六,けが
午後、里香がけがをした。
駐車場でリンコちゃんハルキくんとボール遊びしていて、強くボールを投げられ、転んだ拍子にコンクリートの角で手首を切ってしまったのだ。左手だ。最初にじんでいた程度の血が、だんだん盛り上がって流れ落ちるまでになった。佐緒里はびっくりして119番に掛けようとしたが、
「病院は混んでてなかなか診てもらえないかも知れないわよ? 近くに個人の外科医院があるから、そこならすぐに診てもらえるわよ?」
とリンコちゃんのママが言うので、案内してもらうことにした。自動車はない。近所と言うがどの程度の所なのか?
ハルキくんのママが自転車を出してくれた。後ろにハルキくんを乗せて走るための子供用椅子が取り付けてある。そこに里香を乗せて、慣れたハルキくんのママがハンドルとサドルを掴んで引いていき、佐緒里も椅子の背もたれを掴み里香に寄り添い話し掛けながら歩いた。リンコちゃんのママが先を歩いて前を確かめ案内してくれる。リンコちゃんハルキくんも自転車の後について歩いてくる。
自転車を中心にぞろぞろ歩く一行は、通りに出ず、駐車場の奥に向かった。隣の会社のオフィスの脇を生活排水を流すドブがあり、脇に向こうの通りへ出る狭い道がある。
「お買い物に行くときの抜け道。便利でしょう?」
リンコちゃんのママはそう言うが、緑色の汚れが浮いて臭いのするそこを佐緒里はあまり通りたいと思わなかった。
通りを信号を待って横断すると、すぐに外科医院はあった。
リンコちゃんのママが顔なじみらしい受付の看護婦に事情を説明すると、看護婦は里香のけがを見て、すぐに先生に報告してくれた。待合室で老人が二人椅子に座っていたが、すぐに診察室へ呼ばれた。
医者はもう八十になっているんじゃないかと思われる頭のはげ上がったお爺ちゃんだった。小柄でしわだらけのお爺ちゃん先生は目を瞬かせながら里香の手首を消毒し、傷の具合を見た。
「ああ、この程度なら大したことないな。しっかり消毒してクリップで止めておけばすぐに塞がるな」
「クリップ、ですか?」
ホッチキスみたいな道具でバチンと止められるのを想像して青くなる里香を気遣って佐緒里が訊いた。先生は重いまぶたを下に引っ張るような顔で佐緒里を覗き、怖がる子どもに笑いかけた。
「バンソウコウと同じだよ。ちょっとチクンとするけど、注射みたいに痛くはないから、そのくらい平気だよね?」
里香は青い顔でコクンとうなずいた。先生は褒めるように笑い、佐緒里に、
「擦り傷としてはちょっと深いから縫った方が確実ですが…、こっちの方が傷もきれいに治りますし、女の子ですから、その方がよいでしょう?」
と説明した。佐緒里はうなずき、娘の頭を安心させるように撫でながら
「お願いします」
と言った。
先生は看護婦の用意した茶色い消毒液で改めて傷口を消毒し、サイズの合ったクリップ=細い短い針の付いた絆創膏を、眉を寄せて慎重に位置を測り、止めた。里香はビクビクしていて、絆創膏を当てられた瞬間チクリとしたようでビクリと肩を震わせたが、大した痛さではなかったらしく、止められてしまうと佐緒里を見上げて平気だよと言うように笑った。佐緒里は娘の頭を撫でてやりながら医者の処方をじっと観察していた。医者は血が流れ出ないのを確認し、後のガーゼを当てて包帯を巻くのはベテランらしい看護婦に任せた。自分より彼女の方が上手だよと言わんばかりにニッコリ笑って子どもを見た。
「はい、おしまい」
看護婦が包帯を巻き終えると、里香は硬く曲がらない手首の違和感に母親を見上げた。
「どのくらいで治るでしょう?」
「そうですね、子どもは治るのが早いから、三、四日もすれば傷は塞がるでしょう。念のため一週間くらい止めたままにして、えー、では三日後に見せに来てください。様子を見て包帯を取り替えましょう。今日明日お風呂は我慢して、激しい運動も避けるように。お嬢ちゃん」
里香を笑顔で見て。
「一週間だけ元気に遊ぶのは我慢だよ? その間お姫様みたいに大人しくしているんだよ?いいね?」
里香はうなずき、ニッコリ笑った。
「お医者の先生、ありがとうございました」
「どういたしまして。いい子だねえ」
医者は看護婦にうなずき、看護婦は
「では待合室でお待ちください」
と患者と母親と、後ろで見ていたリンコちゃんのママを送り出した。
待合室で薬の処方と支払いを持っていると、リンコちゃんのママとハルキくんのママが相談して佐緒里に申し出た。
「リカちゃんにけがさせてごめんなさいね。治療費はわたしたちで持たせていただきます」
「いえ、そんな。子どもたちの遊びの上の事故ですから、そんなお気遣いなく」
佐緒里は辞退したが、
「いえいえ、こちらからのご挨拶代わりに、ね?」
と押し切られ、支払いを受け持ってもらうことになった。
里香は包帯を物珍しそうに覗き込むリンコちゃんとハルキくんに自慢するように見せびらかしている。リンコちゃんとハルキくんのママたちはニコニコ里香を見て、
「リカちゃん、ごめんなさいねえ。でも、これからもうちの子たちと仲良く遊んでね? ね?」
とお願いした。里香は元気に
「うん! いいよ!」
と二人に笑いかけた。子どもたち二人もニコニコ里香に笑いかけた。佐緒里は、
里香にボールをぶつけたのはどっちの子だったかしら?
と思った。
その日夫は帰りが遅く、帰ってきたのは深夜〇時を回ってからだった。
佐緒里は起きて待っていた。
「メールしたでしょ?」
と眠気を我慢していたきつい目つきで見つめて言う。夫は興ざめしたような顔でのんびり
「大したことなかったんだろう? 病院にも行かないで済んだんだろう?」
と返した。
「そうだけど……」
夫の無神経に腹が立つ。
「どこで飲んできたの?」
鼻がつんとするほど酒臭い。
「工場長に誘われてな。断るわけにはいかないだろう?将来上司になるかも知れないんだから?」
「わたし嫌よ、こんな田舎」
「いなかじゃないだろう? 俺は君と違って元々地方の田舎出だからな、居心地いいよ」
「嫌だわ」
佐緒里も自分の本心は分からないが今はとにかく、こんな田舎、嫌で、腹が立って、ならなかった。妻の刺々しい不機嫌を持て余して夫が折れた。
「ああごめん、悪かったよ。本当に断れなかったんだ、勘弁してくれよ? …里香はどうなんだ? けがして……ショック受けたりしてんのか?」
「ちょっとね。ううん、最初だけ。今は平気」
「そうか……、よかった。心細い思いさせちゃったな、ごめんよ」
夫に正直にすまなそうな顔をされて、佐緒里もため息をついて意固地になるのをやめた。
「もういいわよ。お仕事の内なんでしょ? お風呂どうするの? お湯流してないわよ?」
夫はほっとして嬉しそうな顔で答えた。
「うん、入らせてもらうよ」
佐緒里は手を差し出した。
「背広、どうぞ」
夫はいつもなら脱いで手に持ってくるスーツをご丁寧に着ていた。
「おっ、ありがとう」
スーツを脱ぎ、ネクタイをゆるめて首から抜き、妻に渡した。
「ズボンも。明日クリーニングに出しておくわ」
「うん、頼む」
スラックスを脱ぐ夫をひっくり返らないでよねと眺めていた佐緒里は、あら?と気づいて言った。
「あなた、靴下は?」
夫は裸足だった。
「あれ? えーと……、どっかで脱いじゃったみたい……、ああ、そうそう、料理屋でお座敷に上がったんだ」
「もう…。いいわね、男の人はお仕事で美味しいお料理が食べられて」
佐緒里は呆れた。夫はスラックスを渡すと床に置いたカバンを持ってすごすご居間に入っていき、自分の椅子に置いて帰ってきた。
「すみません、奥様」
「はいはい。わたしはもう寝ますからね?」
すれ違い、ふと振り返った。夫は洗面所に入っていき、引き戸を閉めた。
ワイシャツの背中から、香水のにおいがした。
「どこのお座敷に上がってきたんだか……」
ふと、カチンと記憶が一致した。知っている香水だった。よおく。
佐緒里は引き返し、暗い陰険な目でじっと磨りガラスの向こうを見た。
折りたたみ式ドアが開き、白い裸がおふろ場に入っていき、ドアが閉められた。
佐緒里は陰険な目でじっと見ながら、その裸の肩が細く華奢だったように思った。黒い髪の毛が背中まで垂れていたようにも。ドアは自分たちがお風呂を上がってしばらくしてから開け放しにしてあったはずで、入るのにもう一度開ける必要はないはずだ。
風呂から夫がばしゃばしゃお湯を使っている音が聞こえてくる。
佐緒里は陰険な目つきのまま寝室に入り、布団に横になると、じいっと暗い天井を見つめていた。
風呂場からはぱしゃぱしゃと、妙にはしゃいだ水の音が聞こえ続けていたが、佐緒里は知らんぷりして、じっと天井を見続けていた。




