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【連載版】「一つくらい我儘を言え」と旦那様に言われたので、一晩考えて「温かいうちにご飯が食べたい」とお願いしました  作者: もしものべりすと


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5/7

我儘帳をいただきました

「一日一つ、ですか」


私は、革の帳面を両手で持ったまま、旦那様を見た。


「そうだ。書いたものは、この家の誰が叶えてもいい」

「誰が、でも」

「私でも、ガストンでも、アンナでもだ」


その瞬間、背後で誰かが息を呑む音がした。

振り返ると、給仕のアンナが、盆を胸に抱えたまま目を輝かせていた。

壁際の執事は、咳払いを一つして、何事もなかったような顔をしている。

厨房の扉の隙間からは、料理長の白い帽子の先が、わずかにのぞいていた。


皆、聞いていたらしい。


「……書けなかったら、どうなるのですか」

「どうもならない。白紙なら白紙でいい」


旦那様は、パンの真ん中をちぎりながら言った。


「ただ、私は毎朝それを見る」


それは、どうもならないとは言わないのではないか。

そう思ったけれど、口には出さなかった。


◇


その日の午後、私は自室の机に帳面を広げて、ペンを握っていた。


窓の外では、雪が静かに降り続けている。

暖炉の火が、ぱちぱちと小さく鳴る。


四行目は、まだ白いままだった。


欲しいもの。

してほしいこと。

三つ目までは、なんとか言えた。

でも、あれは、どうしても言いたいことが胸の中に溜まっていたからだ。


毎日一つとなると、話が違う。


私はペンを置いて、窓辺に立った。

中庭には、昨夜の雪が真っ白に積もっていた。

足跡一つない雪の上に、新しい雪が、ふわふわと重なっていく。


実家にいた頃、雪の日は仕事が増えた。

玄関の雪かきをして、濡れた外套を干して、暖炉の灰を何度も捨てに行った。

妹のセレナが庭で雪遊びをする声を、私は裏口から聞いていた。


雪は、冷たくて重いものだと思っていた。


けれど、この部屋の窓から見る雪は、とても柔らかそうに見えた。


――触ったら、どんな感じがするのだろう。


私は机に戻って、ペンを取った。

少し迷ってから、四行目に書いた。


『四つ目 雪を、手で触ってみたい』


書いてしまってから、顔が熱くなった。

子どもみたいだ。

消そうかと思ったけれど、インクはもう乾き始めていた。


◇


翌朝。


旦那様は、朝食の席で帳面を開き、四行目を読んだ。

長いこと、黙って読んでいた。

たった一行なのに。


「……くだらないですよね」

「いや」


旦那様は、帳面を閉じて立ち上がった。


「食べ終わったら、外套を着ろ」


それからの一刻を、私は一生忘れないと思う。


まず、アンナが毛皮の外套を三枚持ってきた。

次に侍女頭が、毛糸の帽子と、耳当てと、厚手の靴下を二足持ってきた。

最後に料理長が、湯気の立つ小さな壺を抱えて現れた。


「温めた葡萄酒です。蜂蜜入りで、酒精は飛ばしてあります。戻ったらすぐお飲みください」

「まだ、外にも出ていないのですが」

「戻ったら、すぐです」


料理長は、真剣な顔で言った。


着ぶくれた私を見て、旦那様は一瞬だけ口元を押さえた。

笑ったのだと思う。

問いただす前に、旦那様は中庭への扉を開けた。


冷たい空気が、頬を刺した。


一面の白だった。

朝の光を受けて、雪がきらきらと光っている。

吐いた息が、白くほどけて消えていく。


私は、おそるおそる、雪の上に一歩を踏み出した。


さく、と音がした。


靴の下で、雪が沈む。

もう一歩。さく。

振り返ると、私の足跡が二つ、白い中にぽつんと残っていた。


「手袋を外せ」


旦那様が言った。


「触りたいのだろう」


私は、毛糸の手袋を外した。

しゃがみこんで、そっと、雪の表面に指を置く。


冷たかった。


でも、思っていたのとは違った。

ふわりとして、指の熱で、すぐに形を変えていく。

両手ですくうと、手のひらの上で、雪は少しずつ透きとおって、しずくになった。


「……冷たいです」

「当たり前だ」

「でも、柔らかいです。知りませんでした」


もう一度、両手で雪をすくった。

指先がじんじんして、赤くなっていく。

それでも、私はしばらく雪を手のひらに載せたまま、動けなかった。


雪は、重くて冷たいだけのものではなかった。

こんなに軽くて、こんなに綺麗なものだったのだ。


「そこまでだ」


不意に、大きな手が、私の両手を包んだ。


旦那様の手だった。

革の手袋を外した素手で、私の赤くなった指を、まとめて握りこんでいる。


「指が冷えすぎる」


旦那様の手は、温かかった。

冷えきった指の芯に、じわじわと熱が戻ってくる。


私は、旦那様の顔を見上げた。

旦那様は、私の手を見下ろしたまま、何も言わなかった。


雪が、旦那様の黒い髪の上に、ひとひら落ちた。


「……旦那様の手は、温かいのですね」

「君の手が冷たいだけだ」


ぶっきらぼうな声だった。

でも、手は離れなかった。


屋敷の窓という窓から、使用人たちが鈴なりにこちらを見ていることに気づいたのは、それからしばらく後のことだった。


◇


それから、帳面には毎日一行ずつ、我儘が増えていった。


『五つ目 本を一冊、途中で止められずに最後まで読みたい』


その日、書庫の扉には「奥様読書中」の札がかけられ、屋敷中の人が忍び足で歩いた。

読み終えて顔を上げると、膝に毛布がかけられていて、小卓には温かいお茶が三杯並んでいた。

三人が、それぞれこっそり置いていったらしい。


『六つ目 アンナと、一緒にお茶を飲みたい』


アンナは、それを読んで泣いた。

泣きながら、侍女頭に「今日だけは座ってよし」と許しをもらってきて、私の向かいに座った。

二人で飲んだお茶は、少し甘すぎて、とてもおいしかった。


帳面が埋まっていくのは、くすぐったくて、少し怖くて、とても嬉しかった。


けれど、六行目を書き終えた夜、私はふと、帳面をめくる手を止めた。


この帳面に並んでいるのは、全部、私の我儘だ。

旦那様の我儘は、一つもない。


旦那様は、何が好きなのだろう。

何が欲しいのだろう。


考えてみれば、私は何も知らなかった。


翌日、私は厨房を訪ねて、料理長に訊いてみた。


「旦那様の好物、ですか」


料理長は、太い腕を組んで、天井を見上げた。


「……さあ。あの方は、何を出しても『うまい』としか言わねえんです。子どもの頃から、ずっと」


料理長は、少しだけ寂しそうに笑った。


「欲しいものを言わねえのは、奥様だけじゃねえってことですよ」


私は、胸の中で、帳面を握りしめた。


旦那様の我儘を、一つ見つけよう。

それが、私の七つ目の我儘になった。


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― 新着の感想 ―
奥様かわえぇぇぇ!! と、誘導されていた読者が、今回のラストで 旦那様あんたもかーぃ!!  となる。 この作者、巧者である。
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