第48話ー堺の藤は嵐を切り裂くー
小梅が先生と呼ばれる男によって自由を封じられ、それでも諦めることなく縄抜けへ挑み続けていた頃。そこから時を半刻ほど遡る。
全ての堺屋を統べる総統にして、小梅の夫である鷹司秀高もまた、最愛の妻を救出するために動いていた。
秀高が率いているのは、堺屋高山国支店へ戻った後に選抜した十人の近衛達であり、目的はただ一つ、小梅を救出することである。
そのために秀高が最初に行ったのは、闇雲に町中を走り回ることでも、賊を見つけ次第捕らえることでもなく、情報を集めることであった。
「この辺りで、大勢の男達が一人の若い女を連れて歩いているところを見なかったか?」
秀高は町を歩いていた者へ尋ねる。
当然ながら、ここは日ノ本ではない。鷹司小梅という名を出したところで、それだけで分かる者などほとんどいないため、秀高は小梅の名前ではなく、外見と状況を伝えることにした。
「女は俺と同じくらいの歳だ。背は女としては高い方で、長い黒髪をしている。大勢の男達に囲まれて連れていかれたはずだ。似た者を見ていないか?」
『さあ……俺は見てないな』
「そうか。手間を取らせた」
一人が知らなければ、次へ行く。店先にいた商人や荷を運んでいた男、道端で話をしていた町人、行商人、偶然その道を通っただけの旅人まで、秀高達は相手を選ばず情報を求めていった。
さらに秀高は、普段なら関わろうとしない町の不良達にまで声を掛けていく。こうした者達は、表の人間が知らないことを知っている場合があるからである。
「この辺りを根城にしている連中について聞きたい」
『あん? 何だ、兄ちゃん』
「今日、大勢の男達が若い女を一人連れて移動している。見たか、あるいは聞いていないか?」
『……大勢って、どれくらいだ?』
「正確な人数は分からない。だが、少なくとも十人やそこらではない。それと、怪我をしていた者も何人かいたはずだ」
その言葉に、男の表情が僅かに変わった。
秀高はそれを見逃さない。
「何か知っているな?」
『知ってるっつうほどじゃねえよ。ただ、さっき妙に大勢で移動してる奴らを見たって話は聞いた』
「どこだ?」
秀高の声色は変わらない。しかし、その目だけが鋭くなった。
こうして一つ、また一つと断片的な情報が集まっていく。
目撃者の中には男達の集団だけを見た者もいれば、別の場所では若い女がその集団の中にいたという証言も得られた。さらに別の者は、怪我をして仲間に支えられている男達を見ていた。
誰一人として、その女が鷹司小梅だとは知らない。
だが、秀高にとっては十分だった。
大勢の男達と複数の負傷者。そして、その中にいた長い黒髪の若い女。堺屋高山国支店を襲った賊達と小梅である可能性は極めて高い。
「次だ」
秀高は立ち止まらず、近衛達も複数に分かれて周辺から情報を集めている。
だが、秀高が動かしている者達は彼らだけではなかった。
町の人々から見えない場所を、屋根から屋根へ、あるいは細い路地を抜けながら、人目につかぬ場所を選んで移動する者達がいた。
忍びである。
彼らは今回、秀高が正式に連れてきた供回りではなく、勝手についてきた者達だった。
もっとも、秀高は最初からその存在に気付いている。日ノ本を離れるために堺から船を出した時には、すでにその存在を把握していた。
「(隠れているつもりだったのだろうが……)」
秀高にとって、その程度の尾行を見抜くことなど難しいことではなかった。
とはいえ、追い返しもしなかった。彼らが何のためについてきているのかも、おおよそ察していたからである。
彼らの目的は秀高達の護衛であり、今回の旅で秀高が表向きの供回りを必要以上に増やしていなかった理由の一つもそこにあった。
いざという時には表にいる近衛だけではなく、彼らも動く。そして今、その時が来ている。
秀高は忍び達の存在を隠したままにすることをやめ、彼らへ直接命令を下していた。
「集めた目撃情報を基に、奴らの拠点を探せ」
忍び達が静かに頭を下げる。
「場所を見つけても、すぐには手を出すな。まず周囲を調べろ。出入口、塀、見張りの位置、それから建物の配置だ」
『はっ』
「可能なら母屋の間取りも調べてくれ。小梅がどこに囚われているか分からない以上、中へ入ってから探し回る時間はできるだけ減らしたい」
秀高は一度言葉を切り、忍び達を見回す。
「敵の人数も分かる範囲でいい。無理をして気付かれるな。今一番避けなければならないのは、こちらが近付いていることを悟られ、小梅を別の場所へ移されることだ」
『承知』
それだけ答えると、忍び達は散っていった。
そこからの動きは速かった。
近衛達が集める表の情報と忍び達が集める裏の情報、そして秀高自身が聞き出した目撃証言が次々と一つに集められ、最初は点でしかなかった情報が徐々に一本の線へ変わっていった。
そして情報収集を始めてから四半刻を過ぎ、半刻に達するより前。秀高の前へ、一人の忍びが姿を現した。
『総統』
「見つけたか」
『恐らくは』
忍びが広げたのは、急いで書き起こした簡素な見取り図だった。
『町の北西、人通りの少ない古い倉庫街に、周囲を高い塀で囲われた場所があります。目撃証言を繋げたところ、賊と思われる者達がその周辺へ入った可能性が高いかと』
秀高は見取り図へ目を落とす。
「見張りは?」
『おります。正面の門だけではなく、敷地内にも複数』
「建物は?」
『中央に大きな母屋。その周囲に小さな建物がいくつかあります。こちらが確認できた範囲での母屋の間取りです』
別の紙が置かれる。
完全な図面ではないが、救出作戦を立てるには十分な情報が書き込まれていた。
「人数は?」
『申し訳ありません。そこだけは、まだ』
忍びが頭を下げる。
『出入りがあり、さらに建物の中にも相当数いると思われます。現時点では正確な人数を確認できておりません』
「構わない」
秀高は即答した。
「人数を確かめるために時間を使って、小梅を移される方がまずい。今ある情報で考える」
『はっ』
近衛達も秀高の周囲へ集まる。
秀高は地面へ見取り図を置き、黙ったまま図面へ視線を走らせた。
正門、塀、見張り、母屋、その他の建物、確認できた出入口、廊下、そして部屋。秀高の頭の中で、それらが瞬く間に組み上がっていく。
「……ここだな」
秀高の指が、母屋の一角を示した。
近衛の一人が尋ねる。
『小梅様がおられると?』
「可能性があるというだけだ。人質として使うつもりなら、逃げにくく、なおかつ見張りを置きやすい場所へ入れるはずだ。候補はこの辺りになる」
秀高の指が別の場所へ移る。
「ただし、すでに頭のところへ連れていかれている可能性もある。ならば次はここだ」
見取り図の中でも広い空間、母屋の広間である。
「まずこの二ヶ所を優先する」
秀高はそこから逆算し、どこから入れば早いか、どこを通れば見張りと接触する可能性を減らせるか、もし見つかった場合はどの位置で賊を抑えるか、小梅を発見した後にどの経路を使って外へ出すかを次々と組み合わせていった。
「正面から何も考えず全員で突っ込む必要はない。俺は最短で小梅のところへ向かう」
近衛達が秀高を見る。
『しかし、それでは――』
「分かっている。俺一人で行くとは言っていない」
秀高は見取り図の上へ指を置く。
「近衛は俺と共に母屋へ向かう。忍びは周囲を押さえ、見張りの位置と死角を確認しながら、俺達が動きやすいよう支援しろ。ただし深追いはするな」
さらに別の場所を指す。
「敵が集まってきた場合は、可能ならこの辺りへ誘導する。狭い場所なら人数差をある程度殺せる」
『はっ』
「目的を間違えるな。俺達は賊を皆殺しにしに行くわけではない」
秀高が全員を見る。
「小梅を救い出す。それが最優先だ」
『はっ!』
誰一人として異論を唱えなかった。
秀高はもう一度見取り図へ視線を落とす。
冷静だったが、その胸の奥に何もないわけではない。むしろ逆だった。
「(小梅……)」
心配している。
今すぐにでも駆け出したい。
自分が支店を離れている間に襲撃され、最愛の妻を連れ去られた。その事実に対する怒りもある。
それでも秀高は、その感情を表へ出さなかった。
焦れば判断を誤る。
判断を一つ誤れば、小梅を危険に晒す。
だからこそ、今は冷静でなければならない。
そして秀高には、もう一つ考えていることがあった。
「(ただ……小梅のことだ)」
秀高は小梅という女性をよく知っている。
大人しく捕らわれ続けるような性格ではない。
「(恐らく、一度は自分で縄を抜こうとするだろうな)」
いや、試みるだけではなく、実際に縄を抜いてしまうような気さえしていた。
秀高の脳裏に、負けず嫌いな妻の顔が浮かぶ。
「(そのまま逃げ切ってくれていれば、それが一番いい)」
だが、相手も大人数である。
たとえ縄から抜け出せても、拠点そのものから脱出できるとは限らず、再び捕まる可能性も十分にある。
普通なら、そこまで考えれば不安になる。
しかし秀高は小梅を信じていた。
「(もし捕まったとしても、お前は諦めないだろう)」
何度捕まろうと、どれほど不利な状況になろうと、小梅なら考える。できることを探し、そして最後まで抗う。
「(そして、俺が来ると信じて待っている)」
それは希望的観測ではなく、長く共に過ごしてきた夫婦だからこその確信だった。
小梅が秀高を信じているように、秀高もまた小梅を信じている。
だからこそ、必ず辿り着かなければならない。
「行くぞ」
秀高が立ち上がり、見取り図が畳まれる。
近衛達がそれぞれの武器を確認し、忍び達も動き始める。
「小梅を取り戻す」
その一言と共に、一行は動き出した。
そして、時は再び現在へ戻る。
先生によって拘束されてから、すでに三四半刻。およそ九十分という時間が経過していた。
その間も小梅は諦めることなく、自らを封じる縄へ何度も挑み続けている。
彼女は信じていた。
秀高は必ず来る、と。
その信頼に応えるように、町の北西にある人通りの少ない古い倉庫街、その高い塀によって周囲から隔てられた賊達の拠点へ、鷹司秀高と十人の近衛、そして彼らとは別に行動する忍び達がついに辿り着いたのであった。
賊達の拠点へ辿り着いた秀高達は、すぐに突入することはなかった。
高い塀によって囲まれた拠点の外、忍び達から事前に報告を受けていた死角へ身を潜め、秀高を中心として十人の近衛達が静かに時を待っている。
誰一人として言葉を発しない。
すでに作戦は全員の頭へ入っており、あとは突入する瞬間を見極めるだけだった。
秀高は塀の向こうから聞こえてくる僅かな物音へ耳を澄ませながら、周囲の状況を確認していた。
ここまで辿り着いた以上、一刻も早く小梅のもとへ行きたいという気持ちは当然ある。だが、だからといって突入を急ぎ、敵に対応する時間を与えてしまえば意味がない。
「(小梅、もう少しだけ待っていてくれ)」
秀高は静かに息を吐き、見張りの位置や敷地内を行き交う者達の動き、門の周囲に生じる僅かな隙を観察し続ける。
やがて、その目が鋭くなった。
絶好の瞬間が訪れたのである。
秀高が僅かに手を動かす。
それだけで近衛達と忍び達へ意思が伝わり、次の瞬間には全員が一斉に動き出した。
小梅救出作戦が、ついに始まったのである。
最初に異変へ気付いたのは、拠点の入口を守っていた見張りの一人だった。
突如として自分達へ迫ってくる武装した一団を見つけ、その中にいる秀高達へ気付いた男は目を見開く。
『来たぞ〜! 敵襲だ〜!』
拠点中へ響き渡るほどの大声を上げたものの、それ以上叫ぶことはできず、直後には一気に距離を詰めた者の一撃を受けて意識を失い、その場へ崩れ落ちた。
だが、一声だけでも十分だった。
『敵襲だと!?』
『どこだ!』
『表だ! 表に出ろ!』
母屋の中が一気に騒がしくなり、扉が開くと次々と賊達が飛び出してくる。
最初は数人だったものが十人を超え、二十人を超え、それでも終わらない。次から次へと男達が姿を現し、秀高達の前へ集まってきた結果、その数はやがて五十を超えた。
それだけの人数が出てきてもなお、母屋の中から聞こえてくる声と足音は消えていない。
「(まだ中にいる。想定より多いな)」
忍び達が正確な人数を把握できなかった理由を秀高は一目で理解したが、驚きも恐怖もなかった。
敵が何人いようと目的は変わらない。
小梅を救出するために、必要な道を切り開くのみである。
一方、集まってきた賊達の中には、秀高達の姿を見て顔色を変える者達がいた。堺屋高山国支店を襲撃した者達であり、彼らは当然、目の前に立つ男が誰なのかも理解している。
『おい……あれじゃねえか?』
『ああ。あの女の亭主だ』
一人が秀高を上から下まで眺める。
『思っていたより体付きがいいな』
『そりゃ、あの女の亭主だからな』
別の男が笑う。
そして賊達は、決定的な間違いを犯した。
『けどよ、あのじゃじゃ馬は今頃どうしてるんだろうな』
支店襲撃に加わっていた男の一人が、嘲るように口を歪める。
『あれだけ好き勝手やってくれたんだ。今じゃ動けなくされて泣いてるんじゃねえか?』
『女の分際で好き勝手やってくれたからな』
『一回抜け出した時なんざ驚いたぜ。まさか本当に縄から抜けるとは思わなかったからな』
秀高の眉が僅かに動いた。
「(やはりか)」
小梅ならば、一度くらい自力で逃げようとするのではないかと予想していたが、どうやらその予想は当たっていたらしい。
しかし、ここに小梅がいないということは、再び捕まったということである。
その事実まで理解した時、別の賊が笑いながら言葉を続けた。
『今度は無理だろ。あの女が抜け出せなくて歪んだ顔はよかったぜ』
その瞬間、空気が変わった。
笑っていた賊の何人かが無意識に口を閉ざし、近衛達も忍び達もその変化へ気付く。
秀高は何も言っていない。
表情も大きく変わってはいない。
それなのに、全身から凄まじい怒気が溢れ出していた。
「(小梅を……)」
秀高は目の前の賊達を見る。
腹の底から怒っていた。
最愛の妻を襲い、傷付け、攫い、閉じ込め、そのうえ小梅が苦しんでいる様子を笑いながら語っている。
許せるはずがなかった。
だが、秀高は怒鳴らず、刀を振り回して飛び込むこともない。呼吸も乱れず、頭の中も冷静なままだった。
怒りに判断を奪われれば、小梅を救出するという最も重要な目的から遠ざかる。だからこそ、理性だけは決して手放さない。
その結果として生まれたのは暴発する怒りではなく、完全に制御されながら、それでも隠しきれないほどの怒気だった。
近くにいた近衛の額から冷や汗が流れる。
『(……総統……)』
誰も秀高の顔を見ようとしない。
いや、見られなかった。
近衛達はこれまで何度も秀高と共に戦っており、強敵と向かい合った時に放つ闘気も知っている。
だが、今は違う。
これほどまでに怒気が闘気を上回っている秀高など、一度として見たことがなかった。
秀高は腰へ手を添えたまま、静かに口を開く。
「殺さない程度に始末しろ」
怒鳴ったわけではない低い声だったが、それでも近衛達全員へはっきりと届いた。
『『はっ!』』
十人の近衛が一斉に答える。
だが、誰一人として秀高を見ない。
命令だけを聞き、正面に立ちはだかる五十人以上の賊へ視線を向けている。
秀高は一歩前へ出た。
「いけ」
その一言が号令となった。
『はっ!』
近衛達が一斉に駆け出した。
五十人以上の賊と十人の近衛。
単純な人数だけを比べれば圧倒的に賊側が有利だったが、戦いが始まった瞬間、その人数差がそのまま実力差になるわけではないことを賊達は思い知らされることになった。
『うおおおっ!』
賊の一人が武器を振り上げるが、近衛は真正面から受けず、身体をずらして攻撃を外すと、その勢いを利用するように男を地面へ叩き伏せる。
別の賊が横から襲いかかるものの、次の近衛が割って入り、一撃を加えれば男はその場へ崩れ落ちた。
さらに二人、三人と賊達が押し寄せるが、それでも近衛達の動きは乱れない。
彼らはただの護衛ではなく、鷹司秀高の近衛として選ばれ、鍛えられてきた者達である。
秀高ほどではないが、その実力が本物であることに疑いの余地はなかった。
しかも彼らには、秀高から与えられた明確な命令がある。
殺さない程度に始末する。
その命令を守りながら、立ちはだかる賊達を次々と戦闘不能へ追い込んでいく。
さらに姿を隠していた忍び達も動き、近衛の死角へ回り込もうとした者を阻み、横から襲いかかろうとする者を倒し、近衛達が正面の敵へ集中できる状況を作っていった。
近衛と忍びという二つの戦力が互いを補い始めたことで、五十人を超える賊の集団が少しずつ分断され、その中央に一本の道が生まれる。
『総統!』
近衛の一人が叫ぶ。
秀高は走らなかった。
開かれた道を、母屋へ向かって真っ直ぐ歩き始める。
その姿に気付いた賊達が慌てた。
『通すな!』
『あいつが頭だ!』
『囲め!』
近衛達の間を抜けた賊が、一人、二人と秀高へ殺到し、さらにその後ろからも続く。
秀高の右手が腰へ伸び、二本の太刀のうち一本の柄を握る。
鞘から引き抜かれた刀身が姿を現すが、その太刀は通常のものとは違い、刃が潰されていた。
今回の目的は賊を斬り殺すことではなく、小梅を救い出すことである。そのために秀高が選んだ一振りだった。
『もらったぁ!』
一人目が秀高へ飛びかかる。
秀高の太刀が動き、次の瞬間には男が地面へ倒れていた。
秀高は止まらず、横から武器を振るう二人目の攻撃を僅かに身体をずらして躱し、一太刀で戦闘不能へ追い込む。
三人目も一太刀。
四人目も同じだった。
誰一人として二撃目を必要としない。
斬るための刃ではない。
それでも秀高ほどの技量を持つ者が振るえば、一撃で相手から戦う力を奪うには十分だった。
『な、何だこいつ……!』
『強すぎるぞ!』
賊達が動揺する。
秀高は答えず、目の前に現れた者だけを確実に倒し、母屋へ向かって歩き続ける。
その後ろでは近衛達も戦い続けており、秀高ほど圧倒的ではなくとも次々と賊を退けていた。
『殺すな! 総統の命令を忘れるな!』
『分かっている!』
一人を倒し、別の一人を押さえ、さらに迫る敵を打ち倒す。忍び達もそれを支援し続けた。
そうして近衛達が作り上げた道を通り、秀高はついに母屋へ辿り着く。
入口にも賊がいたが結果は変わらず、秀高の太刀が一度動くたび、一人ずつ戦う力を失っていった。
そして秀高達は母屋の中へ踏み込む。
外とは異なり、内部では通路の幅が限られているため、大人数で囲むことも難しくなる。
秀高は事前に頭へ叩き込んだ見取り図と実際の内部を照合した。
「(ここまでは見取り図通りだ)」
奥を見る。
小梅が囚われている可能性が高い場所は、すでに頭の中へ入っている。
「忍び」
『はっ』
「退路を確保しろ。外から入ってくる奴と、中から回り込もうとする奴を見張れ」
『承知』
忍び達が即座に散る。
秀高は近衛達を見る。
「俺達は奥へ行く」
『はっ!』
秀高は刃を潰した太刀を手にしたまま、母屋の奥へ視線を向ける。
その先のどこかに、小梅がいる。
「(待っていろ、小梅。今、行く)」
迷いはなかった。
秀高は近衛達を率い、賊達の拠点のさらに奥へと進み始めた。
秀高達と賊達との戦闘が始まってから、少し経った頃。
そのことをまだ知らない小梅は、監禁部屋の中で何度目になるのかも分からない縄抜けへ挑み続けていた。
『……んっ』
身体へ力を込めるが動かない。
一度力を抜いて呼吸を整え、また別の方法を試す。
『ん……っ!』
それでも駄目だった。
先生によって拘束されてから、すでに長い時間が経過している。
その間、小梅は休息を挟みながらも何度となく縄抜けへ挑戦してきたため、当然、その身体にも疲労が蓄積していた。
呼吸は普段よりも荒くなり、長い黒髪もすっかり乱れている。額や頬には汗が浮かび、その一部へ髪が張り付いていた。
それでも小梅は諦めない。
『(もう一度……)』
身体の状態を確かめる。
手首と腕、上半身、そして脚。どこか一ヶ所でもいい。
僅かな変化さえ作ることができれば、そこから状況を変えられるかもしれない。
『……っ』
小梅が再び身体へ力を込める。
その様子を、先生は部屋の片隅から変わらず観察していた。
すでに書物には何頁もの記録が増えており、小梅がどれほど長く挑戦を続けているのか、疲労した後にどのような動きを試すのか、どの部分から突破口を探そうとするのかを確認しながら、時折小梅へ目を向けては静かに筆を走らせている。
そしてその時だった。
『んっ!』
小梅の目が大きく開く。
ほんの僅かだったが、それまでほとんど変化しなかった縄の一部に、一瞬だけ余裕が生まれた。
普通ならば気付かないほどの変化である。
しかし、長い時間そこを意識し続けていた小梅には分かった。
『(今……! 少しだけ……動いた!)』
心臓が大きく跳ねる。
完全に抜けたわけでも自由になったわけでもない。それでも、初めて生まれた明確な変化だった。
『(いけるかもしれない……!)』
小梅の目に再び強い光が戻る。
ここから少しずつ崩していけばいい。一度動いたのなら、同じことを繰り返せば、さらに余裕を作れる可能性がある。
『(もう一度……!)』
小梅が次の試みへ入ろうとした、その時だった。
遠くから何かが聞こえ、小梅は動きを止める。
『……?』
最初は気のせいかと思ったが、そうではない。
監禁部屋の外が、明らかにそれまでとは違っている。
人が走る足音と怒鳴り声、そして何かがぶつかる音。それらが遠くから断続的に響いてくる。
『(何……?)』
小梅は耳を澄ませる。
先生も異変に気付いたらしく、筆を止めて戸の方へ顔を向けた。
さらに騒ぎが大きくなる。
『(まさか……)』
小梅の胸の奥に一つの可能性が浮かぶが、まだ確信はできない。
そんな中、複数の足音が監禁部屋へ近付いてきた。
先生も立ち上がり、間もなく勢いよく戸が開く。
『先生!』
複数の賊達が入ってくる。
そのうち四人は大きな物を担いでおり、小梅はそちらへ視線を向けた。
『……?』
賊達は部屋へ入るなり小梅の前へ集まり、一人が息を切らしながら言う。
『堺の奴らとの戦闘が始まった』
その瞬間、小梅の目が大きく見開かれた。
『……!』
堺。
その言葉だけで十分だった。
『(秀高様……! 来た。本当に来てくれた)』
胸の奥から一気に喜びが込み上げてくる。
小梅が信じ続けていた通りだった。
しかし、すぐにその感情を表へ出さないようにする。
今ここで自分が喜んだことを賊達に悟られれば、秀高達が救出目的で来ていることを改めて意識させることになる。
小梅は必死に表情を抑えたが、その瞳だけには隠しきれない安堵が僅かに浮かんでいた。
そんな小梅の前へ、四人の賊が担いでいた物が置かれる。
それは箯輿だった。
人や荷物を運ぶための簡素な輿である。
小梅はその輿を見て嫌な予感を覚えたが、その予感はすぐに現実となった。
『これからお前を頭のところへ連れて行く』
『……!』
小梅が目を見開く。
その意味を理解するまでに時間は掛からなかった。
『(まずい……!)』
戦闘が始まったこの状況で頭のところへ連れていくことが何を意味するのか。
人質。
自分を秀高達への牽制材料にするつもりなのだ。
『(このままでは、私が秀高様の足枷になる……!)』
逃げて、ここから離れなければならない。
小梅は反射的に身体を動かそうとした。
『んっ! んんっ!』
しかし当然ながら動けない。
胡座の姿勢は固定され、上半身も自由にならない。先ほどようやく見つけた僅かな余裕も、この状況では利用する時間がなかった。
『んーっ!』
小梅は必死に身体を動かそうとするが、賊達は構わず近付いてきた。
『暴れるな』
『んんっ!』
抵抗しようにも身体を自由に動かすことができず、小梅は複数の賊に抱え上げられ、そのままの姿勢で箯輿へ乗せられてしまった。
『んっ! んーっ!』
小梅は抗議するが、猿轡によって声にはならない。
それでも、ただ身をよじるだけではなかった。
肩を揺すり、固定された腕を引き、脚にも力を入れようとする。疲労で震える身体も構わず、必死に賊達の手から逃れようとした。
『んんっ! んーっ!』
猿轡の奥から漏れる声は途切れ途切れの呻きにしかならないが、その目にははっきりとした訴えが浮かんでいた。
連れていかないで。
私は人質になるためにここへ来たのではない。
秀高様のところへ行かせて。
せめて、秀高様の邪魔をさせないで。
小梅は何度も首を振り、賊達を睨みつける。涙こそ浮かべなかったが、目元には悔しさと焦りが滲み、声にならない言葉を視線と身体の動きだけで必死にぶつけ続けた。
『んっ! んんっ!』
賊の一人が小梅の肩を押さえる。
『大人しくしろ!』
『んーっ! んんんっ!』
小梅はなおも抵抗した。
自分が運ばれれば、秀高達は必ず動きを制限される。自分を見捨てられない秀高の性格を、小梅は誰よりも知っている。
だからこそ怖かった。
自分のせいで秀高が傷つくことが。
自分の存在が、秀高達の前に立ちはだかることが。
それでも小梅は賊を睨み返した。
怯えていると思われたくなかった。
諦めたと思われたくなかった。
自分はまだ負けていない。
秀高を守るために、できることを探し続ける。
その意志だけは、どれほど自由を奪われても消えなかった。
賊の一人が先生を見る。
『先生。こいつを頭のところに連れて行く。縄の確認と固定を頼む』
先生は何も答えず、しばらく小梅を見ていた。
そしてゆっくりと筆を置き、続いて書物を閉じる。
『……ここまでか』
小さく呟いた。
長時間観察を続けていた先生にとって、小梅との勝負はまだ終わっていなかったのかもしれない。
だが、外で戦闘が始まった以上、状況は変わった。
先生は立ち上がると、箯輿へ乗せられた小梅の背後へ回り、これまで施していた拘束の状態を確認していく。
小梅が長時間動き続けたことで、先ほど僅かに変化した場所も確認した。
先生の手が縄へ触れた瞬間、小梅は大きく身を震わせる。
『んっ! んんっ!』
首を振り、肩を揺すり、先生の手から逃れようとする。
もう一度あの僅かな余裕を利用しようとしても、箯輿の上では思うように身体を動かすことができなかった。
『んーっ! んんっ!』
小梅は先生を見上げる。
その目は、先ほどまでの反抗だけではない。
どうか見逃して。
どうか、これ以上私を人質として利用する手助けをしないで。
ただ逃げたいだけではない。
秀高様の足枷になりたくない。
そんな切実な願いが、声にならないまま溢れていた。
小梅は何度も首を横に振る。
『ん……っ、んん……!』
先生なら分かるはずだと思った。
長い時間、自分の動きを見ていた先生なら、この呻きが何を意味するのか理解できるはずだった。
『(お願い……私を、連れていかないで……秀高様を、困らせたくない……傷つけたくない……だから……)』
小梅は身体を動かせない分、視線へすべてを込める。
先生の手が一瞬だけ止まった。
小梅は目を逸らさず、先生も黙ったまま小梅を見る。
これまで何度も反抗的な目を向けられてきた。
負けない。
抜けてみせる。
そんな強い意志ばかりだった。
だが、今は違う。
外で戦闘が始まり、自分が人質として利用される可能性を小梅自身も理解している。
それでも小梅は、ただ怯えているのではない。
自分が秀高の足枷となることだけは避けたいという思いが、その表情にはっきりと表れていた。
先生は僅かに眉を寄せ、小梅の耳元へ顔を寄せる。
そして周囲の賊達には聞こえないほどの小さな声で言った。
『……すまねぇな、お嬢ちゃん』
『……!』
小梅の目が揺れる。
その言葉を聞いた瞬間、先生が何をするつもりなのか理解した。
『んっ! んんんっ!』
小梅は激しく首を振る。
やめて。
お願いだから、やめて。
せっかく見つけた余裕を消さないで。
小梅は先生を見つめながら、声にならない訴えを繰り返す。
しかし先生には、それを叶えることはできなかった。
次の瞬間、先生は長時間の試行で生じていた僅かな余裕を元へ戻した。
『んんっ!』
小梅が思わず声を漏らす。
先ほどまで積み重ねてきた小さな成果が消えてしまった。
『ん……っ、んんっ……!』
小梅は必死に首を振り、先生を見つめる。
まだ何かできるかもしれない。
このまま運ばないでほしい。
そう訴え続けるが、今の小梅には先生の手を止めることができなかった。
小梅は悔しそうに目を閉じるが、それでもすぐに目を開き、先生を睨みつける。
諦めたわけではない。
許したわけでもない。
ただ、今は何もできない自分が悔しく、そして秀高を巻き込んでしまうことが怖かった。
先生はそれ以上何も言わず、続いて移送中に箯輿から転落しないよう、小梅を安全に運べる状態へ整えていく。
小梅はその間も何度も首を振り、先生の手元を見つめながら抗議の声を上げた。
『んーっ! んんっ!』
やがて先生は状態を一度確認し、賊達へ言う。
『これなら落ちねぇ』
『よし。行くぞ』
四人の賊が箯輿を持ち上げる。
『んんっ!』
小梅を乗せた箯輿が動き始めたが、先生はそれを追わない。
監禁部屋に残り、小梅が運び出されていく姿を黙って見送っていた。
小梅は運ばれながらも最後まで先生から目を逸らさず、戸の向こうへ消える直前まで必死に何かを訴え続ける。
やめてほしい。
助けてほしい。
せめて秀高を傷つけないでほしい。
そのすべてを伝えようとしたが、猿轡に阻まれた声は、ただのくぐもった音として部屋へ残った。
戸の向こうへ小梅の姿が消えると、先生はしばらくして静かに息を吐いた。
それから書物と筆、そして自分が持ち込んだ道具を片付け、すべてを籠へ戻し終えると持ち上げる。
『……やるせねぇな』
誰に聞かせるでもなく呟き、先生も監禁部屋から姿を消した。
一方、小梅を乗せた箯輿は母屋の中を進んでいた。
外から聞こえる戦闘の音は、先ほどよりも大きくなっている。
『(秀高様……)』
小梅は胸の中で夫の名を呼ぶ。
近付いている。
確実に。
だが、それと同時に不安も大きくなっていく。
『(駄目です……私を利用させてはいけない)』
もう一度身体を動かそうとする。
『……んっ』
やはり駄目だった。
先生による拘束に加えて、今は箯輿から落ちないようにされているため、小梅にはほとんど自由がない。
それでも小梅は諦めない。
秀高の前へ運ばれるまでに、何か方法を見つけなければならない。
自分が人質として晒されれば、秀高は必ず自分を助けようとする。
だからこそ、小梅は必死だった。
『(私を見て動きを止めないでください……秀高様。私のために、無茶をしないで……)』
そのまま廊下を進み、やがて大きな戸の前へ到着した。
戸が開き、小梅を乗せた箯輿が中へ運び込まれる。
広間へ入った瞬間、小梅は多くの視線を感じた。
そこにはすでに何人もの賊達が集まっている。
外で戦っている者達とは別に、ここを守るために残された者達なのだろう。
視線が一斉に小梅へ集まった。
好奇、警戒、嘲り、そして自分達が人質として確保している女へ向ける冷たい視線。
『(……嫌ですね)』
小梅は眉を寄せる。
長時間の拘束と縄抜けへの挑戦で疲れ切り、髪も乱れている。しかも今は自由を封じられたまま、広間の中央へ運ばれている。
小梅にとっては非常に屈辱的な状況だった。
それでも俯かず、視線から逃げることもしない。
『(こんなことで……負けません)』
小梅は真っ直ぐ前を見る。
箯輿は広間の奥へ進み、賊の頭が座るために置かれた椅子の隣へ、小梅を乗せたまま置かれた。
必然的に広間にいる者達の視線はさらに小梅へ集まったが、それでも小梅は黙って耐え続ける。
やがて広間の奥から、賊の頭が姿を現した。
『何だ、もう連れてきたのか』
頭は自分の椅子へ向かって歩き、その隣へ置かれている小梅を見た瞬間、目を見開いた。
『……は?』
頭は足を止め、小梅を見た後でその状態を確認し、額へ手を当てる。
『……あいつ、まったく容赦ねぇな』
『んんっ!』
小梅はすぐに頭を睨み、頭もその視線へ気付いた。
『じゃじゃ馬娘が、随分といい格好になったじゃねえか』
『んーっ!』
小梅が即座に反論するが、当然ながら言葉にはならない。
頭はそれを見て僅かに笑った。
『その様子じゃ、まだ大人しくなってねぇみたいだな』
『んんっ!』
『分かった分かった』
頭は椅子へ深く座り直し、広間の入口を見る。
『さて。どうやら、お前の仲間が来たみたいだからな』
小梅の目が鋭くなる。
『んっ!』
『歓迎してやらねぇとな』
『んんっ! んーっ!』
小梅は必死に何かを伝えようとする。
やめろ。
秀高達へ手を出すな。
自分を人質にするな。
しかし、そのどれも言葉にはならず、小梅は首を振って身体を動かそうとする。
頭は立ち上がらず、ただ広間の入口を見据えていた。
そして暫くすると、外が急激に騒がしくなった。
『止めろ!』
『入れるな!』
『ぐあっ!』
怒号と衝撃音、そして何かが倒れる音が急速に近付いてくる。
小梅の心臓が大きく鼓動した。
『(……来る)』
小梅には分かる。
『(秀高様……!)』
広間にいる賊達も武器を構え、入口へ視線を集中させた。
轟音が一つ響く。
『ぐああっ!』
一人の賊が戸へ叩きつけられ、広間の中へ転がり込む。
『なっ!?』
『何だ!?』
賊達が一斉に身構えた。
直後、広間の戸が激しく開かれる。
その向こうから、刃を潰した太刀を手にした一人の男が姿を現した。
背後には幾人もの近衛達。
ここへ至るまでの戦闘を潜り抜けてきたにもかかわらず、その男の足取りには一切の迷いがない。
男は広間へ一歩踏み込む。
そして室内を見渡した視線が、最奥に置かれた箯輿で止まった。
「……」
小梅もまた、その男を見ていた。
『……!』
長い時間。
何度失敗しても諦めず。
必ず来てくれると信じ続けた人。
『(秀高様……!)』
一方の秀高も、広間の一番奥にいる小梅を見つけていた。
乱れた長い黒髪。
疲れの浮かんだ顔。
自由を奪われたまま、それでも決して俯かずにこちらを見つめる姿。
「(小梅……!)」
二人の視線が重なる。
言葉は交わせない。
互いの間には、まだ多くの賊達が立ちはだかっている。
それでも小梅には分かった。
秀高が、本当に自分を見つけてくれたことが。
そして秀高にも分かった。
小梅が、自分が来るその瞬間まで諦めずに待ち続けていたことが。
堺より海を越えて高山国へ渡り、最愛の妻を奪った嵐を追い続けた藤は、ついにその中心へ辿り着いた。
だが、まだ嵐は終わっていない。
小梅と秀高の間には、最後の壁が残されている。
鷹司秀高は刃を潰した太刀を握り直し、愛する妻から一度も視線を逸らさなかった。
「(待っていろ、小梅)」
その瞳が、静かに鋭さを増す。
「(今、助ける)」
堺の藤は嵐を切り裂き、ついに梅のもとへ辿り着いたのであった。




