第47話ー梅花散れども幹残しー
縄抜けに成功し、賊達の目を盗んで監禁部屋から抜け出した小梅。
追い掛けてくる賊達を振り切りながら拠点の建物から外へ飛び出し、一時は脱出まであと一歩というところまで迫った。
しかし、長年にわたって賊達の根城として使われてきたその拠点は、古い倉庫を利用しただけの場所ではなかった。
敷地を囲う高い塀。
限られた出入口。
そして、その唯一の出口となる門を守る賊達。
武器を持たない小梅は護身術を駆使して突破を試みたものの、次々と集まってくる賊達に包囲され、ついには数人掛かりで両腕と肩を押さえつけられてしまう。
こうして、あと一歩のところで脱出は叶わず、小梅は再び賊達の手に落ちてしまったのである。
そして、再び頭の前へ連れてこられた小梅を待っていたのは、怒りに任せた仕打ちではなかった。
一度は拘束したはずの人質が、自力で縄を抜けて監禁部屋から脱出した。
それを知った頭は、小梅を二度と逃がさないため、ある男を呼び寄せたのである。
その男は、周囲の賊達とは明らかに雰囲気が違っていた。
荒々しい賊達の中にいながら、その身なりも立ち居振る舞いもどこか異質であり、周囲からはただ一言――先生と呼ばれていた。
そして何より、その男は捕縛術に長けていた。
頭から、小梅が拘束を自力で抜けて逃走したことを聞かされた男は、なぜ自分が呼び出されたのかを瞬時に理解した。
『なるほど、それで俺を呼んだわけか』
頭も不敵な笑みを浮かべる。
『そうよ。捕縛術に長けたお前なら、このじゃじゃ馬も少しは大人しくなるだろってな』
小梅は賊達に両腕と肩を押さえられたまま、その会話を聞いていた。
捕縛術。
その言葉が意味するところを理解し、小梅の表情にも警戒が浮かぶ。
だが、先生と呼ばれる男は小梅へ詳しい説明をすることもなく、頭へ向かって頷いただけだった。
『そう言う事かい。なら、準備してくるから部屋で押さえといてくれ』
そう告げると、男は何かを用意するため、そのまま広間を出ていった。
その直後、頭の命令によって小梅も広間から連れ出された。
一度逃げられている以上、賊達に油断はない。
小梅の両腕を左右から掴み、さらに肩を押さえたまま、数人掛かりで薄暗い廊下を進んでいく。
向かった先は、つい先ほどまで小梅が監禁されていた部屋だった。
戸が開かれる。
小梅は再びその中へ連れ込まれた。
床には先ほど小梅自身が抜け出した際の縄が残されていた。
それを見た小梅は僅かに眉を寄せる。
一度はここから抜け出した。
両手首の縄を抜き、腕、上半身、猿轡、そして脚の順に拘束を解き、自分の足でこの部屋を飛び出した。
それにもかかわらず、再び同じ場所へ戻されてしまった。
『……』
小梅は悔しそうに唇を結んだ。
だが、賊達はそんな小梅へ考える時間さえ十分には与えなかった。
再び逃走されることを警戒し、数人が小梅をその場へ押さえ込む。
左右から両腕を取られ、背後から肩を押さえられる。
小梅は身体を捻って逃れようとしたものの、賊達も先ほどまでとは違っていた。
一度、小梅に逃げられている。
しかも建物の外まで到達されている。
今度は先生と呼ばれる男が戻ってくるまで、僅かな隙も与えるつもりはなかった。
小梅が腕を動かせば、その動きを抑える。
身体を起こそうとすれば、すぐに肩を押さえる。
小梅は何度か抵抗したものの、複数人に押さえられた状態では抜け出すことができなかった。
『……っ』
やがて小梅は無理に暴れることを止めた。
体力を無駄に消耗しても意味がない。
しかし、それは諦めたということではなかった。
小梅は顔を上げる。
視線の先には開いたままの戸がある。
その向こうには薄暗い廊下が続いていた。
そして、そのどこかに先生と呼ばれる男がいる。
自分をもう一度拘束するための準備をしている。
『(捕縛術に長けた人……)』
小梅は先ほど広間で聞いた言葉を思い返した。
自分が縄抜けしたことを聞いただけで、あの男はなぜ呼ばれたのかを理解した。
つまり、今度は先ほどと同じような拘束ではない。
『(……厄介ですね)』
不安がないわけではなかった。
だが、小梅の瞳から抵抗の意志は失われていない。
一度は自力で抜け出すことができた。
ならば、次も機会があれば諦めるつもりはなかった。
『(秀高様……)』
夫の姿を思い浮かべる。
秀高は必ず自分を探している。
その確信は、今も少しも揺らいでいない。
『(待っていてください。私も最後まで諦めませんから)』
小梅は静かに呼吸を整えた。
監禁部屋の中には、賊達の気配だけがある。
両腕と肩を押さえられたまま、小梅は身動きを封じられている。
時間だけがゆっくりと過ぎていった。
先生が何を準備しているのか。
どのような方法で自分を拘束するつもりなのか。
小梅にはまだ分からない。
ただ、その男が戻ってくるまで、自分がこのまま押さえられ続けることだけは分かった。
そして小梅は、賊達に押さえつけられたまま、先生と呼ばれる男が監禁部屋へ戻ってくる時を待つことになった。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
監禁部屋へ連れ戻された小梅は、複数の賊達に両腕と肩を押さえつけられたまま、身動きの取れない状態で待たされ続けていた。
先生と呼ばれていた男は、まだ戻ってこない。
小梅は何度か身体を動かしてみたものの、その度に賊達は警戒を強め、腕や肩を押さえる力を緩めようとはしなかった。一度逃げ出した小梅を前にして、今度ばかりは先生が戻ってくるまで絶対に逃がさないつもりなのだろう。
『(……随分と時間が掛かりますね)』
小梅がそんなことを考えた、その時だった。
ガラッ――
閉じられていた戸が開いた。
小梅はすぐに顔を上げる。
そこに立っていたのは、先ほど広間で頭から先生と呼ばれていた男だった。
『……』
だが、小梅の視線は男の顔ではなく、その背中へ向けられていた。
男は先ほどとは違い、背中に大きな籠を背負っていたのである。
『(……籠?)』
思わず小梅の眉が寄った。
捕縛術に長けているという男が、自分を拘束するための準備をしてくることは分かっていた。
しかし、なぜ籠なのか。
その疑問に答えることなく、先生は部屋へ入ると、小梅を押さえている賊達の前を通り、そのまま小梅の正面まで歩いてきた。
背負っていた籠を下ろす。
ドサッ――
籠が小梅の目の前へ置かれた。
『随分と待たせたな』
小梅は返事をせず、目の前の籠を見つめた。
すると先生はそんな小梅の視線に気付いたのか、僅かに口元を緩める。
『気になるか?』
『……それは何ですか?』
『見れば分かるさ』
そう言って先生は籠の蓋を開いた。
『……っ!』
その瞬間、小梅は目を見開いた。
籠の内部は十字に仕切られ、四つの区画へ分けられていた。
そして、その全てに縄が収められている。
一本や二本ではない。
束ねられた縄が幾つも、幾つも重ねられていた。
小梅には一目で数え切れないほどの量だった。
しかも、全て同じ縄ではない。
細いもの。
それより少し太いもの。
さらに太いもの。
用途によって使い分けるためなのか、それぞれ異なる太さの縄が区画ごとに分けて収められている。
『……』
小梅の表情から、先ほどまでの余裕が僅かに消えた。
これまで賊達が小梅の拘束に使っていたのは、太く粗い荒縄だった。
だが、目の前に並んでいる縄は違う。
見慣れた荒縄より細く、整えられている。
先生はその中から一束を取り出した。
『珍しいだろ。こいつは麻縄ってんだ』
『……麻縄』
小梅はその言葉を繰り返した。
先生は手にした縄を確かめながら、小梅へ見せる。
『太さも長さも全部同じじゃねえ。使う場所や目的によって使い分ける。俺は荒縄より、こっちの方が扱いやすくてな』
小梅は先生の説明を聞きながら、もう一度籠へ視線を落とした。
改めて見ても、その量は多い。
一人を拘束するために、これほどの縄が本当に必要なのか。
もっとも、目の前の男がその全てを自分へ使うとは限らない。
しかし、この男は自分が一度縄抜けしたことを知ったうえで、わざわざこれだけの道具を持ってきたのだ。
小梅は先生へ視線を戻した。
『それを私に使うのね』
問い掛けるというより、確認するような口調だった。
先生は手にしていた縄を籠へ戻す。
そして小梅を見ながら、不敵な笑みを浮かべた。
『いやぁ、今までいろんな奴を縛ってきたが、なかなか満足いかなくてな』
先生の視線が、目の前で押さえられている小梅へ向けられる。
『今日はお前さんで、いろいろ試させてもらうぞ』
『……』
小梅は黙って先生を見返した。
逃げ出した自分を二度と逃がさないために呼ばれた、捕縛術に長けた男。
そして、その男が持ち込んできた大量の麻縄。
ここまで来れば、これから何が始まるのかは小梅にも分かる。
だが――。
小梅は怯える代わりに、真っ直ぐ先生を睨み返した。
『好きにすれば』
先生が僅かに眉を上げる。
小梅はさらに言葉を続けた。
『でも、抜けてみせるわよ』
一瞬、部屋の中が静まり返った。
先生は小梅の顔をじっと見つめる。
そして――。
『はははははっ!』
突然、大きな声で笑い始めた。
小梅は眉を寄せながらも、その視線を逸らさない。
しばらく笑っていた先生だったが、やがて笑いを収めると、小梅の目の前に置いた籠へ手を伸ばした。
『面白い』
先生の表情が変わる。
先ほどまで浮かべていた笑みは残っている。
しかし、その目だけはこれまでとは違っていた。
捕縛術を心得た者として、一度縄抜けを成功させた小梅を相手にする目だった。
『それじゃあ、始めようか』
先生はそう告げると、籠の中へ手を入れた。
幾つもの太さに分けられた麻縄。
その中から必要なものを選び、一本ずつ床へ並べていく。
小梅は賊達に押さえつけられたまま、その様子を黙って見つめていた。
先生は縄の長さや状態を確かめ、これから小梅を拘束するための最終準備を進めていく。
そして小梅もまた、その一挙一動から目を離そうとはしなかった。
こうして――。
一度は自ら縄を抜けて逃走した小梅と、それを封じるために呼び寄せられた捕縛術の使い手。
二人の静かな勝負が、始まろうとしていた。
先生は籠の中へ手を入れると、そこから太さの異なる麻縄を取り出していった。
床へ並べられたのは、全部で四種類。
細いものから太いものまで、見ただけでも明らかに違いが分かるほど太さに差がある。先生はその四種類を順番に手に取り、縄そのものの状態を確かめてから、賊達に押さえられている小梅へ視線を向けた。
『……』
小梅も黙ってその様子を見つめる。
先生は細い縄を持ち上げ、小梅を見る。
しばらく考えた後、それを床へ戻した。
次の縄を取る。
また小梅を見る。
それも戻す。
『(何をしているのかしら……)』
小梅には分からなかった。
ただ縄を選ぶだけなら、ここまで時間を掛ける必要があるのだろうか。
やがて先生は四種類の中から、真ん中ほどの太さに当たる縄を一本手に取った。
指先で何度か確かめる。
『……これだな』
どうやら決まったらしい。
先生は同じ太さの縄が束ねられている区画へ手を伸ばし、必要になるらしい縄を幾つか取り出した。
小梅はその様子を見ながら、僅かに身体へ力を入れる。
いよいよ始まる。
そう思った。
しかし――。
先生は縄を持ったまま、小梅を拘束しようとはしなかった。
『……?』
小梅が怪訝そうな表情を浮かべる。
先生は選んだ縄を一度床へ置くと、そのまま立ち上がった。そして小梅のすぐ近くまで歩み寄ってくる。
『少し触らせてもらうぞ』
『触ってなにになるのよ。まぁいいわ』
小梅は不思議そうな顔をしながらも、特に拒絶はしなかった。
先生が何をしようとしているのか。
それを確かめておきたいという気持ちもあった。
先生はまず、小梅の腰へ軽く手を当てた。
その位置を確認すると、今度は背中へ手を移す。
『……』
腰。
背中。
さらに上へ移り、肩甲骨の辺りを確かめる。
先生は何かを探るように手を動かしていた。
そこから首。
肩。
そして腕へ。
上腕から肘へと順番に確認し、最後には手首まで触れていく。
乱暴に掴むわけではない。
それぞれの位置や動き方を一つずつ確認しているようにも見える。
だが――。
『(……何なの?)』
小梅には、その意味がまったく理解できなかった。
縄の太さを選んでいたと思えば、今度は身体のあちこちを確認している。
先生は小梅の疑問へ答えようとはしない。
肩の位置を確かめ、腕を僅かに動かし、肘や手首にも目を向ける。その度に何かを考えているようだった。
小梅は首だけを動かし、先生の様子を追った。
『何を確認しているの?』
先生は答えなかった。
一通り確認を終えると、小梅から離れる。
そして、籠とは別に部屋へ持ち込んでいた一冊の書物を手に取った。
『……』
頁を開く。
先生は先ほど確認した小梅の身体と、書物に記された何かを照らし合わせるように頁を追っていった。
一頁。
また一頁。
時折、小梅へ視線を向ける。
そして再び書物を見る。
『(縄を選んで、私の身体を確認して、今度は書物……?)』
小梅の疑問は深まるばかりだった。
これまで小梅を拘束した賊達は、そんなことをしていない。
縄を用意し、そのまま手首や身体へ掛けていただけだ。
しかし、この先生と呼ばれる男は違う。
縄を選ぶだけでも時間を掛け、さらに小梅自身を確認し、そのうえで書物まで開いている。
やがて――。
パタン。
先生が書物を閉じた。
それを籠の傍らへ置くと、先ほど選定した縄の束を手に取る。
『それじゃ、縛りを始めるぞ』
『……』
とうとう始まる。
小梅はそう理解した。
だが、抵抗はしなかった。
今ここで暴れたところで、複数の賊に押さえられている以上、逃げられる可能性は低い。
それならば無駄に体力を使うより、相手が何をするつもりなのかを見た方がいい。
そして、もし僅かでも隙が生まれれば――その時に動けばいい。
小梅は大人しく待った。
先生は縄の束を持ったまま、小梅の背後へ回ろうとする。
その途中で、左右から小梅の腕を押さえている賊達へ声を掛けた。
『後ろ手に組ませてくれ』
『分かった』
賊達が動く。
左右から押さえられていた小梅の腕が、ゆっくりと背中側へ回されていった。
右腕。
左腕。
両腕が背中側へ回り、手首が背後へ揃えられる。
小梅は抵抗しなかった。
『(やっぱり、最初は手首からなのね)』
先ほどまで自分を拘束していた荒縄も、最初はこうだった。
両手首を後ろで揃え、そこへ縄を掛ける。
今回も同じなのだろう。
そう思った、その時だった。
小梅の背後へ回った先生が、両腕の位置をじっと見つめた。
そして――。
『もう少し上にあげてくれ』
『……え?』
小梅の表情が変わった。
先生はもう一度、背後から両腕の位置を確認する。
『そのままじゃ低い。もっと上だ』
小梅の腕を持っている賊達が、その指示に従おうとする。
その瞬間だった。
『(……待って)』
小梅の胸中に、初めて明確な警戒が走った。
先ほど先生が確認していた場所。
腰。
背中。
肩甲骨。
首。
肩。
腕。
肘。
手首。
そして、何度も確かめていた自分の身体の動き。
さらには、わざわざ開いていたあの書物。
それらが小梅の頭の中で繋がり始める。
『(もしかして、この人……)』
背後に立つ先生の姿を、小梅は見ることができない。
だが、その声だけははっきりと聞こえていた。
『もう少しだ。ゆっくり上げろ』
『……』
小梅は唇を僅かに結ぶ。
そしてこの時になって初めて。
小梅は、少し嫌な予感を覚え始めていた。
その予感を裏付けるように、先生は小梅の背後から両腕の位置を注意深く見つめていた。
『もう少し上だ』
先生の指示を受け、賊達が小梅の両手首をさらに持ち上げていく。
最初は肩甲骨の下辺り。
そこまでは、小梅にも経験があった。これまで何度か受けた高手小手と呼ばれる捕縛と、それほど大きな違いはない。
だが、そこで止まらなかった。
『まだだ。もう少し上げられる』
『……え?』
両腕がさらに持ち上げられる。
小梅の表情が徐々に険しくなった。
『ちょ、ちょっと待って……まだ上げるの?』
先生は答えず、小梅の背後から腕の状態を確かめている。
先ほど小梅の肩や肩甲骨、腕、肘、手首まで念入りに確認していた理由が、ここで初めて明らかになった。
この男は小梅が一度縄抜けしたことを知っている。
そのうえで、小梅の身体がどこまで動くのかを事前に確かめていたのだ。
普通の人間ならば、とっくに腕が止まる位置。
だが、小梅は幼い頃から武芸を学び、前世から続けてきた鍛錬もあって、身体の柔軟性には人並み以上の自信がある。
だからこそ、先生はそこで止めなかった。
右手が左肩へ。
左手が右肩へ。
互いに反対側の肩へ届こうかというところまで、両腕が背中側で持ち上げられていく。
『……っ!』
さすがの小梅も顔を歪めた。
肩から腕にかけて余裕がなくなっていく。
『(これ……私が身体を動かせるから、ここまで……!)』
柔軟であることが、今回は完全に裏目へ出ていた。
先生はその位置を確認すると、ようやく頷いた。
『そこだ。止めてくれ』
『……最初から、ここまで上げるつもりだったのね』
小梅が振り返ろうとする。
しかし、先生は答える代わりに用意していた麻縄へ手を伸ばした。
そこから先、小梅には背後で何が行われているのか完全には見えなかった。
まず片方の手首へ縄が掛けられた。
荒縄とは違う麻縄が幾重かに重ねられ、先ほど決められた腕の位置が崩れないよう固定されていく。
『……っ』
続いて縄が背後から別の方向へ引かれた。
身体が僅かに傾く。
『何を……』
小梅が首を動かして確かめようとするものの、自分の背後で動いている縄の全体までは見えない。
肩口へ縄が伸びたと思えば、次には身体の横を通っている。
さらに背中側へ回ったと思った直後には、反対側から再び縄が現れる。
『(どうなっているの……?)』
これまで小梅が受けてきた拘束とは、明らかに違っていた。
単純に手首へ縄を巻いているのではない。
先生は小梅の身体そのものを使うように縄を巡らせ、最初に決めた両腕の位置を少しずつ固定している。
やがて、もう一方の手首にも縄が掛かった。
『……』
先生が一度手を止める。
小梅は恐る恐る首を右へ向けた。
『……え?』
右肩の後ろ。
そこに、自分の左手首が見えた。
今度は反対側へ首を向ける。
左肩の後ろには、右手首。
『…………』
小梅の額に、じわりと汗が滲んだ。
自分の手なのに、普段なら決して見ることのない位置にある。
しかも、どちらも縄によってその場所から動かなくなっていた。
『(これ……高手小手なんかじゃ……)』
初めてだった。
これほど高い位置で両腕そのものを封じられるのは。
小梅は試しに手首を動かそうとした。
ほとんど動かない。
肘を動かそうとしても、思うように位置を変えられない。
『……なるほどね』
強がるように呟いたものの、先ほどまでとは明らかに表情が違っていた。
先生はそんな小梅の様子を確認しただけで、作業を止めようとはしなかった。
残った縄が、今度は背中側で交差している前腕をまとめていく。
手首だけではない。
腕そのものが一つの形として崩れないよう、さらに固定されていく。
『……っ』
小梅は肩を動かそうとした。
変わらない。
さらに先生は残った縄を使い、左右の上腕まで固定していった。
最後に背中側で仕上げを終える。
先生が手を離した。
一本目の縄を使い切ったのである。
『これで一本』
『……一本?』
小梅は思わず聞き返した。
自分の手首だけではない。
前腕。
上腕。
腕全体が背中側で固定され、先ほどまでとは比較にならないほど動かしにくくなっている。
それなのに――一本。
小梅の視線が、床へ置かれた縄へ向かった。
まだ何本もある。
先生も当然のように、その中から二本目を手に取った。
『ちょっと待って』
『ん?』
『これ以上、何をするつもり?』
先生は二本目の麻縄を手にしながら、小梅を見る。
『まだ始まったばかりだ』
『……』
小梅の頬が僅かに引きつった。
『冗談でしょう……』
しかし先生は笑うだけだった。
二本目の縄が、すでに固定されている腕側へ繋げられる。
そこから縄は上半身側へと回されていった。
何重にも縄が加えられ、腕だけでなく胴体の動きまで次第に制限されていく。
小梅は身体を捻ろうとした。
『……っ』
先ほどより明らかに動かない。
先生は小梅の状態を確認しながら作業を続ける。
さらに縄が加えられるにつれ、身体を左右へ捻る余地まで失われていった。
『……』
小梅は黙り込んだ。
一本目だけでも、これまでの拘束とは違った。
二本目が加わった今では、腕だけではなく上半身そのものが一つにまとめられているような感覚だった。
そして――。
先生が三本目の縄へ手を伸ばした。
『……まだ縛るの?』
小梅の声が思わず大きくなる。
『もうほとんど動けないのだけど』
先生は振り返る。
『まだまだ』
『……本気なの?』
先生は楽しそうに笑うだけだった。
三本目の縄が加えられる。
今度は、これまで残されていた腕と胴との僅かな遊びまで消していくような固定だった。
すでに巻かれている縄とも組み合わされ、小梅の上半身はさらに一体化していく。
『……っ!』
小梅は肩を動かす。
動かない。
身体を捻る。
ほとんど変わらない。
前へ身体を傾けようとしても、先ほどまでのようにはいかなかった。
先生はさらに残った縄を使い、上半身全体の固定を仕上げていく。
やがて最後の処理を終えると、先生は一度小梅から離れた。
『上はこれでいいな』
『……』
小梅は返事をしなかった。
代わりに身体を動かす。
ぐっ――。
力を入れる。
もう一度。
『……嘘』
ほとんど動かなかった。
指先程度なら動かせる。
首も動く。
だが、それ以外は先ほどとはまるで違う。
手首を動かして縄へ隙間を作ろうとしても、腕そのものが固定されているため思うようにいかない。
前腕をずらそうにも動かない。
上腕を動かそうとしても、胴体側の固定がそれを許さない。
一ヶ所を動かそうとすると、別の場所の固定がそれを妨げる。
『(……まずい)』
小梅の表情から、とうとう強がりが消え始めた。
『(これ……さっきまでの縄とは全然違う……)』
一度目の拘束では、僅かな緩みを見つけた。
そこから少しずつ手首を動かし、時間を掛けて縄抜けへ繋げることができた。
だが今回は、その最初の動きそのものが作れない。
先生はそんな小梅をしばらく観察した。
そして――。
再び籠へ手を伸ばした。
今度取り出した縄を見て、小梅は目を細める。
先ほどまで使っていたものとは違う。
明らかに太い麻縄だった。
『……今度は何?』
先生は縄を手にしたまま、賊達へ顔を向ける。
『胡座で座らせてくれ』
その一言を聞いた瞬間――。
『……っ!』
小梅の顔色が変わった。
『(胡座……?)』
その言葉には覚えがあった。
前世で知った、古い捕縛術。
胡座の姿勢そのものを利用して身体の自由を奪う方法が存在することを、小梅は知識として知っている。
そして、それが決して楽なものではないことも。
『待って!』
それまで大人しくしていた小梅が、初めて明確に抵抗した。
『それは嫌!』
『押さえてくれ』
『ちょっと、本当に待ちなさい!』
小梅は脚を動かし、胡座を組まされまいとする。
だが上半身を完全に封じられた状態では、まともに抵抗することができない。
賊達が左右から小梅を支え、先生の指示に従って姿勢を変えていく。
『やめなさいって言っているでしょう!』
小梅の抗議も届かない。
脚の位置が変えられ――ついには胡座の姿勢へ座らされてしまった。
『……っ』
小梅はすぐに脚を崩そうとする。
しかし先生は手早く状態を確認すると、先ほど取り出した太い麻縄を使い始めた。
今度は上半身とは違い、胡座の姿勢そのものを崩せないように脚側が固定されていく。
『……』
小梅は何とか脚を伸ばそうとする。
できない。
組み替えようとする。
それもできない。
さらに脚側の固定は、すでに施されている上半身側とも連動するように仕上げられていった。
小梅が身体を起こそうとすれば、脚側の固定がそれを妨げる。
逆に脚だけを動かそうとしても、上半身側が自由を許さない。
やがて先生は最後の状態を確かめ、手を離した。
『よし』
監禁部屋が静かになった。
『……』
小梅は胡座を組んだ姿勢のまま、しばらく動かなかった。
いや、動かなかったのではない。
動けるのかを確かめていた。
手首。
動かない。
腕。
動かない。
肩。
ほとんど動かない。
身体を捻る。
変わらない。
脚を伸ばそうとする。
できない。
姿勢を崩そうとしても、上半身と下半身の固定が互いにそれを妨げる。
『……っ』
小梅はもう一度、全身へ力を込めた。
それでも結果は同じだった。
びくともしない。
『(……これ、本当に……抜けられるの?)』
初めてだった。
縄抜けそのものに対して、小梅の中へ明確な不安が生まれたのは。
先ほど先生へ言い放った言葉が脳裏を過る。
『でも、抜けてみせるわよ』と言った。
あの時は、本当にそう思っていた。
だが今、自分の身体へ施された拘束は、小梅がこれまで経験してきたものとはまるで違っていた。
先生はそんな小梅の姿を正面、横、背後から順番に確認していった。
縄の状態。
姿勢。
小梅がどの程度身体を動かせるのか。
一通り確認すると、満足したように頷く。
そして監禁部屋の片隅へ移動すると、先ほど持ち込んだ書物と筆記具を手元へ置いた。
頁を開く。
小梅を見る。
何かを書き記す。
再び小梅を見る。
『……何をしているの?』
先生は筆を止めなかった。
『記録だ』
『私を?』
『そうだ』
『……』
小梅は何とも言えない表情で先生を見つめた。
先生は気にする様子もなく、再び書物へ何かを書き込んでいく。
小梅はもう一度、拘束から抜け出そうと身体へ力を込めた。
しかし。
『……っ』
やはり、ほとんど動かない。
先生はそんな小梅の動きさえ観察し、淡々と記録へ残していた。
『(……困りましたね)』
額に滲んだ汗が、一筋だけ頬を伝った。
それでも小梅は諦めない。
今すぐ駄目なら、時間を掛ける。
どこかに必ず隙があるはずだ。
そう自分へ言い聞かせながら、小梅は身体のどこかに僅かでも自由になる場所がないか、静かに探し始める。
その正面では、先生が筆を走らせ続けていた。
一度は縄を抜け、賊達を翻弄した小梅。
そして今度は、その小梅を逃がさぬために施された、これまでとはまるで異なる拘束。
監禁部屋の中で、捕縛術を巡る二人の勝負は、次の段階へと移っていた。
だが、この時――小梅は一つだけ、大きな勘違いをしていた。
拘束は、もう終わったのだと。
三本の麻縄によって上半身を徹底的に封じられ、さらに太い麻縄によって胡座の姿勢まで固定された。
先生もすでに小梅から離れ、部屋の片隅で観察と記録を始めている。
だからこそ、小梅は完全に油断していた。
『(それにしても……本当に動きませんね)』
小梅は再び腕を動かそうとするが、駄目だった。
身体を捻ろうとしても変わらず、脚も自由にならない。
ならば、どこから崩せばいいのか。
小梅の意識は完全に、自分へ施された縄へ向けられていた。
そのため、部屋の中で一人の賊が動き始めたことに気付かなかった。
男の手には、数枚の布が握られている。
先生はそれを見ても何も言わない。
他の賊達も同様だった。
男だけが音を立てないよう、小梅の背後へゆっくりと近付いていく。
小梅は知らない。
『(手首は駄目……腕もほとんど動かせない。それなら)』
もう一度、身体へ力を込める。
『……っ』
まったく縄抜けをすることができず、これまで何度も身体を動かしたことで呼吸が乱れ始めていた。
小梅は一度力を抜き、息を整えようと、大きく息を吸いこむため口を開いた。まさに、その瞬間だった。
『っ!?』
突然、背後から口元を押さえられた。
何が起きたのか理解するより早く、用意されていた布を押し込まれる。
『ん――っ!?』
小梅の目が大きく見開かれた。
完全な不意打ちだった。
『んんっ! ん――っ!』
吐き出そうとする。
だが、両腕は背中側で完全に封じられている。
手を使うことはできない。
身体を振りほどこうにも、上半身は縄によってほとんど動かず、胡座の姿勢まで固定されているため、逃れることもできなかった。
さらに布が加えられる。
『んっ! んん――っ!』
小梅は必死に顔を背けようとする。
しかし、それすら間に合わなかった。
口の中は布で満たされ、小梅がそれを吐き出せないよう、さらに別の布が口元へ当てられた。
そのまま布が固定される。
『ん――っ!』
先生による縄の拘束が終わったことで、全て終わったと思い込んでいた。
まだ猿轡という最後の一つが残されていたのだ。
『んんっ! ん――っ!』
小梅は抗議するように身体へ力を込めた。
しかし体は縄により動かない。
腕も、上半身も、脚も。そして今度は、口まで自由を奪われてしまった。
『ん……っ』
小梅の瞳に、驚きと悔しさが入り混じる。
完全に油断していた。
縄抜けのことばかり考え、背後から近付いてきた賊の存在に気付くことさえできなかったのである。
先生はそんな小梅の様子を、部屋の片隅から静かに見ていた。
そして書物へ視線を戻すと、再び筆を走らせ始めた。
『……』
『んんっ……!』
小梅は先生を睨みつける。
だが、もう言葉にして抗議することさえできない。
手首から腕、上半身、そして脚まで自由を封じられていた小梅は、最後に猿轡まで施され、今度こそ完全に身動きと発声を封じられてしまった。
『んんっ……!』
それでも、小梅の目に絶望の色はなかった。
驚きと悔しさ。そして、自分をこんな状態にした先生への怒り。
何よりも、まだ負けたつもりなどないという強い意志。
それらが入り混じった瞳で、小梅は部屋の片隅に座っている先生を睨みつけていた。
先生はそんな視線を向けられていることに気付いているはずだった。
しかし、気にした様子はない。
開いた書物へ筆を走らせながら、時折小梅へ視線を向けている。
先ほど確認した小梅の身体の柔軟性。
通常より遥かに高い位置まで動いた腕。
そこから実際に拘束を施した結果、小梅の身体がどの程度まで動かなくなったのか。
先生は自分が確認したことを、一つずつ書物へ記録していた。
『んんっ!』
小梅が強く睨みつける。
その視線に気付いた先生が、ようやく筆を止めた。
『何だ。随分と怒ってるな』
『んーっ! んんっ!』
当然、小梅の言葉にはならない。
だが、その表情だけでも何を言いたいのかは十分に伝わっているらしい。
先生は小さく笑った。
『そんな顔をするな。お前さんが一度縄を抜けて逃げたから、俺が呼ばれたんだろうが』
『んんっ!』
『俺の仕事は、お前さんがもう一度同じことをできないようにすることだ。それなら、どこまで身体が動くのか、どう動こうとするのかを確かめるのは当然だろ』
『んーっ!』
小梅の眉間に皺が寄る。
『(当然なわけないでしょう!)』
声にできるのなら、間違いなくそう言い返していた。
先生は再び書物へ視線を戻した。
だが、しばらくすると筆を置き、今度は立ち上がる。
『……』
小梅の視線が先生を追った。
先生は書物を片手に持ったまま、小梅の周囲をゆっくりと歩き始めた。
正面、横、背後から小梅の状況を確認する。
その度に立ち止まり、小梅の状態を確認しては書物へ何かを書き加えていく。
『(……何なのよ、この人)』
小梅は不満そうに目だけで先生のふ動きを追う。
自分は見世物ではない。
ましてや、この男の研究材料になるためにここへいるわけでもない。
『(人を勝手に研究材料みたいにして……!)』
腹が立つ、非常に腹が立つ。
しかし、怒っているだけでは何も変わらない。
小梅は徐々に気持ちを切り替えていった。
先生が自分を観察しているのなら、自分も先生を観察すればいい。
『(でも……)』
小梅は僅かに身体へ力を込める。
やはり動かない。この先生がどこを確認しているのか。
何を見ているのか。そして自分の身体のどこに、まだ動かせる場所が残されているのか。
小梅は猿轡をされたまま、静かに考え始めた。
『(手首はほとんど駄目。腕も駄目。身体を捻るのも……)』
少し力を入れる。
『……んっ』
ほとんど変わらない。
『(脚も駄目ですね)』
改めて確認すると、先生の拘束がどれほど厄介なのかが分かってくる。
一ヶ所だけを縛っているのではない。
手首を動かそうとすれば腕側の固定が邪魔をする。
腕を動かそうとすれば上半身側がそれを許さない。
身体を捻ろうとすれば、今度は下半身まで連動して動きを妨げてくる。
『(なるほど……だから……)』
小梅の表情から、少しずつ怒りだけが消えていった。
代わりに現れたのは真剣な眼差しだった。
この拘束からどうやって抜けるか。
そのことだけに意識を集中し始める。
先生は、そんな小梅の変化にも気付いているようだった。
しかし何も言わない。ただ観察し、記録する。
そんな時間が四半刻ほどが過ぎた頃。
先生が書物を閉じた。
『一度休憩だ』
『……?』
小梅が先生を見る。
先生は水の入った器を用意させると、小梅の前へやってきた。
『水を飲ませる。少し大人しくしてろ』
『んん……』
先生の指示で、小梅の口元を覆っていた布が外された。
続いて口の中の布もすべて取り除かれる。
『――っ、はぁ……!』
ようやく口が自由になった小梅は、まず大きく息を吸った。
何度かゆっくりと呼吸する。
『……酷い目に遭いました』
開口一番、それだった。
『元気そうじゃねえか』
『どこを見たらそう思えるんですか』
先生が僅かに笑う。
『それだけ文句が言えるなら十分だ』
『文句くらい言わせてください』
小梅はむっとした表情を浮かべた。
先生は水の入った器を小梅の口元へ近付ける。
『ほら、飲め』
小梅も今は素直に従った。
喉は乾いている。
何度かに分けて水を飲み、十分に喉を潤す。
『……もう大丈夫です』
器が離される。
小梅は一息つくと、先生はそんな小梅を見ながら尋ねた。
『それで、どうだ?』
『何がです?』
『今度の縄だ。抜けられそうか?』
『……』
小梅は先生をじっと見つめた。
実際には、まだ本格的な縄抜けを試していない。
先ほどまでに行っていたのは、どこが動くのかを確かめていただけだ。
だが、簡単ではないことくらいはすでに分かっている。
それでも小梅は迷わなかった。
『抜けてみせるわよ』
先生が僅かに眉を上げる。
『言ってくれるね』
『当たり前でしょう』
小梅は真正面から先生を見る。
『私はまだ負けたつもりはありません』
先生はしばらく小梅を見つめた。
やがて口元に笑みを浮かべる。
『大したじゃじゃ馬なお嬢ちゃんだ』
『その呼び方はやめてください』
『なら、早く抜けて自分で証明してみな』
『言われなくても、そのつもりです』
小梅は即答した。
先生はそれ以上何も言わなかった。
休憩は終わりということなのだろう。
再び布が用意される。
『......また、するんですか』
『当然だ』
『もう逃げられないでしょう』
『そう言うな。我慢してくれ』
『……』
小梅は反論しようとして、一瞬言葉に詰まった。
『……分かりましたよ』
小梅は不満そうに呟き、自ら口を開ける。
今度は何をされるのか分かっている。
先ほどのような不意打ちではない。
布を中に詰め込まれ、布を被せられたことによって再び発声を封じられると、小梅は少しだけ先生を睨んだ。
『んんっ』
先生は気にする様子もなく、再び部屋の片隅へ戻っていった。
そして書物を開く。
『それじゃ、俺は見て記録してるから、好きなだけやってみな』
『……』
小梅の目が細くなる。
『(言われなくても……!)』
ここからが、本当の勝負だった。
小梅はまず、自分の身体の状態をもう一度確かめた。
そして、縄抜けを始める。
『……っ』
力任せでは駄目だと小梅自身それは分かっている。
一度目に逃げ出した時も、ただ暴れたわけではない。
時間を掛け、僅かな余裕を探し、そこから少しずつ自由を作った。
今回も同じようにすればいい、そう考えていたが。
『……んっ』
思うようにいかない。
手首側に僅かな自由を作ろうとしても、腕全体の固定がそれを妨げる。
別の場所から崩そうと身体を動かしても、上半身と下半身が互いに動きを制限していた。
一度力を抜き別の方法を考え、再び試すが。
『ん……っ!』
うまくいかない。
もう一度試す。それでも駄目だった。
小梅を止めず助言もしない。
ただ、小梅がどのように動こうとしているのかを観察し、時折書物へ何かを書き込んでいる。
『(まだです……)』
小梅は諦めずに縄抜けを続ける。
一つが駄目なら別の場所を、そこも駄目なら、さらに別の場所。
身体の柔軟性もフル使ってみるが、今回はその柔軟性さえ先生に事前に確認されている。
小梅が普通より大きく身体を動かせることを前提として、最初から自由を残さないようにされていた。
時間が過ぎていくにつれ、額に再び汗が滲む。
『……っ、ん……』
休みながら呼吸を整え、そしてまた挑戦する。
何度繰り返したのか、小梅自身にも分からなくなってきた。
それでも縄の状態はほとんど変わらない。
やがて、小梅は動きを止めた。
『……』
荒くなった呼吸を整え、静かに自分へ施されている拘束を意識する。
手首。腕。上半身。脚。
どこにも、自分が利用できるだけの自由が見つからない。
『(……抜けられない)』
その言葉が、小梅の頭へ初めて明確に浮かんだ。
『……』
悔しかった。
抜けてみせると啖呵を切った。それなのに、現実には最初の突破口すら見つけられない。
『(この人……本当に私が縄を抜けることを前提にして、全部考えていたんだ……)』
小梅はこれまでの先生の行動を理解した。
最初に縄の太さを選んでいた理由は、どれを使えば拘束しやすいかを見ていた
自分の身体を確認していた理由は、どれほどの体の柔らかさがあるかを実際に触れて感じる。
書物まで開いていた理由は、これまでの記録と柔軟性に対しての体への確認。
そして通常より高い位置まで腕を動かさせた理由は、この位置ならば、小梅は動くことはできなくなるだろう。
すべては、一度縄抜けした小梅を相手にすることを前提としていた。
小梅は先生へ視線を向けと先生も小梅を見ていた。
目が合うが先生は何も言わない。対する小梅は何も言えない。
だが、今だけは認めざるを得なかった。
この男の捕縛術は、自分がこれまで経験してきたものとは違う。
そして現状では自分一人の力で抜けることはできない。
『(……負けましたね)』
小梅は静かに負けを認め目を閉じる。
だが再び見開くと、その瞳の意志はまだ消えていなかった。
『(でも、それは今の話です)』
抜けられない、だから何だというのか。
今すぐできないのなら、もう一度考えればいい。
疲れたのなら休めばいい。
そして、また試せばいい。
『(それに)』
小梅の脳裏に、一人の男の姿が浮かぶ。
『(秀高様)』
堺屋を統べる主にして、最愛の夫。
彼が小梅の所に来ることを疑っていなかった。
『(秀高様は、必ずここに来ます)』
自分がここにいることを、まだ知らないかもしれない。
場所を探している最中かもしれない。
それでも彼ならなら、必ず自分を見つける。
その確信だけは、先生の縄よりも遥かに強く、小梅の心の中に存在していた。
『(だから、それまで私も諦めません)』
小梅はしばらく身体を休ませた。
呼吸を整え、不安と焦りを押し殺し、もう一度、身体を動かし始めた。
『……んっ』
やはりまだ縄は動かない。それでも構わない。
『(もう一度です)』
小梅は再び挑戦する。
抜けられないのなら、抜けられるまで考える。
秀高が来るのなら、それまで自分にできることを続ける。
先生は部屋の片隅から、そんな小梅の姿をじっと見つめていた。
一度、自分の技では抜けられないと理解したはずなのに。
それでも諦めない。
休んでは試し、駄目なら考え、そしてまた挑戦する。
先生の筆が、再び動き始めた。
小梅もまた止まらない。
完全に身体の自由を封じられ、声まで奪われても、その心だけは誰にも縛ることができなかった。
そして、小梅が監禁部屋の中で、何度失敗してもなお挑み続けていた、その頃。
彼女が必ず来ると信じ続けている男もまた。
小梅を取り戻すため、確実に賊達へと近付いていた。




