「一つくらい我儘を言え」と言われたので、一晩考えました
「一つくらい我儘を言え」
朝食の席で、旦那様がそう言った。
銀のナイフを置く音が、広い食堂に小さく響いた。
「……我儘、ですか」
「そうだ。嫁いで一月になる。君は、まだ一度も何かを欲しがったことがない」
旦那様――レオンハルト・グレイヴス辺境伯は、表情の少ない人だ。
灰色の目でじっと見つめられると、叱られているような気がしてしまう。
けれど、声は少しも怒っていなかった。
「ドレスは」
「足りております」
「宝石は」
「持っていても、つけていく場所がございません」
「部屋は」
「広すぎるくらいです」
旦那様は、短く息を吐いた。
「では、考えておけ。明日の朝、聞く」
それだけ言って、旦那様は席を立った。
私は、まだ半分も残っているスープの皿を見下ろした。
湯気は、とうに消えていた。
旦那様が出ていったあと、食堂には私と、給仕の侍女と、壁際の執事だけが残った。
皿を下げに来た侍女に、私はいつもの癖で手を伸ばしかけた。
「奥様、それは私どもが」
「あ……ごめんなさい」
下げられていく皿を見送りながら、私は膝の上で手を握った。
この家に来て一月。
私はまだ、何もしないで座っていることに慣れない。
◇
私、クラリス・グレイヴスは、ハートウェル伯爵家の長女として生まれた。
下には妹が一人と、弟が一人いる。
母はいつも言った。
「クラリスはお姉さんなのだから、後でいいわね」
食事も、そうだった。
家族が食堂で食べている間、私は給仕を手伝った。妹のスープをよそい、弟の肉を切り分け、父の杯に葡萄酒を注いだ。
皆が食べ終えてから、私は厨房の隅で残りものを食べた。
スープの表面には、いつも薄い膜が張っていた。
パンは硬くなり、肉の脂は白く固まっていた。
それが、私にとっての「ご飯」だった。
冷たいのが当たり前すぎて、おかしいと思ったこともなかった。
辺境伯家から縁談が来たのは、半年前のことだ。
北の国境を守る、寡黙で恐ろしいと噂の辺境伯。
妹のセレナは「北の果てなんて嫌」と泣き、母は迷わず私を差し出した。
いつものことだった。
妹が嫌がるものは、私に回ってくる。
けれど、嫁いでから知ったことがある。
辺境伯家から届いた釣書には、はじめから『ハートウェル伯爵家長女、クラリス嬢』と、私の名前が書かれていたのだ。
どうして、私だったのか。
旦那様は、一度もそれを口にしない。
その夜、私は寝台の上で、ずっと考えていた。
我儘。
欲しいもの。
ドレスは、いつも妹のお下がりだった。でも、それで困ったことはない。
本は、借りれば読める。
花は、庭に咲いている。
いくら考えても、何も浮かばなかった。
欲しいものを考えるのは、生まれて初めてだったのだ。
試しに、紙に書き出してみようとした。
ペンを持ったまま、半刻が過ぎた。
紙の上には、一文字も増えなかった。
子どもの頃、一度だけ、母に言ったことがある。
誕生日の夕食のときだった。
「お母様。今日は、私も一緒に食堂で食べてはいけませんか」
母は、少しだけ困った顔をした。
「クラリス、お姉さんでしょう。セレナがまだ小さいのに、あなたまで座ったら、誰が取り分けるの」
それきり、私は何かを頼むのをやめた。
頼めば、誰かが困る。
困らせないのが、いい子なのだと思った。
窓の外が白み始めた頃、私はふと、昨日のスープを思い出した。
旦那様の話を聞いているうちに、冷めてしまったスープ。
――温かいうちに、食べたかったな。
そう思った瞬間、喉の奥が、きゅっと詰まった。
◇
「決まったか」
翌朝、旦那様は食堂に入ってくるなり、そう訊いた。
私は椅子の上で、背筋を伸ばした。
「あの……本当に、何でもよろしいのですか」
「何でもいい」
「とても、くだらないことでも」
「構わない」
私は、膝の上で両手を握りしめた。
声が震えないように、一度だけ息を吸う。
「温かいうちに、ご飯が食べたいです」
食堂が、しんと静まり返った。
給仕をしていた侍女の手が止まった。
壁際の執事が、わずかに目を見開いた。
旦那様は、黙って私を見ていた。
やはり、くだらなかったのだ。
私は慌てて、言葉を足した。
「も、申し訳ございません。忘れてください。今のは」
「……それだけか」
「はい。それだけ、です」
旦那様は、長いこと何も言わなかった。
それから、低い声で訊いた。
「実家では、冷めたものを食べていたのか」
「家族が食べ終わってから、厨房でいただいていましたので。でも、慣れておりますから、本当に」
「毎日か」
「……毎日、です」
旦那様が、ゆっくりと立ち上がった。
「料理長を呼べ」
◇
それからの騒ぎを、私は一生忘れないと思う。
呼ばれてきた料理長のガストンは、熊のように大きな人だった。
旦那様から話を聞くと、白い帽子を握りしめて、天井を仰いだ。
「なんてこった。奥様、なぜ早くおっしゃらねえんですか」
「え……?」
「奥様はいつも、旦那様のお話が終わるまで手をつけねえ。だから皿が冷める。俺はてっきり、熱いのがお嫌いなのかと」
料理長は、太い指で自分の額を叩いた。
「明日から段取りを変えます。奥様の皿は、奥様が席についてから火から下ろす。一番に」
「一番に、ですか。でも、旦那様より先に私が」
「我が家では妻の皿が先だ」
旦那様が、当然のように言った。
「それと、私は食事中に仕事の話をやめる。君が手を止めるからな」
「そんな、旦那様のお話を邪魔するなんて」
「邪魔しているのは私の話のほうだ」
侍女頭が、そっとハンカチで目元を押さえていた。
私は、何が起きているのか分からなかった。
その夜、私はなかなか眠れなかった。
明日の夕食は、本当に温かいのだろうか。
温かいご飯というのは、どんな味がするのだろう。
生まれてから今まで知らずにきたことを、私は寝台の中で何度も想像した。
想像するたびに胸が騒いで、ますます目が冴えた。
窓の外では、秋の終わりの冷たい風が鳴っていた。




