボタンを押したままじいっとしていた。佐緒里はまだ何か言いたいことでもあるのかしら?と顔を見つめると、奈緒は不自然なほど真っ白な歯を見せて笑い、ボタンから手を放すと『さよなら』と振った。ドアが閉まり奈緒の笑顔を隠す。上昇するエレベーターを見送り、
「嫌な女」
と佐緒里はつぶやいた。
昼を食べると、佐緒里は椅子からずり落ちそうなほどぐったりし、はっと、眠ってしまったかしら?と時計を見たが、時間は進んでおらず、ほっとして、けたたましい笑い声を上げているお昼のバラエティー番組を眺めた。しばらく見ていたが、
「つまんないわね」
生あくびを噛み殺し、なんだかひどく疲れた口臭がしているようで気になった。どうしたのかしら?とこめかみをさする。どうにも体がだるくて堪らない。だるさにぐったりして、気がつくとまた居眠りしていたのではないかとはっとする。しばらく横になった方がいいかと思ったが、このだるさは、一度眠ったら二三時間はとても起きあがれそうにないと思った。眠気を誘うつまらない番組を睨み、
「あっ、そうだ、きのうのドラマ」
深夜、夫に買ってきてもらったハードディスクに録画した韓流ドラマ。月から金の帯で集中放送していて、一回分途中から見逃してしまったがまだ補修は効く。幼稚園のお迎えまであと一時間少々、一時間のドラマを見ていればちょうどいい。
佐緒里はさっそくリモコンでハードディスクの録画済みリストを呼び出した。
「録れてる録れてる。ではさっそく」
タイトルが出て、前回のダイジェストが流れる。
「あー、そうなっちゃったわけ? エグい展開」
夫の言うように「ベタ」な展開に苦笑しつつ、オープニングの間に濃ゆーい緑茶でも入れようと思った。
二〇分ほど後、佐緒里は椅子の背もたれにぐったり寄りかかり、手足をだらしなく投げ出し、半分閉じかかった目でぼうっとテレビを眺めていた。
テレビには昔の白黒映画みたいな物が流れ、韓流ドラマには出てきそうもない日本のお経を読む声が、延々と、流れていた。
夕方。
帰宅した夫が娘とお風呂に入り、佐緒里はキッチンで夕飯の支度をしていた。
背後から二人の声が聞こえる。
「今日朝、幼稚園に遅刻しちゃった」
「どうしてだ?」
「おトイレがなかなか出なかったの」
「あー、昨日の夜のアイスクリームのせいだ」
「ママにも言われたあー」
「ハハハ、そうだろうなあ」
「でもねでもね、ママもお帰りのお迎えに遅刻して先生に怒られたんだよ?」
「おやおや、ママまでか?」
「お昼寝しててお寝坊しちゃったんだってー」
「アハハハハハ、駄目なママだなあ?」
「駄目なママですねえー?」
キャハハハハハ、と娘の笑い声が響く。佐緒里は、
上に聞こえているのよ、
と思う。いや、四元奈緒はもうご出勤か。
佐緒里はまな板でゴボウを笹がきにし、今ニンジンを千切りにしている。トントントン、とリズミカルに包丁を動かしながら、その作業にひどくイライラした。
遅刻して先生に叱られた? 昼寝して寝坊した? 主婦が暇こいてのんびり大いびきでもかいていたと思ってるんでしょう? 昼寝だなんて、心配させないように言ったに決まってるでしょうが!
トントントン、と切りながら、ニンジンが妙に赤いのに気づいた。
「あ、………痛い……………」
いつの間にか指を切ってしまっていたようだ。ニンジンのブロックを押さえていた左手を持ち上げると、人差し指の腹に滴がたまって、ボタッと、まな板に滴った。丸く広がり、まな板の水分に輪郭がジグザグになってぼやけていく。ボタッ、ボタッ、赤い玉がしたたり落ち、広がり、重なっていく。じっと見下ろした佐緒里は、ニンジンのブロックをダンッダンッダンッ、と適当に叩き切ると、油を敷いて温めていたフライパンにまな板を傾け、みんなひとまとめに入れてしまった。ジュワアーーッと油が激しく跳ね、佐緒里はまな板に張り付いていた残りを包丁で掃いて落とした。赤い色が撫でられ伸びている。ジュージュー激しく跳ねていた油はじきに収まり、佐緒里はベテラン主婦らしく菜箸で掻き回し始めた。
「美味しい?」
佐緒里に訊かれて夫も娘も
「美味しい」
と答えた。風呂から上がって指の絆創膏を見てからかったのを佐緒里にひどく怒られたのだ。
「ママは料理が上手だねえ?」
「ねえー?」
夫と娘で調子よく揃ってママのご機嫌を取る。ママもニッコリ笑ってやる。
「よおく味わって食べてね?」
夫と娘が、少しニンジンの焦げたきんぴらゴボウをもぐもぐ美味しそうに食べるのを、佐緒里はうっとりしたような目つきで眺めていた。




