「冷めたものが好きな子」ではありませんでした
嫁いで二月が過ぎた頃、実家から手紙が来た。
母と妹が、辺境伯家に挨拶に来るという。
妹のセレナの社交界デビューが近いので、ドレスの仕立てについて相談したい、と書いてあった。
相談、と書いてあるけれど、本当は違う。
辺境伯家の財布を当てにしているのだ。
それでも、断る理由は見つからなかった。
母と妹は、夕食の時刻にやってきた。
「まあ、立派なお屋敷ねえ」
母は食堂を見回して、満足そうに頷いた。
妹は、銀の燭台を指でつついている。
「お姉様ったら、こんなところに住んでいたの。ずるいわ」
席につくなり、妹は当たり前のように、私に皿を差し出した。
「お姉様、取り分けて。いつもみたいに」
私の手が、勝手に動いた。
立ち上がり、取り分け用の匙に手を伸ばす。
長年の癖だった。体が先に覚えているのだ。
その手を、大きな手が止めた。
「座っていろ」
旦那様だった。
「今は食事の時間だ。君の仕事ではない」
旦那様が軽く手を上げると、侍女たちが一斉に動いた。
母と妹の皿に、手早く料理が盛られていく。
そして、厨房の扉が開いた。
「奥様、お待たせしました」
料理長が、湯気の立つ鍋を抱えて現れた。
真っ先に、私の皿へ。
黄金色の玉ねぎのスープが、なみなみと注がれた。
母の眉が、ぴくりと動いた。
「あら。どうしてクラリスが一番なの? お客は私たちでしょう」
「我が家では、妻の皿が最初です」
旦那様の声は、低く、静かだった。
「それが、この家の決まりです」
母は鼻白んだ顔をして、それから、取り繕うように笑った。
「まあ、そんな。気を遣っていただかなくてもよろしいのに。この子は昔から、冷めたものが好きな子でしたから」
食堂の空気が、凍りついた。
侍女の手が止まった。
執事が、静かに目を伏せた。
料理長が、鍋の柄をぎしりと握りしめた。
旦那様は、ゆっくりと母を見た。
「冷めたものが好きだったのではない」
一言ずつ、区切るように言う。
「冷めたものしか、残されなかっただけでしょう」
母の笑顔が、固まった。
「な、何をおっしゃるの。私は、この子が食べたいときに食べられるようにと」
「一年に一度でも、この人に温かい皿を先に出したことがありますか」
母は、口を開けたまま、何も言えなかった。
妹が、きょとんとして母を見ている。
「お母様、お姉様っていつも後で食べてたんじゃないの? それって普通でしょ?」
妹の無邪気な一言で、母の顔から血の気が引いた。
旦那様は、それ以上何も言わなかった。
ただ、私のほうを向いた。
「クラリス。冷める」
私は、はっとして匙を取った。
スープは、熱かった。
今日も、ちゃんと熱かった。
しばらく、誰も口をきかなかった。
食器の触れ合う音だけが、食堂に響いていた。
やがて母が、ナプキンで口元を拭いながら、わざとらしく明るい声を出した。
「それで、閣下。セレナのデビューのドレスのことなのですけれど。辺境伯家ほどのお家でしたら、王都の一流の仕立て屋をご存じでしょう? 姉妹なのですもの、少しくらいお力添えを」
「お断りします」
旦那様は、肉を切る手を止めずに言った。
「えっ……」
「妻の実家に援助するかどうかは、妻が決めることです」
旦那様は、そこで初めて手を止め、私を見た。
母も、妹も、私を見た。
食堂中の視線が、私に集まった。
昔の私なら、きっと頷いていた。お姉さんなのだから、と。
私は、匙を置いた。
「お母様。セレナのドレスは、伯爵家で仕立ててあげてください」
母が、信じられないものを見るような目をした。
「クラリス、あなた、妹が困っているのに」
「困らせないのがいい子だと、お母様に教わりました」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「だから私は、これからは、旦那様を困らせないようにします」
母は、何か言おうとして、口を閉じた。
旦那様が、ほんのわずかに目を細めた。
テーブルの下で、大きな手が、私の手をそっと包んだ。
◇
食事のあと、母はドレスの話を切り出さないまま帰っていった。
妹は最後まで、何が起きたのか分かっていない顔をしていた。
後で聞いた話では、あの夜、母の付き添いで来ていた伯爵家の侍女が、使用人仲間に一部始終を話したらしい。
話はすぐに、王都の茶会に広まった。
「長女に冷めた残りものしか食べさせなかった伯爵夫人」。
妹のデビューの夜会では、母のまわりに人が集まらなかったという。
誰も母を責めはしなかった。ただ、近寄らなかった。
私は、何もしなかった。
する必要もなかった。
ただ、ひとつだけ、旦那様にお願いをした。
「実家の厨房に、マーサという古い料理番がいるのです」
旦那様が、手紙から顔を上げた。
「子どもの頃、たった一人だけ、私に焼きたてのパンの端を取っておいてくれた人です。母に見つかって、何度も叱られていました」
だから、私は知っていたのだ。
焼きたてのパンが、温かいことを。
ほんの一欠片だけ、知っていた。
「……あの人も、温かいうちに食べてほしいのです」
旦那様は、すぐに執事を呼んだ。
ひと月後、マーサは辺境伯家の厨房で働き始めた。
料理長のガストンとは、初日から大喧嘩をして、二日目には肩を並べてパンを焼いていた。
「お嬢様……いいえ、奥様」
厨房の入り口で、マーサは私の手を握って泣いた。
「よかった。本当に、よかった。ここでは、一番に召し上がっていらっしゃるのですね」
その日の夕食に、マーサは小さな丸パンを焼いてくれた。
昔と同じ、皮の硬い、素朴なパンだった。
焼きたての端をちぎると、湯気と一緒に、懐かしい匂いが立ちのぼった。
厨房の隅で、こっそり手渡されたときと、同じ匂い。
口に入れた瞬間、私は分かった。
「旦那様」
「何だ」
「見つかりました。私の、好きな料理」
旦那様が、手を止めた。
「焼きたてのパンの、端っこです」
旦那様は、私の手の中のパンを見て、それからマーサを見た。
マーサは、厨房の入り口で、エプロンで顔を覆っていた。
「……ガストン」
「へい」
「明日から毎朝、マーサのパンを焼かせろ。端は全部、クラリスの皿だ」
「全部ですか。旦那様の分は」
「私は真ん中でいい」
料理長が吹き出した。
私も、笑いながら、二つ目の端をちぎった。
辺境に、最初の雪が降ったのは、その翌週のことだった。




