第四話 侯爵家の正統後継者につき
婚姻から、30日目。マリアネラとフリオの離婚は、正式に成立した。婚姻契約書に従い、持参財産と個人所有物の帰属が確認され、必要な清算も行われた。
マリアネラは、ラボイ伯爵家の財産を奪おうとはしなかった。彼女が求めたのは、自分の権利が正しく扱われることだけだった。
「マリアネラ、考え直してくれ!」
手続きの最後、フリオは縋るような声を上げた。
「俺が悪かった! だから、もう一度だけ……!」
「何を考え直すのですか」
「離婚だ! お前がいなくなったら、俺はどうすればいい!」
「伯爵家の経営については、伯爵ご自身が責任を持って立て直してください」
「そんなことを言うな! お前なら、侯爵家に話を通せるだろう!」
マリアネラは、静かに首を振った。
「あなたは、最後まで同じことを仰るのですね」
「何がだ!」
「わたくし自身を必要としているのではなく、わたくしが持つ縁と信用を必要としているのです」
「違う! 俺は……!」
「あなたは、わたくしを妻として扱いませんでした。わたくしの私室も、私物も、立場も尊重しなかった。わたくしに屋敷のことを任せることすらしなかった」
マリアネラは、最後に深く息を吸った。
「あなたが欲しかったのは、妻ではありません。ガルドス侯爵家の後ろ盾です」
フリオは口を開いたが、何も言えなかった。
「どうか、ご自分の家のことは、ご自分でお決めください」
彼女は一礼し、部屋を出た。廊下には、エリベルトが待っていた。
「終わったか、マリア」
「はい、叔父様」
「そうか。よく頑張ったな」
その言葉に、マリアネラの胸が少しだけ熱くなった。彼女は、漸く自分の人生を取り戻したのだ。
離婚成立後、ラボイ伯爵家の暮らしは急速に変わった。
未払い金の精算を求める通知が届き、取引先は新たな掛け取引を断った。過去の帳簿を整理すればするほど、支出の無計画さが明らかになった。
フリオは、夜会への参加を減らさざるを得なくなった。ラモナに与えていた高価な贈り物も、以前のようには買えなくなった。
「こんなの聞いてないわよ!」
ラモナは、衣装部屋の前で叫んだ。
「どうして新しいドレスが買えないの? この前の舞踏会だって、あたし、皆に笑われたのよ!」
「今は我慢しろ!」
「我慢? あたしが何を我慢するっていうのよ! あんた、伯爵でしょう!」
「伯爵だから何でも出来るわけじゃない!」
「じゃあ、どうしてあたしを伯爵夫人にするなんて言ったのよ!」
フリオは答えられなかった。彼が約束した未来は、マリアネラの存在と侯爵家の信用に依存していた。それを失った今、彼にはラモナを満足させる余裕も、彼女を正式な伯爵夫人に迎えるための確かな道筋もなかった。
「もう、あんたなんか知らない!」
ラモナは吐き捨て、部屋を出ていった。
フリオは追いかけなかった。追いかける余裕もなかった。
伯爵家は即座に破産したわけではない。しかし、これまでのような贅沢は続けられず、支払いを優先し、出費を削り、信用を一から築き直さなければならなくなった。それは、彼自身が向き合うべき現実だった。
マリアネラがいなくなったから家が傾いたのではない。彼が家の実情を見ないまま、後ろ盾に甘えていたからこそ、支えを失ったときに立ち行かなくなったのである。
一方、ガルドス侯爵家では、正式な後継者確認の手続きが進められていた。
先代侯爵の指名書。マリアネラの固有魔法に関する記録。幼少期からの制御訓練の記録。母方の祖父母アルフォンソとセレスティーナの証言。それらが、家の記録を管理する責任者の前に提出された。
エリベルトは手続きの補助に徹し、必要な書類を整えた。そして、最も大切な場面では、マリアネラ自身が前に立った。
「マリアネラ・ガルドスです」
彼女は、正面に座る関係者たちへ向かって告げた。
「先代侯爵より正式に後継者として指名された者として、記録の確認と、所定の手続きに基づく後継者の確定を求めます」
提出された書類に不備はなかった。
固有魔法の有無も、発現の記録も、指名の事実も、全て確認できた。
イポリトにも固有魔法はある。だが、それは先代によるマリアネラへの指名を覆す理由にはならない。まして、第二夫人の息子にはガルドス家の固有魔法がなく、後継者となる資格そのものがなかった。
エリベルトも、家の運営を支えてきた実績はあっても、固有魔法を持たないため、侯爵位を継ぐことは出来ない。
必要な確認が終わると、手続きの責任者が書類を閉じた。
「提出された記録に基づき、マリアネラ・ガルドスをガルドス侯爵家の正統な後継者として確認します。以後の継承については、家の規則および所定の手続きに従って進めるものとします」
その言葉を聞いた瞬間、マリアネラは目を閉じた。
勝利の喜びに、胸が躍ったわけではない。ただ、漸く事実が事実として認められたことに、深い安堵を覚えたのだった。
手続きが進み、マリアネラが侯爵家の後継者として正式に認められると、イポリトの権限は規則に従って整理されていった。
彼が当主として務めてきたことまで、全て否定されたわけではない。彼には固有魔法があり、先代の死後に当主となる資格もあった。
だが、娘を後継者に指名した先代の意思は、最初から記録として残されていた。イポリトが娘を遠ざけたところで、その記録が消えることはなかったのである。
「マリアネラ!」
最後の話し合いの場で、イポリトは娘を呼び止めた。
「お前は、本当にこれでいいと思っているのか!」
「はい」
「私はお前の父だぞ!」
「存じております」
「ならば、少しは父の立場を考えろ!」
マリアネラは、暫く父を見つめた。
幼いころ、彼女は父に褒められたかった。固有魔法を発現させたときも、制御に成功したときも、父が自分を認めてくれることを期待していた。けれど、父が恐れていたのは、娘の才能が自分を超えることだった。娘が誰かに支えられ、自分の地位を脅かすことだった。
父は、娘が力を持つことを喜ばなかった。そして、娘が助けを求めたときには、家の問題に関わることすら拒んだ。
「お父様」
マリアネラは静かに口を開いた。
「わたくしは、最初からお父様と争いたかったわけではありません」
「ならば……!」
「結婚三日目に、お父様へ手紙を書きました。わたくしが傷ついたから、慰めてほしいとお願いしたのではありません。ガルドス侯爵家の娘を侮ることは、ガルドス侯爵家そのものを侮ることだと考えたからです」
イポリトの顔が強張った。
「わたくしは、当主であるお父様に、家の名誉を守るための対応をお願いしました。けれど、お父様は夫婦の問題だと仰った」
「それは……」
「ですから、わたくしは自分で対応しました」
マリアネラは、言葉を一つずつ選んだ。
「お父様は、ご自身の立場を守るために、わたくしを遠ざけました。家の名誉より、ご自身の都合を優先しました。わたくしは、同じことを繰り返すつもりはありません」
「お前に、何が解る!」
「全てが解るとは申しません」
彼女は首を横に振った。
「けれど、わたくしが何をされたのかは、わたくし自身が知っています。そして、これからガルドス侯爵家をどうしていきたいのかも、自分で決めるつもりです」
イポリトは、言葉を失った。
彼が最後まで求めていたのは、娘が自分に従うことだった。娘が自分の判断を受け入れ、自分の都合に合わせて生きることだった。
だが、マリアネラはもう、その期待に応えるつもりはなかった。
「わたくしは、侯爵家の名を守ります。そこに暮らす者たちの生活を守り、家の責任を果たします。誰かの都合のために、家の名を利用することはいたしません」
彼女は深く一礼した。
「それが、わたくしの選んだ道です」
話し合いのあと、マリアネラは中庭へ出た。季節の花が咲き、風が柔らかく頬を撫でる。
ここは、幼いころに何度も歩いた庭だった。三歳で固有魔法を発現させたとき、先代侯爵は彼女を抱き上げて喜んだ。幼い手で魔法を制御できたとき、彼は「この子なら大丈夫だ」と笑った。
その言葉を、マリアネラはずっと覚えていた。
「どうした、マリア」
背後から声がした。振り返ると、エリベルトが立っていた。
「叔父様」
「随分静かな顔をしているな」
「……これからのことを考えていました」
「そうか」
エリベルトは彼女の隣に立ち、庭を眺めた。
「これからは忙しくなるぞ。家の帳簿も、領地の管理も、取引先との交渉もある。君に教えることは山ほどある」
「覚悟しています」
「無理はするなよ。最初から全部出来る人間なんていない」
彼は、いつもの気軽な調子で笑った。
「困ったら俺に聞けばいい。君が決めたことなら、俺は支える。だから、一人で全部抱え込もうとするな」
マリアネラは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます、叔父様」
「礼は、仕事が一段落してからでいい。まずは明日の書類だな」
「……明日も書類ですか?」
「明日も書類だ」
「少しくらい、お休みをいただけませんか」
「ははっ。そうだな。君が後継者として認められた祝いに、明日は休みにしよう」
「本当ですか?」
「但し、明後日は倍だ」
「叔父様!」
二人の笑い声が、静かな中庭に響いた。マリアネラは、漸く心から笑うことが出来た。
誰かの顔色を窺う必要はない。自分の意思を押し殺す必要もない。
彼女を支えてくれる人々がいる。そして、自分自身の力がある。
数日後、マリアネラは侯爵家の執務室に座っていた。机の上には、領地から届いた報告書と、確認を待つ契約書が積み重なっている。
エリベルトが隣で書類を整理しながら、ひとつの報告書を差し出した。
「まずは、ここの支出から見直そう。長年の慣習で続いている契約もあるから、必要かどうか一つずつ確認する」
「解りました。領地の者たちの生活に影響が出ないよう、慎重に進めましょう」
「そうだな。君なら、そこを忘れないと思っていた」
マリアネラは書類に目を落とした。
これから始まるのは、華やかな舞踏会でも、誰かを見返すための復讐でもない。家を守るための、地道な仕事だ。けれど、その仕事こそが、彼女が望んでいたものだった。
お飾りの妻として、誰かの都合に従う人生ではない。自分の力で考え、自分の責任で決め、自分の手で未来を築いていく人生。
かつて、父は彼女を恐れた。夫は彼女を利用しようとした。愛人は彼女を侮り、伯爵夫人の座を奪えると思い込んでいた。
けれど、彼らは誰一人として、マリアネラ自身を見ていなかった。彼女が何を持ち、何を望み、何を守ろうとしているのか。そのことを、彼女自身だけは忘れなかった。
マリアネラはペンを取り、最初の書類に署名した。その名の下には、今や確かな意味があった。
マリアネラ・ガルドス。ガルドス侯爵家の正統な後継者。そして、これから自らの意思で家を率いていく者。
彼女は、誰かの許可を待たない。誰かの都合のために、自分を差し出さない。
自分の人生を決める権利は、最初から自分の手にあったのだから。
窓の向こうでは、朝の光が侯爵家の庭を照らしていた。
マリアネラは顔を上げ、前を見据えた。もう、誰にも彼女をお飾りにはさせない。




