二つ目と三つ目の我儘は、約束になりました
冬が来た。
辺境の冬は厳しい。
旦那様は国境の砦の見回りで、夜遅くまで戻らない日が増えた。
私は一人で、温かい夕食を食べた。
料理長は相変わらず、私が席についてから皿を火から下ろしてくれる。
スープは熱く、パンは湯気を立てている。
それなのに、何かが足りなかった。
向かいの席が、空いている。
「冷める」と言う声が、ない。
一人きりの食堂は、広すぎた。
食器の触れ合う音が、やけに大きく響く。
給仕のアンナが気を遣って話しかけてくれるけれど、私の返事はどこか上の空だった。
「奥様、今日の煮込みはいかがですか」
「ええ、とても……おいしいわ」
「……旦那様、今夜も遅いそうです」
「そう」
おいしいのに、味がよく分からなかった。
温かいのに、どこか寒かった。
不思議だった。
実家では、毎日一人で食べていたのに。
冷めた皿を前に、厨房の隅で、たった一人で。
あの頃は、寂しいなんて思ったこともなかったのに。
温かさを知ってしまうと、寒さが分かるようになるらしい。
ある夜、旦那様が戻ったのは、真夜中近くだった。
外套に雪をつけたまま、食堂をのぞき込む。
「まだ起きていたのか」
「はい」
私の前には、手をつけていない皿があった。
スープは、すっかり冷めていた。
旦那様が、眉を寄せた。
「なぜ食べていない。温かいうちに食べたいと言ったのは君だろう」
「……はい」
「では、なぜ」
私は、膝の上で両手を握りしめた。
二度目の我儘は、一度目より、ずっと言いにくかった。
「旦那様」
「何だ」
「もう一つだけ、我儘を言ってもよろしいですか」
旦那様の灰色の目が、わずかに見開かれた。
「言え」
私は、一度だけ息を吸った。
「一緒に、温かいうちに食べてください」
食堂に、暖炉の薪がはぜる音だけが響いた。
「一人で食べる温かいご飯より、二人で食べる冷めたご飯のほうが、温かい気がしたのです。……くだらないですね」
旦那様は、何も言わなかった。
外套の肩で、雪がゆっくりと溶けていく。
しずくが一粒、床に落ちた。
旦那様は、外套を脱ぎ、椅子の背にかけた。
冷えきった指で、私の頬に触れる。
氷のように冷たいのに、触れられたところだけが熱かった。
「……君は、いつも私を待っていたのか」
「旦那様がいらっしゃらないと、なぜか、食べる気になれなくて」
「スープが冷めるまで」
「はい」
旦那様は、目を閉じて、長く息を吐いた。
「我儘を言えと言ったのは、私だったな」
「はい」
「では、断る理由はない」
旦那様は、私の冷めた皿を持ち上げて、厨房の扉を叩いた。
「ガストン。起きているか」
扉の向こうで、大きなあくびの音がした。
「……旦那様。こんな夜中に、何です」
「スープを温め直してくれ。二人分だ」
一拍おいて、扉の向こうから、料理長の笑い声が聞こえた。
「へいへい。そうおっしゃると思って、火は落としてませんよ」
扉が開くと、厨房の明かりが、細く食堂に差し込んだ。
料理長の後ろから、寝間着の上に上着を羽織ったアンナと、なぜか執事までが顔を出した。
「……なぜ皆起きている」
「奥様がまだ召し上がっていないのに、寝られるわけがありません」
旦那様は、額を押さえて溜め息をついた。
私は、少しだけ笑ってしまった。
◇
真夜中の食堂で、私たちは向かい合って座った。
湯気の立つスープが、二皿。
焼き直したパンが、一籠。
「明日から、夕食の時刻には戻る」
旦那様が、匙を取りながら言った。
「砦の見回りは」
「副官に任せる。あれは私より優秀だ」
「そんな、私のために」
「君のためではない」
旦那様は、スープをひと口飲んで、少し顔をしかめた。
「私も、一人で食べるのは味気なかった」
私は、思わず笑ってしまった。
笑いながら、スープをすくった。
熱い。
今日も、ちゃんと熱い。
向かいで、旦那様が同じようにスープをすくう。
口に運ぼうとして、ぴたりと止まった。
「……熱いな」
「熱いので、お気をつけて」
料理長の口癖を真似ると、旦那様は目を丸くした。
それから、小さく、声を立てて笑った。
この人が声を立てて笑うのを、私は初めて見た。
「次の我儘は、何にする」
「まだ考えておりません」
「早く考えろ。三つ目からは、もっと大きいものを言え」
「大きいもの、ですか」
「屋敷でも、馬でも、何でもいい」
私は少し考えて、首を振った。
「では、三つ目は――」
旦那様の匙が止まった。
「明日の朝ご飯も、一緒に食べてください」
旦那様は、長いこと私を見ていた。
それから、呆れたように息を吐いて、少しだけ目を細めた。
「それは我儘ではない。約束だ」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
二つの皿から立ちのぼる湯気が、テーブルの上で、ひとつに混ざった。
◇
翌朝。
約束どおり、旦那様は朝食の席にいた。
私が座るのを待って、厨房の扉が開く。
焼きたてのパンの籠が置かれ、端っこが全部、私の皿に移される。
旦那様は真ん中をちぎりながら、ふと言った。
「四つ目は」
「……え?」
「我儘だ。三つでは足りない」
旦那様は懐から何かを取り出して、テーブルの上に置いた。
革の表紙の、薄い帳面だった。
表紙を開くと、最初の頁に、几帳面な字が並んでいた。
『一つ目 温かいうちに、ご飯が食べたい』
『二つ目 一緒に、温かいうちに食べてほしい』
『三つ目 明日の朝ご飯も、一緒に』
旦那様の字だった。
「……書き留めて、くださっていたのですか」
「忘れないようにな」
旦那様は、パンの真ん中を口に入れて、窓の外を見た。
耳の先が、少しだけ赤かった。
四行目から先は、まだ真っ白だった。
「今日から、一日一つ、ここに書け」




