第49話ー梅と藤は嵐を超えてー
広間を埋め尽くす賊達を挟み、秀高と小梅の視線が重なった。
『(秀高様……!)』
小梅は目の前にいる男の姿を見つめたまま、胸の奥から込み上げてくる安堵を抑えることができなかった。本当に来てくれた。一度目の拘束から抜け出し、あと一歩のところで逃げ切れず再び捕まった時も、先生によって今度こそ抜けられないよう自由を封じられた時も、何度挑戦しても縄から抜けられなかった時も、小梅はずっと信じ続けていた。
『(秀高様なら、必ず私を見つけてくださる)』
その信頼だけは、一度として揺らがなかった。そして今、その秀高が本当に目の前にいる。
『ん……っ』
小梅は思わず声を漏らしたが、口元にはまだ猿轡が残されているため、その声が言葉になることはなかった。それでも秀高には十分だった。
「(小梅……)」
広間の最奥、賊の頭が座る椅子のすぐ隣へ置かれた箯輿。その上に小梅がいる。長い黒髪は乱れ、頬には疲労の色が濃く浮かんでいた。しかも身体は自由に動かせる状態ではなく、遠目からでも厳重に拘束されていることが分かる。
秀高の胸の奥に、再び強い怒りが湧き上がった。しかし、その怒りを表へ出すことはなかった。今はまだ、小梅との間に多くの敵がいる。
「(待っていろ。もう少しだ)」
秀高は視線だけでそう伝えるように、小梅を真っ直ぐに見つめた。
『(はい……)』
小梅は僅かに頷いた。二人の間に、言葉は必要なかった。
そんな二人を交互に見た賊の頭が、椅子からゆっくりと立ち上がった。
『まさか、本当にここまで来るとはな』
秀高の視線が頭へ移る。
『お前が堺屋の大旦那……鷹司秀高って奴か』
「そうだ」
『随分と派手にやってくれたじゃねえか。外にいた奴らまで片っ端から倒しやがって』
秀高は表情を変えなかった。
「俺の妻を攫ったのは、お前達だ」
低く静かな声が広間へ響く。
「小梅を返してもらう」
『簡単に言ってくれるな』
頭は周囲へ視線を向けた。広間には、まだ四十人を超える賊達が残っている。それぞれが刀や槍、棍棒などの武器を持ち、秀高達と小梅との間に立ちはだかっていた。
『外の奴らを倒したくらいで勝ったつもりか? ここにはまだ四十人以上いるんだぞ。たったそれだけの人数で、どうするつもりだ?』
秀高は答えなかった。
右手に持つ刃を潰した太刀を僅かに上げる。それだけで十分だった。人数が何人いようと関係ない。小梅を返さないのであれば、自分達で取り戻す。
頭の表情から笑みが消える。
『……やれ!』
その一声と共に、広間にいた賊達が一斉に動き出した。
『うおおおっ!』
正面から男が一人、秀高へ飛びかかる。振り下ろされた武器を秀高は僅かに身体をずらして躱し、すれ違いざまに太刀を振るった。男がその場へ崩れ落ちる。
その左右から二人、さらに後ろから三人が迫った。
『囲め!』
『一斉にやれ!』
賊達は数を頼みに秀高を囲もうとするが、それを許す近衛達ではなかった。
『総統の道を開けろ!』
『はっ!』
十人の近衛達が秀高の左右へ展開し、押し寄せてくる賊達を次々と迎え撃つ。
外での戦闘から変わらず、秀高の命令は徹底されていた。殺さない程度に始末する。近衛達はその命令を守りながら、相手の攻撃を受け流し、武器を落とさせ、あるいは一撃で戦う力を奪っていく。
さらに母屋の途中で退路を確保していた忍達も広間周辺へ展開し、後方から回り込もうとする者や近衛達の死角を狙う者を抑えていった。
広間は瞬く間に激しい戦場へ変わる。その中を秀高だけは、ただ真っ直ぐ進んでいた。
小梅へ向かって。
『通すな!』
三人の賊が前へ立ちはだかる。
「邪魔だ」
秀高の太刀が動いた。一人目が倒れ、返す一撃で二人目が崩れる。残った一人が怯みながらも武器を振るったが、それすら秀高には届かなかった。
一撃。
男が床へ倒れる。
秀高は倒した相手を追撃することもなく、その横を通り過ぎた。また一歩、小梅へ近付いていく。
『(秀高様……!)』
小梅はその姿を見つめ続けていた。
嬉しい。今すぐ駆け寄りたい。
だが、それ以上に心配だった。自分がここにいることで、秀高が無茶をするのではないか。自分を守ろうとして傷つくのではないか。
『んっ! んんっ!』
小梅は必死に声を上げた。
『(私だけを見ないで。周りを見て)』
『(私のことより、まず秀高様自身を守ってください)』
しかし、その心配は必要なかった。秀高は小梅へ向かって一直線に進みながらも、周囲への警戒を一瞬たりとも失っていない。正面から来る者を倒し、横から迫る攻撃を躱し、背後から迫る気配にも即座に反応する。
近衛達も秀高の意図を理解していた。
『総統! ここは我々が!』
「任せる」
『はっ!』
さらに数人の賊が近衛達に阻まれ、秀高の前から引き剥がされる。最初は四十人以上いた賊達が、一人、また一人と床へ倒れていった。
『ぐあっ!』
『くそっ!』
『何なんだ、こいつら!』
明らかに戦況が傾いていく。それを広間の奥から見ていた頭の顔から、余裕が消え始めた。
『……ふざけやがって』
部下達が次々と倒されていく。人数では圧倒的に優位だったはずなのに、秀高達の勢いを止めることができない。それどころか、秀高はもう広間の半ばを越えている。
このままでは小梅を奪い返される。
頭の視線が、すぐ隣の箯輿へ向いた。
『……そうだ』
その呟きを聞き、小梅が頭を見る。
『……!』
嫌な予感がした。
そして、その予感はすぐに現実となる。
頭は傍らに置いていた刀を抜くと、小梅のすぐ横へ立った。冷たい刃が小梅へ向けられる。
『んっ!?』
小梅の目が大きく見開かれた。
『そこまでだ!』
頭の怒声が広間へ響く。
秀高の足が止まった。近衛達も頭の行動に気付き、戦いながら視線を奥へ向ける。
『動くな! それ以上近付けば、この女がどうなるか分かってるだろ!』
小梅の胸が締め付けられる。
『(やっぱり……!)』
最も恐れていたことだった。自分が秀高の足枷になる。自分を利用して秀高の動きを止める。
だからこそ、監禁部屋から運び出される時にあれほど抵抗したのだ。
『んんっ! んーっ!(止まらないで。私のために従わないで)』
小梅は激しく首を振った。
しかし、小梅へ刃が向けられている以上、秀高も不用意に動くことはできない。
秀高は太刀を握ったまま、頭を見据えた。
『そうだ。そのまま動くな』
頭の口元へ再び笑みが戻る。
『武器を捨てろ。お前だけじゃねぇ。そいつらもだ』
秀高は何も答えない。ただ頭を見ている。
「(距離がある)」
今から踏み込んでも、小梅へ刃が届く方が早い。近衛達も同じ判断をしたのか、誰も不用意に前へ出なかった。
頭はそれを見て、自分が再び主導権を握ったと思った。
『どうした? 女房が大事なんだろ?』
『んんっ!(秀高様?)』
小梅が頭を睨みつける。
『大人しくしてろ!』
頭の注意が一瞬だけ小梅へ向いた。
ほんの僅かな時間だった。
だが、秀高達だけがこの広間にいるわけではない。
頭の視界の外、柱と人影によって生まれた死角に、一人の忍がいた。戦いが始まってから広間全体を見続け、秀高と近衛達を支援しながら機会を待っていた者である。
頭の意識が秀高と小梅へ集中した、その一瞬。
長の背後で気配を消していた忍が動いた。
『なっ!?』
頭が異変へ気付いた時には遅かった。小梅へ向けられていた刃が弾かれ、その切っ先が大きく逸れる。
『何っ!?』
『……!』
小梅の目が見開かれる。
忍はそのまま小梅と頭の間へ入り込み、頭を箯輿から引き離した。
『この野郎!』
頭が体勢を立て直そうとした。
だが、それ以上の時間は与えられなかった。
「よくやった」
秀高の声が聞こえた。
頭が振り向く。
『……っ!』
すでに秀高が目の前にいた。小梅へ向けられていた刃が逸れた瞬間、秀高は迷うことなく間合いを詰めていたのである。
秀高と頭が向かい合う。
その間には、もう誰もいない。
「お前が頭でいいんだよな」
『だったらどうした!』
「小梅をここへ閉じ込めたのも、お前だな」
『俺だ』
「人質にすると決めたのも」
頭は刀を構え直す。
『そうだよ!』
秀高の目が細くなる。
「そうか」
それ以上、聞くことはなかった。
『舐めるなぁ!』
頭が刀を振り上げて踏み込む。
秀高は真正面から受けず、身体を僅かにずらした。頭の刀が空を切る。その瞬間には、秀高の刃を潰した太刀が動いていた。
『ぐっ!』
一撃を受け、頭の身体が大きく揺れる。それでも倒れず、歯を食いしばって刀を振り直そうとする。
『まだだ!』
しかし二撃目は、頭が刀を振るうより早かった。
『がっ!』
刀が手から落ちる。
頭が片膝をつく。それでも立ち上がろうとしたが、秀高は容赦しなかった。
最後の一撃。
『ぐ……っ』
頭の身体から力が抜け、そのまま床へ倒れ意識を失ったのである。
秀高は倒れた頭を見下ろさない。すぐに小梅へ視線を戻した。
その頃には近衛達も残った賊達を次々と制圧しており、最後まで抵抗していた男が床へ組み伏せられる。
やがて、広間から戦闘の音が消えた。
『総統! 広間、制圧しました!』
「分かった」
秀高は刃を潰した太刀を鞘へ収める。そして今度こそ、誰にも邪魔されることなく小梅のもとへ歩いていった。
『……!』
小梅の瞳が揺れる。
一歩、また一歩と秀高が近付いてくる。ついに自分の目の前まで来ると、秀高はすぐに膝をついた。
「小梅」
『ん……っ!』
小梅は何かを言おうとしたが、まだ声にはならない。
秀高はまず顔を見る。大きな怪我は見当たらない。意識もしっかりしている。だが、疲労していることだけは明らかだった。
秀高は頬へ張り付いた黒髪をそっと払う。
「遅くなった」
小梅はすぐに首を横へ振ろうとする。
『んっ……んんっ』
遅くない。そう伝えようとしていることは、秀高にも分かった。
「今、外すからな」
秀高は何より先に、小梅の声を奪っていた猿轡を外した。
口元が自由になるが、小梅はすぐには話さず、何度かゆっくりと呼吸を繰り返した。
「ゆっくりでいい」
秀高は急かさず待っていると、小梅は息を吸い、ようやく声を出した。
『……秀高様』
掠れた小さな声だった。
だが、その声を聞いた瞬間、秀高の肩から僅かに力が抜けた。
「……ああ」
目の前にいる。生きている。それは見れば分かっていた。それでも小梅自身の声を聞いたことで、胸の奥に残っていた最後の不安がようやく消えた。
「怪我は?」
『大丈夫です。少し疲れただけです』
秀高は黙って小梅を見る。
「少し、か?」
小梅が僅かに視線を逸らす。
『……かなり疲れました』
「そうだろうな」
小梅はほんの少しだけ笑った。
そして秀高を改めて見つめる。
『秀高様……本当に来てくださったのですね』
「ああ」
『私、ずっと……秀高様なら必ず来てくださると思っていました』
「待たせたな」
『いいえ』
小梅はゆっくりと首を横へ振る。秀高は一瞬だけ目を閉じ、再び小梅を見る。
「もう大丈夫だ」
『……はい』
その一言で、小梅の表情から僅かに緊張が消えた。
秀高は小梅を自由にしようと、小梅の背後へ周り、拘束を解こうとするが。
そこで、動きが止まった。
「……」
何も言わない。いや、何も言えなかった。
広間へ入った時から、小梅が拘束されていること自体は分かっていた。しかし、間近で見るのとは違う。
腕は背中側の高い位置に置かれたまま自由を失い、手首だけではなく腕全体も動かせる状態ではない。上半身にも自由を奪う拘束が残され、下半身も胡座の姿勢からほとんど動けず、さらに箯輿で運ばれるために加えられた固定まで残されている。
秀高は固まったまま、小梅を見ていた。
『……』
後から近付いてきた近衛達も、その状態を間近で目にする。
誰も言葉を発しなかった。
一人の近衛が何かを言おうとして、結局口を閉ざす。別の近衛も絶句している。小梅を人質にしようとした頭を阻止した忍をはじめ、広間へ集まってきた忍達も同じだった。
戦いの直後だというのに、広間へ異様な沈黙が落ちる。
小梅は自分へ集まる視線に気付き、困ったように眉を下げた。
『……あまりじろじろ見ないでください』
その声で、近衛達が我に返る。そして、誰からともなく秀高を見る。
秀高はまだ何も言わない。
小梅を見ている。
しかし、両手は強く拳を握り締めていた。指が掌へ食い込むほど強く握られている。
賊達と戦っている間でさえ、秀高は冷静だった。小梅へ刃を向けられた時でさえ、怒りに任せて動くことなく最善の機会を待った。
だが今。
最愛の妻がどのような状態で長い時間を過ごしていたのかを間近で目にし、それまで抑え込んできた感情が静かに表へ現れていた。
秀高の口がゆっくりと開く。
「……誰が、これを」
低い声だった。
怒鳴っているわけではない。それなのに、近衛達は誰一人として口を挟まなかった。
その時。
『俺だよ』
広間の入口から声がした。
全員が振り返る。
籠を背負い、書物や筆、自分の道具を持った男が立っている。
先生だった。
小梅も先生を見る。そして僅かに頬を膨らませた。
『あの方が、私をこんなにした意地悪の先生です』
『嬢ちゃん、そりゃきついわ』
先生は苦笑する。
『俺だって好きで人質にする手伝いまでしたわけじゃねぇんだぞ』
『でも、したではありませんか』
『それを言われると何も返せねぇな』
先生が頭を掻きながら近付いてくる。
近衛達が警戒して前へ出ようとするが、秀高が片手で制した。
秀高は先生を真っ直ぐに見る。
「お前がこれを?」
『その通り。俺が縛った』
先生はあっさり認めた。
秀高の拳がもう一度強く握られる。
だが、先生は逃げようとしない。小梅の傍へしゃがみ込む。
『怒るのは後にしてくれ。んじゃ早速、縄を外していくぞ』
「待て」
『何だ?』
「俺が外す」
先生は首を横へ振った。
『やめときな。俺がやったもんだから、俺が外した方が早い』
秀高の目が鋭くなる。
先生は続ける。
『それに嬢ちゃん、長いこと抜けようとして動き続けてたからな。見たところ相当疲れてる。早く楽にしてやった方がいい』
秀高が小梅を見る。
小梅も秀高を見返した。
『……お願いします』
本人がそう言った。
秀高は僅かに迷った末、先生へ場所を譲った。
「妙なことをするなよ」
『しねぇよ。もう仕事は終わりだ』
先生は小梅の前へ回る。
『さて嬢ちゃん、今度は外すぞ』
『最初からそうしてくださればよかったのです』
『それじゃ俺の仕事にならねぇだろ』
『本当に意地悪ですね』
『さっきからそればっかりだな』
先生は苦笑しながら作業を続けた。
まず移送のために後から追加されていたものを外していく。それがなくなっただけでも、小梅は少し大きく息を吐いた。
『……少し楽になりました』
『そりゃそうだ。こいつは後から足しただけだからな』
秀高はまだ小梅に残っているものを見る。
「まだこれだけ残っているのか……」
『こっちが本体だ』
先生が答える。
そこから先生は小梅の状態を確かめながら、少しずつ自由を戻していった。長時間同じ姿勢だったため、急に身体を動かさないよう注意しながら進めていく。
『おかげで、本当に何もできませんでした』
小梅が不満そうに言う。
『何もできねぇようにしたんだから当然だろ』
『それでも少しくらい加減してください』
『加減したら抜けるだろ、嬢ちゃん』
小梅が言葉に詰まる。
『……否定できないのが悔しいです』
先生は笑いながら作業を続けた。
身体へ残されていた制限が一つずつなくなっていくたび、小梅の表情から僅かずつ緊張が消えていく。
やがて先生が、ふと小梅を見る。
『そういや嬢ちゃん』
『何ですか?』
『最後、ちょっと動かしただろ』
小梅が目を見開いた。
『……気付いていたのですか?』
『そりゃ俺が縛ったんだからな』
『なら、見逃してくださいよ』
『無茶言うな』
『せっかく、あと少しだったかもしれないのに』
『あれから抜けるには、まだまだだったぞ』
小梅の眉が僅かに動く。
『……次は、抜けますよ』
『まだやる気かよ』
「小梅」
秀高が思わず名前を呼んだ。
小梅は秀高を見る。
『冗談ですよ』
「……本当か?」
『半分くらいは』
「半分は本気なのか……」
秀高が何とも言えない表情になる。
近衛達もそれを見て、ようやく少しだけ表情を緩めた。
その間も先生は拘束を解く作業を続ける。
『ほら、もう少しだから動くなよ』
『はい』
そして最後まで残っていたものが外され、小梅の腕がようやく自由になる。
『……っ』
しかし、長時間同じ姿勢に置かれていた腕は、すぐには思うように動かなかった。
秀高がすぐに身体を支える。
「小梅」
『すみません……腕が、思ったより動きません』
「謝るな」
『長いこと同じ姿勢だったからな。無理に動かすなよ』
先生もそう言った。
秀高に支えられながら、小梅はゆっくりと姿勢を変える。自分の手を見る。指を動かす。少しだけ腕を動かしてみる。
もう、それを止めるものは何もない。
小梅は大きく息を吐いた。
『……自由です』
秀高も小梅を見つめる。
「……ああ」
小梅が顔を上げる。
『秀高様』
秀高は小梅を支えたまま、静かに告げた。
「もう誰にも連れていかせない」
小梅は柔らかく微笑む。
『はい』
その傍らで、先生は使っていた縄や道具を拾い集め、書物や筆と一緒に籠へ戻していく。
すべて片付け終えると籠を背負った。
『さて。じゃ、俺はただの通りすがりなんで、この辺で』
「待て」
秀高が呼び止めと、先生は振り返った。
『何だ?』
「お前は」
『嬢ちゃんは返した。俺はこいつらの仲間でも何でもねぇ。ただ嬢ちゃんを逃げないように捕縛してくれって頼まれて仕事しただけだ』
先生は秀高の言葉を遮るように答えた。
すると小梅がすぐに口を挟む。
『私を散々困らせておいて、それで済ませるのですか?』
『嬢ちゃん』
『何ですか』
先生は少しだけ笑う。
『次は捕まるなよ』
小梅は一瞬黙り、それから少し頬を膨らませた。
『……言われなくても、そうします』
『それがいい』
先生はそれだけ言うと、今度こそ広間から出ていった。
近衛の一人が秀高へ尋ねる。
『よろしいのですか?』
秀高は先生が去った方向を一度だけ見る。
聞きたいことはある。問い質したいこともある。
しかし今、優先すべきものは明確だった。
秀高は小梅を見る。
「今は小梅だ」
『はっ』
秀高は改めて小梅へ向き直る。
「立てるか?」
『立てます』
小梅は即答した。いかにも小梅らしい答えだった。
秀高は少し疑わしそうに見るが、小梅は本当に立ち上がろうとする。
『大丈夫です。これくらい』
箯輿から身体を起こし、足を床へつける。そして立ち上がった瞬間。
『あっ……』
膝から力が抜け、体勢を崩すが、秀高がすぐに受け止める。
「無理するな」
『……すみません』
「だから謝るな」
小梅は秀高に支えられながら、ゆっくりと立ち直る。
少しして、小梅が秀高を見る。
『秀高様』
「何だ?」
『ご無事で、本当によかったです』
秀高が僅かに目を見開く。
「それは俺の台詞だ」
『私も心配していたのですよ。外からずっと戦う音が聞こえていましたから』
「俺は大丈夫だ」
『怪我は?』
「ない」
小梅は秀高の顔から身体まで確かめるように見る。目立った傷はない。そのことを確認すると、ようやく安心したように息を吐いた。
『よかった……』
秀高はそんな小梅を見つめる。
自分自身がこれほど疲れているのに、まず自分の心配をする。それもまた、小梅らしかった。
「小梅」
『はい』
「よく頑張ったな」
小梅の表情が止まる。
支店を襲われた時から、大勢の賊を相手に戦い、捕らえられ、一度は自分の力で拘束を抜け、逃げようとして再び捕まり、今度こそ逃げられないようにされても、それでも何度となく挑み続けた。
その全てを知っているわけではない。それでも、秀高には分かる。
小梅が決して諦めなかったことだけは。
『……私、一度は逃げられたのです』
「ああ。聞いた」
『でも、拠点から出る前に捕まってしまいました』
「そうか」
『それから、あの先生に……今度こそ抜けられないようにされてしまって』
小梅は少し悔しそうな顔をする。
『それでも、何度も試したのですよ』
「だろうな」
『……驚かないのですか?』
「ここへ来る途中も思っていた。お前なら一度くらい自分で逃げようとするだろうとな」
小梅が僅かに目を丸くする。
『……一度どころではありませんよ』
秀高が少し笑う。
「そうだろうな」
『何度挑戦したか、途中から分からなくなりました』
「それも、お前らしい」
『褒めていますか?』
「褒めている」
小梅は少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、秀高もようやく心の底から安堵することができた。
小梅が戻ってきた。
いつもの小梅が。
『秀高様』
「ああ」
『来てくださって、ありがとうございます』
秀高は迷うことなく答える。
「当たり前だ。俺はお前の夫だからな」
『……はい』
小梅は静かに微笑んだ。
その瞬間だった。
今まで小梅の身体を支え続けていたものが、一気に消えていく。
緊張。警戒。逃げなければならないという焦り。秀高が来るまで諦めてはいけないという意志。自分が人質として利用されてはいけないという恐怖。
それら全てから、ようやく解放された。
すると、それまで精神力で押さえ込んでいた疲労が一気に表へ現れる。
『……あれ』
小梅の身体が秀高へ傾く。
「小梅?」
『大丈夫です……少し、体の力が抜けただけです』
秀高は小梅の顔を見る。先ほどまでより明らかに瞼が重そうだった。
「帰ろう、小梅」
『はい。秀高様』
小梅は秀高の支えを借りながら歩き出す。一歩、二歩、三歩と進んだが、再び足が止まった。
『……っ』
身体が傾き、秀高が受け止める。
「もういい」
『大丈夫です。自分で歩けます』
「歩けてないだろ」
『今のは少し足に力が入らなかっただけです』
「それを歩けないと言うんだ」
『でも……』
秀高は小梅の前へ回る。そして背を向け、その場で屈んだ。
「乗れ」
小梅が目を瞬かせる。
『……え?』
「支店まで背負っていく」
『いえ、それは駄目です』
小梅はすぐに首を横へ振った。
『秀高様も戦ったばかりではありませんか。それなのに私まで背負ったら――』
「俺の心配をする元気があるなら大丈夫だな」
『そういう意味ではありません』
「いいから乗れ」
秀高は背を向けたまま動かない。
「支店まで俺が連れて帰る」
小梅はしばらく秀高の背中を見つめた。自分で歩きたい。迷惑を掛けたくない。そんな気持ちはまだ残っている。
だが、身体は正直だった。
もう限界である。
小梅は観念したように小さく息を吐く。
『……では、お願いします』
「ああ」
小梅は秀高の背中へゆっくりと身体を預けた。
秀高は小梅をしっかりと支え、そのまま立ち上がる。
『重くありませんか?』
「全く」
『本当ですか?』
「本当だ。それに俺は鍛えているからな」
『……なら、いいです』
小梅は秀高の背中へ頬を寄せる。
その瞬間、身体から完全に力が抜けた。
もう逃げなくていい。縄から抜ける方法を考えなくていい。周囲の足音へ怯えなくていい。人質にされることを恐れなくていい。
ここには秀高がいる。
その事実だけで十分だった。
『……温かいです』
「そうか」
『はい……』
秀高は近衛達を見る。
「支店へ戻る」
『はっ!』
近衛達がすぐに周囲を固める。忍び達もそれぞれの位置へ散り、帰路の安全を確保するために動き始めた。
秀高は小梅を背負ったまま、賊達の拠点を後にする。
高い塀を抜け、小梅があと一歩のところまで辿り着きながら、一人では越えることのできなかった門を通り過ぎる。
だが、今度は違う。
小梅は囚われたまま運ばれているのではない。行き先を他人に決められているのでもない。
自分を救いに来てくれた最愛の夫の背中で、自分達の帰る場所へ向かっている。
秀高は歩きながら、背中の小梅へ声を掛ける。
「小梅」
『はい……』
返事が小さい。
しばらく歩く。
「眠いなら寝ていいぞ」
『大丈夫……です』
「そうか」
『はい……』
さらに暫く歩いた。
小梅の身体が、先ほどよりも深く秀高へ預けられている。
「小梅?」
返事がない。
秀高は一瞬だけ足を止めた。近衛達も振り返る。
だが、すぐに秀高の表情が柔らかくなった。
小梅は眠っていた。
秀高の背中へ頬を預け、静かな寝息を立てている。
長い監禁と拘束。何度となく繰り返した脱出への挑戦。そして、いつ自分が人質として利用されるか分からない緊張。
その全てからようやく解放され、最も安心できる秀高の背中で、小梅はとうとう眠りへ落ちたのである。
秀高は小梅を起こさないよう、背負い直す動きさえ静かに行った。そして再び歩き始める。
近衛達も何も言わず、その周囲を守る。忍び達もまた、二人の帰路を静かに見守っていた。
小梅は一人で嵐の中に取り残されても、最後まで折れなかった。
何度捕らえられても、何度逃げることに失敗しても、自由を完全に奪われても、それでも諦めなかった。
梅は散りながら、その幹だけは決して折らなかった。
そして堺の藤は、そんな梅を取り戻すために嵐の中へ踏み込み、その全てを切り裂いて彼女のもとへ辿り着いた。
だが、ここからはもう一人ではない。
疲れ果てた梅を藤がその背に預かり、同じ場所へ帰っていく。
秀高は背中で安らかに眠る小梅を決して起こすことなく、一歩ずつ堺屋高山国支店へ向かって歩きはじめたのであった
。




