予想外、予定外
二日前より早い時間帯、ネクタイを締めブレザーに袖を通す。高校生気分はまだ慣れなさそうだ。
鞄を持って玄関の外に出てから数十秒。
ガチャッ
「さぁ行きましょう姉さん」
「……そのキャラキモいからやめて」
爽やかな雰囲気を作り出そうとしてみたが、気持ち悪かったようだ。朝から辛辣な我が姉上。
黒い瞳で放たれるジト目が心に刺さる。
揺れるセミロングは水面に反射した陽光より輝いている……気がする。姉上補正かも。
(制服を着てるとちゃんと高校生に見えるな。……足出しすぎじゃないか?)
二日前の記憶を辿る限り、過度に短いわけではないんだが……膝が出てるとお父さん心配。代弁。
二人並んでエレベーターに向かう。
「姉さんって、いつも一人で登校してんの?」
「こっち方面の子が居ないの」
「へー」
(邪魔をするわけにはいかないと思ったんだが、杞憂だった)
もし誰かと登校しているなら陰から見守るくらいで留めていただろう。
「アンタは?言ってた四人で一緒の方向の人とか居ないの?」
「どうだろうね。昨日は会うことも無かったし」
昨日あった健康診断は男女別々の時間に行って即解散だった。
「そんな仲良くなることは――まぁ、無いとは言い切れないけど」
「なんでそんな見てくんの」
「なんでもないです」
(四人がどのくらい姉上にご執心かによるんじゃないですかね)
マンションを出るとぽかぽかとした陽気に包まれる。爽やかな朝に姉上のような人と並んで登校なんて、ここ数日で帯びてきた現実味が薄れてしまいそうだ。
ありがたいことに現実なので二人並んで歩き出す。並んで歩くことへの不満は、今のところ姉上から見受けられないので胸を撫で下ろす。
昨日のテレビの話とか、今日の授業が不安な話とか、そんな他愛もない話をしながら駅へ向かう。
向かうんだが――
「……姉さんって、いつもこんななの?」
ここまでで、道行く人の内気づいた人がチラリ。大体打率は二割くらい。まぁ、注視してなきゃそこまで気にならんだろう。
――問題は、制服を多く見かける通りに出た時。
昨日の大体三倍くらい居る制服姿の内で四割は驚愕、三割は遅れて驚愕、二割は絶句ってとこだ。
「いつもはここまでじゃない。マスクしてること多いし……なんでだろ」
(気づいてないよこの人)
彼ら彼女らの視線の先は姉上ではない。
(……つきささるぅ)
「なんか……アンタが見られてない?」
「だろうね。多分、『あのお方の隣にいる野郎は誰だ』ってことだと思う」
「あー……彼氏って勘違いされてるわけね」
ご自身の隣に男が立っている事の重大さが、少しは伝わっただろうか。
一年生は超絶美少女に驚き、ニ、三年生は並ぶ男に驚いているのが大半だろう。絶句してる人は姉上にゾッコンな方たちだろうか。
なんにせよ、すごい注目度だ。
(ここまで見られるとは)
攻撃的な視線だけではなく、ピンク色のもの、なんなら声があるのが救いか。
駅の改札を通った後も、その視線は続いた。
「……大丈夫?」
「問題なし。なんとなく覚悟してきたから」
予想以上の光景だったのか、心配そうに声をかけてくれる姉上に応える。視線の雨に晒されていい気はしないが、この人と登校出来るなら関係ない。心配させるのが申し訳ないくらいに心は晴れやかである。
弟の強気な返答が意外だったのか、口の端を釣り上げてからかうように投げかけられる。
「へぇ……?案外頼もしいじゃん。アンタが居れば変な――――あっ」
「えっ?」
が、その言葉は途切れた。
隣に立つ姉上から、こちらを見透かすような細めた視線を向けられて――
「アンタ……電車通学が不安とか、嘘でしょ」
かわいい、なんて思っている場合ではない。
着飾っていない黒い瞳に込められているのは確信。ジロリと|睨≪ね≫め付けるような視線は、こちらの緊張を簡単に引き出した。
「大方、ナンパとか痴漢から守ってやろうってことでしょ?」
(……バレた。早いって)
まだ初日、しかも家を出て数分しか経っていない。
それでも、たまに変なヤツに絡まれるであろう姉上は、自然とその答えにたどり着いたようだ。どうしよ。
「いや?電車通学も不安だよ?」
「『電車通学も』、ねぇ?」
「……あー」
必死の弁明をしたつもりでも、超絶美少女から放たれる圧力の前に本来の目的を隠し切ること叶わず。
姉上の表情を見た感じ、もう言い逃れは出来ない。
だが、隣を空けるわけにもいかない。たとえ嫌われるとしても正直に話してどうにか説得を――
「母さんの差し金か……」
「へ?違うけど?」
「……え?」
(あっ……)
ここに居ない上に、今回の企みに直接は関与していない母上の名前が出て咄嗟に否定する。
(まぁ、保身は出来たかもしれないけど――)
母上に変な疑いをかけられるのは、家族の誰にとっても得策ではないから。
「え……アンタが、自分で……言い出したってこと?母さんがウチを心配して、じゃなくて?」
「あー、うん。そうです……。いや母さんも心配してたけど」
一瞬で見抜かれたし。
姉上の方に体を向けて次の言葉を待つ。弟に心配されるのは、姉的にはどうなんだろう。自分のなかの姉弟像と姉上の性格から想像するけど、嫌がられるかキモがられるか。それぐらいしか思い浮かばない。
「――」
「…………ん?」
(反応が無いぞ)
半ば諦めつつ罵倒の言葉を覚悟していたが、数秒経っても言葉どころか動きすら無い。
不思議に思い視線を上げて姉上を見ると、少し後ろを向いて、俯き加減で立っている。その表情を窺うことはできない。
相も綺麗な灰髪が、その表情を焦らすように隠していた。
(無言の方が怖い……)
「姉さん、あのー……ねえ――
「なまいき」
「ハイごめんなさ…………へ?」
反射的に謝ろうとしたが、放たれた言葉は思っていたほど強くはなく、短い返答。意表を突かれて謝罪が止まる。
(……それだけ?)
余計なお世話くらいの一言はあるもんだと思ってた。一緒に登校するのをやめるって言い出されるのかと。
最初と比べて話すようになったとはいえ、時折その声音に冷たさを感じていたから。
なのに、今放たれた声は凛としているだけで冷たくはない。突き放すような調子ではなく包み込むような空気。
不思議に思って姉上の表情を窺うと――
僅かに赤みがかった、柔らかい笑顔が向けられていた。
我が子を慈しむ親のような、想い人に馳せる少女のような、愛情たっぷりといった笑顔。
そこに怒りは到底含まれていない。
(――こんな優しい表情するんだ、この人)
当然のように、いつも以上に見惚れてしまう。この世界に来て初めて姉上を見た時と同じように硬直し、しかし緊張は無く、美しさと同時に落ち着きも感じていた。
見惚れたのはわずか数秒、それでも、この家族に慣れ始めたと思っていた自分にとってはかなり長い時間だった。
同時に、姉上の向いてる方向、俺の背後から黄色い声が聞こえた気がする。
(やっぱ、珍しいんだろうな)
ここ数日でこの人の笑顔は数回見たが、そのどれもが短く小さなものだった。普段クールな人が見せる柔らかい笑顔は、やはり良いものである。
それにしても、姉上がどうしてそんな表情を、このタイミングで自分に向けるのか。少し考えを巡らせても、思い当たる節は弟の鬱陶しいはずのおせっかいしか無い。
困惑している自分とは対照的に、姉上は何故かご機嫌な様子。微笑みを崩さないまま、静かに半歩近づかれ、
――――肩に手が置かれた。
思わず体が少し跳ねる。
記憶違いじゃなければ、この世界に来て、初めて姉上と体が触れた。
「えっ……と?姉さん?」
「ホント、アンタ急に…………成長しすぎ」
彼女の視線が、少し下げられる。黒い瞳が映しているのは見慣れた制服くらいのはずだが、この人の醸し出す雰囲気が、見据えているものは違うと否定する。
「え、ありがと……で良いの?」
「良いよ。褒めてる」
肩の手は腕に移動した。
――『肩の手は腕に移動した』っ!?
制服の上を滑るように動いた彼女の腕。細くて美しい銀雪のような指が、右肘あたりに絡みつく。今日はリングを着けていない。
(……?)
何が起こっているか、何故そんな行動に出たのか。鈍い頭を働かせても全く理解できない。
自分の画策していたおせっかいがバレて、慈愛に満ちた笑顔を向けられて、腕に触れられている。
振り返ってもどうしてこうなるのか分からなかった。
答えが出ずに思考停止へと陥っているのを知ってか知らずか、隣の彼女は触れた腕を手で握ったり、指でリズムよくトントン叩いたり。その行動が、さらに心を揺さぶった。
真顔に近い表情からは彼女の思惑を読み取れない。
そして、彼女は鞄を肩にかけ直し、空いた右手も使い
――掴んだ腕を抱き寄せた。
(ちょっ!?)
「姉さん?何をしておられるので?」
さらに強張った身体から動揺の混じった声を絞り出して問う。
「腕組んでる」
「見れば分かるわ」
何故と聞いたつもりだったが、意思疎通は失敗した。
姉上の返答はさも当然といった雰囲気を纏いながら発せられたが、それが演技であることは簡単に見破れた。姉上自身も自分の行動がおかしいと分かっていることは、真顔を保ちながら耳まで真っ赤になっている顔を見れば一目瞭然。
なのに目の前のこの人は腕を離そうとしない。
「なんで腕を組んでるか聞いたんだけど」
自分の意図を明確に言葉にして再度問う。
それを聞いてなのか、こちらを窺う真っ赤で端正な顔が少し歪む。
纏う空気は、不安。
「……嫌なの?」
「嫌ではないけど嫌ではないのは問題ではなくて」
咄嗟の訂正を聞いて彼女の顔に安堵が浮かぶ。
嫌なわけが無かった。心に余裕があったなら、ご褒美だなんだと軽口を叩いている。
だが、相手はあの姉上だ。最初は近くにいるだけで空気が張り詰め、息苦しく感じるくらいクールな雰囲気を持つ姉上だ。慣れてきたとはいえ、異次元の美しさを持つ姉上が相手なのだ。
緊張と動揺と、抑えていた感情が心臓辺りから溢れてくる。
さらに、『腕を組んだ』というより『抱き着いた』という表現が近い今の状況は、ブレザー越しにも若干の起伏は感じ取れてしまっていた。
「彼氏役ならこれくらい必要でしょ」
隣の美少女はこちらの焦燥などお構いなしに平然と言ってのける。……否、若干まだ顔が赤い。
「いや彼氏役じゃなくて、ナンパ避けのために彼氏として誤認させられれば御の字と思ってたわけで」
「じゃあコレでもいいじゃん。むしろこんだけ近ければ、弟だと分かっても寄ってこないかも」
「それは……そうかもしれないけど別の問題がいくつか浮上するんだが。なんならしてるんだが」
今度は寄ってこない理由が問題になるだろ。
周りのざわつきは、耳を傾けなくても聞き取れる大きさに変化していた。
もちろん、変化したのは聴覚の情報だけではない。
「なに?別の問題って」
「……針のむしろが針の囲いに進化する」
「意味分かんないんだけど」
「あなたの弟が、もっと肩身の狭い思いをするかもしれないってことです」
気のせいじゃなければ睨まれ度合いが一段階上がった。
「そ」
「『そ』って……」
一言どころか一文字で一蹴された。数分前に向けられた慈愛の顔はなりを潜めてしまったのか。
彼女の左腕は、身じろぎすると色々危ないくらいにがっしりと右腕を掴んでいる。
そこに、解放される気配は全くなかった。
「――覚悟、してきたんでしょ?」
ニヤけ顔でこちらを見つめる彼女は、抗うことのできない小悪魔そのもの。今日は新しい姉上をよく見られる日らしい。
この人に反抗しにくいのは雰囲気故か、弟故か。
(諦めるしかないんだろうが、不安が増したぞ……)
満更でもないのは、もう言うまでもないだろう。
姉上が歩み寄ってくれたのも素直に嬉しい。
だが、問題があるのだ。
学校でどんな様子かは知らないが、姉上が自分から男に触れたりすることは、ほぼ無いだろう。実際、この数日間で姉上との身体的なスキンシップというのはこれが初めてだ。
男の気配がないと思っていた高嶺の花が、弟とはいえ野郎にべったりしているとしたら、反感を買うかもしれない。
それだけなら、二人で登校することになってからある程度覚悟はしているが、あまり過剰だと外聞がよくないのではなかろうか。よからぬ噂が立てられると姉上にも、そして母上にもしんどい思いをさせてしまうだろうし。
禁断の恋愛が噂になるのも拙いが、その噂がそこまで的外れじゃなくなってしまうかもしれないのが本当に拙い。
今の自分は風真であって風馬じゃない。同一人物説が正しいかどうかは置いておいて、この姉を『姉』として認識することが急務だ。
世の中の姉弟の距離感というのは存じ上げないが、少なくとも高校生の異性きょうだいは腕を組んだりはしないはず。しかも外で。
それでも普通の姉弟なら意識なんてしないのかもしれないが、今のままじゃ色んな間違いが起きかねない。精神は他人だし、身体は高校生であるからして。
(……ノックは徹底してもらお)
これからの生活に一抹の不安を覚えていると電車が到着した。
早めに出たおかげか、二日前より座席は空いていた。もっとも、乗り込む学生が多いので座れるかは分からないが。
(姉上の処世術かな)
弟の右肩に頭を寄せて電車を眺めているであろう姉上を見ながら、そう思った。
「今日は座れそうにないな」
「だね。ま、アピールするなら立ってた方が良いでしょ」
「……乗ってるときも?」
「当たり前でしょ?あとの駅から乗ってくるヤツも多いし」
「ですよね」
出来るだけ多くの生徒に見せた方が噂は広がり公然の事実となりやすいからだろう、その主張は至極まっとうに思える。前提の行為は至極間違っているが。
姉上と仲良く電車に乗り込み、向かいのドアの前に立つ。
俺たちの後ろに誰も並ばなかったことと、隣接するドアに少し人が多く感じたが……偶然じゃないだろう。
「……あのさ姉さん」
「なに」
「腕組む理由は、まぁ納得したから良いんだけど。……ここまで近くなくても良いんじゃない?」
腕を組むというより絡め取るという表現が正しいんじゃないか。締め付けられた右腕は、姉上の身体に押し付けられている。
「腕を組んでるだけで十分アピールになると思うんだけど」
というか二人で登校だけでも十二分だと思ってたんだけど。今も。
「ダメ」
「ダメとは」
禁止事項とかあっただろうか。どちらかというとこの状況の方がダメな気がする。
「できるだけ……ラブラブにした方が良いって、さっきも言ったでしょ」
「ラブラブって……ここまでする必要があるかは甚だ疑問ですね」
「アンタ『甚だ』なんて言葉知ってるんだ?」
「今は良いでしょそれは」
高一なり立てが日常会話で使う語彙にしては珍しいのかもしれないが、話を逸らそうとする魂胆がバレバレである。
譲歩する気は無さそうな姉上、腕にさらに力を籠める。
「――どうしてもキモくて嫌なら、やめる」
より強くなった感触に反して、その表情にはまたも不安が現れた。
(……良くない誤解が生まれてる)
「そんなの全く思ってないから」
「……マジ?」
「マジ。姉さんとこうして仲良くできて嬉しいくらいだし。別の理由だから」
「…………ウチも……最近、距離あったから……嬉しい」
(あんたそんなんだったっけ?)
若干口ごもりながら言葉を紡いでいる。
上目遣いの彼女は、真顔を保っているが頬が僅かに赤く染まり、それでもしっかり目を見て放たれた言葉。言い終わった後目を逸らす仕草まで愛嬌ばっちりだった。
思わず撫で回したくなる。
「あ、あー……なら腕組むんじゃなくて、手を繋ぐにしてくれない?」
動揺しっぱなしの頭を回転させて誤魔化すように言う。
「は?」
「腕痺れちゃうから」
「……あぁ」
数分程度では痺れないかもしれないが、右腕が幸せすぎて辛いのだ。どうにかして彼女の身体に、特に胴体に腕が触れないようにしたい。
手だけなら変なとこに当たらないし、接触面積も狭い。呆けていたのをごまかす方便だったとはいえ、なかなか良い提案なのではなかろうか。
「……ん」
姉上はそっと俺の右腕を解放し、静かに左手を差し出してきた。至って普通に腕を伸ばしているはずなのに、一曲誘われているような感覚に襲われたのは彼女故か。
「……はい」
それを右手で優しく包むと、少し冷たい彼女の体温が自分の手から身体に伝わっていくような気がした。
細く綺麗で、一回り小さい手。彫刻のような見た目に反した柔らかさが、否応なしに女の子を感じさせる。
(おかしいな……さっきより緊張する)
そりゃそうだ、素肌同士だもん。
姉上の身体を直に感じることの危険性、そんなことにも頭が回らないほど隣の彼女は魅力的だった。
「……自分で言い出しといてなんで気まずそうなのよ」
「……ごめん」
眼を少し細めてフッと笑う姉上。自業自得で狼狽えている弟が面白かったのだろうか。
向き合う彼女の湛えた微笑みが消えないのは、手から伝わる感触が原因だと思う。繋ぎ目をじっと見つめ、確かめるようにニギニギしている。
その攻撃に慣れ始めて会話を交わしている間も、姉上は時折弄ぶように手を動かしていた。




