第6話:痛みの意味
狂騒が去り、夕闇が村を包み込む頃。砂場という名の「最初のリング」には、俺一人だけが残っていた。ボルスは取り巻きたちに抱えられるようにして去り、他の子供たちも親に呼ばれてそれぞれの家路についた。ふぅ、と長く重い息を吐き出す。その瞬間、全身を突き刺すような激痛が襲ってきた。
「……っ、つうぅ……。さすがに、堪えるな……」
砂場に腰を下ろし、泥だらけの自分の腕を見つめる。ボルスの土弾を受けた脇腹はどす黒く変色し始め、巨腕の重圧を支え切った首筋や背筋は、焼けた鉄を押し当てられたように熱い。アドレナリンが引くと同時に、この幼い体が悲鳴を上げ始めたのだ。魔力ゼロ。基礎能力も、現時点では普通の六歳児と変わらない。観客が放つ「熱狂」というブーストがなければ、俺はただの「無謀な大怪我人」だっただろう。
不意に、背後で微かな足音がした。
振り返らなくてもわかる。この独特の、冷たく澄んだ気配と、どこか粘着質な殺気を孕んだ気配。
「……兄さん。さっきの戦い、分析が終わったよ」
眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせながら、次男のアルスが歩み寄ってきた。その後ろには、退屈そうに欠伸をしながらも、口元に薄気味悪い笑みを浮かべた三男のレオンが続いている。
「ねえカイトの兄貴、痛そうだね。それ、わざとなんでしょ?」
レオンが、俺の痣を指差してケラケラと笑う。
「分析の結果、兄さんの勝率は極めて不自然な推移を見せていた」
アルスは手に持った記録紙を淡々と読み上げた。
「序盤、兄さんは回避可能な攻撃を七十パーセント以上の確率であえて受けていた。その結果、周辺観客の心拍数は上昇し、発せられる感情エネルギーの密度は通常の三倍に跳ね上がった。……兄さんはそのエネルギーを吸収し、最終的な出力に変えた。……非合理的だ」
アルスが俺の目の前で立ち止まり、問い詰めるように言った。
「最初から急所を狙って最小限の動きで倒せば、そんなに傷つく必要はなかったはずだ。なぜ、あえて『受ける』? 効率が悪すぎる」
俺は痛む体を無理やり引き起こし、土のついた唇を吊り上げた。
「効率、か。……アルス、お前の言う通りだ。合理的に考えれば、プロレスなんてのは世界で一番バカげた戦い方だろうよ」
「だったら――」
「でもな、アルス。誰も傷つかない、誰もハラハラしない、ただの『処理』を見せられて、誰が熱くなる?」
俺は自分の胸を拳で叩いた。
「俺たちが生きているこの世界は、観客の感情が力になるんだろ? だったら、俺が傷つくのは『コスト』じゃない。最高の結果を引き出すための『投資』なんだよ。痛みが激しければ激しいほど、観客は俺に自分を投影する。俺が耐えれば耐えるほど、あいつらの魂は震える。……その震えこそが、俺を最強にするガソリンなんだ」
アルスは眉をひそめ、理解し難いものを見る目で俺を見た。
「感情を変換効率の変数として組み込むのは理解できる。だが、肉体的な痛みを許容するのは計算外だ。……僕なら、観客を催眠魔法で操るか、あるいは恐怖で縛り、無理やりエネルギーを引き出す道を選ぶ。その方が確実で、無駄がない」
さすが、未来のテクニカル担当。効率と理屈の塊だ。
すると、横で聞いていたレオンが割って入った。
「アルスは相変わらず堅苦しいなあ。でもさ、カイトの兄貴も甘いよ。観客を喜ばせるために自分が痛い思いをするなんて、バカみたい。……俺なら、ボルスに魔法を撃たせる前に、あいつが一番大事にしてるものを壊すか、耳元で呪いを囁いてやる。……絶望した奴が上げる悲鳴って、最高のブーイングになるんだぜ? それを力に変えたほうが、ずっと楽に、残酷に勝てるのに」
三男レオン。こちらは生まれついてのヒール属性だ。
「勝てばいい」という思想の果てに、憎悪を力に変える道を見据えている。
三つ子。同じ日に生まれ、同じ顔を持ちながら、俺たちは決定的に違う場所を見ている。
「……いいぜ、二人とも。それがお前らのプロレス(みち)だって言うなら、俺は否定しない。でもな、覚えておけ」
俺は二人の弟を、射貫くような目で見つめた。
「俺は、太陽だ。スポットライトの真ん中で、一番熱い歓声を浴びて勝つ。……お前らがどれだけ理屈を捏ねようが、どれだけ闇に潜もうが、最後には俺の放つ熱気が、世界中を飲み込んでやるからな」
レオンが「ひゃはは!」と笑い、アルスが「……非合理的だ。だが、検証の価値はある」と呟く。二人の弟が去っていった後、俺は再び静寂に戻った砂場で、重い体を仰向けに投げ出した。
――前世の記憶が、濁流のように蘇る。
薄暗い地方の体育館。観客はまばら。どれだけ激しい技を繰り出しても、どれだけ痛みに耐えても、客席からは拍手すら起きない。あの時の「冷めた空気」に比べれば、今、体に刻まれているこの痛みなんて、ご褒美のようなものだ。
(……痛いからこそ、生きてる実感が湧く。痛いからこそ、見てる奴は熱くなるんだ)
前世で、俺はスポットライトを浴びずに散った。
「人気の重み」を知っていたが、それを支えるための「力」が足りなかった。
だが、この世界は違う。この『感情魔力変換システム』がある限り、俺の耐える痛みは、そのまま物理的な破壊力へと昇華される。
プロレスの三要素。魅せる「太陽」、無駄のない「月」、そして勝てばいい「闇」。
弟たちとの思想の対立は、いつかこの世界を二分する大きな闘争へと発展するだろう。だが、今はまだ、この砂場が俺のすべてだ。
「……あーあ、明日は全身筋肉痛確定だな」
俺は苦笑いしながら、泥だらけの手を空に伸ばした。空には一番星が輝き始めている。痛みの意味を、俺はもう知っている。それは、観客と俺を繋ぐ唯一無二の絆であり、最強へと至る階段の、一段目に過ぎないということを。
「……次の興行までには、もう少しマシな服を用意しないとな」
俺はゆっくりと立ち上がり、家路についた。
足取りは重いが、心はかつてないほどに軽かった。




