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【連載版】「一つくらい我儘を言え」と旦那様に言われたので、一晩考えて「温かいうちにご飯が食べたい」とお願いしました  作者: もしものべりすと


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6/7

名前で呼んでもいいですか

『七つ目 旦那様の我儘を、一つ知りたい』


翌朝、帳面を開いた旦那様は、眉を寄せた。


「……これは、我儘なのか」

「我儘です」

「私のことだろう」

「私が知りたいのですから、私の我儘です」


旦那様は、帳面と私の顔を、何度か見比べた。

それから、小さく息を吐いた。


「ない」

「え?」

「欲しいものは、ない。今で足りている」


それきり、旦那様はスープを口に運んだ。

いつもと同じ、表情の少ない顔だった。


でも、私は見てしまった。

「今で足りている」と言ったとき、旦那様の目が、ほんの一瞬だけ、私のほうを向いたのを。


◇


旦那様の我儘は、簡単には見つからなかった。


好きな色を訊けば「黒」。

好きな季節を訊けば「どれでもいい」。

好きな料理を訊けば「ガストンのものなら全部」。


料理長はそれを聞いて、厨房で鼻をすすっていたらしい。

アンナが教えてくれた。


「旦那様は、昔からああなんです」


その日の午後、繕い物をしながら、侍女頭が話してくれた。

侍女頭は、旦那様が子どもの頃から、この屋敷に仕えている。


「先代様ご夫妻が流行り病で亡くなられたとき、旦那様はまだ十四でした。その日から、皆が旦那様を『閣下』とお呼びするようになって」


侍女頭は、針を動かす手を止めた。


「お名前でお呼びする方が、いなくなってしまったんです」


私は、膝の上の布を握りしめた。


レオンハルト・グレイヴス。

私は、その名前を、婚礼の書類でしか見たことがない。

嫁いでから一度も、口にしたことがなかった。


旦那様、と呼ぶのが当たり前だと思っていた。

妻とは、そういうものだと教わってきた。


けれど。


◇


その夜、私は帳面に、八つ目の我儘を書いた。


書いては消し、消しては書いた。

インクの染みで、頁が少し汚れてしまった。


『八つ目 旦那様を、お名前で呼んでみたい』


翌朝。


旦那様は、帳面を開いた。

八行目を読んだ。


そして、手に持っていたパンを、ぽとりと落とした。


給仕をしていたアンナが、盆を取り落としそうになって、慌てて持ち直した。

壁際の執事が、珍しく、咳払いを二回した。

厨房の扉の向こうで、何か金属の物が床に落ちる音がした。


旦那様は、落ちたパンを拾いもせずに、帳面を見つめていた。

長いこと、見つめていた。


「……くだらないですよね」


いつもの言葉が、口からこぼれた。


「いや」


旦那様の声は、少しかすれていた。


「……好きにしろ」


それだけ言って、旦那様はスープの皿に匙を入れた。

耳の先が、見たことがないくらい赤くなっていた。


私は、膝の上で両手を握りしめた。

声が震えないように、一度だけ息を吸う。


「レオンハルト様」


旦那様の匙が、止まった。


食堂が、しんと静まり返った。

暖炉の薪が、ぱちりとはぜた。


旦那様は、匙を持ったまま、ゆっくりと顔を上げた。

灰色の目が、まっすぐに私を見ている。


「……もう一度」

「え?」

「もう一度、呼んでくれ」


心臓が、大きく鳴った。


「レオンハルト様」


旦那様は、目を閉じた。

長く、静かに息を吐いた。


「……名前を呼ばれるのは、久しぶりだ」


小さな声だった。

私にしか聞こえないくらいの。


それから旦那様は、目を開けて、何事もなかったようにスープを口に運んだ。


そして、むせた。


「熱っ……」


「レ、レオンハルト様、大丈夫ですか」

「……熱い」

「熱いので、お気をつけてと」

「分かっている」


旦那様は、口元をナプキンで押さえて、私から顔を背けた。

首筋まで赤かった。


厨房の扉の向こうで、料理長が笑いをこらえている気配がした。

アンナは、盆で顔を隠して肩を震わせていた。


私も、こらえきれずに笑ってしまった。


◇


その日の夜、私は旦那様の書斎の扉を叩いた。


旦那様は、机の上に積まれた書類から顔を上げた。

国境の砦からの報告書らしい。


「どうした」

「お茶を、お持ちしました。……レオンハルト様」


名前を呼ぶと、旦那様の手が、また一瞬止まった。

まだ慣れないらしい。

私も、まだ慣れない。


湯気の立つ杯を机に置くと、旦那様は、それを両手で包むようにして持った。


「君は、変わった」

「そうでしょうか」

「来たばかりの頃は、私が部屋に入るだけで、立ち上がって壁際に下がっていた」


言われてみれば、そうだった。

誰かが来たら、席を譲る。それが私の癖だった。


「今は、私の名前を呼んで、書斎にまで茶を持ってくる」


旦那様は、杯に口をつけた。

今度は、むせなかった。


私は、ずっと訊きたかったことを、口にした。


「レオンハルト様。一つ、伺ってもよろしいですか」

「何だ」

「どうして、私だったのですか」


旦那様の手が、止まった。


「辺境伯家からの釣書には、はじめから私の名前が書いてありました。妹ではなく、私の名前が」


ハートウェル伯爵家の娘で、社交界で名前が知られているのは、妹のセレナだけだ。

私は、夜会に出ても壁際に立っているだけの、目立たない長女だった。

辺境伯家が、わざわざ私を指名する理由が、どうしても分からなかった。


旦那様は、長いこと黙っていた。

暖炉の火が、旦那様の横顔を、ゆらゆらと照らしていた。


「……君の名前は、ずっと前から知っていた」


やがて、旦那様は言った。


「ずっと前、ですか」

「ああ」


旦那様は、杯を机に置いた。

それから、ほんの少しだけ、口の端を上げた。


「いつか話す。……今はまだ、それは帳面に書いていないだろう」


私は、目を丸くした。


我儘として書けば、話してくれるということだろうか。

旦那様が、こんなふうに冗談めいたことを言うのを、私は初めて聞いた。


「……では、いつか書きます」

「ああ。いつかでいい」


書斎を出て、廊下を歩きながら、私は胸に手を当てた。


ずっと前から、知っていた。


その言葉が、温かいスープみたいに、胸の真ん中でじんわりと広がっていた。


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