第三話 伯爵家が失ったもの
7日後。
マリアネラは、フリオから何の返答も得られなかった。
ラモナは相変わらず屋敷に出入りし、マリアネラの私室へ立ち入ろうとした。フリオはそれを止めるどころか、彼女が抗議するたびに不機嫌な顔をした。
「お前、いつまでそんな態度を続けるつもりだ?」
フリオは、朝食の席で言った。
「わたくしは、7日間の猶予を設けました。何も改善されなかったので、予定どおり手続きを進めます」
「本気で離婚するつもりか?」
「はい」
「馬鹿なことを言うな。お前は伯爵夫人だぞ。離婚して、どうするつもりだ?」
「それは、わたくしが考えることです」
フリオはテーブルを叩いた。
「俺の屋敷に嫁いできた以上、俺の言うことに従え!」
「わたくしを妻として扱うつもりがないのに、妻として従うことだけを求めるのですね」
「何だと?」
「失礼いたします」
マリアネラは席を立った。
その日のうちに、エリベルトとともに正式な離婚手続きへ着手した。婚姻期間は、まだ10日ほど。共同で築いた財産はなく、婚姻契約書には持参財産と個人所有物の扱いが明記されていた。必要なのは、感情的な説得ではなく、契約に沿った財産の確認と、双方の合意、そして所定の手続きだった。
フリオは、最初こそ強気だった。
「離婚など認めるものか。お前は俺の妻だ!」
だが、エリベルトが正式な書類を揃え、契約条項を示すと、彼の態度は少しずつ変わり始めた。
とりわけ、ガルドス侯爵家との婚姻によって得られていた取引上の便宜が、今後は当然のものではなくなると知ったとき、彼の顔色は目に見えて悪くなった。
ラボイ伯爵家の変化は、離婚手続きが始まると同時に現れた。
それまで取引先は、支払いが遅れても、多少の無理を聞いてくれていた。
侯爵家との縁がある。
いずれ資金が入るだろう。そう考えて、支払い期限の延長や追加の掛け取引を認めていたのである。しかし、マリアネラとの離婚が現実味を帯びると、状況は一変した。
「伯爵、申し訳ありませんが、これ以上の掛け取引はお受け出来ません」
「何だと? 今まで問題なかっただろう!」
「これまでとは事情が変わりました。未払い分のお支払いを確認できるまで、新たな納品は控えさせていただきます」
「ふざけるな! 俺を誰だと思っている!」
「伯爵であることは承知しております。ですが、当方にも商いがございますので」
商人は一礼し、引き下がった。
別の取引先からも、同じような通知が届いた。過去の帳簿を確認すると、支出は収入を大きく上回っていた。フリオ個人の遊興費と伯爵家の経費が混同され、支払いの優先順位も曖昧だった。ラモナへの贈り物、夜会や宴席での散財、収入の見込みを超えた買い物。
それらを支えていたのは、健全な経営ではない。侯爵家との縁が生む信用だった。そして、その信用はマリアネラと離婚すれば、当然のように消えていくものだった。
なお、マリアネラは一度も伯爵家の帳簿を管理していない。支出を決める権限も、取引先への支払いを指示する権限も与えられていなかった。
彼女が屋敷を去るから経営が悪化したのではない。もともと存在していた歪みが、後ろ盾を失うことで表面化しただけだった。
「マリアネラ!」
フリオが彼女の滞在する部屋へ飛び込んできたのは、離婚の話し合いが始まって数日後のことだった。
「今すぐ、離婚の手続きを止めろ!」
「理由を伺っても?」
「取引先が、急に支払いを迫ってきたんだ! 納品まで止めると言っている!」
「そうですか」
「そうですか、じゃない! お前から侯爵家に話をしてくれ。これまでどおり、俺の家を支えるように言うんだ!」
マリアネラは、静かにフリオを見つめた。
「わたくしは、伯爵家の経営に関わることを許されませんでした」
「だから何だ!」
「帳簿を見せていただいたこともありません。支払いを決めることも、支出を管理することも出来ませんでした。わたくしに何をしろとおっしゃるのですか」
「侯爵家の娘だろう! お前が頼めば済む話だ!」
「わたくし自身を妻として尊重するつもりはなくても、わたくしの実家の信用は必要なのですね」
「当たり前だ! 夫婦なら助け合うものだろう!」
「では、何故わたくしの立場を尊重しなかったのですか」
フリオは言葉に詰まった。マリアネラは続けた。
「何故、わたくしの私室にラモナ様が立ち入ることを許したのですか。何故、わたくしの私物を勝手に与えようとしたのですか。何故、妻としての責任だけを求め、妻としての権利を認めなかったのですか」
「それは……」
「わたくしは、あなたの家を管理することすら許されませんでした。あなたは、わたくしに何も任せなかった。今になって、わたくしに何を求めているのですか」
「お前は俺の妻だろうが!」
「もうすぐ、その関係も終わります」
フリオの顔が赤くなった。
「貴様……!」
だが、怒鳴る以外に言葉が見つからないようだった。
マリアネラは、彼を見据えた。
「わたくしがいなくなることで、伯爵家の信用が揺らぐのなら、それはわたくしが原因なのではありません。あなたが、わたくしという人間ではなく、ガルドス侯爵家の名だけを利用していたからです」
「黙れ!」
「お話は以上です。手続きについては、叔父様を通してください」
フリオは何か言い返そうとしたが、結局、荒々しく扉を閉めて出ていった。
その夜、ラモナの金切り声が屋敷中に響いた。
「ちょっと、どういうことよ!」
彼女はフリオの執務室へ押しかけ、机の上の書類を叩いた。
「今月は新しいドレスを買ってくれるって言ったじゃない! 宝石だって、次の舞踏会までに用意するって!」
「今はそれどころじゃないんだ!」
「はあ? 何よそれ! あんた、伯爵でしょ!」
「取引先が金を払えと言ってきているんだ! 納品も止めると言われた!」
「だったら侯爵家に頼めばいいじゃない!」
「マリアネラが離婚すると言っているんだよ!」
「何とかしなさいよ! あたし、伯爵夫人になるんじゃなかったの?」
フリオは顔を覆った。
「お前のために、どれだけ金を使ったと思っている!」
「何よ! あたしのせいだって言うの?」
「誰がこんなことになると分かっていた!」
「じゃあ、あの女を止めなさいよ! 侯爵家のお嬢様なんでしょ? あんたが夫なんだから、言うことを聞かせればいいじゃない!」
「俺の言うことを聞かないから困っているんだ!」
二人の声は、廊下まで響き渡った。
互いに相手を責めながら、どちらも自分が何をしてきたのかを振り返ろうとはしなかった。フリオは、ラモナを愛していると言いながら、彼女に与える贅沢のために家の財産を削ってきた。ラモナは、フリオを愛していると言いながら、彼が伯爵であることと、与えてくれる贅沢に執着していた。
二人が築いた関係は、マリアネラの犠牲の上に成り立っていた。その犠牲が終わろうとしている今、二人の関係を支えるものも、急速に失われていた。
イポリトが娘の離婚を知ったのは、さらに数日後のことだった。
「何を考えているのだ、マリアネラ!」
侯爵家へ呼び出されたマリアネラは、父の執務室で叱責を受けていた。
「結婚して、まだ半月も経っていないのだぞ!」
「承知しております」
「ならば、何故離婚などという話になる!」
「婚姻関係を続けることが困難だと判断したためです」
「夫婦の問題は夫婦で解決しろと言ったはずだ!」
マリアネラは、父をまっすぐに見つめた。
「そのとおりにしております」
「何だと?」
「わたくしは結婚三日目に、お父様へ手紙を差し上げました。夫の振る舞いが、ガルドス侯爵家の名誉を損なっていると考えたからです。当主として対応していただきたいとお願いしました」
イポリトは眉を顰めた。
「それがどうした」
「お父様は、夫婦の問題だから自分たちで解決しろと仰いました」
「当然だろう!」
「ですから、わたくしは自分で解決することにしたのです」
マリアネラの声は静かだった。
「離婚も、財産の整理も、正規の手続きに従って進めています。お父様のご指示に従ったまでです」
「貴様……!」
「但し、もう一つ申し上げておきます」
彼女は一歩も引かなかった。
「わたくしは、ガルドス侯爵家の正統な後継者です。先代侯爵が正式に指名された記録も、わたくしが固有魔法を有している記録も残っています。今後は、後継者としての立場を正式な手続きによって確かなものにするつもりです」
イポリトの顔から、血の気が引いた。
「……誰に、そんなことを吹き込まれた」
「誰にも。わたくし自身が決めました」
「お前は伯爵夫人だろう! 侯爵家のことに口を出す立場ではない!」
「婚姻によって、先代侯爵が残した後継者指名が消える規則はありません」
「黙れ!」
「お父様」
マリアネラは、初めてその声に強い意志を込めた。
「わたくしは、あなたの許しを得るために申し上げているのではありません。わたくしの権利を、正式な手続きで確認することをお伝えしているのです」
イポリトは、暫く何も言えなかった。
これまで彼は、娘が自分の判断に従うことを当然としてきた。娘の婚姻も、将来も、後継者としての扱いも、自分が決められると思っていた。だが、目の前の娘は、もはや父の顔色を窺っていなかった。
マリアネラは一礼した。
「失礼いたします」
扉へ向かう彼女の背中を、イポリトは呼び止められなかった。
彼は初めて、娘が自分の手の届かないところへ進み始めたことを悟った。それでも彼は、自分が娘をそこまで追い詰めたとは、認めようとしなかった。




