我儘帳をいただきました
「一日一つ、ですか」
私は、革の帳面を両手で持ったまま、旦那様を見た。
「そうだ。書いたものは、この家の誰が叶えてもいい」
「誰が、でも」
「私でも、ガストンでも、アンナでもだ」
その瞬間、背後で誰かが息を呑む音がした。
振り返ると、給仕のアンナが、盆を胸に抱えたまま目を輝かせていた。
壁際の執事は、咳払いを一つして、何事もなかったような顔をしている。
厨房の扉の隙間からは、料理長の白い帽子の先が、わずかにのぞいていた。
皆、聞いていたらしい。
「……書けなかったら、どうなるのですか」
「どうもならない。白紙なら白紙でいい」
旦那様は、パンの真ん中をちぎりながら言った。
「ただ、私は毎朝それを見る」
それは、どうもならないとは言わないのではないか。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
◇
その日の午後、私は自室の机に帳面を広げて、ペンを握っていた。
窓の外では、雪が静かに降り続けている。
暖炉の火が、ぱちぱちと小さく鳴る。
四行目は、まだ白いままだった。
欲しいもの。
してほしいこと。
三つ目までは、なんとか言えた。
でも、あれは、どうしても言いたいことが胸の中に溜まっていたからだ。
毎日一つとなると、話が違う。
私はペンを置いて、窓辺に立った。
中庭には、昨夜の雪が真っ白に積もっていた。
足跡一つない雪の上に、新しい雪が、ふわふわと重なっていく。
実家にいた頃、雪の日は仕事が増えた。
玄関の雪かきをして、濡れた外套を干して、暖炉の灰を何度も捨てに行った。
妹のセレナが庭で雪遊びをする声を、私は裏口から聞いていた。
雪は、冷たくて重いものだと思っていた。
けれど、この部屋の窓から見る雪は、とても柔らかそうに見えた。
――触ったら、どんな感じがするのだろう。
私は机に戻って、ペンを取った。
少し迷ってから、四行目に書いた。
『四つ目 雪を、手で触ってみたい』
書いてしまってから、顔が熱くなった。
子どもみたいだ。
消そうかと思ったけれど、インクはもう乾き始めていた。
◇
翌朝。
旦那様は、朝食の席で帳面を開き、四行目を読んだ。
長いこと、黙って読んでいた。
たった一行なのに。
「……くだらないですよね」
「いや」
旦那様は、帳面を閉じて立ち上がった。
「食べ終わったら、外套を着ろ」
それからの一刻を、私は一生忘れないと思う。
まず、アンナが毛皮の外套を三枚持ってきた。
次に侍女頭が、毛糸の帽子と、耳当てと、厚手の靴下を二足持ってきた。
最後に料理長が、湯気の立つ小さな壺を抱えて現れた。
「温めた葡萄酒です。蜂蜜入りで、酒精は飛ばしてあります。戻ったらすぐお飲みください」
「まだ、外にも出ていないのですが」
「戻ったら、すぐです」
料理長は、真剣な顔で言った。
着ぶくれた私を見て、旦那様は一瞬だけ口元を押さえた。
笑ったのだと思う。
問いただす前に、旦那様は中庭への扉を開けた。
冷たい空気が、頬を刺した。
一面の白だった。
朝の光を受けて、雪がきらきらと光っている。
吐いた息が、白くほどけて消えていく。
私は、おそるおそる、雪の上に一歩を踏み出した。
さく、と音がした。
靴の下で、雪が沈む。
もう一歩。さく。
振り返ると、私の足跡が二つ、白い中にぽつんと残っていた。
「手袋を外せ」
旦那様が言った。
「触りたいのだろう」
私は、毛糸の手袋を外した。
しゃがみこんで、そっと、雪の表面に指を置く。
冷たかった。
でも、思っていたのとは違った。
ふわりとして、指の熱で、すぐに形を変えていく。
両手ですくうと、手のひらの上で、雪は少しずつ透きとおって、しずくになった。
「……冷たいです」
「当たり前だ」
「でも、柔らかいです。知りませんでした」
もう一度、両手で雪をすくった。
指先がじんじんして、赤くなっていく。
それでも、私はしばらく雪を手のひらに載せたまま、動けなかった。
雪は、重くて冷たいだけのものではなかった。
こんなに軽くて、こんなに綺麗なものだったのだ。
「そこまでだ」
不意に、大きな手が、私の両手を包んだ。
旦那様の手だった。
革の手袋を外した素手で、私の赤くなった指を、まとめて握りこんでいる。
「指が冷えすぎる」
旦那様の手は、温かかった。
冷えきった指の芯に、じわじわと熱が戻ってくる。
私は、旦那様の顔を見上げた。
旦那様は、私の手を見下ろしたまま、何も言わなかった。
雪が、旦那様の黒い髪の上に、ひとひら落ちた。
「……旦那様の手は、温かいのですね」
「君の手が冷たいだけだ」
ぶっきらぼうな声だった。
でも、手は離れなかった。
屋敷の窓という窓から、使用人たちが鈴なりにこちらを見ていることに気づいたのは、それからしばらく後のことだった。
◇
それから、帳面には毎日一行ずつ、我儘が増えていった。
『五つ目 本を一冊、途中で止められずに最後まで読みたい』
その日、書庫の扉には「奥様読書中」の札がかけられ、屋敷中の人が忍び足で歩いた。
読み終えて顔を上げると、膝に毛布がかけられていて、小卓には温かいお茶が三杯並んでいた。
三人が、それぞれこっそり置いていったらしい。
『六つ目 アンナと、一緒にお茶を飲みたい』
アンナは、それを読んで泣いた。
泣きながら、侍女頭に「今日だけは座ってよし」と許しをもらってきて、私の向かいに座った。
二人で飲んだお茶は、少し甘すぎて、とてもおいしかった。
帳面が埋まっていくのは、くすぐったくて、少し怖くて、とても嬉しかった。
けれど、六行目を書き終えた夜、私はふと、帳面をめくる手を止めた。
この帳面に並んでいるのは、全部、私の我儘だ。
旦那様の我儘は、一つもない。
旦那様は、何が好きなのだろう。
何が欲しいのだろう。
考えてみれば、私は何も知らなかった。
翌日、私は厨房を訪ねて、料理長に訊いてみた。
「旦那様の好物、ですか」
料理長は、太い腕を組んで、天井を見上げた。
「……さあ。あの方は、何を出しても『うまい』としか言わねえんです。子どもの頃から、ずっと」
料理長は、少しだけ寂しそうに笑った。
「欲しいものを言わねえのは、奥様だけじゃねえってことですよ」
私は、胸の中で、帳面を握りしめた。
旦那様の我儘を、一つ見つけよう。
それが、私の七つ目の我儘になった。




