第5話:いじめっ子の逆転
砂場に沈んだ沈黙を破ったのは、ボルスの荒い呼吸音だけだった。全力の魔法を跳ね返された。その事実は、彼の魔力だけでなく、戦う意志そのものを根こそぎ奪い去っていた。
「ひ、ひぃっ……来るな、来るなよ無能のくせに……!」
腰を抜かしたまま、尻餅をついて後ずさるボルス。対するカイトは、静かに、しかし確実な足取りで砂を踏みしめて近づく。
一歩、また一歩。
その歩みは、前世で幾度となく歩いた「入場花道」のように、周囲の視線を否応なしに引きつけていた。
「ボルス。お前はさっき、俺に言ったよな。地面に這いつくばってるのがお似合いだって」
カイトの声は低い。だが、砂場の隅々にまでよく通った。観客である子供たちは、瞬きすら忘れてこの光景を凝視している。
「確かに、地面はいい。冷たくて、硬くて、嘘をつかない。……でもな、地面に這いつくばるのは、負けた時じゃない。『勝つための準備』をする時なんだよ」
「な、何を言って……!」
ボルスが最後の悪あがきとばかりに、手元に残った僅かな魔力で砂を巻き上げた。目潰しのつもりだろう。だが、カイトは動じない。
目を細め、砂のカーテンを突き抜けてボルスの懐に飛び込んだ。
「――!? 速い……!」
観客席から誰かが叫んだ。いや、カイト自身の身体能力が上がったわけではない。
観客たちの「次はどうなるんだ?」という期待が、システムを通じてカイトの反応速度を限界まで底上げしていたのだ。
【システム:感情魔力変換】
【期待値:最高潮】
【スキル:『メインイベンター』補正により全ステータス2倍】
カイトの手が、ボルスの太い腕を掴む。もう片方の手が、ボルスの腰をガッチリとロックした。
(この感触、この重み……。前世で数え切れないほど繰り返した、基本の組み手!)
魔法に頼り切ったボルスの体は、見かけ倒しだった。重心は浮き、踏ん張りも効いていない。プロレスラーから見れば、どこからでも投げられる「隙だらけの肉の塊」だ。
「さあ、ショーの締め(フィニッシュ)だ。……よく見ておけよ、これが『受け身を取れない奴』の末路だ!」
「や、やめ……浮くっ!? 体が、浮くっ!?」
ボルスの悲鳴。カイトは腰を深く落とし、自分の重心をボルスの股下へと潜り込ませた。テコの原理。そして、観客の熱狂から得た「黄金の魔力」が、六歳児の小さな体に、自分より一回り大きな少年を軽々と担ぎ上げる怪力を与える。
「りゃああああぁぁぁぁっ!!」
カイトが大きく体を反らせた。高く、高くボルスの体が宙を舞い、夕焼け空にそのシルエットが刻まれる。それは魔法による浮遊ではない。純粋な物理的パワーと技術による「放り投げ」だった。
――フロント・スープレックス。
砂場という名のマットに、ボルスの背中が真っ逆さまに叩きつけられた。
ズゥゥゥゥゥン!!
凄まじい衝撃音が響き、砂がカーテンのように舞い上がる。ボルスは「カハッ」と短い息を漏らし、白目を剥いて完全に沈黙した。受け身を知らない者にとって、その衝撃は未知の恐怖だっただろう。
「…………」
砂場に、再び静寂が訪れる。だが、その質は先ほどまでとは全く違っていた。圧倒的な。あまりにも圧倒的な、逆転劇。魔法を使えないはずの少年が、魔法使いの卵を完膚なきまでに叩き伏せた。
「……勝った。カイトが、ボルスに勝ったんだ!」
一人の少年が震える声で叫ぶと、それが合図だったかのように、爆発的な歓声が沸き起こった。
「すげえ! 何だ今の投げ方は!?」
「魔法使ってなかったよな!? 自分の力だけで投げたんだよな!?」
「カイト! かっこいいぞ!」
わあぁぁぁっ、という波のような歓声。カイトはその音を、全身の毛穴から吸収するように聞き入った。体中を駆け巡る魔力の奔流。これだ。前世で欲しくてたまらなかった、心からの「称賛」と「熱狂」。
【システム:感情魔力変換】
【勝利ボーナス発動】
【戦闘力、一時的に限界突破――!】
カイトの体から、黄金のオーラがゆらりと立ち上る。その光景を、砂場の端でじっと見つめる二人の影があった。
「……ありえない」
次男のアルスが、魔法の記録紙をぐしゃりと握りつぶした。
「魔力ゼロの人間が、あんな出力を出せるはずがない。……『観客の声』が魔力回路をバイパスしている? そんな学説、聞いたことがないぞ……。兄さんは、一体何を見ているんだ?」
アルスの理性的な瞳には、兄への畏怖と、それを凌駕するほどの探求心が宿っていた。
「ひゃははは! 最高だよ、カイトの兄貴!」
一方、三男のレオンは手を叩いて爆笑していた。
「あんなに派手に投げちゃってさ。あーあ、ボルス、完全に心が折れてんじゃん。いいなあ、あんな風に誰かを支配できたら、最高に気持ちいいんだろうなあ!」
レオンの瞳には、歪んだ憧憬と、兄を超えたいという剥き出しの闘争心が燃えていた。
三つ子の長男、カイト。
彼は荒い息を整えながら、砂場の中央で仁王立ちになった。足元で伸びているボルスには目もくれず、自分を称える子供たちに向かって、ゆっくりと拳を突き上げる。
(……これが、一歩目だ)
人生初の「反撃」。それは単なる復讐ではなく、異世界に「プロレス」という概念を刻み込んだ瞬間だった。だが、同時にカイトは理解していた。この勝利は、これから始まる長く険しい「生涯ロードマップ」の、ほんの序章に過ぎないということを。
「……さて、次はどう魅せてやるかな」
カイトの不敵な独り言は、子供たちの歓声にかき消されていった。夕焼けの砂場は、今、確実に一つの「聖地」へと変わっていた。




