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【連載版】「一つくらい我儘を言え」と旦那様に言われたので、一晩考えて「温かいうちにご飯が食べたい」とお願いしました  作者: もしものべりすと


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2/7

初めての熱いスープは、舌がひりひりしました

翌日の夕食は、いつもと違った。


私が席につくと、まず厨房の扉が開いた。

料理長が自ら、小さな鍋を抱えて出てくる。


「奥様、熱いのでお気をつけて」


目の前で、深皿にスープが注がれた。

黄金色の、玉ねぎのスープ。

とろりとした表面から、白い湯気がまっすぐに立ちのぼる。


湯気が、頬に触れた。

温かかった。


旦那様も、執事も、侍女たちも、料理長も、誰も動かなかった。

皆が、私を見ていた。


「……いただきます」


匙を入れる。

すくい上げると、湯気がふわりと揺れた。


口に運ぶ。


熱い。


舌が、ひりりとした。

思わず肩が跳ねて、私は慌てて口元を押さえた。


「熱かったか」


旦那様が、少しだけ身を乗り出した。


「……はい。熱い、です」


熱い。

スープは、こんなに熱いものだったのか。


玉ねぎの甘さが、舌の上でほどけていく。

喉を通って、胸の真ん中に落ちていく。

そこから、じわじわと温かさが広がっていく。


二口目をすくった。

また熱かった。

三口目で、視界がにじんだ。


「奥様……?」


侍女の声がした。

私は、匙を握ったまま、うつむいた。


ぽたり、と。

スープの上に、一粒落ちた。


泣くつもりなんて、なかった。

ただ、温かかっただけなのに。


冷めたスープの膜を、匙の先で破った夜のこと。

硬くなったパンを、ぬるい水でふやかした朝のこと。

厨房の窓から、食堂の笑い声を聞いていた日のこと。


全部が、熱いスープと一緒に、喉の奥からせり上がってきた。


「……すみません。熱くて、舌が」


言い訳は、誰にも通じなかった。


旦那様が、黙って立ち上がった。

私の椅子の隣に来て、膝をつく。

大きな手で、私の手から匙を取った。


「ゆっくりでいい」


旦那様は、スープをすくい、ふう、と一度だけ息を吹きかけた。

それから、私の口元に匙を差し出した。


「冷めるのを待つ必要はない。熱ければ、こうすればいい」


私は、目を丸くした。

旦那様の顔は、いつもと同じで、表情が少なかった。

でも、耳の先が、ほんのり赤かった。


私は、差し出された匙を口に含んだ。


ちょうどいい温かさだった。


壁際で、料理長が鼻をすする音がした。


◇


その夜、侍女のアンナが、寝支度を手伝いながら小さな声で言った。


「奥様。厨房の皆、泣いてました」

「……え?」

「料理長なんて、鍋を洗いながら三回も鼻をかんでましたよ。『俺は今まで何を見てたんだ』って」


アンナは、私の髪を梳く手を止めずに続けた。


「明日から、皆で競争なんです。誰が一番に、奥様に温かいものをお出しできるか」

「競争、ですか」

「はい。旦那様も参加なさるそうです」


私は、鏡の中のアンナを見た。

アンナは、真面目な顔で頷いた。


冗談ではないらしかった。


◇


それからの毎日は、驚くことばかりだった。


翌朝、食堂に入ると、旦那様がもう席についていた。

私が座るのを待って、厨房の扉が開く。


朝食のパンは、焼き上がりを籠ごと運んでくる。

割ると、白い湯気が立った。


私は、パンを手に持ったまま、旦那様のほうを見た。

旦那様の皿は、まだ空だった。


「旦那様のお皿が、まだですわ」

「私は後でいい」

「でも」

「先に食べろ。君が食べないと、誰も動けない」


見回すと、本当にそうだった。

給仕の侍女も、執事も、私の手元をじっと見ている。

私が一口目を食べるまで、この家の朝は始まらないらしい。


私は、おそるおそるパンをちぎって口に入れた。

外は香ばしく、中はふっくらと柔らかい。

噛むと、小麦の甘い匂いが鼻に抜けた。


「……おいしい」


小さく呟くと、侍女が「よし」と拳を握った。

執事が咳払いをして、それを見なかったことにした。


その日の昼、私はつい、癖で厨房に入ってしまった。

皿洗いでも手伝おうと思ったのだ。


「奥様! 何をなさってるんですか!」


見習いの少年が、悲鳴を上げた。

料理長が、すっ飛んできた。


「奥様の仕事は、座って、熱いうちに食べることです。皿洗いは俺らの仕事です」

「でも、何もしないでいるのは落ち着かなくて」

「じゃあ、味見をしてください。それなら立派な仕事です」


料理長はそう言って、小さな匙で、煮込みの鍋から一口すくってくれた。

熱かった。

私は、ふうふうと息を吹きかけてから、それを口に入れた。


「塩が、少し強い……かもしれません」

「ほう。奥様、舌がいいですな」


料理長は真面目な顔で鍋に水を足した。

厨房の皆が、なぜか嬉しそうに笑っていた。


昼のお茶は、私がカップに口をつけるまで、侍女がポットを温め直す。

夕食の肉は、切り分けた瞬間に、じゅっと音がする。


「奥様、今日は焼き栗です。皮が熱いので、俺が剥きます」

「自分で剥けますわ」

「火傷されたら、俺が旦那様に殺されます」


料理長が真顔で言うので、私は思わず笑ってしまった。


旦那様は、食事中に一度も仕事の話をしなくなった。

代わりに、ぽつぽつと、どうでもいい話をするようになった。


「今朝、厩で仔馬が生まれた」

「まあ。見に行ってもよろしいですか」

「食べ終わってからだ。冷める」


私が手を止めかけると、旦那様は必ず言う。

「冷める」と。

それがおかしくて、私は毎回、笑いながら匙を動かした。


ある夜、旦那様がふと訊いた。


「好きな料理は何だ」


私は、答えられなかった。

温かい料理を食べたことがほとんどないので、何が好きなのか分からなかったのだ。


正直にそう言うと、旦那様は少し考えてから、料理長を呼んだ。


「明日から、一日に一品、知らない料理を出せ。クラリスが好きなものを見つけるまで」

「承知しました。腕が鳴りますね」


料理長は、太い腕をぐるりと回した。


それから毎晩、私の前には、見たことのない料理が並んだ。

鶏の香草焼き。

牛乳で煮た白い魚。

蜂蜜をかけた、焼きたての林檎。


「どれが一番だった」

「……全部、です」

「それでは決まらない」

「だって、全部温かかったんですもの」


旦那様は、困ったように眉を寄せた。

それから、ほんの少しだけ、口の端を上げた。


幸せすぎて、少し怖いくらいだった。


こんな日々が、ずっと続くはずがない。

そう思ってしまうのは、たぶん、長年の癖なのだと思う。


その癖が、半分だけ当たっていたと知るのは、それから少し後のことだ。


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